世界樹旅団の脅威も去り、ターミナルにはひとときの平穏が訪れていた。「エミリエとアリッサが勉強部屋から脱走しないように見張っててくださいね」 カウベルさんにとっては瓦礫の片付けの方が気楽だ。しかし、レディ・カリスの命令なら仕方が無い。そして、カウベルさんは前向きである。二人が勉強している間はマンガでも読んでいれば良いと考え直した。「二人にわからないところがありましたら、教えて差し上げてくださいね」「はーい!」 それはほんの地獄の始まりだった。 † 一時間、二時間、子供たちは静かに勉強に集中しているようであった。 エミリエは計算ドリルをやっていて、アリッサは読書感想文を書いている。 とっくにマンガを読み終わったカウベルさんは退屈していた。窓の外では人々が忙しく復興作業をしている。堅い椅子のせいでおしりがいたくなってきた。「ねぇ、その本面白かった?」 アリッサが読書感想文を書くために読んでいた本を指し示した。「うん。カウベルさんも読んでみる? 私はもう読み終わったからいいよ。『はてしない物語』って言うんだけど、壱番世界の有名な児童書よ。私がロストナンバーになってから書かれたものなんだけど、気になっていたんだよね」 児童書ならばカウベルさんにも簡単に読めるだろう。 『はてしない物語』は平凡な少年が古びた本の中に吸い込まれて、不思議な冒険をするという物語である。 ちょっと読み始めただけでカウベルさんは虜になった。 † そして、物語も終盤――主人公の少年が本の中から現実世界に帰ろうと思い立つ場面。『元帝王たちの都――XXIII章より』「いつの時代にも、自分の世界に戻れなくなっちまった人間はいたさ」小猿のアーガックスは説明した。「始めは帰りたくなかったんだが、今じゃ――ま、いってみりゃ――帰れなくなっちまったんだな」「どうしてもう帰れないんだ?」「帰りたいと望まなきゃならんのに、この連中、もうなんにも望まなくなってるのさ。みんな、最後の望みを別のことに使っちまったんだな」 †――本の中から出られなくなる。 カウベルさんはそら恐ろしくなり、ふと顔を本からあげるとエミリエがこちらを見てにこにこ笑っていた。「ねぇ、カウベル。その話しって本当だと思う」「えっ、本から帰れなくなるってとこぉ?」「違う違う。さいころを振り続けたらこの物語になるってとこ」 †『元帝王たちの都――XXIII章、続き』 そこには老若男女、大勢の人が群がっていた。みな珍妙な服装で、だれも口をきかず、一人一人自分だけでいるというぐあいであった。 地面には大きなさいころがいっぱいころがっていたが、そのさいころの六つの面には、アルファベットが一文字ずつ記されていた。その人たちは、さいころをかき混ぜてはじいっと見つめ、またかき混ぜては見つめていた。「でまかせ遊びだ」……HGIKLOPFMWEYVXQ……「だがね、長いことやっていると――ま、何年もやっているとだな、ときには偶然、言葉になることがある……永久に続けてりゃ、そもそも可能な限りのあらゆる詩、あらゆる物語ができるってわけだ。そればかりじゃない。物語についての物語も、それから、おれたちが今ここで出てきている、この物語もだ。な、理の当然だろ? 違うかい?」 † カウベルさんの戸惑いをよそにアリッサが相づちを打った。「そうね。世界図書館にいる私たちもおっきな本の中にいるようなものだからね」 アリッサは世界図書館の館長として、世界群からもたらされる本はどれも貴重なチャイ=ブレへの供物としている。そのなかでも、本そのもの、物語そのものを題材とする作品は別格のようだ。そこにチャイ=ブレの秘密が隠されているかも知れないからである。よって司書たちには特別な思い入れが発生しやすい。口ぶりから言えば、エミリエも既読だと言うことであろう。「私たちがいる限り世界図書館の本は無限に増えていくわね」「あれっ、でもそんなに長い文が偶然出る確率なんかほとんどないでしょ。本当に出るの?」「カウベル。それは簡単よ。 すべての本に含まれる文字数をiとした場合、偶然に本が再現できる確率測度Pは(1/26)^iだからね。iはどんなに大きくても可算個だから、iの極限を取ればPは『ほとんど確実』よ。 厳密にはBorel–Cantelliの補題を使う必要があるんだけど、直感的にはわかるでしょ。