広大なヴォロスに、パピヨン=フェイと呼ばれる地域がある。 黒き蝶翼を持つ、偉大にして神聖なる妖精女王の伝承が眠る場所だ。 蝶を友とも供ともし、その大いなる力を揮ったとされる妖精女王ジュールレーヴ、この地域の言葉で日々の夢を意味する名を冠する彼女への畏怖や信仰、敬意が今でも息づく、温暖湿潤な、緑あふれる地域である。 そのパピヨン=フェイの一角に、とても古いけれど美しい城がある。 築城から一千年を数えるというそれは、長の時を経てもなお重厚で、荘厳と神秘とを併せ持ち、日の出に、真昼の陽光に、宵の明星に、月光に照らされて、その美しくも堂々たる威容を誇るかのようにそびえ立っている。 建造当時の名はカオス=アルカナ城といった。 カオスとはそも混沌を差す単語だが、その混沌とはつまるところ『秩序を生み出すために必要な創造の活力』であると捉えれば、その名から強いエネルギーを感じることができるだろう。 そして、アルカナとは、アルカナムすなわち天の秘薬を意味する言葉の複数形である。 城を建造した人々の長――女性であったと伝えられる――は、魔法や魔術の力をほしいままにし、黄金さえ自在につくり出した妖精女王の血筋ともその人自身とも言われるから、そのとき城につけられた名を仰々しいと嗤うものはいるまい。 一族は実に七百数十年もの間、代替わりを続けながらこの城に住まい、パピヨン=フェイ地方を統治したという。しかし二百年ほど昔、大きな災厄が一族を襲い、人々はちりぢりになってどこかへ消えていったと伝えられる。 カオス=アルカナ城の統治者たちは、正しく、公平に、愛と情とを持ってこの地域をおさめ、人々の生活を穏やかに発展させたため、彼らが姿を消して二百年が経った今も、パピヨン=フェイ地方の住民たちは、彼らへの敬意と尊崇、そして愛を忘れてはいないのだという。 さて、現在の城主、ジスラン・ダントリクは、ヴォロスでも名の知れた蝶の研究家であり、無類の蝶愛好家でもある。 彼が、長く打ち捨てられるまま放置されていた城を、多額の金銭でもって強欲な土地管理者から買い取り、丁寧に整備をして住み始めたのが二十五年前だ。 彼は、広い庭園を美しく整えなおし、花々で満たした。 そして、蝶を呼び、招き、集めてその研究に没頭した。 二百年ほど前、何らかの事情で激減し、絶滅の危機にすら瀕していた多種多様な蝶たちは、ジスランの研究と育成によってその数を大いに増やし、現在、繁栄を謳歌している。 同時にジスランは、庭師であり腕利きの養蜂家でもある実弟ドミニクの助けを借りて養蜂も行い、良質の蜂蜜を生産し販売もしたという。蜂蜜は遠方にも顧客がつくほど素晴らしいもので、ダントリク兄弟は一代にして多大な財を築いたのだそうだ。 ジスランは研究者であって統治者ではなく、非常に寡黙で内面を語ることも少なく、住民たちと積極的に交流することもなかった。 しかし、博学で研究熱心な彼は医学や薬学にも通じており、病や体調不良などを訴える人々に対して無償で薬を調合したり治療を施したりすることも多々あって、「外見は胡散臭いし何を考えているか判らないがどうやら悪人ではないらしい」という評価とともに受け入れられているようだった。 そのジスランには、妻とふたりの子どもがいる。 奥方の名はサクレオーブ、すなわち神聖な暁といった。 妖精女王ジュールレーヴを髣髴とさせる長くつややかな黒髪に、極上の蜂蜜のような琥珀の眼、そして雪のように白い肌を持つ、およそ現実とは思えぬほど美しい女性だ。 十数年前のある日、ふらりと現れた彼女は、ジスランと同じく花や蝶が好きなのだと言い、庭の手入れを手伝ううち城に居着くようになった。 彼女の長い黒髪が風になびくさまは、光をまとった漆黒の蝶が翅を広げるようで、蝶をこよなく愛するジスランが彼女に惹かれたとして何ら奇妙なことはなかっただろう。 やがてふたりは結ばれ、子どもをもうけた。 伝わる限りでは、この地方では吉兆とされる、双子の男女だ。 双子の、なにもかもがそっくりな子どもたちは、姉がジジュルネ、弟がトリニュイといった。 双子が吉兆とされるのは、妖精女王の子どもたちが全員双子で生まれてきたから、という伝承に基づいている。双子には、古来より、妖精女王の力が宿ると考えられており、今に至っても珍重されているそうだ。 物語は、竜刻調査の依頼の帰り道、激しい雨に見舞われたロストナンバーたちが、周辺住民によって黒揚羽城と名付けられたこの古い城へ、一時の宿りを求めに訪れたところから始まる。 ――それは、陰惨にしてものがなしい、死と愛の物語だった。 * すさまじい嵐だった。 森の木々、山々ですら吹き飛ばされそうな、轟々たる風が大地を震わせ、弾丸どころか砲弾のような雨が、何もかも砕けよと言わんばかりに叩きつけられる。耳をつんざく雷鳴が、泣き叫ぶ赤子の頑是なさで響き渡り、轟音は人々から安眠を奪い去る。 一夜明け、どうにか落ち着きを取り戻した空を、朝の糧を求めて鳥が飛び渡ってゆく。「……すごかったな」 朝餉のため食堂へと集まりながら、人々は口々に嵐への感想を漏らした。「雨宿りさせてもらえて、本当によかった」 古びた、しかしよく手入れのされた窓の向こうに、大きな樹がそびえ立っているのが見える。昨日、気を紛らわせるために聴いた話によると、ここが黒揚羽ではなくカオス=アルカナと呼ばれていた時代から生えているそうだ。 その下、緑の整えられた庭を、色とりどりの蝶たちが舞い遊び、花から花へと渡っていくのが見えた。 特に見事なのが、壱番世界でいうところの揚羽蝶に酷似した種で、輝く漆黒にまぶしさを感じるほどの黄金と、コーンフラワー・サファイアのごとき青の模様が散った、大人の手のひらほどもある大きな蝶だ。荘厳ですらある美しさを持つそれは正式名称をコクシエ蝶というらしいが、この辺りでは皆、黒揚羽と呼んでいる。そう、この城の名の由来となった蝶だ。 ここはまさに、壱番世界のテーマパークや植物園などでも、そうそうお目にかかれない蝶と花の楽園だった。「まあ……おかげで、こんな立派なお城に泊めてもらえたけど。ある意味ラッキーではあったよな」 ロストナンバーたちは、贖ノ森火城の依頼で竜刻の調査に赴いていた。 依頼自体は難しいものではなく、それはすぐに済んだ。 次のロストレイル乗車まで時間もあって、美しいと評判のパピヨン=フェイ地方を観光して帰ろう……と寄り道をしたところ、このおそろしい嵐に見舞われたのだ。 樹木すら薙ぎ倒されそうな暴風に、このままでは身に危険が及ぶのではないかという危惧さえ覚え、駆け込んだ先が黒揚羽城だった。 素性も得体も知れぬ、十一人もの人間がいきなり駆け込んだところで歓迎されるはずがない、最悪の場合は軒先でもいいから雨宿りさせてもらえれば、という思いで門を叩いた一行は、予想に反して快く迎え入れられ、丁寧なもてなしを受けたのである。 上質な家具や寝具が設えられた客室をひとりにつき一室貸してもらい――なんとこの城、客室だけで百もの部屋があるらしい――、休んだあと、こうして朝食の誘いを受けて大食堂へと向かっている。 途中、通りすがった大広間の壁面にはレリーフが飾られている。両性具有と思しき人物が、黄金の太陽と白銀の月を、それぞれの手に天秤のように載せている、古く荘厳なレリーフである。これは、カオス=アルカナ城の人々が設えたものであるらしい。 何がしかの不思議な力が感じ取れるのか、今回の依頼の案内役として同行していた神楽・プリギエーラは、やってきたときと同じく、あちこちを興味深げに見ている。 その道すがら、「皆さま、おはようございます。昨日はよくお休みになられましたかしら?」 しっとりと落ち着いた、艶やかで美しい声が人々を呼ぶ。 見やれば、黒揚羽城主ジスランの奥方、サクレオーブが穏やかに微笑んで立っている。眼も眩まんばかりの美貌の後ろでは、夫妻の子どもであるジジュルネとトリニュイの姉弟がいて、いたずらっぽくくすくすと笑っていた。 少女と少年のはずだが、まったく同じ顔、同じ髪型、身長体型、出で立ちのため、どちらがどちらか判らない。 華奢でしなやかな身体と、身体つきには似合わぬ不可解なエネルギーを感じさせる子どもたちは、十二歳になったばかりだというが、母の顔立ちを余すところなく受け継いで、これまたすさまじいまでの美しさの片鱗を覗かせている。あと十年もすれば、信奉者たちが列をなすことだろう。 まるで慕うかのように、黒揚羽をはじめとした何頭もの蝶が双子のまわりを舞い飛び、いつしか姿を消している。「あ、おはようございます。昨日は本当にありがとうございました」 誰ともなく挨拶をし、礼を言い、「雨が止んでよかった。これなら、朝ごはんをいただいたら出発できそうかな。何から何までお世話になってしまって、すみません」「あら……お客さまが来てくださるのは嬉しいわ。もっと滞在してくださってもいいのに」 世辞ではない口調で奥方が言い、それはとても魅力的だけどさすがにそんな厚かましいことは……と恐縮していると、「出発、出来るかな?」 不意に、双子の片割れが窓から外を、空を見上げてくすりと笑った。「雨はすぐに降ってくるよ。止まない雨」「え?」 何のことかと尋ねる前に、双子は謳うように言葉を紡ぐ。「蝶は葉陰に翅を休める。蝿は煉獄へ落とされる」「そうだね、ジジュ。虻は水に沈められるし、羽虫は燃やされる」 頷き、トリニュイがくすくすと笑う。 男女の双子であるからには二卵性であるはずなのに、口調や声までそっくりだ。「蜈蚣は吊るされ、蚤は貫かれ、ダニは頭を失うよ」「蚊たちは、トリ?」「いずれ食われてしまうだろうね。だって要らない虫だもの」「蜘蛛は?」「蜘蛛は憩うよ、きっとね。だって蜘蛛はやさしいもの」 双子の、愛らしくも不思議と妖艶な、赤い唇から、奇妙な言葉が紡がれる。「それは、いったい?」 妙な胸騒ぎを覚え、誰かが問おうとしたら、双子は母親の周りをくるりと一周し、くすくす笑いながらふたりいっしょに走り去ってしまった。ロストナンバーたちは唖然とせざるを得ない。「ごめんなさいね、あの子たち、ときどき謎めいたことを言うのよ」「双子だから、ですか? この地方では、双子は吉兆で、不思議な力を持ってる、って」 奥方の唇を微苦笑がかすめる。「ええ、そうね、双子は嘉(よ)い徴(しるし)。妖精女王は、百人、五十組もの双子を産んで、自分の力を我が子に分け与えたというわ。妖精女王の子どもたちは、この緑あふれるパピヨン=フェイ地方を今も見守っているそうよ」 この地方にとっては守護神にも等しい妖精女王の、百人の子どもたち。 悠久を見晴るかす彼ら、彼女らは、今、どんな思いでこの地を見つめているのだろうか。 そんな幻想的な思いを抱きつつ踏み込んだ食堂には、すでにたくさんの先客がいた。 美しいシャンデリアのさがる、広い食堂だ。 やはりカオス=アルカナの人たちが遺して行ったという不思議なレリーフ、水平直線と垂直線、十字と直角形、卍が刻まれた銅板と、三角形と逆三角形、三角形上方に水平直線の引かれたもの、逆三角形下方に水平直線の引かれたものが刻まれた錫板が飾られていて、不思議な雰囲気を醸し出してもいた。 使用人たちが、きびきびと手際よく動き、湯気の上がる、目にも美味な朝食を運んでいて、席につくと同時にそれらが給仕される。 パンは焼き立て。バターは自家製、蜂蜜は金色。 ふわふわのオムレツ、とろとろのスクランブル・エッグ、金色の黄身が食欲をそそる目玉焼き。