インヤンガイの路地はどこも何かが腐ったような匂いがする。 「え、じゃあ依頼を持ってきた探偵さんが死んじゃったんですね。それで、どうなったんですか?」 ちょろちょろと神無にまとわりついて歩きつつ、絵奈はにこにこと神無の顔を覗き込む。 目的地へ移動するまでの慰みにとこれまでの冒険を話し始めてみたが、今いる場所に因んだ話となり、結局、インヤンガイでの冒険は陰惨なものが多い。 今、二人の話題となっている事件も、仲介人である探偵は亡くなり、不愉快な富豪の手先になって復讐者を返り討ちにしたというものだ。 その前に絵奈が話していた壺中天の暴霊の話もハッピーエンドが待っていたとは言いがたい。 お姫様抱っこをされてドキドキした、なんて少女のような話の締めくくりの話ではあるが、そちらも依頼者である探偵は他界している。 そんな風な雰囲気で、インヤンガイでの依頼はそんな後味の悪い事件がいくらでもあり、今回、神無と絵奈が受けたのもその手の依頼だった。 依頼の仲介者であるモウ探偵は二人の目の前で死亡し、二人も不意打ちで銃弾に襲われた。 なんとか撃退したものの、なんとかしてくれと頼まれた相手の暴霊こそ被害者で、依頼者こそが悪党だったという話。 これももう終わった事だし、司書に報告書を書いてもらえばもう二度と依頼者にも被害者にも関わることはない。 そんなよくある事件だったが、今回、少し神無にとって都合の悪い事故がおきていた。 不意打ちで放たれた銃弾は、神無の手錠を直撃していた。 手錠がなければ傷ついていたのは己の体だと分かってはいても、鎖の一部が鉛弾によって欠け、力を入れれば引きちぎれそうな様相を呈しているのは神無にとって都合が悪い。 「新しいの買わなきゃ……。次のロストレイルで帰るから先に帰ってて」 何気なく行われたそんな提案に、絵奈はぶんぶんと首を横に振った。 神無は依頼中も、ターミナルで見かけた時も常に手錠をはめていた。 知らない間側の時はそういう性癖なんだろうと冗談を言ったこともあるが、実際に神無と知り合い、依頼を共にこなす内に手錠をつけたまま日常生活を送ると興奮するとかいう所謂「ソッチ系の趣味のヒト」ではない事が絵奈にも分かってくる。 (修行の一貫……なのかな) 結局、聞き出す程のきっかけもなかったところに、神無の言葉である。 絵奈はぐっと拳を握り締め、神無の瞳をまっすぐに見つめて口を開いた。 じっと見つめ返してくる視線に躊躇するが勢いでその壁をつきくずして告げる。 「あのっ、ご迷惑でなければお買い物にご一緒してよろしいでしょうか?」 「……いいけど」 そしたら案外あっさりと了承された。 殊更に。 インヤンガイという世界は人の業が深い。 もっとも深く浅ましい生への欲求は暴霊を生み出し、その霊力さえエネルギー源として生者に利用される。 食、睡眠、勝利、愉悦、悦楽といった人間本来の醜い欲望も、この世界はネオンの光で艶やかに照らし出していた。 「あ、あの、神無さん?」 「何?」 この世界において、都市部と呼ばれる部分の雰囲気はおおよそ一致している。 まず、あちこち歪んだ建物が無計画に乱立していること。 次に大抵は路地裏と呼ばれる区画の方が圧倒的に多く、すえた悪臭が昼間から漂う。 金持ちの存在する空間と貧乏人の存在する空間は壁一つを隔てただけの非常に身近なものであり、 その壁の厚みはそのまま生きる世界が隔てられていることを意味する。 そして。 金持ちだろうが、貧乏人だろうが。 この世界において、人の生命は空腹時の飴にも劣るほど軽い。 「ど、どこのお店に行くんですか?」 「名前は知らないけど、前に同じような事があって探していたら見つけたお店。もう少しガラが悪い地域にあるから気をつけて」 例に漏れず、うら若き女性が二人で裏路地を歩けば、当然、無法な輩が寄ってくるものだ。 神無に連れられ、オイルと煤の匂いにまみれた狭い街路をすりぬけるように進む絵奈の前に、ヤケにアブない目をした集団が声をかけてくる。 「よう、姉ちゃん。どこ行くの?」 「ちょっと俺達を遊ばねェ!? ヒャハハハ!!」 反射的に絵奈が後ろへ一歩飛びのいたため、手を伸ばした勢いで男の足がもつれた。 同時に差し出した手首に神無のつま先がめり込む。 