アレグリアの空は、それが疑似であるとは思えぬほど、訪れるたびにさまざまな彩と表情を見せてくれる。 この空を見上げているとひどく懐かしい気持ちになるのは、0世界が、ありとあらゆる世界の魂と、どこかでつながっているからなのだろうか。 「こんにちは!」 蓮見沢 理比古は、実質的には家政婦というかオカンというしのびが用立ててくれた大きなバスケットを手に、今日も、アレグリアの町はずれにある店を訪れていた。 『小物屋 ブルーメンバッハ』と書かれた看板のかかる、小ぢんまりとした店である。そこには、鍋や薬缶、カトラリーをはじめとした金物から、箸や匙、皿や椀などの木工品、金属と木材を合わせてつくった杖や棚、机などが、店先をはじめところ狭しと並べられている。 決して整然と陳列されているわけではないのだが、その雑多さが、何とも『生きた』イメージを与えるのだ。命と心を持って日々を営むロボットたちの街にぴったりな店だ、というのが理比古の受ける印象だった。 「おや……いらっしゃい」 日本でいうところの暖簾をくぐると、板張りの店内には二体の男性型アンドロイドがいて、何かの細工をしているところだった。がっしりとした、大柄なロボットたちなのだが、手仕事は繊細で丁寧だ。 「こんにちは。何をつくっているんですか?」 バスケットを置きながら理比古が問うと、額縁だというこたえが返った。 聞けば、つい最近『目覚めた』という絵描きの獅子型アンドロイドの青年が大作を仕上げるとかで、それを祝うために街の住民たちが連名で贈るのだそうだ。 兄はフォーアネーム、弟はゼーゲンというこの細工師であり小物屋でもあるふたりは、兄が金属の細工、弟が木工を得意としているという。弟が一枚の木材から大まかなかたちを削り出し、縁に美しい彫刻を施してゆくすぐあとから、兄は艶を消した金や銀、銅の色をした金属を自在に操って、薄く打ち述べたそれらで彫刻を飾っていく。 「すごい。これだけでも綺麗だ。絵がそこに加わったら、もっと素晴らしいんだろうなあ」 兄弟の手わざをうっとりと見つめ、理比古は感嘆する。 同時に、蓮見沢の当主として忙しく、昨今ではそんなことに割く時間などなかったが、実はふたりの義兄もまた手先が器用で、我が子らに折り紙を折ってみせたり、拾った小枝で小鳥や動物や花を彫ってみせたりしていたことがあったのを思い出し、懐かしい気持ちになった。 無論、そんな他愛ない共通点は、理比古を落ち着かなくもするのだが。 ややあって、作業が一段落したのだろう、ふたりは同時に手を止めて、 「すまない、せっかく来てくれたのに、待たせてしまって」 「だが、理比古に俺たちの仕事を見てもらえるのは、少し面映ゆくて嬉しいことだな」 理比古へと穏やかな笑みを向けた。 「あっ、いえ、そんな」 どれだけ罵倒され暴力を振るわれても、人には言えないような目に遭わされても、未だに大好きで愛してほしくて会いたいと思う義兄たちの面影を持つアンドロイド兄弟である。その微笑み、義兄たちが生きていたころにはついぞ向けてもらうことのなかった穏やかでやさしいそれに、理比古が天にも昇る気持ちになったとして、彼を嗤えるものはいないだろう。 「ええと、あの、お茶とお菓子を持って来たんです。もしよかったら、ひと休みしませんか」 彼のしのびは、インヤンガイで手に入れて来たというとっておきの茶葉と、特別まろやかな井戸水を沸かしたもの、丹精込めて焼いたというナッツとラム漬けドライフルーツのタルト、そして美しい白磁の茶器や皿をバスケットに詰め込んでくれていた。至れり尽くせりとはこのことである。 「おや……美味そうだ。これは、誰が?」 「そりゃあ、嫁さんとかじゃないのか」 「未婚ですよ、俺」 兄と弟が交互に言うのへ苦笑し、そうかうちのしのびはお嫁さんポジションなのかなどと思いつつ魔法瓶のふたを開ける。 「ああ、そうだ、兄貴。