どんなに小さな確率のことでも何度も諦めずに続ければいつかは達成できるわ。 そして、これははてしない物語のアーガックスの通り『無限の猿定理』って言うのよ」 それをうけて、アリッサがくすくすと笑った。「世界図書館を再現するんだったら無限のセクタン定理って呼んだ方が良いかもね」 カウベルが納得しかかったところでアリッサが疑問をぶつけてきた。「あら、エミリエ。その考えはおかしいわ。はてしない物語は終わりが無いから、unendliche《はてしない》のよ。iは極限じゃ無くて無限そのものよ」「あれっ。となると。ちょっとまって? ああ、うん。でも確率は0じゃないでしょ。だったら……」「でもエミリエ、あなたは言ったでしょ『iはどんなに大きくても可算個』だからって……」「うーん、エミリエわからないや。カウベル。どうなると思う?」 カウベルさんは会話をまるで理解していなかった。「うーん、カウベルには難しかったかなぁ」「そんなことないよぉ、算数は苦手だけど、ちゃんと子供のわかる程度のことはわかりますぅ」 つい、ムキになって言い返してしまった。 それを聞いて、エミリエはにぃっとかわいらい口の端をつり上げる。「ゴメンね~。疑ったりしちゃって~。まさか、大人のカウベルさんがわからないはず無いよね。どんなに確率が小さいことでもいつかは起こるってのは嘘って。エミリエが間違ったこと言っていたってわかっていたよね~」 カウベルさんはポーカーフェイスを気取るのに精一杯である。「どんなに小さな確率でもねぇ、えっと大丈夫よぉ」 何が大丈夫なのかはわからないが、アリッサがとどめの一撃を加えた。「えっとですね。カウベルさん。まとめるとですね。すべての無限の長さの文章の集合はℵ0《可算濃度》をもつかどうかということなんです」もし、すべての無限の長さの文章の集合がℵ0《可算濃度》なら――すべての無限の長さの文章の『場合の数』を数え上げることができるのでいつかは現れる。そうで無ければ小猿のアーガックスはむなしくさいころを振り続けるだけだ。 カウベルさんはぽかんと口を開いていて、魂が抜けそうだ。まるで理解できていないのは間違いない。 † おおチャイ=ブレよ。憐れなカウベル=カワードを救いたまえ。 勉強部屋の戸を叩く者がある。これぞ待ち望んだ救い主か?
「館長~! エンデのファンジンの集いって聞きました! 会場はここでいいんですよね」 「はーい! 面白いことやっているって!」 「ついでにコスプレすれば零世界レイヤー倍増計画も完璧です!」 ドーンと扉を蹴り開けて吉備サクラと彼女に手を引かれた一一 一が勉強部屋に乱入してきた。 部屋の中ではカウベルさんを囲むように、アリッサとエミリエが座っていた。ちょっと意地悪そうな顔をしている。 勉強部屋は小さな会議室で、中央に木の丸テーブルとそれを囲むように椅子が並べてあった。壁の一角は黒板になっていて、その横は窓になっていてターミナルの景色と遠くに世界樹が見える。 アリッサとエミリエがいたずらに心に目を輝かせた。 「あら、いらっしゃ~い。ちょうど盛り上がって来ているところよ」 「カウベルが面白いこと教えてくれるって!」 そのカウベルさんは期末試験で赤点を連発したのごとく無く椅子にへたり込んでいる。どうにも様子がおかしい。 そして、憐れな牛乳司書の前にはミヒャエル・エンデの『はてしない物語』が開かれていた。赤いビロードの豪華な装丁で、無限をあらわすウロボロスの意匠が織り込まれている。 ……かくかくしかじか 「……え゛!? 数式の……証明? 海賊も人魚もモモもアトレーユも全てのコスプレが……無駄?」 「そんなこと無いよ。カウベルにはシュラムッフェンのコスが似合うと思うわ」 エミリエとサクラで、カウベルさんに襲いかかった。 どういう風の吹き回しか、普段は率先して悪ノリするであろう一はけだるげに椅子に座ったままで、カウベルさんの服が引っぺがされるのを見守っていた。 色とりどりまだら模様の着ぐるみをカウベルさんに着せると、見事な道化蝶ができあがった。しかし物語のシュラムッフェンと異なっておとなしい。反抗する気力も無いようだ。 「反応薄いですね」 「うちひしがれたカウベルさん。くひっ、可愛いわ。