「麒麟はお好きですか」 リベル・セヴァンは無表情に告げた。 若者が急き立てられるように恋をするのは、春が短いと知っているからなのかも知れない。「ごらん、キャサリン。エテルネの花が咲く時、僕らの愛の花も咲き乱れるだろう」 男が愛の言葉を囁けば、「ボブ……素敵。ああ神様、早く花を咲かせて頂戴。花が咲くのなら、大好きなチキンソテーがこの世から消えてなくなってもいいわ」 女は頬を薔薇色に染め上げる。「おいおいキャサリン、冗談を言っちゃいけないよ。君がチキンソテーなしの生活に耐えられるわけがないだろう?」「いいえボブ、エテルネのためなら耐えてみせるわ」「僕は君のことなら何でもお見通しさ。昨日の夜、君がチキンソテーを二回おかわりしたってこともね」「まあ、ボブったら!」 人差し指で女の額をつつく男と、頬を上気させる女。この季節、このエテルネの町でよく見かける光景である。 ヴォロスのとある地方の、小さな田舎町である。しかし、恋人たちはきたるべき季節に備えて華やかに浮足立っていた。 エテルネの木。町の名にもなっている不思議なそれは、町を一望する小高い丘の上に佇んでいる。エテルネの花は形も大きさも様々で、全く同じ花は一本の木の中に数えるほどしかつかないという。 先人たちはそれを男女の絆になぞらえた。数多の花の中から恋人と同じ花を見つけ出せれば、永遠の愛が手に入ると。願掛けのようなそれは言い伝えとなり、今もこの地に根付いているのだ。 恋人たちは花を待ち焦がれる。 薫風に舞う花弁の中から、恋人の持つ花とぴったり重なる物を見つけ出さんと。 しかし――嗚呼、神は恋人たちを呪うたのか。 いつの世も恋はままならぬ、なれど、誰がこんな悲劇を予想しようか。 地を揺るがす咆哮。天を衝かんと伸びる首。モンスターは唐突に、獰悪な地響きを立てて現れた。 ニタァと意地悪く細められる目、べろろんと伸びる紫の舌。 もっしゃもっしゃもっしゃもっしゃ。 ああ、エテルネの蕾、恋人たちの愛の芽が無慈悲に食い荒らされていく。「ジーザス……なんてことだ。花がなくなっては、僕たちの愛も……」「何を言うのボブ! 花がなくたって私の気持ちは変わらないわ、そう、永遠によ!」「ああ、そうさ、そうだろうとも。だけど今は一人にしてくれないか……お願いだキャサリン……」「ボブ……!」「――という予言が導きの書に顕れました」 リベルは無表情に言葉を結んだ。「モンスターは麒麟型。壱番世界の麒麟と似たようなものと考えていただいて結構ですが、体内に竜刻を保有しています。よってモンスターを倒し、竜刻を回収していただきたいのです。モンスターは人里離れた森の中を通ってエテルネの町に向かっています。町に達する前に何とか食い止めてください」 導きの書が示したのは“起こるかも知れない未来”だった。このままでは恋人たちの希望が貪り尽くされ、彼らの仲も引き裂かれてしまうだろう。「ほっとけばいんじゃね?」 やっかみ半分に誰かが吐き捨て、別の誰かが深々と同意した。草食の麒麟が人を食べることはあるまい。リベルは彼らをちらと一瞥して口を開いた。「町ではエテルネの開花に合わせて祭りが催されます。恋の言い伝えはともかくとして、祭りのさなかにモンスターが突っ込めばどうなるか、お分かりですね」 ロストナンバー達は口をへの字に曲げた。 つまり、恋人たちの祭典を成就させるために麒麟を倒せということだ――結果的には。「任務終了後は祭りを見物して下さっても構いません。そこそこ盛大な祭りとのことですし、一度見ておくのも良いでしょう」 残酷な提案を淡々と付け加え、リベルは導きの書を閉じた。 生まれてから一度も恋人ができたことのない人間を壱番世界ではキリンと呼ぶ。 Kanojyo(Kareshi) Inai Reki Iko-ru Nenrei――KIRIN。「ぶっちゃけ、麒麟の気持ち分かるわ俺」 誰かが呟き、別の誰かが深々と同意した。 ――麒麟は孤独に、暗い森の中を突き進んでいる。