白金樹の実の焼き菓子があっただろう」 「そうだったな。理比古が来たら食わせてやろうと思っていたんだった」 理比古が茶を淹れる間に、フォーアネームが席を立った。 それは、彼らロストナンバーが初めてアレグリアを訪れたとき、運よく実っていた果実の名だ。 最高級の桃をとびきり滑らかにして、やさしくも華やかな芳香をさらに芳醇にし、甘みと酸味のバランスを絶妙に整えたかのようなそれ、生で食べれば濃厚な果汁と快香がほとばしり、たったひと口で夢見心地になれるという果実を、白ぶどう酒で軽く煮たもの。それをふんだんに練り込んだ、贅沢な焼き菓子である。 「うわ、いい匂いですね」 「だろう。これが焼き上がると、あまりにいい匂いがするものだから、すぐに客が気づいて買いに来るんだそうだ。皆、目ざとすぎるものだから、おかげで少し苦労した」 「最後の一個を競って手に入れたんだ」 おかしそうに笑い、ゼーゲンが言う。 「あれを理比古に絶対食わせてやるんだと、兄貴がやたら張り切ってな」 「……お前だって、早くいかないと売り切れると言って俺を急かしたじゃないか」 軽やかな会話の中に、自分を想う温かくやわらかい感情が見て取れて、茶器に液体を注ぎつつ理比古の心は大きく跳ねる。 兄たちとの確執のお陰で、理比古は基本的に年上の男性が好きだし、空気が伝わるからか可愛がられやすい。彼らもきっとその一環なのだろうと、そんな出会いを得られた自分は幸運なのだと、この流れへと導いてくれた大いなる何かに感謝しつつ、 「……だって、こんなにやさしい人たちが、生まれかわりであるはずがない」 一抹の寂しさを覚えずにはいられないのもまた事実だった。 「ん? どうした?」 「器が熱かったんじゃないのか。生身の身体は傷つきやすいと聞く、気をつけてくれ」 「あ、いえ、なんでもないです。大丈夫、ありがとう」 微笑み、理比古はタルトを切り分ける。 彼が、流麗な所作で茶菓を供するのを、アンドロイドの兄弟は穏やかな眼で見つめている。 その笑み、その眼差しをとても幸せだと思うと同時に、少し胸が痛い。 それが、ここでなら兄たちに会えるかもしれないのにという期待、醜い利己だと判るから、口には出来ないが。 そこから三時間ばかり、他愛ない会話に花を咲かせ、ときどきやってくるお客さんへの接客を手伝ったり、細工を見学させてもらったりしたのち、またいつでもおいでとお土産にきれいな根付を持たされた。蓮花をモチーフにした小さなそれに、やはり胸を締め付けられるような気持ちになる。 行きとは打って変わって軽くなったバスケットを手に戻るさなか、 「ねえ……一衛、そこにいる?」 呼びかけると、『電気羊の欠伸』中に耳があるのではないかと疑われそうな――おそらく、ほとんど事実だろう――黒の夢守は、案の定、 「お前が呼べば、どこにでも」 端的な答えとともに、唐突に姿を現した。 地面から生えるもしくは滲み出るという表現がもっとも相応しいだろうか。 初めて経験するものには相当な衝撃らしいが、『電気羊の欠伸』の常連である理比古にはすでに見慣れた光景で、今日も綺麗に生えたねなどとよく判らない感心をするレベルに至っている。 「それで、なんだ? ああ、小物屋に行ってきたのか。あそこの細工はとびきり美しいとアレグリアでも評判だぞ」 「うん、そうみたいだね。……あのね、あの人たち、俺のにいさんによく似てるんだ。って、この話、したっけ」 「された。が、されなくても知っている」 「あ、そうか、スキャン。ええと……それでね、俺は兄さんたちに憎まれてると思ってたんだけど。この前行った朱昏で、昔の幻を見たんだよね」 高熱を出して寝込んだ義弟を、ひっそりと、息も殺して見舞うふたりの兄。 心配な気持ちをどう表せばいいか判らない、とでもいうような彼らの表情を、理比古は初めて見たのだ。 あの時の、なぜか真実だと確信できるワンシーンが、なおさら理比古を苦しくさせる。 