じゅるり」 † 「それで、適当に文字を並べていたら、いつかは世界図書館の本が全て書き上げられるか? でしたっけ」 「そうよ」 アリッサが一に答えた。 一はほんの少しだけ考え込んで、勢いよく説明しだした。何か回路がつながったようである。 「アーガックスは時間が続く限り文字を書き続けまた永遠に生きると仮定する。……iはアーガックスの手により常に数を増し続ける無限であり、仮に一定時間を停止し数えたとすれば極限を取る事が出来る為iは可算個だが、無限の長さという条件と矛盾する……です」 「そうよね。最初の仮定はちょっと乱暴よね。もちろん、一ちゃんの言いたいことはよくわかるわ」 「直感的には無理な気がします。でも、エンデが書いたようにできた方が夢はありますよね。うー」 サクラの発言も耳に届かず興奮状態の一が続ける。 「ある一定に限定して考えた場合に限りiは数え上げ可能な可算無限で且つ実際の要素数は無限に存在する為、理屈の上ではiの種類は可算無限集合となるが実際は計算をしている最中もアーガックスは文字を書き続ける為、要素数の極限を取る事は不可能!」 「それはそうなんだけど。それが無限だからね」 「時間が流れ続けている限りiは常に増殖を続ける為、i全体は数え上げ不可能!」 「やっぱり、無理かな~。いつまでたっても追いつかないものね」 「考えを整理する必要がありそうよ」 「素数の分布……ベルトランの仮説とかを議論するときとは違う考え方をした方が良さそうだとエミリエは思うよ」 「そうね。無限について甘く見ていたかも知れないわ。例えば、一さんの言うiより大きい数、δが必ずあるよね……」 そこまで、話が進んだところで静かに聞いていたサクラが立ち上がり、叫んだ。 「200年間ドリルやらされ続けた人の底力舐めてましたっ! 高2の数学でうっかり零点取ったことがあるくらい感性な生き物の私に、真面目に数式を解けと?! ……わかりましたっ、図書館中に居る司書さんたちに聞いて回ります! 終わったら楽しい女子会で、きっとゼロちゃんが全部解決してくれるんです期待です、うわーん」 † その言葉の通りにサクラが勢いよく出て行くのと入れ替わりに、白いゼロがひょこっと勉強部屋にやってきた。 「はてしなく湧き出るお茶があると聞いたのです」 勉強部屋の中は熱気が充満していた。 「うーん。図書館が無限に続くんでしょ。エミリエはチャイ=ブレの上でセクタンはいくらでものれると思うんだよ」 「そうかなぁ。仮に無限のセクタンがいたとしても私たちに観測できないのであれば、いないも同然だと思うんです」 一とエミリエが形而上学的な争いを続けている。一の熱弁がいよいよ燃えさかる。興奮しているのか、顔もやや赤い。 「まあんなこたぁどーでもよろしい!」 びしっと虚空を指さして断言した。 「無限が無限であると証明するには永遠に流れる時間が存在し、且つそれを俯瞰し観測する存在がいなければならない。無限が無限であるか否かの判断は観測者によってのみ行われ、時間もまた無限である以上観測者はその時間をも超越した無限の存在である必要がある。 世界から放逐され時間を失った我々ロストナンバーは観測者たり得るか? また観測者の無限性を証明する為の観測者は何か? 誰が見張りを見張るのか? 或いは今この瞬間も、第四の壁の向こうより我々を観測する何かがいるのかもしれない!」 息を吸うために一時停止すると、ようやく一の視界にゼロが入った。 一には続く言葉が無かった。ひょっとしたら、なにかものすごい存在を呼び寄せたのかも知れない。無限の観測者の資格たりうる少女を目の前にすると、どうにも今までの議論にほころびがあるような気がしてきた。呼吸を整えている一の顔は赤いままだ。 「無限の話しなのですか? ゼロはなんとなく親近感を覚えるのです」 かくかくしかじか、一は少しトーンダウンした口調で持論をゼロに語った。 「iはアーガックスの手により常に数を増し続ける無限であり、仮に一定時間を停止し数えたとすれば極限を取る事が出来る為iは可算個だが、無限の長さという条件と矛盾するんです」 「だから、時間は流れているからどんなに小さい時間も考えられるんだけど、アーガックスは一定時間おきにサイコロを振っているわけでしょ」 エミリエが若干ピントの外れた反論をする傍ら、ゼロがやさしく語りかけた。 