こんがり焼かれた分厚いベーコン、ぷりぷりのソーセージ、まろやかで塩気がちょうどいいチーズの塊。菜園で育てているというハーブや苣(ちしゃ、レタスのこと)を使ったサラダは瑞々しく、身体中が綺麗になるような気持ちにさせられるし、丁寧に引いたと思われる鶏のスープには、色鮮やかな季節野菜が煮込まれ、滋味あふれる一品となっている。 デザートには、季節の果物や、ダントリク印の蜂蜜をたっぷりかけたヨーグルト、蜜漬けのドライフルーツなど。 お腹を空かせたロストナンバーたちが、めいめいに挨拶をして食べ始めようとしたところで、誰かがその人に気づいた。「あ、ジスランさん」 食堂の隅っこで、何かの資料を読みながら、焼きたてのパンをちっともおいしくなさそうに――しかし奥方曰く、あれで十分喜んでいるらしい――食べているのが、この黒揚羽城のあるじ、ジスラン・ダントリクである。 身の丈は二メートル近いのに、なぜか『細長い』という印象ばかりが先立つ怪異な容貌の男だ。 研究に没頭するあまりかまったく日焼けしておらず、顔は青白いほどで、背丈もあるが手足も長い。ぎょろりとした目玉が炯々と輝く顔はお世辞にも美男子とは言い難く、おまけに常に苦虫を噛み潰したような顔をしており、とっつきにくいイメージを抱かせる。印象としては、不健康そうで不機嫌そうなひょろ長い男、である。 しかし、「あ、おはようございます、ジスランさん。昨日は本当にありがとうございました。あの、宿泊費用とか、何かお礼とか、そういうの……」 誰かが声をかけると、城主は口の中でもごもごと何やらつぶやいたあと、「……細かいことは気にしなくていい」 傍から見れば不機嫌極まりない顔で、それだけぼそりと返した。 金銭などは必要ではない、ということらしい。 ロストナンバーたちが、ありがとうございますと頭を下げていると、派手な身なりの若い男がジスランへと歩み寄った。「ジスランおじさん、もうじき母さんの誕生日なんだ。盛大に祝いたいんだけど残念ながら懐がさみしくて。ちょっと、援助してもらってもいい?」 そんなふうに彼はまくしたて、「いいよね?」「……ああ」 ジスランがうなずくと、口笛を吹き、小躍りしながら食堂を出て行った。 そばにいて一部始終を見ていた年かさの侍女が深い息を吐く。「……何がおじさん、だよまったく。ジスランさまの財につられてきただけのごろつきどもが」 使用人たちが顔をしかめ、吐き捨てるのを、ロストナンバーたちは何度も眼にしたし、耳にした。 ジスラン・ダントリクは、人づきあいが得意なたちではないし、『蜘蛛のような』と称される怪異な外見をしているが、それらに反して、実を言うと非常に親切な男であるらしかった。そうでなければ、身元も判らぬ怪しい集団に、何の見返りも求めず宿を提供してくれるはずがないのだ。 要するに、この黒揚羽城には、ジスランのそんな善良さに付け込んだ、たちの悪い連中が複数、入り込んでいるということなのだろう。 その『たちの悪い』連中は、ざっと数えても十名を超えた。 ジスランのいとこの子どもという青年、オラースとユベール。 ジスランの祖母の妹の孫という姉弟、ファビエンヌとナゼール。 ジスランの伯父の妻の弟という男、クリストフ。 ジスランの母の友人の息子のいとこという青年、エヴラール。 ジスランの一族と親交があったという元騎士の男、デュドネ。 ジスランの友人に紹介されてきたという自称芸術家たち――ただし、彼らが芸術活動に勤しんでいるところを誰も見たことがないという――、画家のグザヴィエと彫刻家のプロスペール、音楽家のモイーズ、舞姫メリザンドとロクサーヌ。 先ほど、まんまとジスランから小遣いをせしめたのは、エヴラールという青年のようだ。 聞けば聞くほど胡散臭い――ロストナンバーとてあまり人のことは言えないが――連中が、ジスランが何も言わないのをいいことに、この荘厳にして美しい、居心地のいい黒揚羽城で、我が物顔をしているのだ。 彼らは、つい一年ほど前、ダントリク印の蜂蜜がとある国の王室御用達となってから急に押しかけてきたらしく、長年、ジスランに仕えてきた実直な人々が、招かれざる客に対していい顔をしないのは当然とも言えた。「おや……今日の花も美しい」 気取った様子でやってきた、悪趣味な身なりの男が、薔薇の彫刻のされた花瓶に活けられた、瑞々しい花をわざとらしく嗅いだ。教養人だと見せかけたかったのかもしれないが、次の瞬間立て続けにくしゃみをしていたのでは台なしだ。 実に十八回もくしゃみをし、鼻水を垂らし、派手に咳き込んでぐずぐず鼻を鳴らしている彼に、同情と失笑が湧く。 彼、クリストフは憤慨した様子で肩を怒らせ、苛立ちを抑えようとしているのかパイプに火をつけながら席に着いたが、その背中に威厳などはなかった。「兄さん、ちょっと相談が……」 そこへ、ジスランの実弟ドミニクが食堂へ顔を出す。 こちらは兄と打って変って快活な印象の男前で、ジスランとは十歳離れているらしいが、兄弟仲は良好のようだ。 兄弟が何ごとかを話し込んでいる間に、つい先ほどまで明るく晴れていたはずの空には少しずつ雲が増え、ややあって、「あっ、降ってきた」 ぽつりぽつりと大粒の雫をこぼし始めた。 それはすぐどしゃ降りになり、辺りはすぐ水の幕に覆われて何も見えなくなる。 見上げた空は真っ暗だ。 その、あまりにも突然の、空の変貌に、誰もが不吉を抱いたという。 * 結局、このまま外へ出るのは危険だという城主の判断で、雨がやむまで滞在させてもらうことになったロストナンバーたちは、興味の赴くまま城内を歩き回っていた。 そんな中、見つけたのが、三階から行けるバルコニーだ。 一角獣の彫刻が見張りのように立つ、大きく張り出したそのバルコニーには、手すりがなかった。 階下までは十五メートルばかり。決して低い位置にあるわけではないが、妖精女王の一族は皆、空を飛ぶことが出来たので、手すりなどはむしろ邪魔なものであったかららしい。 しかし、普通の人間にとっては充分に危険たり得るため、なるべく近づかないようにとのことだったが、そこには今、若い男女が立っていた。オラースとファビエンヌだ。 どうやら恋仲にあるらしいふたりは、バルコニーのふちを、睦言をかわし、絡みあうようにふざけながら歩いている。侍従の老爺が、危ないですからお戻りくださいと懇願しても、使用人風情が云々と嘲りの表情をして、雨に濡れるのも構わず、危ない『遊び』を続けていた。 いつもあんな遊びをしておいでなのです、とこぼして老爺が深々とため息をついた、その時だ。 不意に、ふたりの足元を何か細長いものが行き過ぎた、そんなふうに見えたが、分厚い雨雲に覆われた空の下でははっきりと確かめることが出来なかった。何より、蛇でもいたのだろうか、と訝しむよりも、男女が大きくつんのめるほうが早かった。「!?」 雨に紛れてさえ、息を飲む音が聞こえたような気がした。つんのめり、バランスを崩したふたりの身体は、当然のごとくバルコニーの『外』の空間、つまりなにもない宙へ。 ――二種類の絶叫が尾を引いた。 いったい何が起きたのかと硬直する人々の傍らで、「落ちたね」「うん、落ちた」 双子がくすくすと笑い、「観に行こうか、ジジュ」「そうだね、観に行こう。蝿と虻の末路を確かめなくちゃ」 同時に、パッと駆け出す。 残された人々も慌てて後を追った。 入り組んだ城内を走り、雨粒に背中を叩かれつつ双子のすぐ後ろから庭へと飛び出せば、オラースはバルコニーの真下で、首を奇妙な方向にねじれさせ、目を見開いたまま倒れていた。すでに命がないことは、見た瞬間に判った。 ――奇妙なのはファビエンヌだった。「いっしょに落ちた……はずだよな……?」 なぜなら彼女は、十メートルばかり離れた位置にある池に顔を突っ込み、うつ伏せで倒れていたからだ。こちらも、もはやピクリとも動かない。腕や足が在り得ない方向に折れ曲がっていたから、バルコニーから落ちたことでひどい怪我はしたようだったが、直接の死因は墜落によるものではなさそうだった。「のどが渇いて水がほしくなったとか、そんなわけないし」 池の魚たちが、惨劇など知らぬげにすうっと泳ぎ去っていく。 眉をひそめるロストナンバーの傍らでは、神楽がいつになく難しい顔で周囲を見回している。「どした、神楽」「……いや」 巫子の返しは素っ気ない。 しかし、その横顔に奇妙な緊張を見た気がして、珍しいことだと首を傾げる。 そこへ、また、悲鳴が聞こえた。「!?」 今度は何だ、と屋敷へ飛び込む。「次は蜈蚣? それとも蚤?」「ダニかもしれないし、蚊が先なのかもしれないね」 双子の、不吉極まりない言葉に追われるように走った先では、自称画家の青年グザヴィエが首を吊って死んでいる。 部屋の、天井に近い位置にある据え付け棚の傍、頑丈な梁に引っかけられた荒縄が、グザヴィエの命を奪った道具だった。 それなりに絵を描こうという意識はあったのか、油絵具や絵筆、真っ白なキャンバスが山と積まれた、大変乱雑に汚れた部屋だ。何かを表したかったのか、もしくはただの落書きか、薄汚れたスケッチブックに無数のカラスが描かれ、放置されている。太陽を喰らう獅子、獅子を喰らう鷲という不思議なモチーフの絵もあちこちに見られた。やけに古ぼけて見えるから、グザヴィエの作品ではないのかもしれない。「変だな……」 わずかな空気の流れに、ゆらゆらと揺れる骸を見上げて誰かがつぶやいた理由に、目ざといものならすぐに気づいただろう。 グザヴィエの足元には、縄に至るために必要と思われる足場がないのだ。苦し紛れに蹴飛ばした、というには、蹴飛ばして飛ばせる範囲にそういったものがないのだが、縄は天井の高い位置から下がっており、足場がなければ縄に首を通すことすら難しい。 しかも、異変を察知して使用人たちが駆けつけたとき、部屋には鍵がかかっていたという。 『発作的に死を選んだ』という状況に当てはめるにはおかしな話だった。「蜈蚣だったね?」「うん、蜈蚣だった。じゃあ……次は、羽虫かな」 いつの間にか、虚ろな表情でぶら下がるグザヴィエには一片の憐憫も覚えぬ様子の双子がいて、ひそひそと囁き合っている。 細められた琥珀の目が、一瞬、黄金めいた光を反射させた。 その背後で、はたはたと翅をはためかせ、青い蝶が飛んでいく。 そこへ、「おい、いったい何が起きているんだ!」 ヒステリックな喚き声と、武の心得のひとつもないと判る不格好な足音とともに、クリストフが姿を見せた。どうも、話を聴きつけて、いてもたってもいられずにやってきたらしい。 先ほど盛大にくしゃみをしたせいか鼻声なので、喚かれてもあまり迫力がない。「事故や自死じゃないっていうのは本当か。だったら、犯人がいるってことじゃないのか!?」 クリストフが、苛立ちを隠しもしない様子でパイプを口に咥える。 マッチを擦ろうとする彼へ、侍従の老爺が恐る恐る声をかける。「申し訳ありません、クリストフ様。こちらは燃えやすいものが多いので、お煙草は……」 当り散らすかと思われたクリストフは、部屋中に積み上げられた紙束や絵の具、キャンバスのたぐいをぐるりと見渡すと、盛大な舌打ちをし、大股に歩いて小部屋のドアを開けた。足を踏み入れ、ひくひくと鼻を動かし、鳴らして、再度パイプを咥える。「おい、この部屋、何か腐ってるんじゃないのか」「は、いえ……そこは物置で、腐るようなものは何も」 老爺が眉をひそめる間に、クリストフの手がマッチを擦る。 マッチに火がともった、そう思った瞬間だった。 