ぎゃっ、と芸の無いリアクションを取りつつ手首を押さえて背中を丸めた男の後頭部に、神無は容赦なく踵を叩き込んだ。 遭遇から沈黙まで、およそ七秒といったところか。 崩れ落ちる男、「お、おい」とその男を揺さ振るツレを無視して神無が歩き出し、その後を追って絵奈もその場を立ち去った。 毒々しいネオンの街を通り抜け、点心の屋台を折れるとやや狭い通路へと向かう。 繁華街の人ごみは歩きづらいものだが、神無の足取りを追うくらいは絵奈にもできる。 気配を消して尾行する必要がなく、相手がたまにこちらを気に掛けてくれるのだからついて歩くくらいは簡単なものだ。 狭い路地の一角、巨大な建物の隅に有る階段を地下へと降りる。 傍に出ていた霊波式看板は故障してから日が長いのか、何の情報も示さず、ただ鉄錆が浮かんでいた。 こつんこつん、と足音が響くことを厭わずに進むところを見ると、神無は何度かここに足を運んだことがあるらしい。 地下へと続く通路は、その先に明かりが見えなければ不安が大きい。 戸惑う絵奈の歩調は鈍くなり、どんどん二人の距離は離れていく。 三十段ほど降りたところで神無が絵奈の方を振り返り、左手で大きな扉を開けた。 途端にくすんだピンク色の光源が、匂いたつような妖しい空気を階段へと漏れ出させる。 ちょいちょいと手招きした神無は迷いなく、絵奈の到着を待たずにその扉の中へと入っていった。 「これは……、妖しいです……ね」 それでも同行を申し出たのは自分なのだからと勇気を振り絞り、神無の入った扉を絵奈も開ける。 先ほどと同じ隠微な桃色の照明と共に、絵奈の真正面に拘束された全裸の女性が座っていた。 「ひ、ひやっ!?」 間の抜けた驚き方をしてしまったが、逃げるより先にマジマジと観察してしまう。 目が慣れてしまえば、それは本当の人間ではなくビニール製のちゃちな風船人形だとわかる。 ちゃちな風船人形……ではあるのだが。 しかし、女性を模した人形であり、赤い荒縄で手足を拘束されている姿であることに変わりはない。 それが入り口真正面に鎮座して、いや、飾ってあるのだ。 この人形に近づく程に、何か妖しい世界に引きずり込まれる気がして、少しでも遠ざかるように廊下に背をつけてずりずりと奥を目指す。 と、目的の方角から会話が漏れ聞こえる。耳に入るのだから気になるのは仕方ない。 ---いやぁ、いつもありがとねぇ! ---久しぶり。この前のがダメになったから代わりが欲しいの。 ---ダメにぃ? おいおいどんなコトしたらアレが壊れんだよ。まぁいいや、任しときなよ。すっげぇの手にいれたからよ! ---この前みたいな大きいのはイヤよ。痛いんだから。 ---ちゃんと準備しねェからだろ? あ、もう一人お客がいる。尾行られたか? ---いえ、同行者よ。ね、そこにいる? 「は、はひっ!」 ---もう少し待ってて。いくつか試したいから。 「え、え、試し……? ……ひっ!」 店頭ディスプレイから極力、距離を取るように壁に張り付いていたが、その壁にやたら肌色の多いポスターが無数に貼り付けられている。 その中のひとつと目があった感覚に、絵奈は思わず息を漏らした。 「こ、こういうときは落ち着くものです。落ち着くものです……」 信じられない局面を見た時に強制的に心を落ち着かせる呼吸法を過去の知識に基づいて実践する。 「大きく吸って、ゆっくり吐いて……」 例えば、戦地で味方が全滅しかけているとか、親しい者が死んだ時とか。 そういうパニックに陥るような状況でも兵士として冷静な行動を取るための、強制的な脳の冷却法である。 この場にそぐわない事は百も承知で、それでも妖しい世界にばくばく高鳴る心臓を鎮めるには効果的に思えた。 落ち着いたところで、目の前の棚にある商品のひとつに近づいてみる。 見知らぬ物品への好奇心でとりあえず手近なものを手にとり、眺めてみると薄暗い照明の中でもなんとなくどんなものかはわかった。 どうやら今、手に取ったこれはプラスチックのクリアケースに入っており、中身はピンク色のスライムのように思える。 今持っているものは感触がわからないので一度、商品を棚に戻す。その商品の横には同じようなものが薄いビニール袋に入っておかれていた。 これなら手触りが分かりそうだとそちらを手にとる。