「一さん」 「はい」 「偶数と、奇数はどちらが多いと思いますか?」 「えっ、同じじゃ無いんですか? ん、あれっタンマタンマ~! う~ん、でもどちらもいくらでも増える無限ですよね。だったら比べられない……ような気がします」 「そうなのです。比べるにはルールが必要なのです。一さんはどうして偶数と、奇数が同じだと思ったのですか?」 「あれっ? なんでだろう。……ええっと、奇数と偶数が交互にあらわれるから……でしょうか」 「はい、交互にあらわれるから『1と2』『3と4』『5と6』『7と8』と一ずつ組み合わせていけるのです。全単射の写像があるののです」 集合論においては、このように集合の元(要素)と元に一対一の対応が出来るときに『濃度』が等しいという。そして、自然数と濃度の等しい集合を可算集合と言う。その濃度は可算濃度ℵ0である。 「では、自然数と素数はどうなのでしょうか?」 「自然数の方が多いんじゃないんですか? 3も5も13も自然数の中にありますし、12のように素数じゃない自然数はあるわけですよね」 「自然数と素数の一対一の対応《全単射》は作れるのです。自然数iとi番目の素数が対応するのです。『1と2』『2と3』『3と5』『5と7』『6と11』『7と13』……なのです」 一は話しを静かに聞いている二人の方に顔を上げた。エミリエとアリッサはうなずいた。同様の理屈で「自然数と整数」も「自然数と有理数」の間にも一対一の対応が出来る。よって、整数も有理数も、自然数と可算濃度ℵ0である。 「だったら、あらゆる文字列も、それを何番目の文字列って言えそうですね。a,b,c,...z,aa,ab,ac..az,ba,bb,..って順番に並べられますし」 「それが有限の長さの文字列ならそうなのですが、今回のような無限の長さの文字列ではそうでもないのです」 ゼロはいたずらげにほほえんで紅茶に口をつけた。 † 聞き手の三人娘が居住まいを正したところでサクラが戻ってきた。 表情は浮かなくゲッソリしている。 「ただ今帰りました…降参です」 司書たちに聞いてまわったようだが結果は芳しくなかったようである。 「あの……リベルさん、無限の猿定理ってなんでしょう?」 ――無限の猿? 猿に朝に無限のドングリをあげていたのを夜にしたら猿が怒り出したって寓話だったと思います。確か、朝無限暮有限、でしたか。 「シドさん、まず加算濃度が分かりませんっ」 ――加算濃度? 実は俺、濃縮還元の方が好きなんだ。わかるだろ。 「宇治喜撰さん……あぁぁ、宇治喜撰さんが何を言ってるのかまず分からないです」 ――∀X((φ∉X∧∀x∈X∀y∈X(x≠y→x⋂y=φ))→∃A∀x∈X∃t(x⋂A={t})) 「フランさん、秘書業務は数学必須ですか!? 知りたいことがっ……」 ――はい、数学ですか? 使いましたよ。ドクターはテンソル……多重線型代数を重視されていましたね。やはり世界を記述するにはベクトル解析では不足でしたから。ヒッグス粒子もテンソルで表現するとすごくすっきりするのですよ。可換環kのですね……、n次テンソル冪……。あら、大丈夫ですか? 顔色が? † そして、手ぶらのままサクラは勉強部屋に戻ってきたのである。 「全然違いますけど、聞いた瞬間にアキレスと亀……ゼノンのパラドックスを思い出しました。これ本当に数学ですよね、哲学じゃないですよね?」 「ゼノンのパラドックスは無限級数の収束で解決出来ることがわかっているよ。ε-δも19世紀だからアリッサは知らないかもね。エミリエには簡単だけどね」 「大丈夫よ。ε-δは19世紀の発明でも、解析学はニュートンの時代だから大体の感覚はわかるわ」 混乱するサクラをよそに会話を続ける人たち。 「アルファベット26文字を6面ダイスで36文字分選んだ段階でもう恣意的な気がします。そこで引っかかって先に進めませんでした、うわーん!」 「そうね。思考実験だからよ。サクラさん大丈夫?」 サクラはそのまま鬱憤を訴え終えたところで、横になっているカウベルさんの胸に顔をうずめた。着ぐるみでふかふか暖かい。 そこにゼロの透明な声が響いた。 「全ての無限長文字列の集合Bが可算であるなら自然数の集合Nからの全単射fが存在するのです。