爆音と爆風が、小部屋を破裂させるように巻き起こり、クリストフを吹っ飛ばしたのは。そして、噴き上がった炎がクリストフの身体をあっという間に飲み込んでしまったのは。 どおん、という耳をつんざくようなそれにグザヴィエの骸が風圧で飛ばされて落ち、画材が木端のように吹き散らかされる。 扉が小さかったこと、部屋の造りが頑丈だったこと、鉄製の扉が半分閉じかけていたことが幸いして、その時グザヴィエの私室にいた他のメンバーに被害はなかった。飛んできた絵の具に顔面を直撃されたものや、驚いて転んだものがいたくらいだ。 何が起きたのか一瞬理解できず、硬直し立ち尽くしたあと、「クリストフさん!」 燃えくすぶる火に肌を焦がされつつ小部屋を覗き込む。奇妙な臭気が鼻をかすめたが、それよりも重要なのはクリストフの安否だ。しかし、壁に叩きつけられ、全身を炎に包まれてピクリとも動かないクリストフに、命が残っているようには思えなかった。 駆け付けた使用人たちが次々に水をまき、ようやく火が収まるころには、クリストフはもう、ただの黒い塊になっている。 人々は、それらを呆然と見ていた。 * ――わずかな時間に、四人もの人間が死んだ。 その事実に、城は揺れた。 しかも、ジスランたちダントリクの一族にも、彼らに仕える侍従たちにもそれぞれにアリバイがあり、何者かの犯行であるにせよ、犯人の目星はまったくついていない。 自称ジスランの身内たちは、身に覚えでもあるのか言葉も少なく、自室にこもって息を潜めていた。 雨はますます激しく降りしきり、人々を城へと閉じ込める。 城の屋根を巣にしているという、何かの鳥の鳴く、ものがなしい声がどこかから細く聞こえてくる。 そんな中、何か手がかりはないかと城内を歩き回っていたロストナンバーは、「……もしかして、これは、あの方が?」 年かさの侍従たちがそう囁き交わすのを聞いた。 あの方とは誰だろうと思いつつ更に歩けば、獰猛かつ勇壮な狼の彫刻がされた柱の影で、双子が愉しげに何かを囁き合っている場面に出くわした。何をしているのかと問うてみれば、満面の、四人もの人間が一度に死んだ直後とは思えない明るい笑みが返った。 やはり、ふたりの周囲には、姿は見えずとも蝶の気配がある。「あなたたちにだけ教えてあげる。あなたたちは『虫』ではないから」 双子はやはり、くすくすと笑っている。「あのね、やったのは兄さんだよ」「兄さんが、目障りな『虫』を退治しに来ているんだ」「兄さんは護りに来たの。『虫』に、これ以上蝶の園が荒らされないように」 どちらがどちらか判らないほどよく似た双子は、愉しげに笑うばかりだ。意味を尋ねようとすると、するりと輪から抜けて、笑いながら走り去ってしまう。 まるで蝶々のようだ、とつぶやき、気を取り直して、古株の使用人を捕まえ、話を聴いてみると、彼らのいうとおり、実は、双子には上のきょうだいがいたという。 秘された事柄のようで、侍従の人々も詳しくは知らず、兄と言いつつ性別すらさだかではないし、どういった状況で何が起きたのかも判らない。しかし『彼』は、幼いころ、何らかの理由で命を落とし、これまでその存在はほとんど明らかにされていなかったのではないかと推測される。 使用人たちが言うには、その『兄』が、黒揚羽城に巣食うたちの悪い連中を排除すべくよみがえったのではないか、とのことだった。 まさか、そんな馬鹿な、と否定する言葉は、「ジジュルネさまもトリニュイさまも、蝶や雨を呼び寄せたり、植物の成長を早めたりすることのできる、不思議な力をお持ちです。そして、ここだけの話ですが、奥方様は、はっきりとした身元をお持ちではありません。あの方がジスランさまのもとへ嫁がれてからずっと、彼女は妖精女王の化身か生まれかわりなのではないかという疑問を、我々は持ち続けております。ええ、そのくらい、彼女の周囲にも、不思議な事象が起きるのです。そのご子息ですから、たとえ双子ではなくとも、何らかの強い力をお持ちなのではないか。ご家族の危機に際して、お戻りになったのではないか。そういう思いを、私たちは捨てきれないのです」 ジスランがここに居を構えたころから彼に仕えているという老召使いの真剣な表情、そして、「……あながち、間違いでもないのかもしれない」 褐色の肌なのに、なぜかはっきり青褪めていると判る、そのくらい顔色の悪い神楽の、咳き込むような物言いによって、虚しく消えてしまう。 そこへ、またしても、大きな悲鳴が響いた。「誰か、誰か来て!」 それが奥方、サクレオーブのものだと気づいたロストナンバーたちが飛び出していく。 声は三階の奥、城主の私室から。 階段を駆け上がり、息せき切って駆け込めば、血臭が鼻をついた。 奥方は真っ青になって震えている。「ジスランさん!」 城主は、書類や書物が散乱した部屋に倒れていた。 後頭部から、じわじわと血が滲み出して、辺りに血溜りをつくりつつある。うつ伏せに倒れているところからして、背後から襲われたものであるらしい。周囲を見渡しても、凶器のたぐいは見当たらない。 息を飲み、駆け寄ったロストナンバーのひとりが、首筋に手をあててから叫ぶ。「まだ息がある。早く、手当てを!」 城内は、にわかに騒がしくなった。 雨はまだ弾丸のように辺り一面を叩き続けている。 * ジスランは一命を取り留めた。 意識はまだ戻らず、絶対安静ではあるが、おそらく命に別状はないだろうとのことだった。 ジスランは現在、もともとはカオス=アルカナ城のあるじの私室だったとされる自室にて眠っている。 ロストナンバーたちが見舞いに訪れたそこにもまた、千年の昔から備え付けられていたと思われるレリーフがあった。翼が飾られ、二匹の蛇が絡み付いた杖ないしは木の枝と思われるものを咥えた、獅子と狼と犬、そして鷲をかけあわせたかのような、不思議な――力強く勇壮で、獰猛な活力を感じさせる――獣がダイナミックに彫られているのだが、その動物は、鷲と火とかげ、魚、ガマガエルにかしずかれ崇められている。 何らかの寓意なのだろうかと想像の翼をはためかせつつ、「しかし、これも……『兄』の仕業なのか? でも、それにしては……」 違和感に首を傾げるロストナンバーたちを背に、サクレオーブはベッドに横たわるジスランに寄り添っている。哀しみに曇り、心配のあまり歪んでいたとしても、彼女はやはり、眼も眩むほど美しい。「どうして? どうしてあなたがこんな目に……?」 力なく投げ出されたジスランの手を、奥方の白い繊手が握り締めている。 美女と野獣ならぬ、美女と蜘蛛男といったところだろうか。 心のうちを容易く語りそうにもない、甘い言葉のひとつも紡げそうにない、寡黙で無愛想で不器用そうな男のどこに、彼女は惹かれたのだろうか。不謹慎と知りつつ尋ねたいような心持ちになったとき、不意に部屋の外が騒がしくなった。 顔を出してみれば、ユベールとナゼール、デュドネが、ドミニクを無理やり引っ張ってくるところだった。何かあったのか、ドミニクは顔を引き攣らせて抵抗しているが、男三人に囲まれてはどうしようもない。「皆さん、いったい何ごとです……?」 ジスランに仕えて三十年という執事が眉をひそめれば、ユベールが自慢げに小鼻をふくらませた。「殺人鬼を捕まえてきた、それだけだ」 殺人鬼という言葉に、ざわりと周囲がざわめく。 ドミニクは激しくかぶりを振り、「だから、なぜそうなる! なぜ俺が人殺しなんかしなきゃいけないんだ!」 男らの腕を振り払おうともがいたが、おとなしくしろ! と耳元で怒鳴ったデュドネに殴りつけられ、低く呻いて上体を揺らがせた。それを見て、奥方が顔色を変える。「ドミニク! 皆さん、これは何かの間違いだわ。彼のいうとおり、ドミニクに殺人を犯す理由なんて」「本当にそうだと思われますか、奥方」「え?」 デュドネが小狡い、いやらしい顔で笑う。「ナゼールがね、見たっていうんですよ。ジスランがあなたに発見される前、部屋から出て行くドミニクの姿を」 サクレオーブの柳眉が寄った。「確かに兄さんの部屋にはいった。だが、そのときは何ごともなかった。本当だ!」 ドミニクは、縋るような眼で彼女を見ている。「そうよ……そんなはずはないわ。ジスランとドミニクの仲のよさは、わたしが一番知っているもの。ドミニクに、ジスランを殺そうとする、彼を傷つける理由も必要も、ひとつもないわ」「おや……では」「……え?」 双子に『虫』と称される、黒揚羽城の招かれざる客たちが、含みのあるいやらしい笑みを浮かべる。「先日、月夜の晩。あなたがドミニクに取り縋るようにして何かを話しているところを見たと、死んだグザヴィエが申しておりましたよ。それに対する弁解をいただけますか?」 デュドネの言葉に奥方が目を瞠り、「違う、あれは……」 ドミニクは何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんで視線を落とした。 デュドネがくつくつと嗤う。「あなたとドミニクは通じ合っていた。ジスランはあのご面相です、心変わりは無理もないこと。それとも最初から財産だけが目当てで、愛などはなかったのかもしれませんな。なんにせよ、あなたがたはジスランが邪魔になり、殺すことにした。それには周囲の目をよそに惹きつける必要があった。殺された四人はその生け贄でしょう。四人の死者に皆が混乱しているうちに金槌でゴツン! ……どうです?」 強引すぎる推理だったが、彼らの中では『そういうこと』になっているのだろう。 きつく唇を引き結ぶ奥方とドミニクを見やり、「ああ、別に、誰かに訴え出ようなどとは思っておりませんよ。ただ……そうですね、我々が口をつぐむに足る、援助などいただくことにはなるかと思いますが……」 優位に立った脅迫者の顔で、デュドネが浅ましい言葉を吐いた、その時だ。「……大気に怒りを感じる」 ふらり、と称するのが相応しい足取りで、神楽が顔を覗かせた。 顔色は、やはり、青いとしか言いようがない。「何、どうし、」 いつも淡々と我が道を行く神楽の、珍しく疲弊した姿に不審を覚えたものが声をかけるが、返答はない。――聞こえていないのか、それどころではないのか。「私は封印の奏巫子、託宣や占いは得意じゃない。ただ、『何か』の存在は否応なく感じる。だから……気になって、地霊に尋ねてみたんだ。いや、尋ねてみようとした、というべきか」 神楽は咳き込み、低く喘いでその場に膝をついた。 ただごとでない様子に何人かが駆け寄る。「何かあったのか」 しかし、神楽の眼はどこかの虚ろを見ている。「なぜだ、力が封じられる。感覚が失われる。いったいなんだ……ここに、何がいる? あまりに、強大な……」 オパール光の揺れる銀の双眸に苦痛の色がかすめた、そう思ったとたん、神楽は、目に見えない何かに殴られでもしたかのように大きく上体を跳ねさせ、両腕で頭を抱え込むようにしながら呻き、「獣が来る……怒りと憎悪を携えて。それは、蝶に害なす虫を喰らい、楽園を永遠のごとく護るだろう。獣の前に神秘の力は許されず、ただ実の手のみが届くだろう」 先だって双子が囁いたのと似た、不可解で不吉な言葉をうわごとのごとくつぶやいてから、受け身も何もない無様さでその場に倒れた。 侍従の誰かが息を飲み、人を呼ぶ。 城はまた騒然とした。 神楽は完全に昏倒したらしく、身じろぎひとつしない。その影の奥で、七つの赤い光が瞬いたような気がしたが、錯覚かもしれない。 運ばれてゆく神楽を見送っていたロストナンバーは、「やっぱり、ここには何かいるんじゃないのか……あ、あんなこと、まずかったんじゃ」「シッ、誰かに聞かれたらどうする。だいたい、そんなわけないだろう。あんなものは、ただの伝説だ」「で……でも」「ここまで来てしまったんだ、もう後戻りはできん」 『殺人鬼』であるはずのドミニクをその場に放置して足早に部屋を出てゆくデュドネたちの、そんな会話を小耳にはさみ、「……どうしてこんなことに」 奥方の、誰へ向けるでもない嘆息を聴いた。「わたしはただ、――……った、だけなのに。私の願いはそれだけだったのに」 そして、かすかすぎて聞き取れなかった言葉を脳内で補完するよりも早く、「それとも……」 哀しみにかすれてすら美しい声が、「これも、本当は、わたしが望んだことなのかしら。ねえ……教えて、ジュールレーヴ。偉大なる、我らが祖よ」 自嘲に似た感情を紡ぐのを、聴いた。 見事な黒揚羽が一頭、城の天井すれすれの位置を、優雅な動作で飛んでいく。 雨はまだ、やみそうもない。* *大切なお願い* *なるべくたくさんの方に入っていただければという思いから、人数枠を多めに設定しておりますので、エントリーは1PLさんにつき1PCさんでお願いできればたいへんうれしいです(抽選期間が過ぎたあとも枠が空いていた場合は、この限りではありません)。わがままを申しますが、どうぞご配慮のほどをよろしくお願いします。