ぶよん、とした感触は空気をいれなさすぎたゴムマリというか、手にべとべとひっつくマシュマロのように柔らかな手触りだ。 絵奈には茶筒のような形の柔らかいゴムをどう扱っていいのか理解できず、不意に聞こえたごとん、と言う物音に怯えて反射的に棚へと返した。 ---じゃあ、これ。これなんかどうかな? 先月リリースしたばかりの新作だよ。どう? ---大きくて硬い……。 ---色も形も立派だよ! ---黒くて立派。そうね、でも少し大きすぎない? ---慣れたらこれくらいの大きさが無いと物足りないよ! ---前にそんな事言われて大きめの買ったけどやっぱり痛いし……。 (な、なんの会話だろう。修行の話よね。修行の話なのになんか妙な気分になるのは何でだろう!?) 神無が店員に話している言葉はすべて聞き取れないが、 なんとなく。なんの理由もなく。絵奈の心臓がばくばくと早鐘を打っていた。 (ど、どんなものを買うつもりなんだろう。きっと修行道具よね。な、何の修行道具なのかな) 二人の会話に耳たぶよ広がれ、ウサギのように、ゾウのように、と念じつつ、聞き耳を立てていることを悟られないよう、商品に興味のあるフリを続ける。 たまたま手に取ったのは薄いグリーンのリボン。 丁寧に梱包してあるので少ししか見えないが、絹のようになめらかな彩りが特徴的。 少し細めなので髪でもゆわえようか、でもこの色が似合うようなお洋服は持っていたかな。 と、少々、お洒落心が芽を出し始めていると。 「お客さん、どちら様? ここは誰かの紹介!?」 「ひやぁぁぁぁ、は、はいっ!!」 とん、と肩を叩かれ声にならない程の上ずりようで悲鳴と返答を同時にする。 なんと言っていいか分からないので、神無と店員の方を指さした。 「ああ、なんだ。あのお嬢さんのおつれさんか。……あ、じゃあやっぱりソッチのヒト? そんなに若いのにねぇ」 「え? え? っててて、っていうかソッチのヒトって何ですか?」 「どっかにやってるなら教えてよ。見に行くから」 「あ、あそ……え? ええ? 出て? やって?」 「あと、それ、気に入った?」 店員が指差したのは、思わず掴んだ店の商品。 絵奈はまたとんでもないものを手にとってしまったのかとドギマギしたものの、幸い手にとっていたのは細いリボンのだと思い出して、悟られないようにほっと息をつく。 「え、ええ。こういうのも売っているんですね。かわいいと思います」 「そう? かわいい顔してるのに、そういうのが……」 ---おい、この商売、接客するのは話しかけられた時だけだって言っただろ。 「おっと、店長に見つかった。後でオレがレジにいる時に持ってきなよ。初見のお客さんには少しだけオマケするからさ。あー、それまでは倉庫の整理だ」 「え? へ? え?」 戸惑う絵奈ににこやかに手をふると、その店員は店の奥へと消えていった。 その背中を何とはなしに視線で追いかける。 「あれって……」 目に留まったコーナーは先ほど神無が探していたものと一致する。 即ち、手錠。 ぽぅっと魅せられるように棚へと近づき、ひとつひとつを眺める。 重厚感のある手錠は見ているだけでずしりと重そうだ。本物の鉄か鉛のような金属で作られているからだろう。 反対にアルミやプラスチックのような材質のものは軽そうだ。 手首にあたる輪の部分が大きいもの小さいもの。 二つの輪の間隔が非常に狭くて、施錠されてしまったら身動きをとることすら難しそうなものもある。 そうかと思えば革製らしきものは前で繋がれたまま背中で左右の手を組める程に間の紐が長くて自由が効く。 (何がいいものなんだろう。 ……って、そうじゃなくて。 これは修行道具、これは修行道具、これは修行道具!) どっくんどっくんと心臓がはねあがる。 首元が妙な火照りを持って、いつまでたっても冷めない。 暑いからでも冷や汗でもない、変にじめっとした汗が全身でねばつく。 ごくり、と絵奈は息を呑む。 ゆっくりと手を伸ばしてそのうちの一つに触れる。 そっと触れた手錠は冷たく、絵奈の手先から体温を奪っていく。 どきどき太鼓のような鼓動はもう回りに聞こえていそうだ。 鉄の輪を握り持ち上げると、手にみしっと重量がのしかかり、これをつけて歩…… 「ねぇ」 「 き ゃ あ あ あ あ あ あ ああ あ あ あ あ ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !! ! !!!! ! !」 