神無はエライなあ。 そう笑って、神無の黒髪をくしゃくしゃと撫でつけてくれる父親の大きな手が好きだった。 様々な武術を身につけた父の手はごつごつとしていて、神無の髪や頬を撫でてくれる、その肌触りは決してやわらかなものではなかったけれど。 そう言って笑う父の顔が好きだった。仕事の時には決して見せる事のない、くしゃくしゃに砕けた満面の笑顔。その表情を見るのは神無だけに許された特権だった。 小さな神無を抱き上げて笑う、父の声が好きだった。深くて低い、――それは子どもながらにも解する事が出来るほどに、蠱惑的なものだった。 目を閉じれば、今もまだ、父のすべてを思い出す事が出来る。今もまだ、これほどまでに鮮やかに。 記憶は時の移ろいと共に風化して薄らいでいくものだと、誰が言ったものだったか。 忘れるはずもない。忘れられるはずもない。 鼻の奥にツンとした感覚が訪れたのを知って、神無は上空を仰ぎ見た。 インヤンガイの、品の無い電飾に照らし出された、夜の空が広がっている。 右手に持つ刀身は抜刀されたまま。排水の臭気と、織り混ざり漂うのは死の穢れだ。 暴霊と化した子どもを仕留めなければならない。これは自らの意思で請けた依頼だ。 呼気を整え、神無は再び地を蹴った。 刀身が電飾を受けて色とりどりの光彩を放つ。 ◇ 神無の父は高名な退魔師だ。母は神無が生まれてすぐに死んだらしい。神無が詳しい話を聞こうとすると、父は決まって苦い顔をした。その顔を見るのが嫌で、神無はいつからか母の事を聞くのをやめた。 もっとも、父は神無を心の底から慈しみ愛してくれたから、母が不在だという事に関して寂しさを感じた事もない。すれ違う母子を見ても羨ましいと思う事もさほどなかった。 神無には父がすべてだったし、世界の中心だ。 むろん、甘いばかりの父ではない。時として父は神無にとても厳しく当たりもした。特に護身に関する事に関しては、父は妥協というものを許さなかった。 居合や空手を初めとする様々な武道。居合刀は神無用にと特別にあつらえられたものではあったが、やはり重量は相当なものだった。腕が痛くなると泣き出した神無を、父は厳しく叱り飛ばすのだ。 この程度のものを修められずにどうする。俺と共にいたいのなら、この程度は覚えておけ。そう言って。 父に置いていかれるのは嫌だ。大好きな父と離れる事など考えられない事だった。ゆえに神無は懸命に父の教えを修めていった。 ピアノや華道、そういったものも習わされた。退魔を務めるのに鍵盤や生花がどう役立つのかなど解らなかったけれど、父の教えは絶対だった。 けれど反面、父は神無が興味を向けないものを強要する事もしなかった。興味を持てないものを身につけたところで芽が出るとは思えん。お前は賢い子だ。お前が惹かれるものだけを極めれば良い。 父はそう言って、やはりくしゃくしゃに砕けた満面の笑顔で、ごつごつとした大きな、温かなてのひらで、神無の髪を撫でつけるのだ。 父に伴われた退魔の巡行は穏やかなものではない。 人は様々な理由で魔に堕ちる。誰かを呪う気持ちばかりがきっかけとなるわけではない。深すぎる愛や憧憬、高慢、あらゆるものがきっかけを生み出すのだ。 むろん、人の世界ではない場所から訪う魔も少なくはない。そういった魔は人の感情や屍やあらゆるものに憑き、繰り、害をなすのだ。直に害をなす魔も当然に存在している。 つまり、祓うべき魔はひとつ限りではないのだ。舞い込む依頼もまた同じ内容のものばかりではない。 けれど、父はどんな魔であっても的確に祓う事が出来た。父は何よりも強かった。魔を斬り伏せる時の引き締まった表情も、対する時に放つ言葉のひとつひとつも、神無にとってすべてが誇るべきものだった。 時に、神無もまた、幼いながらに天賦を発揮する事もある。覚えたばかりの剣術をもって魔を伏せるのだ。 父は驚き、次いでつかの間何事かを思案したような表情を浮かべ、けれどすぐに満面の笑みで両手を広げる。 神無はエラいなあ。 走り寄り、飛びつく神無を抱きかかえる。父のたくましい腕が。その腕に両手をまわしぶら下がるのが、大好きだった。 歳月は緩やかに流れる。 幼かった神無もまた齢を重ねた。父の腕にぶら下がるような齢でもなくなってしまったが、それでも父は変わらずに神無を巡行に連れ歩いてくれた。 稚い頃から退魔を目前にしていた神無は、必定、あらゆる魔との対峙も迎えてきた。かれらの声に、想いに、触れる事もたびたびあった。 齢を重ね成長すれば、かれらの声に含められた意味を知る事もある。 迷えるかれらを苦しみから解放させたい。 神無の内に生じたそれはシンプルな願いだった。けれどそれが、抱いてもいいものなのかどうか。自信は持てないままだった。 けれど、その不安を明かすと、父は、神無の願いのすべてを肯定してくれたのだ。 俺も常からそう考えている。あいつらの中には純粋さを利用されただけの者も少なくはないんだ。害なす魔や霊のすべてを否定するばかりの退魔師も、確かに多くいる。けれど俺は思うんだ。 真摯な面でそう語る父の言は、神無の内にするすると浸透するものだった。 自分の考えは誤りなどではなかった。何より、愛する父の賛同がある。 おまえを誇りに思うよ、神無。 父の手もまた年を重ねてはいたが、ぐしゃぐしゃと神無の髪を撫ぜるそれは、変わらずあたたかなものだった。 けれど、幸福な時は永劫続くものではない。 夢は、潰えるものなのだ。 ◇ その日訪れたのは山間に建つ廃墟だった。かつてはそれなりに栄えたホテルだったというが、オーナーが急逝した後に発生した利権争いによって、年若い弟が兄を滅多刺しにして殺害したのをきっかけに、急速に閉館を迎える事となったのだという。 ホテルとはいえ、それほど広いわけではない。平屋作りで、部屋数もそれほど多くはなかった。怖いもの見たさで訪れる者たちも少なくないのだろう。入口や窓は破壊され、出入りは容易になっている。 だが、そうして訪れる若者たちの中に、時おり、ホテル内で失踪を遂げる者が現れるのだという。失踪者は以降発見される事もない。 そして、失踪者と同行していた仲間たちは証言するのだ。自分たちが彼らを殺したのだ、と。しかし死体は見つからず、それどころか血痕も見つからない。結局は事件性なしという事で処理をされるのだ。 廃墟内に足を踏み入れたとき、父はいつもになく厳しい顔をした。それから神無を振り向き、告げたのだ。 神無、外に出ていなさい。 しかし神無はかぶりを振った。大丈夫、足を引っ張る事なんかしないから。 それでも父は幾度も神無に告げた。外で待っていなさい、と。それでも神無はかぶりを振った。最後のほうは、もう意地もあったかもしれない。 廃墟の中、一室一室を念入りに確認していく。どの部屋にも異状などなかった。 初めこそ抜刀したまま携えていた刀身を、神無は何室目かの確認を済ませた後に鞘の中に収めていた。そのまま父の後ろをついていく。 大丈夫、何という事もない場所だ。 そう思った神無は、ついに、父を待たず、目についた部屋のドアノブを回し開けたのだ。 父が何事かを言いかけて、神無の腕を強く引く。 開かれたドアの向こう、広がっていたのは、赤黒い、巨大な化物の口蓋の内だった。 黄ばんだ歯が大きな音をたてて噛み合わされる。父が腕を引かなければ神無は噛み砕かれていただろう。父が刀を構える。ドアの向こうにいた化物はゲタゲタ嗤いながら消えていった。 腕を引かれた勢いで廊下に転げた神無は、視界の端に若い男の姿を見る。そちらに顔を向けようとした。 神無、大丈夫か。 父が神無に顔を向ける。そうして、父は見たのだ。ゆらりと立ち上がる娘の姿を。 否、魔に憑かれた娘の姿を。 神無の姿をした魔が哄笑する。その音に合わせ、廃墟の壁が軋みをあげた。 神無が抜刀する。鞘を投げ捨て、刀身をずるずると引きずり、身体を左右に大きく揺らしながら父に近寄る。 父は悟る。娘に憑いた魔が何を目的としているのかを。 神無は父の首に腕をまわし、舌なめずりをした。艶然とした眼差しは生娘のそれではない。指先が父の頬を、首をなぞる。 父は神無の髪を撫ぜ、静かに術の詠唱をした。 娘に憑いている魔を引き剥がすのが先決だ。そうでないと、魔はやがて娘を完全に乗っ取るだろう。そうすれば娘ごと殺さなければ、魔を祓う手段がなくなってしまう。 大丈夫だよ、神無。すぐに助けてやるからね。 そうささやいた父は、しかし次の瞬間、口中から大量に吐血して膝をついた。 神無が嗤う。その手には父の首を貫いた刀身が握られていた。 父が弱く笑う。かたちを成さない声で告げた。 ――貴様も道連れだ ◇ 気がつくと、神無は廃墟の外にいた。 ぼんやりとする意識の中、大きな音を轟かせて崩れていく廃墟を見ていた。 容易く崩壊していく建物の割れた窓の向こう、神無を見つめる父の姿があるのが見えた。 なぜ父はまだあんな場所にいるのだろう。理解出来ないまま、神無は小さく父を呼ぶ。 父は小さくうなずき、微笑んだ、ようだった。 ◇ 父の死体は崩れた廃墟の中から見つかった。瓦礫に潰された死体からは、刀剣による刺し傷など確認出来ようはずもなかった。それほどにむごたらしい状態だった。 魔に憑かれた間の記憶はほとんどない。けれど父の首を突き刺した感触だけは強く記憶していた。 自分が父を殺したのだ。訴えてはみたが、父の死は事故によるものとして処理された。 裁きを望む神無に与えられたのは罪科ではなく憐憫だった。目の前で父親に死なれたかわいそうな娘。そのストレスから前後の記憶も曖昧なのだろう。そんな同情ばかりが寄せられた。 ――どうして 大好きだった父。その命を奪ってしまった自分。 父は外に出ていろと言っていた。あれは神無を守るためのものだったのだろう。 ――どうすれば 手に染み付いている、父を貫いた感触。 父を殺したのだ。大好きだった父を殺したのだ。それなのになぜ裁かれない? 父が大好きだった。あの手も、声も、笑った顔も、厳しさも優しさも、何もかもすべてが。 幾度も声にならない叫びを張り上げた。父を呼んだ。けれど父は神無のもとに戻ってきてなどくれなかった。 自らを裁くのは簡単だ。自らの命を奪うのは簡単だ。けれど、それは逃げになってしまう。なにより、父が守ってくれた命を無駄にしてしまう事になる。 ならば、自分は生きていくしかないのだ。生きて、自らの罪を償う手段を見つけるしかないのだろう。 ――けれど、自分が罪を犯したのは確かなのだ。 その戒めとして。 罪を償うための術を見つける、その時まで。 神無は走りながら、自らの両腕につけた手錠を検める。これはあらゆるものを戒めるための楔だ。楔が解かれる事は決してないのだ。 いつか、裁決の時を迎える、その日まで。
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