1.神秘の箱庭 ひどく暗示的な場所だ、と誰もが感じていた。 ここがカオス=アルカナと呼ばれていた時代からの遺物から、新しい住人たちが持ち込んだ品まで、ひとりの意思によるものではない、ただ『在る』だけのものたちが、さまざまな寓意を孕むのだ。 「さて……どうしたもんかね」 榊はぐるりと周囲を見渡した。 同行者たちは、現在、めいめいに調査を行っている。 榊が気にしているのは、とある大馬鹿者たちだった。 「あいつら、どう考えてもまずいよな? まあ、あいつらが八つ裂きにされたところで、俺は痛くもかゆくもねーけど」 とはいっても、その大馬鹿者たちのために動いてやる義理もなく、ちらりと意識の片隅でそれを思ったあと、榊の思考は別の方向へと向かう。 「『兄』、か……」 先ほど客室のひとつへと神楽を見舞ってみたが、神代の声を聴く巫子は意識を失ったまま身動きひとつしなかった。直接的な戦闘力が高かったとは聞いていないが、それでも、神々を封じ込めるミコであったという神楽を容易く行動不能にできる実力者、『何か』がこの城にいることは事実なのだ。 「奥方が城に来たのは十数年前、双子は十二歳。十数年前、っていうニュアンスがミソだな」 そこには、十三年前から十九年前までのブランクが含まれる。 榊が目をつけたのはその部分だった。 「それをどう調べるか……お、いいところに。なあ、執事さん」 榊が見つけたのは、ジスランに三十年仕えているという老執事だ。 ルノーという名の彼は、今年で七十歳になるという。 「はい、いかがされましたか」 「『兄』なんだけど」 「は」 「そいつ、奥方の連れ子だったんじゃね?」 問うと、執事は眼を瞬かせた。 「双子の口ぶりだと、昔出て行った身内が戻って来ているように感じるんだよな。そいつ、生死不明の失踪だったんじゃねぇか?」 奥方とドミニクの密会が『兄』捜索についてなら口を噤む理由にもなる。 ……という観点からの質問だったが、老執事は首を横に振った。 「いえ。ここに来られた時、奥さまはおひとりでございました。わたくしは旦那さまと奥さまが出会われた時、その場におりましたが……他にどなたもいらっしゃらなかったことは、はっきりと覚えております」 「そっか……」 「ただ」 「ん?」 「あの方が、生死不明の失踪であった、というのは、ある意味正しいのかもしれません」 老執事はどこか遠くを見る眼でつぶやいたのち、いぶかしげな榊の視線に気づいたのか、恥じ入るようにうつむいた。 「……申し訳ございません」 低く詫び、逃げるようにその場を立ち去る。 「何か、あるってことか? 『兄』の出生ないしは死に……?」 その背を見送って、別の場所を調査すべく、榊もまた足早に歩き出す。 * ウーヴェ・ギルマンはゆったりとした足取りで城内を歩いていた。 あちこちに飾られた彫刻やレリーフを確認しながら、 「興味深いねぇ」 ぐるりと見渡す。 「ここにその神話があるかどうかはさておき……いや、違う、それもまた収斂ということなのかな?」 壱番世界の神話にも、似たような神話や逸話、シンボルが存在する。おそらくそれらは、ヴォロスであれ壱番世界であれ、似たような意味を持ち、背景に何かを孕むのだろう。 辿り着いた先は、彼らロストナンバーが情報や資料、知恵を持ち寄るために借りた、『ベースキャンプ』と呼ばれる共通部屋だ。皆が、調査して得た内容をここへ持ち込み、全員で共有して意見を交換することになっている。 「やあ、調子はどうだい?」 ベースキャンプでは、さまざまなメモやスケッチをテーブルに散乱させて、シューラが思索に耽っている。 ウーヴェが声をかけると、シューラは散在する資料の山から顔を上げ、彼を視界に認めてにやりと――たぶん、本人としては友好的に微笑んだつもりなのだろう――笑った。 「いやあ、興味深いねぇ」 シューラは実にご機嫌だった。 「なんで竜刻の調査に興味を持ったのか、あのときは不思議だったけれど。もしかしたら、どこかでコレが起こると予感していたのかな」 シューラの手が動き、何ごとかを紙に書きつける。 これまでにそうやって書かれたと思しきメモの山を見下ろして、ウーヴェは破願した。 「ああ、君も同じことを考えているんだねぇ」 「うん。きっと、皆も同じようなところに目をつけていると思うよ」 シューラの手がメモをめくる。 「黄金の太陽、白銀の月……で、両性具有、完全なる物質。蜂蜜のシンボルもあったね。ヘキサグラムもあるし……太陽を食らう獅子もシンボル。獅子を喰らう鷲は、確か不揮発物の気化のシンボルだったっけ? もしかしたら、それがクリストフの嗅いだ匂いの正体かもね」 「爆発の原因に関しては、ムジカくんとアキくんが調べるって言ってたな」 「うん。あとは、薔薇に狼に一角獣。無理矢理になら、さらっと『部屋』だけでもシンボルだっけ。それに、この雨でさえ。それにしても、太陽が多いね? 自然と集まってきた、ということなら、別におかしなことでもないのかもしれないけど」 シューラは、せっせと、今までに見つかったシンボルと、それが発見された場所、シンボルの内包する意味を書きこんでいる。 「あと、もうひとつ」 「うん?」 「この城の、昔の名前。『カオス』の所以は、陰と陽は混沌から発生したという陰陽思想に符合するんだよねぇ。陰と陽とはすなわち一対の男女であり、森羅万象でもある」 「なるほど。そうすると、ジスランとサクレオーブで『結婚している男女』。オラースとファビエンヌで『ひと組の男女』、ということになるね」 「うん。……そういえば、城内のシンボルは火と水、気と土みたいな、一対のものが多い気がしない?」 「言われてみれば、そうかも」 「これは僕の想像なんだけど、全員双子で生まれてきた、っていう妖精女王の子どもたち。あれはもしかしたら、みんな二卵性で男女の双子だったのじゃないかなあ?」 「ああ……それはあり得るかもしれないね。だからこそ、ジジュルネとトリニュイの姉弟は貴ばれるのかも。あれ、じゃあ……」 「僕もそこが気になっているんだ。すべての祖である妖精女王は双子じゃなかったのかな? 五十組、百人もの子どもたちには、父である夫がいたのかな……それとも、レリーフのような両性具有だったのかな? そういう観点から見ると、『兄』と呼ばれる者の性別が判らないのは興味深いよねぇ?」 「ふふ」 「どうかした?」 「いや……考えるのは楽しいな、ってさ」 シューラが愉快そうにくつくつと笑うのへ、ウーヴェもまた笑みを向ける。 それから、少し考え込む様子をみせた。 「どうかしたかい、ウーヴェさん」 「うん? いやぁ……両性具有者を、『ひとりで世界を完成させる』者と仮定すると、ちょっとさびしいなぁって」 「どうして?」 「ん? いや、だって」 まるで、それが天地開闢の理であるかのように、ウーヴェは微笑む。 「ひとりじゃ、愛は生まれないじゃない」 その時、ウーヴェの脳裏をよぎった顔が誰のものであったかについては、別段、彼以外に知る必要のないことだ。 無邪気なほど直截な言葉に、シューラはぱちぱちと瞬きをし、それから、なるほど、と真面目くさって頷いた。 「ふむ……問題は、あの『獣』だな。獅子と狼と犬、そして鷲をかけあわせたようなこのかたちといい……鷲と火とかげ、魚、ガマガエルにかしずかれ崇められたこの暗示性といい」 「あの杖は、いわゆるヘルメスの杖だよねぇ?」 「うん。ガマガエルは月しか思い浮かばなかった。だから、太陽と月と火と水にかしずかれる獣、に見えるんだよね。うーん……盗人を咥える獣、もしくは平和を守る獣かな、これが示すのは。獣はグリフォンと仮定しておこうかな? でも、まだまだ判らないことだらけだな。これも、仮定の域を出ないし」 仮定をメモに書き込み、シューラは立ち上がる。 「どこへ?」 「うん、グザヴィエの部屋を調べようかと思って。もっというと、描かれた絵が気になるんだよね」 シューラはすでに、シンボル探求の虜のようだ。 殺人事件を解決する、という目的はほとんど忘れ去られている。 ウーヴェもまた、自分の疑問を解消し、この事件に決着をつけるべく、息を殺して静まり返る城の探索を再開する。 2.ねがいごと 「人間と人外、双方の思惑が入り乱れてる、って感じかな?」 アキ・ニエメラはグザヴィエの部屋を捜索しているところだった。 神楽を昏倒させた『何か』がいるのは事実なので、無意識に能力を発動させて行動不能に陥らないよう、制御用ピアスを増やしている。 「『何か』は確かに存在するとして……事件自体は理屈のあるトリックみたいに思えるんだよなぁ」 梁を見上げる。 「調べてみるか」 念動が使えればあちこち調べることも簡単なのだが、能力を発動させて神楽のように昏倒させられてしまったら何もできないので自重する。 「しかし、えらい散らかりようだな。なんでこんなにキャンバスが散乱してんだ? 誰かと激しく争った、ってことなのか、それとも……?」 まさに『引っ繰り返った』と表現するのが相応しい室内を調査していると、 「……やれやれ」 期待外れといった呼気とともに、ムジカ・アンジェロと由良 久秀がやってくる。 「どうした?」 「いや……何でもない。ただ、『芸術家』とは自称するだけでは無意味だな、と」 それで事情を察してアキは苦笑する。 アキはアート方面に造詣が深いわけではないが、ムジカの持つ空気感が『そちら側』の人間のものであると判らないほど鈍くもない。 「まあ、ラクして人さまにたかろうと思ったら、自称芸術家はお手軽な職業だよな。インスピレーションってやつは、降りて来いって命じて降りてくるもんじゃねぇって聞くし、『今は無理』って適当にあしらえばいいんだもんな。そういや、あんたはどうなんだ?」 アキが水を向けると、ムジカは少し考えるそぶりを見せ、 「詞(ことば)も旋律も、世界のすべてから湧き出でる。降りて来い、と思ったことはないな、それはいつでもおれの傍らにあるから」 水晶のごとき透徹を微笑みに載せてそれだけ言った。 「なるほど。あんたが、世の中に美しいものを生み出す道理がなんとなく判った気がするよ」 「それは、どうも。……話は変わるけど、どうだった?」 