世界図書館の一画に、「司書室棟」がある。 ここはその名のとおり、「司書室」が並んでいる棟だ。司書室とは、一定以上の経験のある世界司書が職務のために与えられている個室である。ふだんは共同の執務室を使っている司書も、特定の世界について深く研究している司書はその資料の保管場所として用いているし、込み入った事案の冒険旅行を手配するときは派遣するロストナンバーを集めて事前の打ち合わせにも使う。中には、本来は禁止されているはずなのだが、司書室に住みつき寝起きしているもの、ひそかにペットを飼育しているものなどもいると言われている。 司書室棟への立ち入りは、特に制限されていないため、ロストナンバーの中には、親しい司書を訪ねるものもいる。あるいはまだ不慣れな旅人が、手続き書類の持って行き場所がわからずに迷い込むこともあるかもしれない。 司書室の扉には名前が掲示されているから、そこがなんという司書の部屋かはすぐにわかる。 ノックをして返事があれば、そっと扉を開けてみるといいだろう。 たいていの司書たちは、仕事の手をとめて少し話に付き合うくらいはしてくれるはずである。あるいはここから、新たな冒険旅行が始まることさえあるかもしれない。 司書室とは、そういう場所だ。 *-*-* コンコンコン。 ガタガタゴッ……バタン……ビリッ……バサバサバサッ……。 軽快にノックをしたら、扉の向こうからなんだか激しい音が聞こえた。何事かと反射的にドアを開けようとしたが、中から飛んできた鋭い声に手を止める。「ちょっと待って!! 開けないで!! ぜーったい開けないでっ!!」「……」 開けるなと言われると開けたくなることもあるのだが、ここは司書室。見られてはまずい書類などもあるのかもしれない。そのまま外から声がかかるのを待つことにした。 バサバサッ……ガタン……。 ガッ……バサッ……。 しばらく音が続いた後、再び室内から声が投げかけられる。「はぁ……どうぞ~……」(ため息?) 来客に、何故ため息。 その疑問は、扉を開けるとすぐに解消された。「え……」 思わず口から漏れた声と共に扉を一度閉め、名前表記を確認する。『紫上 緋穂』 うん、間違ってない。「ちょっと~私に用があったんじゃないの~?」 中から不満気な声が聞こえて、再び扉を開けた。そしてゆっくり中へと足を進め、部屋の中を見回す。 室内は普通の洋室で、本棚や重厚な机と椅子のセットもあって、一見すればそれっぽいのだが。 窓際にはイーゼルが置かれていて、その周りには画材が整理整頓されている。「……」 ふと、とある一箇所で視線が止まった。 そこにあったのは、白っぽい木でできた、大きな箱のようなもの。 引き出しが沢山付いている。 見たことがある者もいることだろう、それは桐でできた和箪笥であった。だが、この部屋の雰囲気に全くもってマッチしていない。「遊びに来てくれたの?」 姿勢を正してソファに腰をかけた緋穂の声に、はっと我に返る。そして、不躾だとは思いつつもこれが本物の『紫上緋穂』なのかと、頭の上からつま先まで眺めてしまい、慌てて目を逸らす。 緋穂はいつもの様な豪奢なヘッドドレスもつけていなければ、いつものようなふりふりの服を着ているわけではなかった。「ごめん、実はさっき、浴衣に着替えようとしていた所でさー」 何の気なしに頬を掻く緋穂。彼女は白襦袢を荒く合わせ、その上から打ちかけのようなものを羽織っただけだった。着物の特性上全身隠れているが、胸の合わせからは紫色の花びらのようなものが覗いている。恐らく、浴衣に着替えようとして脱いだ所にノックが聞こえ、慌てて白襦袢を着こみ、客人を待たせすぎても悪いと思ってとりあえず打掛を羽織った状態で妥協したのだろう。 和箪笥の影に、浴衣が軽くたたまれて置かれているのがチラッと目に入った。恐らく慌てた拍子にどこか破いてしまったに違いない。そんな音が聞こえた気がする。「とりあえず……」 待つからきちんと着物を着るようにと言い置いて、窓の外に目をやった。●ご案内このシナリオは、世界司書、紫上緋穂の部屋に訪れたというシチュエーションが描かれます。司書と参加者の会話が中心になります。プレイングでは、・司書室を訪れた理由・司書に話したいこと・司書に対するあなたの印象や感情などを書いていただくとよいでしょう。字数に余裕があれば「やってみたい冒険旅行」や「どこかの世界で聞いた噂や気になる情報」などを話してみて下さい。もしかしたら、新たな冒険のきっかけになることもあるかもしれませんよ。