「ねえ、一衛。一衛には判る? 生前俺をひどく憎んだ人たちが、生まれかわったことで、たとえ記憶をなくしていたとしても、優しくしてくれるものなのかな。それとも、優しくしてくれるあの人たちは、にいさんの生まれかわりじゃないってことなのかな」 問われて、一衛は、人間臭い仕草で首を傾げた。 「私には、人間の深淵は判らないが」 「うん」 「それはつまるところ、本当を言えば、根底で、やさしくしたいという思いを持っていたのでは? もともと存在したものの、何らかの事情で発露させられなかった感情が、記憶という重しを失ったことで浮かび上がった、というような」 「……そういうの、本当にあると思う?」 「さあ……何せ0領域は、我々夢守でも原理を解明しきれない、不思議な場所だから。それでも、そうだな。理比古、お前のためにも、そうあればいいと思う」 少しずつ『心』というものを獲得しつつある夢守のこたえは、理比古にとてもやさしかった。理比古はキュッと唇を引き結んだのち、それを微笑みのかたちにする。 「うん。そうだね……そうかもしれない。……ありがとう、一衛」 「? それは礼を言われるようなことなのか?」 「一衛もそのうち判るよ、きっと」 礼を言い、巡回があるという一衛と別れ、更に歩く。 温かい感情が込み上げてきて両目が熱い。 しかしそれは、決して、不快な感覚ではなかった。 * 「あっ」 ばったり鉢合わせる、とはこのことだろう。 理星は、所用あってアレグリアを訪れていた。 端的に言えば、知り合いの司書から、アレグリアの調理器具を仕入れてくるよう頼まれたのだ。なんでも、非常に優秀な職人がいて、彼の鍛える包丁はまな板さえ真っ二つにするという。 アレグリアとは何かと問えば、魂やその欠片が流転し何度も巡り会う場所だとの答えが返った。それでは、これまで、彼が故郷や異世界で出会い別れた人たちともいずれ会うことがあるのだろうかなどと思いつつ歩き、くだんの包丁を手に入れ、戻ろうとしたところで『彼』と行き逢った。 「きみ、この前の」 銀にも見える透き通った灰色の双眸に、癖のない艶やかな黒髪、上背はあるし鍛えてあるとも判るものの、どこか『華奢な』という表現が否定しきれない身体つきと、穏やかでやわらかい、綺麗な雰囲気をした、幼い顔立ちの青年だ。 それは、理星が以前、想彼幻森で見た、果実の記憶とまったく同じものだった。 「――……っ!」 何の根拠もないのに、この人が呼んでくれたのだと魂が言っている。 証拠もないのに、この人のお陰で今の自分がここにいると身体全部で知っている。 会ったら抱きしめよう、ありがとうって言おう、それから伝えなきゃいけないこともあるし……と、実際に巡り会うまではたくさんのことを考えていた。 それなのに、現実はどうだ。 あんなに会いたかったはずなのに、彼を前にした途端、足がすくむ。舌が凍りつく。 動けないし、何も言えない。 今すぐ彼の前から消えてしまいたいとすら思う。 不吉な存在、あってはならぬ混血児として、その生の大半を蔑まれ恐れられ石を投げられ続けたがゆえの傷が、理星の身体を硬くする。 両親が愛し合ったすえに自分は生まれたのだと知りながらも、そのことを誇りに思いつつも、己がここにいるとやさしい誰かを不幸にしてしまうのではないか、という恐怖が離れない。 ――『彼』が特別な人だからなおさら、とは、理星は気づいていなかったが。 「ご、ごめんなさい……ッ!」 反射的に謝って、脱兎の勢いで逃げ出そうとしたら、 「ねえ、待って!」 穏やかな、やわらかい声が理星を呼び止める。 とたん、時間停止の魔法でもかけられたみたいに理星の脚は止まってしまう。 きっと自分はもう、魂までがんじがらめになっていて――しかしそれは、何と幸せなことだろうか――この人に抗うことなど出来ないのだ、と、人ごとのように思った。 「あ、あの……」 「名前を訊いてもいい?」 