問われ、アキは肩をすくめる。 話題の変換が急すぎる、とも言っていられない。 「どうも妙だな。あんたもそう思わないか?」 「ああ。誰かが魔法の力とやらを用いて関与した……とは、どうも思えない。思いたくない、と言うべきなのかもしれないが」 「はは、あんたも探偵気質の持ち主かい。だが……確かにそうだな。俺は今、精神感応の力を失っているが、それでも、祈りや願いのような何かを感じる気がする。そういうものを抱くのはヒトだ、魔法の何かじゃない」 「気が合うね。だとすると、『誰』が『なぜ』、『どうやって』ソレをなしたか、が問題になってくる」 「……それで」 ムジカの言を遮るように、由良がうっそりと声を上げる。 「何を見つけた?」 アキはしばし考え込み、それから辺りに散乱したキャンバスを集め始めた。 「あそこの棚」 彼の意図を察したムジカがアキの作業を手伝う。 「何が置いてあるんだと思う?」 棚は高い位置にあり、椅子にのぼったくらいでは届かない。 アキの問いにムジカはくすりと笑った。 「……財宝、とか?」 「ま、少なくとも、そう言われたら気になるよな」 特に、彼らのような輩ならば。という言葉は飲み込んで、ふたり同時に由良へと振り返る。 そのころには、ふたりの前にはキャンバスの山が出来ていた。階段状に積み上げてあるから、上り下りも楽々である。 由良は心底嫌そうな顔をした。 「なぜ俺に振る」 「グザヴィエに一番背格好が似てるから」 無論、断り切れるとは思っていないようで、渋々キャンバスの山を登る。 「どうだ?」 「かなり奥のほうに、何か置いてある……ん、ずいぶん重いな」 「へえ、ゴブレットか。なかなか趣のある品だな」 手渡されたそれを、ムジカはためつすがめつしていたが、 「これ、純金じゃないか?」 「餌に本物を使うか。さすがだな、」 彼の言葉を受け、言いかけたところで由良の動きが止まる。彼の顔の前に、いつの間にか輪にされた縄が現れていたからだ。由良が棚に気を取られている間に、アキが仕掛けたものであるらしい。 「なるほど、こういうことなんだろうな」 ムジカは納得顔だが、由良は仏頂面だ。 「……それで人の首を引っかけた挙げ句、キャンバスの山を蹴り崩すようなことはするなよ」 「ん? ああ、善処するわ、うん」 「善処じゃない、遵守だ」 自分の周囲にはこういうのしかいないのか、といった表情で溜息をつき、 「おい」 由良が梁を見上げて難しい顔をしている。 彼が見ているのは、ちょうど、グザヴィエがぶら下がっていた辺りだ。 「どうやら、その説は裏付けられそうだぞ」 「というと?」 「妙な擦れ跡がある」 「なるほど」 つまり。 「あの棚に財宝の一部が隠されていると耳打ちする。キャンバスを積み上げて足場にすればいいとそそのかす。当然、グザヴィエは喜々として乗っただろう。棚の奥には餌が置いてある」 「それを取ろうとグザヴィエが夢中になっている間に、首にそいつを引っかける。縄はしっかり張ってどこかに結んじまえば、腕力のない人間でも犯行は可能そうだな」 「彼が罠に気づいたときには、キャンバスの足場は蹴り崩されて、何もかもが後の祭り……といったところか。登ってみてどうだった、由良?」 「足場がいいとは言えなかった。こっそりサイズの小さいキャンバスでも挟み込んでおけば、バランスを崩させること自体はそう難しくなさそうだな」 問題は、誰がそれを行ったか、だ。 なにせ、グザヴィエは密室で死んでいたのだから。 「鍵は誰が?」 「聴いた話だと、本人が持ってたらしいぜ。ただ、普段は鍵をかけるようなタイプじゃなくて、妙だと思ったみてぇだ。発見者はメイドで、掃除をグザヴィエ本人に命じられて行ったのに鍵が閉まってたもんだから困り果てたんだってさ」 「結局、彼女は?」 「合鍵を使ったそうだ。合鍵は使用人たちの控室っていうのか、まあ皆が集まる場所に置かれてる。ただ、事件前後は、必ず誰かの目があって、そいつが持ち出された形跡はなかったみてぇだな。窓も全部施錠されてたみてぇだし……つーてもこれ、本当に密室だったか、って話じゃねぇかな」 「……発見当時、メイド嬢はひどく取り乱していたというし」 グザヴィエを罠にかけ、首を吊らせる。 人が来るのを待つ。もしかしたら、グザヴィエが部屋の掃除を命じていたことを聞き知っての犯行かもしれない。 部屋に人が来る。施錠に訝しみつつ、メイドは合鍵を使って部屋に入る。そして、死体を発見する。 「メイド嬢は彼の死体を見つけたあと、室内を詳しく調べたか? おそらく、そんな余裕はなかっただろうな。彼女が人を呼ぶためにここを離れたのを見計らって、部屋から出て行けばいいだけの話だ」 都合のいいことに、『客』たちは使用人から嫌われている。用もないのに『客』の部屋に近づくものはいなかっただろうし、メイド嬢もおそらく、渋々やってきたに違いない。 城は、規模に反して住人が少ない。それぞれの居室にもかなりの距離がある。 「『兄』が本当にいて、彼が『虫』を殺して回っているんだとしたら、こんなに都合のいい状況もねぇだろ」 「次は……クリストフの焼死か」 ムジカが、黒焦げと言っていいほど無残な様相を呈している小部屋へと歩み寄る。 「特に痕跡は残っていない、か……まあ、あれだけ激しく燃えてしまえばな。腐った臭い……となると、硫黄の蒸発燃焼か」 「俺は腐敗ガスを推してぇな。沼地なんかでよく発生するだろ、ああいうの」 「なら、この辺りに火山ないしは温泉のようなものがないか、古くて淀んだ沼がないか、調査だな」 ひとまず、この部屋で得られる情報はすべて手にしたと言っていい。 次の調査に、と移動しようとしたところで、由良が、じっと部屋を見つめているのに気付いたのはムジカだった。 「どうした?」 問われ、彼は首を振る。 「いや。殺害方法は人間のものなのに、あつらえられたような状況と、神楽のあの様子からは間違いなく人間以外の何かを感じるのが、妙というか……嫌な予感がする、と思っただけだ」 「嫌な予感?」 「――……まだ死ぬぞ、たぶん」 * シーアールシー ゼロと蓮見沢 理比古、黒葛 小夜、そしてウーヴェの四人は、サクレオーブとともに書庫へ来ていた。 「すごいのです。ここは、本の森のようなのです」 書庫といっても、それはほとんど図書館と同じ規模があり、訊けば、蔵書数は十万を下らないだろうとのことだった。貴重な研究書なども多々あって、わざわざ、遠方からそれらを借り受けに来るものも少なくないのだという。 管理が巧みだからだろう、本はどれも美しく保たれている。 「わあ、きれい」 小夜が、幼いながらも可愛らしく整った顔立ちをほころばせる。 彼女が開いたそれは、この地方の伝説や神話を集めた大型本で、鮮やかな色遣いで挿絵が描かれている。 「きれいなお城やお庭、ちょうちょが見られてうれしいなって思ってたらあんな事件が起きちゃって、ざんねんだったけど……」 「残念な出来事のあとには、佳いことが起きるものなのです。少なくとも、まどろむものであるゼロにとって、永眠するものは等しく尊いのです。死者の安寧を願うばかりなのです」 「うん。それに、ムジカさんや由良先生がいるから、あんまりこわくはないのよ。きっと、みんなが何とかしてくれる、って思うもの」 「その通りなのです。あとは、『虫』さんたちに、他者の安寧を奪わない生き方への変更を推奨したいところなのです」 今回の事件は、『招かれざる客』たちの強欲、城主の親切心につけこんだ傲慢に寄って引き起こされたものと言っていい。そう考えると、世のすべてに安寧が満ちればいいと願うゼロとしては、ぜひとも彼らに改心してもらいたいところだ。 「奥方さんに質問なのです」 サクレオーブは、ジスランの容体が安定したことで落ち着きを取り戻していた。先ほどの悲嘆は影を潜め、今は事態の収束をはかるため、ロストナンバーたちの要請にあれこれと応えてくれている。 「あら、何かしら」 「奥方さんは、このお城を建てた一族の出身なのです? お城を建てたのは、妖精女王なのです?」 問いかけると、奥方はぱちぱちと瞬きをし、微苦笑とともに頷いた。 「やはり、そうなのです。それはやはり、神秘的な……」 「と、いっても、そう伝わっている、という程度なのだけれど」 ゼロの予測は当たったが、想像とは少し状況が違うようだった。 サクレオーブはパピヨン=フェイ地方の南端で生を受けたという。位置で言えば、ここからは正反対になる。 「二百年ほど前の『災厄の日』、一族終焉の日に、カオス=アルカナ城から遠く落ち延びていった『生き残り』が我が家の祖だと家伝にはあるわ。きっと、故郷を想うことが辛いから、なるべく遠くへ離れたんでしょうね」 「じゃあ、奥方は、どうしてここに?」 植物の図鑑だろう、驚くほど精緻に描き込まれた大型の本を指先でめくりながらウーヴェが問う。 「あなたはどう思われるかしら?」 「そりゃあ、そこに愛があればいいなって思うよ。僕は今、だんなさんにシンパシーを感じているところだから」 朴訥で真摯な、直截な言葉は、奥方の唇に、芸術的なほど美しい笑みを浮かべさせた。そしてその唇が、不思議な事実を紡ぎ出す。 「ジュールレーヴの生んだ五十対百名の子どもたちは、名前も性別も、すべてが伝わっているのに、なぜか父親の記載がないの」 「……もしかして、妖精女王は両性具有者だった? 五十対百名の子どもを、ひとりで?」 「おそらく。だけど、わたしの一族には、男女の祖の名前が残っている」 「それは……つまり」 「祖は、伝説には残っていない、妖精女王の百一番目の子どもであったと伝わっているわ。そして、その時、ジュールレーヴには夫がいたとも」 「ああ……」 ウーヴェは、まるで少年のように満足げな笑みを浮かべた。 「そこにはきっと、愛があったんだろうねぇ。ふたりで生み出すことを知った妖精女王は、幸せだったに違いない」 「ええ。だから、我が家に伝わる言葉はとても簡単なの。『心のままに愛せ』、妖精女王の、最期の言葉と伝えられているわ」 「最期の? 女王はもう亡くなっているということ? 神に均しい力を持つ存在が?」 ウーヴェが小首をかしげると、 「……どうも、その辺りに理由がありそうだね」 貪るように本を読んでいた理比古が顔を上げた。 彼の傍らには、すでに読み終えた本が十数冊、積み上げられている。そのどれもが、パピヨン=フェイ地方の伝承に関する書籍だった。 「理由?」 「うん。女王の一族の衰退とか、滅亡に関する」 そこへメイドが奥方を呼びに来る。 夕飯の采配に関する指示を求めに来たらしい。 彼女が、ここにあるものは自由に見てもらって構わない、という旨を言い残して去ると、書庫には沈黙が落ちた。 「ゼロは、あの姉弟が亡くなったとされている上のきょうだい本人ではないかという疑いを持っているのです」 ややあって、ゼロが口を開く。と、三つの視線が彼女に集中した。 「生まれたときから錬金術的な両性具有者だった『彼』が何らかの事情で命を落とした際、魔術的な手段などを用いて生み直され、その時に男と女に分かたれたのではないか、と思っているのです」 「そういえば、妖精女王は黄金も自由につくりだした、って言ってたっけ。黄金をつくりだすのは、『れんきんじゅつし』っていうんだって、本で読んだことがあるわ」 小夜が納得したように頷く。理比古はそれらを手元のメモに書きつけ、思案する表情を見せた。 「ゼロさんは、『兄』は実存、ないしは存命だと?」 「はいなのです。