長襦袢の上から着物を羽織っただけの姿で紫上緋穂は笑ってみせた。吉備 サクラは緋穂と向かい合ってソファに座り、お手製の風呂敷に包んだ荷物を膝に乗せた。 「緋穂さんが期待を裏切らなくてうれしいです」 サクラはこんな状態の緋穂を一度見たことがあった。あの時は確か浴衣を直したのだった。相変わらずの緋穂の様子に儚げな笑みが漏れる。サクラは膝の上の風呂敷包みをそっとテーブルの上に乗せ、そして結び目を解いた。緋穂の好奇心に満ちた視線が包みに注がれているのを感じる。 ふわりと広がった風呂敷の中から出てきたのは鮮やかな花――いや、違う。花の描かれた布がたたまれているのだ。 「これ……浴衣?」 「はい。菖蒲ちゃんの浴衣を作ってるうちに面白くなっちゃって。ミシンで浴衣を作ったら最短どれ位なのか挑戦しちゃいました。絵柄の合せさえいければもう1日かからないです」 「すごっ……じゃあこの浴衣もサクラさんの手作りなんだ?」 身を乗り出して浴衣を見つめる緋穂の前でサクラは重ねてあった浴衣をずらして下にある浴衣も顕にする。サクラが持参した浴衣は二種類。 紺地に光る薔薇が多数咲き誇っている和洋折衷風のものと、白地に薄紅色の矢車菊の乱舞している和柄のもの。それぞれに合わせた帯も持参していた。 「この辺は緋穂さんに似合うと思って。着てみて下さい。その間にあっちを直しちゃいます」 「え? いいの? わぁい、嬉しいなぁ、じゃあお言葉に甘えちゃおうかな?」 嬉しそうに笑って口元で手を合わせて笑う緋穂。破れた方を出してください、そう告げると素直に差し出された浴衣。下手に遠慮してみせない彼女。形だけの遠慮もしないのは無遠慮なのとは違う。誰にでもするわけではない。彼女なりに考えて、今わざとそうしているのだろう。サクラとしてはその距離が心地よく、ありがたく感じられた。 「緋穂さんは破れてしまった浴衣も直して着たり、着物なんかも手入れをきちんとして長持ちさせているように見えます。物を大切にするんですね」 修繕箇所に合わせて赤い糸を針穴に通し、結ぶ。サクラが驚くべき素早さと正確性で修繕を行っている間、緋穂は薔薇柄の浴衣に着替えていた。 「んー? だって着物はきちんと手入れをすれば長持ちするし」 「でも、破れた箇所を直した痕がある浴衣なんて、若い子だったら嫌がる人も多いんじゃないでしょうか。新しいのを買えばいいや、と」 「それって私が若くないって言ってる?」 「いえ、そんなつもりは――」 焦って浴衣から顔を上げると、帯を結びながら振り返った緋穂は笑っていた。どうやら冗談だったらしい。サクラは息をついて薄い笑みを浮かべる。 「多分、そう言う子達は一年に何度も浴衣を着ないんじゃないかなー。去年と同じ柄は嫌だとか、今年の流行はーとかそんなことばかり気にしているんじゃないかな? ちょっとさみしいよね」 くるっと振り向いた緋穂はラメの入った薔薇にレースを使った帯がよく似合っていて。サクラは思わず目を細めた。 「私は一生懸命作ってくれた人――縫ってくれた人だけじゃなく、反物を作ってくれた人とかね――の思いがこもった着物を、たとえ浴衣だからといって簡単には捨てられないなー。ほら、今のサクラさんみたいに直してくれた人の思いも籠もってる。さすがにあまりに破れた箇所が多くなったりシミがひどくなったりしたら、着れないけど、そう言う時はリメイクして最後まで使いたいね」 「……そこまで思ってもらえたら、作り手として本望です」 最後のひと刺しを終えて、玉結びをしてそっと糸を切る。治りました、てきぱきと畳んでテーブルの上へと置いた。そしてゆっくりと緋穂の浴衣姿へと視線を移す。 