無限長文字列bをn文字目がf(n) と異なるように作ると、b=f(k) となるようなkは存在しないのでBは非可算なのです」 白い少女はにっこり微笑んだ。これすなわちカントールの対角線論法である。 「実際に見てみるといいと思うのです」 彼女はどこからともなくナレッジキューブを取り出すと、板チョコに変成させた。 小さな手から右へと伸びていく板チョコには無数のマス目があって縦に横に1,2,3,...と番号が振られている。 それぞれのマスにはゼロと一の似顔絵が彫り込まれている。ゼロの顔はホワイトチョコで、一の顔はキャラメルチョコであった。 「一と零があれば文字は充分なのです。一さんゼロと結婚してくださいなのです!」 「ええ!?」 ゼロの手からチョコはどこまでも広がっていって狭い勉強部屋はすぐに一杯になった。 勢い余って、チョコのかけらが散らばった。 「甘い……」 一はそれを口にしたら自然と言葉が出た。 「うん。ゼロさん。結婚しましょう! 甘々の生活を送りましょう!」 最近はターミナルでもリア充がやたら目につくようになっているが、一は感化されてしまったようだ。 そして、知恵熱を起こしたのか一はそのまま、床に寝転んでチョコをかじりながら、ゼロの作り出した無限を見上げた。 板チョコのマス目には一とゼロが並んでいる。 横に並ぶ行は無限の文字列をあらわしてしている。 縦に並ぶ列はその無限の文字列を積み上げていったものだ。 一本目の文字列の一文字目……キャラメル色の一だった……をそれと違う文字に置き換えたもの……ホワイトチョコのゼロ。ゼロのひとかけらをテーブルの上に置く。 二本目の文字列の二文字目……これはゼロだった……と違う文字……一。一のひとかけらをテーブルの上のゼロのよこに置く。 三本目の文字列の三文字目……これもゼロだった……と違う文字を……一。また、一のひとかけらをテーブルの上のゼロ、一のよこに追加した。 そうやってちょっとずつ違う文字を取り出していったもの並べて一つの新しい無限の文字列を作り出す。すると、この新しい無限文字列は、板チョコに並べていったどの文字列とも違う無限文字列のはずである。どの文字列とも、必ずどこか一箇所が違うからだ。 「テーブルの上の列と同じ列は、ゼロの手の中の板チョコにはないのです」 全ての無限文字列を並べたはずなのに……これは矛盾である。すなわち背理。 よって、あらゆる無限長文字列をアーガックスは産み出すことは出来ない。 「ZFC公理系では、バナッハ=タルスキーのパラドックスを使ってゼロは増えることが出来るのです。選択公理の実演なのです」 ゼロはチョコを持ったままの姿で二つに分裂した。 二つになった白い少女はさらに分裂して四つになった。 それぞれの手からはチョコがほとばしり続けている。さらに増殖する 8,16,32,..1024,..1048576,..1099511627776,.... あっという間にゼロは窓から雪崩出てを外にあふれ出た。 「こんなに増えても、もっとたくさんのゼロがいるのです。もっともっと増えるのです。どこかで止めてももっとたくさんがあるのです。これが一さんの無限なのです。可能無限なのです」 これが、19世紀の終わり頃までの無限の姿だ。どこまで行っても追いつけない蜃気楼である。解析学=微分積分学はこの無限をこのように捉えている。内部進学のサクラには関係の無い話しだが、受験生を苦しめるε-δ論法もこの範疇だ。 「そして実無限なのです」 可能無限は増えゆく数として無限を認識するが、実無限ではその行き着く先を想起する。 一もサクラもエミリエもアリッサも、ゼロとチョコの海を流される木の葉「胴上げ?」であった。 「ゼロも可算無限で、一人のゼロがもつチェコも可算無限でもまだまだなのです。自然数のペアも可算無限しか存在しないからなのです。さっきのように順番に無限の長さの文字列を並べていったのと同じなのです。まだまだなのです」 ターミナルを埋め尽くす白。 と、ゼロとゼロが握手した。ゼロとゼロとゼロも握手した。ゼロとゼロとゼロとゼロも握手した。バラバラのゼロが至るところでグループを作っては離合した。 「ゼロたちの組み合わせは……すごいのです。