もしくは、妖精の血が強いなどの理由で、人ではなく妖精として育てられることになった……という可能性も捨てきれないのです。ということで、お兄さんが生きていると仮定して推測すると、お名前は『神聖な夜明け』、サクレドーン、なのです?」 「いや……サクレオーブがそもそも神聖な暁、つまり夜明けを意味する名前だからね。この地方と壱番世界の言葉がどのくらいリンクしているのか判らないけど、ここで聞かれる人名の大半は、壱番世界でいうところのフランス語に即しているし」 語学が堪能だという理比古は、黒揚羽城の住人の名前を逐一書き出し、でもそうすると、この名前は……などと、何やら考えているようだ。 「そういえば、はっきりした答えを聞きそびれちゃったけど……奥方は、どうしてここに来たのかな」 「ウーヴェさんはどう思う?」 理比古に問われて、ウーヴェはまた無邪気な笑みを見せた。 「『愛せ』ってご先祖様が言い残してるんでしょ? だったら、当然、誰かを愛したいって思うよねぇ?」 「カオス=アルカナ城の伝承はパピヨン=フェイ地方全域に鳴り響いているのです。奥方が祖の言葉を好意的に受け止めて成長したのなら、この場所への憧れを持っていてもおかしなことではないのです」 「それに、ちいさなころからお話を聞いて育ったら、やっぱり一度くらいここに来てみたい、お城を見てみたい、って思うんじゃないかしら」 「――その結果、ジスランさんと奥方は出会った。俺も、ふたりの間に通うものが愛や絆であることは疑いようがないと思う。だけど」 静かに続けられてきた営みは、無粋な闖入者によって乱されつつある。 「誰かを想う気持ちが事件を引き起こすのは哀しいね」 理比古の、少し薄い唇に、淡い哀しみの笑みが浮かぶ。それから彼は書物をぱらぱらとめくり、天井を見上げた。この書庫にすらシンボルがある。天井には、月と太陽が、見事な筆致で描かれている。 「混沌、アルカナ、木……何だってここはこんなに象徴的なんだろう?」 「というか、妖精女王とは結局のところ『何』なんだろうねぇ? 妖精という表現ではあるけれど、僕には、フェアリィ的な小さきものではなくて、エルフのような上位種を髣髴とさせるんだけど」 「あっ、アーサー王の伝説というので、わたし、読んだことがあるわ。フェイというのは、強い力を持つ、きれいな女の人なんだって」 「ああ、モルガン・ル・フェイだね」 「そう! アーサー王をたすけたり困らせたり、だけど最後には、傷ついた王様をやさしくむかえにきてくれるのよ」 壱番世界とヴォロスのいち地方の伝承が何もかも同じということはないだろうが、数多くのシンボルが集うこの地において、そのイメージは意味を持つはずだ。 「その女王が司るカオス=アルカナがなぜ衰退したか、が知りたいな。そこに、今回の事件の根っこがあるような気がするから」 言って、理比古は再び本の物色を始め、ゼロと小夜も関連のありそうな本を探し始める。 ウーヴェは「こっちのほうが面白そうだから」とこの地方に焦点を当てた博物図鑑を読み始め、そこへ「もっと資料がほしい」とやってきたシューラも加わって、しばし大読書会が催されることとなるのだった。 * 彼は必死で走っていた。 迫り来るそれから、死にもの狂いで逃げていた。 「やめろ……来るな、来ないでくれ!」 恐怖のあまり歯がガチガチと鳴る。 やかましいほどの雨音が支配する森の中、巨大な獣の呼気が耳元をかすめてゆく。 「許してくれ、もうしない、本当だ……許して、助けてくれ!」 哀願の声は、しかし、 「お願いだ、何でもする、何でも……っぎゃ、ぐ、ぎゃああああああッ!」 唐突に断末魔へと取って代わられる。 何かが倒れる音、ごきごきという不気味な破砕音。 「助けてくれ、助けて、いやだ……死にたくない、痛い、死にたくな、」 朦朧とした声に、何かが齧られる、咀嚼される音と、獣の唸り声が重なった。獣の声を聴いた者がいたら、そこに喜悦が含まれていたと証言しただろう。 「た、す、け……ぐぎっ」 ごきん、という音と、ひねりつぶされるような奇妙な呼気とともに声が途切れる。 それから、くすくすという笑い声。 「今さら、遅いよ。さよなら……おやすみなさい、デュドネおじさん」 軽やかに笑い、声の主は踵を返す。 獣の気配はすでになく、無数の蝶が周囲を舞うのみだ。 3.凶兆のあぎと 皆が声を失ってそれを見下ろしていた。 「……夜のうちに襲われたみたいだね」 医師免許を有するという理比古が、死体を検分して結論づける。 「俺は監察医じゃないから、確かなことは言えないけど」 「けど?」 ムジカが問うと、理比古は息をひとつ吐いた。 「生きたまま喰われたんだと思う」 その言葉に、何名かは酢を呑んだような顔をする。 手袋をはずし、手を拭いつつ、理比古は城に隣接する林を指さした。 「たぶん、あっちからこう逃げてきて、追いつかれて、まずは脚、それから腕、次に腹かな。最後に咽喉を食い千切られてる。食べることが目的じゃなくて、恐怖を与えて殺すための行為だったのかも」 「と、いうことは……猛獣が空腹を満たすために獲物を狩ったのではなく?」 「うん、ムジカさん」 「なら、それを指示した人間がいるわけだ」 由良が口を挟む。 「明確な殺意を持って、『獣』をデュドネにけしかけた。そう見て間違いなさそうだな」 元騎士の男、デュドネの骸は無残なありさまだった。 よほどの恐怖、苦痛であったらしく、生前はそれなりに威厳のあった顔は、醜く、すさまじい形相に歪んでいる。死ねば皆仏様だから、と、その顔に、理比古が白い布をかけてやる。 ムジカはそれを見ながら頷いた。 「そうだろうな。野生の獣は、少なくとも遊ぶためだけに生き物を嬲り殺しはしない。彼らは、飽食に踊る人間よりよほど行儀がいいし、弁えている」 「だとすると、一連の殺人犯が何らかの獣を飼いならして、と考えるのが妥当か。人間に飼われている獣がどこかから逃げ出して凶暴化した、ということも考えられなくはないが」 「あんた自身がそれを信じちゃいないだろう、由良。『どこかから逃げ出した』獣が迷い込むには、ここと民家は離れすぎてる」 由良とムジカの会話に、理比古が口を挟んだ。 「それに、たぶん、普通の家でこの動物を飼うのは大変だと思うんだ」 「というと?」 理比古の視線が骸へと向かう。 「歯型からしてライオンより大きな猛獣だよ。肩のあたり、骨が折れてるんだけど、これ、前脚で押さえつけたからじゃないかな。粉々ってくらいの折れ方から見るに、相当な力の持ち主だと思うよ」 「……ぞっとしねぇな」 アキが顔をしかめた。 「要するに、この城以外じゃ飼育は難しいってことだろ? つまりそれ、『兄』が使役してるとかそういうことじゃねぇのか? あのレリーフのこともあるし、ただの獣じゃねぇ確率も高い。特殊能力を封じられた状態で、そいつと正面切って戦うのは、出来れば遠慮してぇが」 「別に、戦いになるとは限らないんじゃないのか? デュドネにしても、たまたま、外に出ていたから、という理由で標的になったのかもしれない」 由良が言うものの、彼自身、その説を鵜呑みにしている様子はない。 「それでも、『獣』に襲わせる可能性は否定しきれないんじゃないかな」 理比古は思案顔だ。 「問題は、なぜ彼が選ばれたか、かな……って。被害者がデュドネさんだったってことには意味があると思うんだ」 「どういうことだ、蓮見沢さん」 「うん。あのとき、デュドネさんたち、おかしなことを言っていたよね」 「おかしなこと?」 「四人の死者に皆が混乱しているうちに金槌で、……って」 理比古が記憶を探るように言うと、 「……とすると、ジスランを襲ったのはあいつらか。なるほど、確かに危ないな」 ムジカが肩をすくめる。 「さっき、榊さんに会ったんだけど、彼も同じことを言ってた。今ごろ、デュドネさんの部屋を捜索してると思う」 「と、すると」 城を見上げ、由良がうっそりとつぶやく。 「次に狙われるのは、ユベールとナゼール、ということだな」 「少なくとも、一刻を争うのはそのふたりってことか」 ムジカが頷くと、アキは深々とため息をついた。 「……とりあえず、それとなく様子見とくわ」 戦場こそ日常、という強化増幅兵士は、若干の貧乏くじを引きつつ、静まり返った城を見上げるのだった。 * 「そっか、サヨにも兄さんがいるんだねえ」 「兄さんはやさしい? すてきな人?」 いっしょに遊びたい、と小夜がいうと、双子は嬉しそうにその誘いに乗った。 三人は今、双子の共通の遊び部屋だという場所で、ブロックを積んだり、人形で遊んだり、絵本を読んだりしている。不思議な力の持ち主たちだと聞いていたが、こうしていっしょに遊んでいても、別段違和感は覚えない。 「うん、とってもやさしくて、かっこいいお兄ちゃんだよ。こんなことになっちゃって、心配してるかもしれないけど……ねえ、ふたりのお兄ちゃんは、どんな人?」 尋ねると、双子はまったく同じ顔を見合わせて、ふふっと笑った。 「家族思いだよ。お父さんとお母さんが大好きで、ふたりが仲よくしているところを見るのが好きなんだって」 「悪戯好きなところもあるよね。あと、怒らせると、すごくおっかない」 「だけど、本当はサヨのお兄さんといっしょ。とってもやさしいんだ。いつだって、家族のことを想ってくれてる」 双子の言葉は、姿の見えない、実存が定かではない『兄』に対するものとは思えないほどのリアリティを持っていた。 「お兄ちゃん……」 ぽつり、とつぶやきがこぼれる。 双子が首をかしげたのへ、首を振って微笑む。 「どうしたの、サヨ?」 「ん、ううん、なんでもない」 幼い小夜が死体を見せられることはなかったが、先ほど、デュドネが殺されたという話を聞いた。それもまた『兄』の仕業だとして、きっと彼は、ただ家族を護りたいのだろうと感じるのだ。 同時に、己の幸いのために心を砕いてくれる実兄の笑顔が脳裏をよぎり、 「わたしにも、何か出来ないかな……」 小夜はまた、小さくつぶやいていた。 彼女にはひとつ、考えていることがあったのだ。 それはきっと、この家のためになるだろうという思いもある。 そこへ、老執事のルノーが、ジスランの意識が戻った旨を知らせに来る。 まだ話せるほどではないが、目を開けて、奥方に水を飲ませてもらい、また彼女の手から果物を食べたという。 それを聞いて、小夜はすっくと立ち上がった。 「どしたの、サヨ?」 むしろ双子のほうが、父親のところへ飛んで行かなくてもいいのか、というレベルで落ち着いている。 「わたし……ジスランさんと、お話をしてくる!」 そのまま、返事を待たず、パッと走り出す。 「あっ、サヨ!」 「あんまり急に走って転ばないようにね!」 背後から、彼女を気遣う言葉が飛んでくる。 小夜はキュッと唇を引き結んだ。 (おはなしは、ハッピーエンドが一番だ、ってお兄ちゃんも言ってた) そのために、自分もまた物語の紡ぎ手の一員として何かがしたい。 その一心で、小夜は走る。 * 「やっぱり、そうか」 榊は、デュドネの部屋の調査を進めていた。 出てきたのは、血のついた凶器と衣装、混乱に乗じてジスランの部屋から持ち出したものと思しき数枚の書類。書類は、デュドネからジスランへの、借金に関するもののようだ。 何らかの企みを思わせる、隠喩暗喩に満ちたメモ書きも見つかった。 「……なるほど」 榊はうっそりと笑う。 『兄』の所在こそ確かめられなかったが、彼の予測は的を射ていた。 