ゆっくりと――なるべく自分を驚かせないようにしてくれているのだと判って、泣きたい気持ちになった――歩み寄った彼をびくびくと横目に見る。真正面から見つめたらこの人を汚してしまうのではないかと、当人に言えば笑われそうなことを心配してしまう。 しかし、声を聴くだけで温かい感情が込み上げて、無性に幸せな気分になるのもまた事実だった。 「えっ、あッ、ええと、あの、その」 が、感情と言葉がまったく一致せず、もごもごと口ごもっていると、 「ああ、ごめん。訊くならまず名乗るべきだよね。俺は理比古、蓮見沢理比古だよ。それ以上、何を説明すればいいかも判らないんだけどね」 青年は明るく笑い、よろしくねって言えばいいのかな、と小首を傾げてみせた。 彼がアヤヒコというのだと、実は知っている。 想彼幻森で触れた果実の記憶が、彼をそう呼んでいたからだ。 世界樹旅団との戦いが終わり、事後処理のさなかに邂逅を果たした。想彼幻森で得た名前をもとに図書館の資料を調べ、彼が壱番世界に住まうコンダクターであることも知った。 けれど、そこから先は何もできずにいる。 「えと、あの。理星だ、です」 どんな言葉づかいをすればいいのか判らずおかしな敬語になった。 理比古はそれを嗤わず――嗤うはずがないという確信もある――、頷いた。 「そっか。――ねえ」 「……?」 「大丈夫だよ」 一瞬、何のことか判らず、きょとんとする。 「怖がらないで。俺はきみのことを知りたい。俺のことを知ってほしい。だけど急がなくたっていいんだ、せっかくこうやって出会えたんだもの」 理比古の微笑みは、それを男性に当てはめていいものなのか判らないが、やさしい色合いの大輪の花が、朝露を浴びてほころぶようだ。根から吸い上げた、艱難辛苦という養分が、感情の水を得てひらく花に、この上もない美を与えている。そんな気がした。 それがあまりに綺麗で、まぶしくて、理星はまた言葉に詰まる。 「ッ、あの、俺」 理比古は、理星のすべてを理解しているわけではないはずだ。 彼がなぜ理星を知っているのか、なぜ彼を見ると『護られていた』と感じるのか、原理など判りはしないが、ふたりは確かにつながっていて、どこかで呼び合っていた。その結果の覚醒であり、邂逅だった。 すべてはこれからだと知っている。 知りたいなら尋ねるしかない。 知ってほしいなら話すしかない。 近づきたいなら進むしかないし、触れたいのなら手を伸ばすしかない。 けれど、やはり、怖い。 その逡巡を理比古が理解してくれていると、何も言わなくても理星には判った。 「驚かせてごめんね。でも、判り合うために、少し近づきたいっていうだけなんだ。ゆっくりでいいから、ね?」 ――彼が、ゆるやかな、理星を脅かさない速度で、手を差し伸べようとしてくれていることも。 「、ッ!」 雷に打たれたような衝撃があって、理星はまたしても無我夢中で逃げ出していた。ほとんど無意識のことで、自分がどこをどう通ってロストレイルまで戻ったかすら判らない。 「うう……またやっちまった……」 今度こそと思っていたのに、と、がっくりと肩を落とし、列車の隅っこで落ち込みつつも、距離がほんの少し縮まったような気がして心臓が熱い。 「つ、次は、絶対に言うんだ」 理比古は理星のすべてを受け止めてくれるだろう。 ならば、心に刻まれた恐怖の傷を克服して、彼の思いに応えることこそ理星の使命であるはずだ。 「うん。ゆっくりでいいって、あの人も言ってた。……がんばろう」 何をがんばるべきなのか今ひとつわからないまま、列車の隅で拳を握る。 それでも、それは、少なくとも――小さくとも、確かな第一歩であったはずだ。 幼く他愛ない、けれど精いっぱいの決意を乗せて、ロストレイルはディラックの空を滑ってゆく。
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