「すごいね、これ。きちんと柄も合ってるし!」 「似合って良かった……お願いします、両方とも貰って下さい。いろんな人のイメージで複数作っちゃったので、今期間限定浴衣屋さんになれそうなんです」 「いいの?」 「流石にあんなに1人じゃ着られないので、貰っていただけるとうれしいです」 「わぁい、嬉しい!」 手放しで喜ばれたら、サクラの表情も緩む。大切にするね、矢車柄の浴衣を抱いた緋穂の笑顔が眩しく感じた。 「じゃあお返しをしないとね。何か希望ある?」 「そんな、お返しなんて……」 見返りが欲しくて浴衣を押し付けたわけではない。でも、もしも許されるならひとつだけ……。 「……何だか最近乾いてるので、緋穂さんと一緒にお茶したいです」 ぽそり、遠慮がちにこぼした言葉を緋穂はしっかりと掬い上げて。一瞬真顔になったように見えたのは気のせいだったか、彼女はおっけー、とウィンクしてみせた。 *-*-* 室内にふんわりと漂う紅茶の香り。ミルクによく合うウバの立てる湯気が、室内を湿らせる。サクラは自分の前に置かれたティーカップの中に揺れる波をじっと見つめていた。 「とっておきのお菓子を出しちゃおうかな~。いただきもののカヌレがあるんだっ」 戸棚から箱を取り出して中身を皿に並べる緋穂。しばらくして彼女がテーブルの真ん中に置いた大皿には、溝のついた円筒形の焼き菓子が並べられていた。 「こっちがバニラで、あとはチョコレートとアールグレイと抹茶、あとコーヒーだったかな? 好きなのを好きなだけどうぞっ!」 「……ありがとうございます」 サクラは小皿にとったカヌレをフォークで割り、口に含む。焼き色のついた外側は香ばしく、中はしっとりしていて。口の中に広がる甘みがほっと息をつかせた。ミルクをたっぷり入れた紅茶を一口飲んで、ふう、と息をつく。久々にゆっくり息をした気がした。心の中に溢れる気持ちが表情に滲み出そうになって、慌てて笑顔を作る。 「このカヌレすごく美味しいです! どこのお店のでしょうか?」 「どこのだろうねー。壱番世界のおみやげに貰ったんだよ。本場フランスにも出店しているパティスリーのやつだって」 「フランス人も抹茶味を食べるんでしょうか?」 ――私は多分刹那的で対処的だ。 ――相手の行動に合わせてそれなりに対応出来る。 ――でもそれだけ。 「そういえばこの間、夢浮橋の七夕でエーリヒくんを見かけましたけど、元気にしてますか?」 「うん、最近はいろいろなところに連れ出してもらえたから、前よりも外に出るのが楽しくなったみたいだよ。たまに新しくなった妖精郷にも遊びに行ってね、友だちもできたみたいだし」 「それなら良かったです。冒険旅行にも徐々に慣れていけるといいですね」 ――笑い合って好きだと思って、 ――でも敵になったら、 ――技量次第ではあるけど、 ――躊躇いなく相手を殺せる。 「菖蒲ちゃんも明るくなってきているように思えますし……」 「そうだねー。でもやっぱり一人暮らしは寂しいみたいだね。『気にかけてくれる人がいるから平気』って笑ってたけど、まだ12歳だからね」 私みたいに慣れちゃうまでは時間がかかるんじゃないかな、苦笑する緋穂にサクラは頷いてみせる。大丈夫だ、きちんと反応できている。 考えていることは、全く違うのに。 ――この前の迷鳥の気持ちが良く分かる。 ――自分が孵る前の迷鳥のように感じる。 「最近はリア充の人が増えているみたいですけれど、緋穂さんはそういう話ないんですか?」 「うぐっ……痛いところつくね~」 「ごめんなさい。あれだったらロストメモリーになる前のロストナンバー生活の時の話でもいいんで」 「うーん、まあ、ないわけじゃないけど」 ――そんな事を言ったら、 ――まだ私の話に耳を傾けてくれる人は傷つくだろう。 ――だから言わない。 「緋穂さんの恋バナ、興味あります。ぜひ聞かせてください!」 「そんなに聞きたい?」 「はいっ!」 ――それすら忘れる程、 ――辛くて壊れてしまったら…… ――私はもうターミナルに帰ってこなくていいと思う。 心の中で自分を見限りながら、顔に貼り付けているのは笑顔。 