おそらくデュドネたちは、ジスランを殺し、その罪を奥方と弟に着せて追放し、双子の後見人に収まるつもりでいたのだ。そうすれば、ここの財産を好き勝手に出来る、と踏んでいたのだろう。 『兄』は、それらを監視し続けていた。 彼が『虫』たちを監視していたと判るのは、クリストフにせよグザヴィエにせよ、転落したふたりにせよ、それぞれの行動を把握していなければ実行は難しいからだ。 デュドネたちの計画がいよいよ行われると知って、『兄』もまた行動を起こす。 どちらにせよ排除対象であった『虫』を次々に殺害し、その隙にデュドネたちが計画を実行に移すのを確認、次なる排除行動へ移ったのだろう。 「となると、次はあいつらだな」 『兄』の抹殺対象としては最有力候補に挙がっているだろうふたりは、現在、アキたちによってそれとなく監視されている。とはいえ、城は広く、『兄』は神出鬼没、そして『虫』たちは勝手気ままと来ているから、すべてを監視もしくは護衛することは非常に難しいだろうが。 「ま、その辺はあいつらの運ってことだよな。俺はどっちでもいいし」 デュドネの部屋から出て、『ベースキャンプ』へ戻る道すがら、奥方と川原 撫子が立ち話をしているところへ行き逢った。 「あの、ぶしつけな質問なんですがぁ」 「なにかしら、撫子さん」 「ええ、あの……ドミニクさんって、サクレオーブさんの長男さんじゃない、ですよねぇ……?」 撫子の問いに、奥方はぱちぱちと瞬きをし、それからくすくすと笑った。 「ドミニクは今年で四十二歳、私は今年で三十七歳。計算は、合わないわね」 「あ、ですよねぇ……あと、もうひとつ。このお城に地下室ってありますかぁ?」 「ええ、もちろん。葡萄酒や食材、薬剤の保管庫がたくさんあるわ」 「そこに、誰かが隠れている、なんてことは……」 「そうね……不可能ではないと思うけれど、そんな面倒なことをするより、どこか空いている部屋に隠れたほうが簡単かもしれないわね。広すぎて、把握が追い付いていない部屋があるくらいだから」 ジスランが目覚めたのもあって、奥方は活力を取り戻していた。 むしろ、先刻よりも若々しく見えるくらいだ。 喜びというのは、ひとを美しく見せるものであるらしい、と、榊は妙に納得する。 「なるほど……ありがとうございましたぁ。うーん、ますます判らなくなってきましたねぇ……」 奥方と別れた撫子が、ベースキャンプではないどこかへ向かおうとしているのを見て、榊はつい声をかけた。 「どうした、どっか行くのか」 「あ、はいぃ。双子ちゃんに、何があっても自分の身は自分で護れるねって確認しに行こうかと思って」 「いや……その必要はないと思うぜ?」 「そうですかぁ?」 「『兄』が狙ってんのは『虫』だけだ。家族や使用人、害をなさねぇ客が襲われることはねぇだろ。もちろん、用心するに越したことはねーけどよ」 榊の説明に、撫子は頷き、じゃあ、と踵を返した。 問えば、『兄』を探しに、空き部屋を回ってみるという。 『兄』が姿を変えて潜伏している可能性は、榊自身捨てきれていなかったため、彼もまたそれに付き合うことになった。 * バルコニーの向かい側、広い廊下から、奥方が空を見つめている。 ジスランが目を覚ましたからだろう、その唇には穏やかな微笑みが浮かんでいた。 「……」 由良は、そんな彼女を、無言で見つめていた。 ムジカや理比古、アキとともに、男女を転落させたトリックを解明すべく周辺を調べていたのだが、サクレオーブの姿が見えると、つい目で追ってしまう。 陽光に奥方の髪が輝いている。 白皙は、陽を受けてなお――さらに、というべきか――透けるようだ。 正体が何であれ、美しい、と思う。 彼女に、惹かれるものを感じている自覚もある。 それは、彼女とつきあいたいとか、男女の仲になりたいとか、そういう生々しい感情を含んではいない。ただ、由良の好みが、清楚で品のいい女性である、というだけだ。 奥方が長い黒髪をなびかせてその場を立ち去るのを見送って、やはり美しい、と胸中に思った時、 「知ってる。こういうの、『むっつり』って言うんだよね」 「そっか……由良のおじさんは『むっつり』なんだ?」 背後からくすくすという笑い声がして、由良は文字通り飛び上がりそうになった。 恐る恐る――しかし怖がっているようには見えないように、苦労して――振り向けば、そこには、案の定、彼岸此岸双方を交互に見ているとしか思えない、とにかく由良には『気味が悪い』としか思えない双子が静かに佇んでいる。 何もかもがそっくり同じ双子の、光の加減で金にも見える眼が、差し込む光を反射してきらりと輝く。 「ふふふ、薄気味悪いって顔してるね?」 「大丈夫、心配しなくてもいいよ。あなたもまた、『虫』ではないから」 由良は眉をひそめる。 ――腕力で負ける気はしない。 おそらく、このふたりを縊り殺すなど、容易い仕事だろうと思う。 しかし、本能のようなものが、激烈な危険を告げるのだ。曰く、「このふたりに手を出せば命はない」と。 「何のことだ」 だから、由良は、それだけ言うにとどめた。 双子は答えず、くすくすと笑い、やがてふいと踵を返した。 軽やかに笑いながら走り去っていくふたりの脇を抜けて、ムジカたちがこちらへやってくるのが見え、由良は無性にホッとした。ムジカを見てホッとするなぞ、天変地異の前触れのようですらある。 「どうした、由良」 「……何がだ」 「真っ青だぞ」 ムジカに指摘され、由良は苦虫を噛み潰したような顔をした。無意識にあの双子に威圧されていたのかと思うと忌々しい。 「何でもない。それより、そっちは何か判ったのか」 強引な話題転換にムジカは肩をすくめたが、由良が踏み込まれたくないところへ無理やり触れようとする男ではないので、それ以上は追及して来なかった。 「薬剤の保管庫に硫黄があった。ごく最近、持ち出された跡も見つけた」 「近くに、古い沼もあったぜ。ガスを採取したような痕跡もある」 「……念には念を、か?」 「だろうな。だからこそ、あそこまで見事に燃えたのかも。そっちは?」 「由良さん、あったよ!」 不意に、上から声がして、理比古が顔を覗かせる。 「縄みたいな繊維と、それに擦られて出来たような跡がある。やっぱり、あらかじめ仕込まれていた縄に引っかけられて落とされた、っていうのが正しいんじゃないかな。あの時、ふたりの足元をかすめていった影、あれが仕掛けだったんだよ、きっと。由良さん、ロープっぽいもの、その辺に落ちてない? もう回収されちゃってるかな?」 理比古に言われ、引き続き周辺を探してみるものの、それらしきものはない。 「そういえば、女は溺死だったな……」 ぼそりとつぶやいたら、三人の視線が由良へ集中した。 由良はぼやきながら木切れを手に取る。近場を探ってみたが、特に有用と思われるものは見つからなかった。 「わりと浅そうだけど?」 他人事極まりないムジカの言に深々とため息をつき、いろいろと諦めて靴を脱ぐと泉へ踏み込む。それほど冷たくもなく、水が汚れてもいないのが不幸中の幸いか。 「引きずられたか、あっちに行けば助かるとそそのかされたか……」 ムジカは、辺りに足跡や引きずった、ないしは這いずった跡がないかを確認している。 「……あった」 由良の手が、泉の隅に沈められたロープを探し当てるのは、そこから数分後のことだ。 * 別の動きがあったのは、午後の、お茶の時間のあとだった。 ベースキャンプを、メイドのひとりが訪ねてきたのだ。 「あの……もしかしたら、何かの勘違いかもしれないのですが」 メイドはひどく困惑しているようだった。 「グザヴィエ様がお亡くなりになったと知らせがあったとき、わたくしはジジュルネさまとトリニュイさまの、お三時のお世話をしておりました」 対応したゼロが、小首をかしげる。 「ゼロもそのときごいっしょさせてもらったので知っているのです。だけど、お姉さんは、そこに何かの矛盾を感じられたのです?」 「はい、それが……ちょうど同じ時刻に、ビネが見ているんです。クリストフさまに、グザヴィエさまの死がただの事故や自死ではないと耳打ちする、どちらかのお姿を」 メイドは途方に暮れたような表情をしている。 「これはいったい、どういうことなのでしょうか。このお城で、いったい何が起きているのでしょうか」 誰にも、その確たる答えを出すことはできなかったが、ひとつの方向へ向けて、とある可能性が固まりつつあったのもまた、事実だった。 4.解の夜 「ひどいな……」 部屋には、むせ返るような血臭が満ちている。 「蓮見沢さん、大丈夫ですかぁ? 何か判りました?」 「ん? うん、こういうのには慣れてるから」 首を失ったナゼールの骸が発見されたのは、その日の夜のことだった。 ずっと部屋にこもっていて、夕飯にも姿を見せない彼を訝しみ、ゼロと撫子が訪ねたところ、彼はすでに物言わぬ死体となっていたのだ。 「ああ、やっぱり」 現在、城にはぴりりとした緊張が走っている。 アキや榊、ウーヴェなど、戦いに特化した人々は、『客』の護衛や周囲の警戒に追われているのだが、この殺されかたを見れば、誰でも納得するだろう。 「彼も、生きたまま、だ」 ナゼールの遺体に残る傷痕は、見るも無残なものだった。 「特別大きな肉食獣が、ナゼールさんの頭を丸ごと口に含んで、首のところでばちん! ってことじゃないかな」 ぎざぎざとした歯、鋭い牙に咥えられ、振り回され叩きつけられて食い千切られたからだろう、ナゼールの骸はあちこちがひしゃげ、千切れかけているし、理比古曰く、骨も粉々と言っていいほど砕けているのだそうだ。 首を引き千切られたことで迸ったおびただしい血で、辺りは赤黒く染まっている。 「部屋に鍵はかかっていなかったのです。ということは、誰にでも犯行は可能なのです。でも、ライオンよりも大きな動物が城内をウロウロしていたら、さすがに気づくような気もするのです」 「ですよねぇ。目撃証言は今のところ一件もないですしぃ、これはどういうことなんですかねぇ?」 さまざまな修羅場をくぐってきているのがロストナンバーである。撫子もゼロも特に動じてはいない。 ただ、疑念とやるせない思いがあるだけだ。 「このまま、お兄ちゃんにすべての『虫』を殺させるようなことになっちゃったら、お兄ちゃんが壊れ切っちゃう気がして……どうしたらいいんでしょうねぇ……?」 ベースキャンプへ戻ると、アキを除く皆が一堂に会していた。 情報を交換し合い、対策を練る。 そんな中、ムジカとウーヴェが、メモを広げて議論している。理比古もその輪に加わった。 「名前には古来から力が宿る。そしてまた、名前には意味がある。『兄』の実存を疑わないとして、その名を呼ぶことが出来れば」 「うん、何か、見えてくるものがあるだろうねぇ。支配できる存在だとは思わないけれど、少なくとも有利に運べるはずだよ」 「双子の名前には法則性があるよね。その法則性は、『兄』にもあてはめられると考えて問題ないと思う」 メモに、文字が書きつけられてゆく。 「サクレオーブは『神聖な夜明け』。ジジュルネは『二の昼』、トリニュイは『三の夜』。とすれば」 「『一の夕』か『四の月光』?」 「いや、朝じゃないかなぁ?」 「だが、朝は奥方じゃないか?」 「夜明けと朝は違うよ。それに、お兄さんなわけだから」 「――なるほど」 恐ろしい速さで、真実が組み立てられてゆく。 そこから更に、議論は女王と『獣』の正体へと移る。 「鷲、火とかげ、魚、ガマガエル。