可算無限の集合の冪集合は、無限の長さの文字列を『並びきれない』だけあるのです」 ここで、いままでどんなに継ぎ足しても高々可算無限であった無限が、順番にできない、並びきれない、『非』可算の無限となる。 ――連続体濃度ℵである そう言った瞬間にゼロは一人のゼロに戻った。 そして、どーんと巨大化する。ターミナルを見下ろすほど大きくなっても幼女の肌はきめ細かくすべすべで、産毛もやわらかいままだった。 「ゼロはこのままでも連続体濃度ℵでいられるのです。ゼロは細胞でできていないらしいからなのです。たぶん原子でもできていないのです」 「そうだね。ゼロならきっとプランク長以下の部分もちゃんとあるよ。もぐもぐ」 エミリエがチョコをほおばりながら相打ちをした。 そして、そんな連続体のなかの部分部分の組み合わせは新たな冪集合を作り出す。 連続体濃度を超えたℵ2濃度である。 その動きを繰り返すと、ℵ3、ℵ4……とさらなに超越していく。 ――ならばℵ∞濃度の絶対無限の境地は? 「これより先は、お見せしてもたぶん皆様には見えないのですー。このままではブラリ=フォルティのパラドックスにはまりこむので元に戻るのです。連続体濃度のゼロはx=arctan(π/2 y)で、有限の[0,1]の範囲に戻ってこれるのです。でもみんなと同じ大きさのゼロの中にも無限はあるのです。連続体の一部も連続なのです」 † 気がつけば、一はほほにチョコをつけたままテーブルに伏していた。 もとの勉強部屋である 勉強部屋の扉が勢いよく開かれた。 「40度越えの高熱患者が医務室から抜け出すんじゃない!」 一はうわごとのように「結婚、えへへ、ふわふわ……」と繰り返しながら医療スタッフに連れ去られた。 少し静かになった部屋。サクラはカウベルさんの胸からむくりと起き上がって、ティーポットを手に取った。 「頭使い過ぎです糖分が脳味噌に不足です、チョコいただきますね!」 「素敵な提案なのです」 溢れかえるほどのチョコレートを囲んでささやかなティーパーティーが始まった。甘いものが欲しくなるのはよく勉強した証だ。 サクラが紅茶を注いでまわる。チョコを割って入れると即席のフレーバーティーだ。甘いミルクの香りが広がる。 「館長達はなんで数学なんかを勉強されていたんですか? 図書館の運営には必要なさそうですのに」 「うーん。サクラちゃん、それはね。この世界群のどこに行っても数学は一つだからよ」 窓から遠くに、世界樹が見える。 「そうなの、世界によっては魔法があったりなかったり、太陽が地球の周りを回っていたり、ここみたいに夜が来なかったりもするんだけど、数の論理はどの世界でも共通よ。だから数学は新しい世界の足がかりになるの」 「モフトピアでも1+1=2だし、インヤンガイでも17は素数だからね。世界樹と戦ったときにも使ったんだよ。もぐもぐ」 「ゼロの世界では秘密なのです」 アリッサは『はてしない物語』を閉じて、紅茶のおかわりをした。 「異世界と言えば、ルイスキャロルも数学者だったのよ」 「彼の時代は集合論は無かったからね~。キャロルも一さんのように考えていたんだろうね~」 ルイスキャロルは論理学の教科書を出版している。数学が素朴だった時代のものだ。 「はい~。強制法も公理的集合論(ZFC)もなかったのです。壱番世界は進歩しているのです」 「ゼロさん。先程気になったのだけど、可算無限ℵ0より大きくて非可算無限ℵより小さい無限ってあるのかしら」 「連続体仮説? もぐもぐ、わからないよ」 質問をエミリエが遮った。 「はい、連続体仮説は、証明も反証もできないということが証明されているのです。不思議なのです」 連続体仮説のように証明も反証もできない……ということが『証明』されている命題は数多く発見されている。こういった命題は公理系からの独立しているという。壱番世界ではその証明手法は強制法として知られている。 「強制法は集合論の宇宙Vをより大きい宇宙V*に拡大するのです」 みながうなずく中、ただアリッサだけは紅茶のなかに溶けていくチョコを眺めていた。 「公理系から独立……。チャイ=ブレから……になる道の一つかも知れませんわね」
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