絵奈の絶叫が店内に響き渡る。 何事かと店長が、さっきの店員が遠くからこちらをチラ見するが、基本的に助けてはくれなさそうで遠巻きに見ているだけだ。 床にぺたりと座り込み、両手を広げて棚を隠すようなポーズをとるがまったく意味がない。手に持った手錠に気付いてそれを後ろ手に隠そうとするけど、今更そんな意味はない。 どうしていいか分からなくて、そもそもなんで自分がこんなに焦っているのかも理解できないままに、 絵奈は「違うんです、違うんですー!!」と繰り返していた。 「ええと、落ち着いて?」 「落ち着いています!」 「深呼吸」 「すぅはぁすぅはぁ」 「ふかく呼吸」 「すぅぅ、はぁぁぁ」 神無に言われるままに肺いっぱいに店内の淀んだ空気を仕入れ、 次にその空気をすべて肺から搾り出す。この動作を数回。 「落ち着いた?」 「た、たぶん……」 「それ、欲しいの?」 結局、握り締めたままの手錠。 かっ、と顔が赤くなる。 肌に妙な熱が宿ったようで汗が吹き出てくる。 胃がきゅぅっと冷たくなって縮こまる。 足ががくがく震えだす。 「い、い、いえっ、べ、べべ、別にっ!」 「そう。終わったからそろそろ帰るけど、何か買う?」 「い、いえ、その。あの!! ……ナ、ナニモイリマセン」 「分かった。じゃあ店長に挨拶してから行くから先に出てて。五分もかからないから 五分もかからない。 ……二、三分はかかる? 絵奈は、これが最大と思っていた心音が、まだまだ勢いを増していくのを感じていた。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 「お待たせ」 宣言通り、あれから五分もかからない程度で、扉の前に佇んでいた絵奈に声がかかる。 神無の手にはやはり毒々しいピンクのビニール袋があった。 中身はやっぱり手錠なんだろうか。 ネオンが毒々しく彩るインヤンガイの夜闇を二人で進む。 ここまで日が暮れてしまえば逆に容易にナンパやカツアゲの標的にされることはない。 「あ、そうだ」 街灯の下で立ち止まった神無は先ほど手にしていた包むを広げる。 中からは、やはり手錠。 絵奈が観察していた棚にはなかったものだ。特製というのは伊達ではないんだろう。 「やっぱり少し大きい気がするけど……。まあいいかな」 少し小さく深呼吸。 神無がようやく何かすっきりしたと言うように柔らかく微笑んだ。 つられるように絵奈も「えへへー」とはにかむ。 (それ、修行の道具なんですか? 本当に修行の道具なんですか? どう使うんですか?) それだけの言葉を上手く相手に伝えられないというか、 伝えたらなんか変な意味で妙なコトに首をつっこむことになったり、 それではないなにかをつっこまれることになったりしそうで何も言えない。 「さ、帰ろう」 絵奈の気も知らずに、神無は清清しい顔で帰路につく。 「あ、そうだ。これ、店員さんから」 神無が投げてよこした包みをあけると、中身は絵奈が手にしていたリボンだった。 「あの、これ」 「サービスだって言ってた。それ、欲しかったんでしょう?」 確かにあの店員と話す前と後にこのリボンを眺めていたのは間違いない。 なるほど、プレゼントしてくれたのかと少しほっこりとしていたが、 続く神無の言葉がすべてをぶちこわす。 「女性下着コーナーで」 「……え、リボンですよ」 「リボンに見えるね」 どういうことなのかとリボンを眺め、解いてみて。 用途に気付いた絵奈は、ぶべらっと派手な音と共に肺にあった空気を噴出した。 「う、うわ。わわわ。すみません」 慌てて取り繕う絵奈に「行こう」と声をかける神無の顔は、店に向かう前とは段違いに穏やかだった。 このまま捨てるのも忍びなくて、絵奈はとりあえず受け取ったリボン……リボン! 髪につけることはないだろうけどリボン! を、ビニール袋へ片付ける。 がさりと音がして、手荷物の中に二つ目のビニール袋を押し込むと、 絵奈は神無の背中を追ってインガンガイの路地を歩き出した。
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