いつものように元気で猪突猛進気味で、ちょっぴり嗜好の変わっている私。 恋バナが大好きで、裁縫が大好きで……。 「……本当に聞きたいのは、それ?」 「……え?」 初め、緋穂の口にした言葉の意味がわからなかった。 ティーポットを片手に立ち上がった彼女は、ポットの置いてあるサイドテーブルへ向かいながらそう言い置いた。だから彼女の表情は伺えなかった。 コポコポとポットに注がれるお湯の音が、沈黙の降りた室内に響く。さっきの言葉がじわじわとサクラの脳に染みこんできた。 「私に聞きたい――というより誰かに聞いて欲しかったけれど、言い出せないことがあって。心のなかではもう、決めてしまったことがあって。決めたものの、どうしていいのかわからなかったり、やっぱり辞めたいという気持ちも捨てられなくて。迷路で迷っているような心地で」 ポットにティーコジーを被せて抽出している間、緋穂は振り返らずにサクラに話しかけていた。 だから緋穂の表情はサクラに見えないし、サクラの表情も緋穂には見えない。 「助けて欲しいけど、そんなこと言えない、言ってはいけないって思っているのかな……迷惑かけるくらいなら、自分なんていない方がいい、とか」 「……」 どきりと心が揺れた。平然と装っていたはずの心がゆらり、揺れた。瞳も、揺れる。 「なんで……そんなふうに思うんですか?」 絞りだすように言葉を紡げば、ティーポットを手に戻ってきながら緋穂は答える。 「サクラさんってさ、裁縫好きでしょ? 好きな事に没頭していると、余計なこととか嫌なことは忘れられるでしょ。だから……沢山浴衣作っちゃったのも、作っている間だけでも忘れたいことがあったのかな、って」 空になっていたカップに綺麗な色をした液体が注がれていく。カップの底に少し残っていたミルクティーの雫と混ざって、カップの中は薄く濁っていく――サクラの心の中のように。 ポチャン……紅茶の海に沈み、溶けていくしかない薔薇の花をかたどった砂糖は、まるで泡になった人魚姫のようだ。 (私も人魚姫のように、誰にも迷惑をかけないで消――) 「サクラさん」 「! ……ぁ」 カップを見つめて昏い思いに引きずられそうになったサクラを引き戻したのは、正面に座った緋穂の声だった。咄嗟に繕った笑顔を向けて、カップの中でティースプーンを揺らす。 「緋穂さんの方が私より若く見えるのに、緋穂さんお母さんみたいです……ごめんなさい。緋穂さん面倒見がいいから甘えちゃいました」 「なんで謝るの? 甘えちゃいけないなんて誰が言ったの?」 「それは……」 視線をカップに注いだまま、サクラは口ごもる。 「話したくないことを無理に聞こうとは思わないけど、私のところにはいつでも来ていいんだよ? もちろん、サクラさんが嫌じゃなければだけど」 「嫌だなんてことはないですっ……」 「だったらおいで。鍵は空けとくからさ」 こくん、頷くだけが精一杯で。また来ます、簡単には言えなくて。簡単には約束したくなくて。 「……もうひとつだけ、甘えてもいいですか……?」 「ん? いいよ」 「撫でてもらってもいいですか……?」 あの時のように。 「もちろん」 すっと立ち上がった緋穂はすぐにサクラの隣に来てくれて。優しく、優しく頭をなでた後、背中をぽんぽんと叩いてさすってくれて。 あの時と違ってサクラは涙をこぼしてはいなかったけれど、こうしているとなんだか落ち着く気がした。 「……ありがとうございます。もう十分です」 程なく顔を上げたサクラは再び笑みを浮かべていた。 「そう?」 緋穂は小首を傾げてサクラから身体を離したけれど。 「サクラさんに用事がなくても、私に会いに来てよ。私が会いたいんだから、ね?」 その言葉はサクラに気を使わせないためのものだろうか。しかし彼女の無邪気さからは本心と判別がつかなくて。 「緋穂さん、ずるいです。そんなこと言われたら……」 サクラは困った末に、破顔してみせた。 【了】
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