それぞれが、空気(風)・火・水・土を表しているとして」 「カドゥケウスの杖に似たあれは、錬金術に深いかかわりを持つヘルメスないしはメルクリウスの暗示だよね。それはすなわち、『神の絶対的な叡智』だ」 「つまり、『獣』とは世界を構成する要素っていうことになる、か。となるとそれに傅かれるあれは……おれには、これまでに集められたシンボルの中で、ひとつ思い当たるものがあるんだ」 「ああ……俺も、それに思い至ったところだよ」 「待て、何であんたたちはそんなに詳しいんだ」 「ん? いや、自前の知識だけど?」 「俺は本で読んだことがあるから」 ムジカも理比古もあっけらかんと言うが、由良には信じ難いことであったらしく、 「……あんたたち、ちょっとおかしいんじゃないのか」 胡乱な眼を向けられ、言外に変人扱いされて、ムジカと理比古は顔を見合わせる。 「そうか?」 「そんなことないと思うけどなあ?」 ふたりが同時に、同じ角度で首を傾げたときだった。 「ぎゃあああああああ!」 誰かの、断末魔の悲鳴が響き渡ったのは。 否、それが誰かなど、今さら確認する必要もない。 「ユベールか」 ムジカが飛び出す。 他の面子もそのあとを追った。 声は、一階の大ホールから聴こえるようだ。 「……おあつらえ向きだな」 ムジカの唇が、芸術的な弧を描く。 由良が、それをじっと見ている。ある種の期待を込めて。 * 大ホールには人だかりが出来ていた。 奥方、ドミニク、双子、老執事、使用人たち、そして『招かれざる客』たち。人々は、ホールの真ん中でのた打ち回るユベールを遠巻きに見つめている。といっても、ユベールは、怪我をしているわけではないようだった。ただ、恐怖という、内面から責め立てるものに耐え切れず、恐慌を来しているだけと知れる。 「落ち着け。恐れに我を忘れんな、それはあんたを却って傷つけるぞ」 アキが声をかけるものの、当人に聞こえているかどうかは判らない。 「違う、違うんだ。僕が悪いんじゃない……僕のせいじゃない。あれは全部デュドネたちがやったことで、僕は巻き込まれただけだ。そう、僕は被害者なんだ……!」 ホールの真ん中で無様に転がり、ユベールは、すべての責任を死者に押し付け、『何もなかった』ことにして耳を塞ごうとしている。 すでに真相の大半を理解しているロストナンバーたちにとっては、見苦しい以外の何ものでもなく、シューラが意味深な笑みを浮かべ、榊は舌打ちをし、小夜は哀しい顔をした。 ――どこかで、彼らとは別の、怒りの炎が立ちのぼったような気がした。 そして、怒りが殺意となって膨れ上がる――それが激烈なかたちをとり、『虫』を襲うよりも、 「待って」 理比古の静かな声が響くほうが早かった。 「怒りはよく判る。だけど……殺せばすべてが解決するわけじゃない。だから、話を聞いて」 そこで一拍の間があって、 「――モノマタン」 理比古の唇が、その名を紡ぎ出す。 一瞬の沈黙ののち、 「あらら」 声は、場違いなほど明るく響いた。 「ばれちゃった?」 そう言って笑った人物、それは、 「ジジュルネ? トリニュイ? どっちだ……?」 まるで同一の存在であるかのように佇む、双子の片割れだった。 「あれっ、見つかっちゃったの? なんだ、仕方ないなあ」 不意に、素っ頓狂な声がして、もうひとりの子どもがホールへ駆け込んでくる。その姿もまた、先のふたりとまったく同じだった。 「うん、ジジュ。ごめんね」 声も、笑顔も、何もかもが同じだ。 「……まさか、三つ子?」 そう。 そう考えれば、合点がゆくのだ。 最初のふたりが落ちたとき、モノマタンはオラースの死を確認したのち、ファビエンヌを溺死させた。先んじて現場に駆け付けた双子のどちらかと入れ替わり、犯人の所在をうやむやにした。 グザヴィエに双子の片割れと錯覚させて部屋に入り込み、餌で釣って殺したのち、双子がやってくるのを待つ。双子の気まぐれぶり、神出鬼没ぶりは皆が知っているから、疑う者はいない。殺人現場に現れた双子の片割れは、部屋からこっそり抜け出して合流した、モノマタンだったのだろう。 「な……何なんだ、お前は……!?」 ユベールが、『虫』と呼ばれた人々が、びくびくとモノマタンを見つめる。華奢で美しい存在に、すっかり呑まれてしまっているようだ。 「それはきっと、その人たちのほうがよく判っているのじゃないかな」 モノマタンの双眸が、ムジカを見る。 ムジカは肩をすくめた。 「賢者の石と同等の力を持つアンドロギュヌス。――おそらくは、妖精女王と同一の」 端的な答えに、軽やかな拍手が響いた。 「正解。『僕/私』は、太古の昔に竜刻がつくりあげたモノのひとつ。その意識を継ぐ者だ」 モノマタンの言葉にも、奥方は身じろぎひとつしない。ただ、まっすぐに、三人目の我が子を見つめている。 「知っていたのか?」 「ええ」 双子『は』吉兆、そう表現した奥方の、微苦笑の意味を理解する。 「双子が吉兆なら……三つ子は?」 誰かが問うと、 「きっと、わたしが彼を愛しすぎたしるし」 答えにならない答えが返った。 だが、それは、相応しいようでもあった。 「わたしの一族は、わたしを遺して滅んだの。わたしももう死んでしまおうと思って、だけど一度だけ故郷が見たくて、ここへ来た」 そこで彼女はジスランに出会ったのだ。 ジスランが彼女に惹かれたように、彼女もまたジスランに惹かれた。 「彼がわたしを愛してくれたとき、子どもが生まれたとき、わたし、本当に嬉しかった。わたしにも愛するものができた、って」 しかし、三つ子のひとりは、生まれて間もなく、両親の、そして老執事の前から、不意に掻き消えたのだという。 「それで判ったわ。この子が何者なのか。わたしの血の中に、女王の力と魂が受け継がれていたのだということも」 それでも、当時の夫妻が受けた衝撃は想像に難くない。 『兄』の出生、『死』が秘された理由も。 「ごめんね、お母さん。そして、いとし子の遠い遠い娘。『僕/私』は、人間としては生きられなかった。ただ……離れることもできなかった」 だから、『あちら』と『こちら』を行き来して、双子の中に紛れ込みながら、家族の営みを見つめていた。ゼロの推測もまた、あながち間違ってはいなかったのだ。 「ドミニクとのあれは?」 「……わたし、怖かったの。あまりにもあの人がいとしくて、好きすぎて、いつか、何か悪いことが起きるんじゃないかって。彼は、その相談に乗ってくれた。大丈夫だと言ってくれたのよ」 彼らの下衆な勘繰りを払拭できる内容ではなかったから言えなかった、とドミニクが苦笑する。 「『兄』さんが、家族の安寧のために心を砕く理由がよく判ったのです。ゼロは、それをとても尊いことだと思うのです」 ゼロの言葉に、モノマタンはにっこりと微笑んだ。 「そう。妖精女王は人間の男に恋をして、その結果災厄を招いてしまった。ヒトの持つ寿命や病を自分の中に取り込んでしまったんだ」 女王は力を失い、一族は離散を余儀なくされた。 「けれど女王に後悔はなかった。愛する夫と、大した力を持たない末っ子とともに生きるだけで幸せだった。――たとえ、自分が寿命で死ぬことになっても」 穏やかな微笑は、不意に、怒りと憎悪に取って代わられる。 「だからこそ!」 その背に漆黒の蝶翼が広がった。 それはあまりにも美しく、こんな場面だというのに皆が見惚れた。 しかし、次の瞬間、ざああっと音を立てて、翅は漆黒の『獣』へと変わる。 身の丈2mを軽く超える、大きく獰猛な『獣』の姿を目にして、誰かが悲鳴を上げた。 「だからこそ、お前たちを許しはしない。『僕/私』の大切なものたちから、幸いを奪おうなどという輩は!」 『獣』はユベールを狙っている。彼はみっともない悲鳴を上げ、失禁し、逃げ出そうとして果たせず、その場でばたばたともがくばかりだ。低く舌打ちをして、アキがユベールの前に立ちはだかる。 モノマタンが目を細めた。 「邪魔をするの? 敵うと思うの? 『僕/私』は、きみたちと敵対したくはないのだけど」 「そんでも、放ってはおけねぇだろうよ……!」 明らかな焦燥を滲ませつつも、アキに退くつもりはないようだ。 『獣』が、喉の奥で獰猛な唸り声を転がす。 腕に覚えのある人々も身構えざるを得なかったが、全員でかかったところで勝てるかどうかは判らない。 『獣』との睨み合いが続く中、 「待ってくれ!」 不意に、声が響いた。 同時に、ぴたり、と『獣』が動きを止める。 5.神聖な夜明け そこには、頭に包帯を巻かれたジスランの姿があった。 小夜がぱっと顔を輝かせ、彼の傍へと走り寄る。そして、その身体を支えた。 「私が悪かった」 彼は、長い身体を折り曲げるように頭を下げた。 「彼らには彼らの事情がある。そう思って目をつぶってきた。だが……それではいけないのだと、サヨが教えてくれた」 『蜘蛛のような』と称される怪異な容貌、落ちくぼんだ眼に、真摯な光が灯るのを確かに見た。 ――否、最初から彼は真摯で、親切な男だったではないか。 「事情は酌む。必要ならば援助もしよう。だが、無意味な甘えや周囲への傲慢には厳しく対処する。――そうだな、サヨ?」 「はい。ジスランさんの親切さに、わたしたちも助けてもらいました。だからそれを持ち続けてほしいと思うけれど、家族や愛する人をまもるために戦うこともだいじだと思うんです」 小夜の言葉に、『虫』たちが居心地の悪そうな顔をする。 「そっか。じゃあ……いいかな」 安堵の息を吐き、モノマタンは『獣』を手招きした。 それは甘えるように鳴いてばらりと解け、無数の蝶に姿を変えてから主の背へと戻り、すぐに消えた。 「ありがとう……ずっと、見守っていてくれただろう」 ジスランがモノマタンを見つめる。 妖精女王の再来は、その時ばかりは年相応の子どもの顔をして、はにかんだ笑みを見せた。 「もしかして、知ってたの? 『僕/私』が、時々入れ替わってるって」 「当然だ」 間髪を入れずにジスランは応えた。 「お前が何であれ、私たちの子に変わりはないのだから」 きっぱりとしたそれに、モノマタンは眼を大きく見開き、それから無邪気に笑み崩れた。 「うん……ありがとう、お父さん、お母さん。大好きだよ。ずっと見守ってる。――あなたたちを損なわせるすべてのものから護る」 ほんの一瞬、断罪者の顔で冷ややかに笑んで『虫』たちを見据えた――当然彼らは悲鳴を上げて硬直する羽目になった――モノマタンの身体が、ゆっくりと宙に溶けてゆく。 「またね、兄さん」 「また遊ぼうね」 子どもたちが無邪気に手を振る。 奥方が城主へと歩み寄り、そっと寄り添うのが見えた。 窓から、薄い光が差し込む。 太陽が、ゆっくりと昇ってくる。 そのころにはもう、モノマタンの姿は、どこにもなかった。 一連の事件はこうして幕を閉じた。 犯人が不在となったこと、『共犯者』が12歳の少年少女であったこと、客を含む人々がすべて口を噤み、今生きている人々の幸せを破壊してはいけないとロストナンバーたちが進言したこともあり、事件は秘されることとなった。 当主の宣言もあって、『虫』たちは態度をそれなりに改め、黒揚羽城は平穏を取り戻したという。 日常へと戻った黒揚羽城で、今日も、ジスランは苦虫を噛み潰した顔で研究に没頭し、奥方は微笑みとともに彼を支え、使用人たちは仕事に精を出し、双子は彼岸此岸を見つめて兄と交歓し、――つまるところ、パピヨン=フェイの人々はいつもの営みを続けている。
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