麒麟の脚は長く、首は高い。ゆえに彼らは、地べたで群れる他の動物とは異なった視点で世界を見下ろしている。 彼らは、地上に居ながらにして最も天空に近い存在なのかも知れない。 ◇ ◇ ◇ 黒葛一夜はこれといって特異な要素のない顔立ちをしている。そんな彼が無言でアルカイックスマイルを浮かべていれば、さしものリベルとて“真面目に依頼の説明を聞いている”としか思わないだろう。しかし穏やかな微笑の下では昏い感情が静謐に沸騰しているのだった。 一方、ラグレスは洗練させた所作で山高帽を被り、眉ひとつ動かさずに「即ち」と口を開いた。 「人の繁殖行為前夜祭の阻害となるものを排除せよとの御命令でございますね」 ラグレスには悪意も皮肉もない。これが彼の常で、自然体である。 「一個の生命体を維持する為の捕食行動など人類繁殖の前には数ミクロンの価値も無いとの理論、概ね説得力に足るものと存じます」 (いっそ祭りなんぞぶっ壊れればいいのに) 「私は繁殖能力無き一世一代の存在故、伴侶を耽溺乃至渇望する感情は永遠の迷宮入りでございますが」 (っていうか祭りなんぞぶち壊す。何が何でもぶち壊す) 「先程から如何なされました黒葛殿。全身から立ち上るその禍々しき空気、私の目にはとても邪悪な類の物に映ります」 「いいえ大丈夫です気にしないでくださいウフフ」 「さようにございますか失礼いたしました。では大義名分を戴いた処で未知の生物及び文化への接触と参りましょう」 「ええ参りましょう(祭りを壊しに)」 「お気を付けて」 高らかにスッテキを鳴らす英国紳士と彼の後を追う若者の後ろ姿をリベルは無表情に見送った。 「あのー」 という声にリベルが振り返れば、そこには背の高い青年の姿があった。髪はぼさぼさ、顎には無精髭を生やし、細身の肩の上ではオウルフォームのセクタンがきょときょとと首を回している。 「壱番世界の麒麟って、動物園の? それとも伝承の中の? どっちなんだ?」 首を傾げながら、トリシマカラスはどこか頼りない風情で尋ねた。 「前者です。首の長い、あの動物ですね」 「そうなんだ。だったらカタカナでキリンって書いたほうがいいんじゃないか? 普通、漢字で書くのは後者だし」 「ごもっともですが、キリンではKIRINとの区別が紛らわしくなりますので」 「へ、へえー」 「見て、ちとてん。リベルさんの口からあんな言葉が……信じられないわ」 溺愛するセクタンの尻尾を執拗に愛撫しながら――もはや慣れっこなのか、フォックスフォームのセクタンは平然としている――、月見里咲夜はおののいていた。 光ある所に闇がある。幸があれば不幸がある。それは国も時代も、あるいは世界すら跨ぐ普遍の真理であるかも知れない。 「一体どうしたんだいキャサリン、君のチャーミングな瞳の下にクマができているじゃないか」 「ええ、ゆうべは寝るのが遅かったから……」 「夜更かしして吹き出物だらけになっちまえ」 「それはいけない。また遅くまで起きて夜空の星でも見上げていたのかな?」 「そうよボブ、確かに私は星を見ていた。ずっとずっと、あなたという星のことを考えて眠れなかったの」 「星みたいに派手に爆発して粉微塵になっちまえ」 天下の往来で愛を囁き合う若い恋人たちが居れば、彼らをひがむ孤独なキリン達もいる。 彼らのネットワークは計り知れない。誰が呼び掛けるともなく有志が団結し、エテルネの祭りの中止を知らせるビラをばら撒いているのだった。折しも数ヶ月前のエテルネでは新型の病が流行し、感染拡大防止のために外出規制が敷かれたばかりなのだ。 「今年の祭りは中止ですよー! 新型の病にかかりたくなければ一人で家にこもっててくださいねー!」 声を枯らすも、情熱的な恋人たちには届かない。 だが、空しいビラが“彼”の足許に舞い降りたのは運命だったのかも知れない。 「………………」 ほっそりとした指でビラをつまみ上げ、彼は悪戯っぽい笑みを閃かせた。 「ちょっとよろしいかしら。お願いがあるのですけれど」 「ウホッ」 キリン達はにわかに色めきたった。トラディショナルなお嬢様スタイルに身を包んだ彼の姿は清楚な美女にしか見えないからだ。緩くウェーブのかかった白い髪、控え目なレース付のブラウスにふんわりしたフレアスカート。色の黒い肌とすらりとした長身さえもエキゾチックな魅力を演出している。 「なななな何ですかお姉様」 「私のことは白蛇の娘とお呼び下さいませ。――あるいは“マルフィカ”、と」 白蛇の娘(マルフィカ)は睫毛の長さを誇るようにゆっくりと瞬きをした。 エテルネの木は町を見守るように佇んでいた。丘を渡る風は優しく、薫り高い。さわさわと揺れる蕾ははちきれんばかりに膨らみ、開花の時を今か今かと待ちわびている。 「へぇ、これがエテルネの木……エテルネの花かぁ」 感嘆の声を漏らしたのはやはりカラスだった。エテルネの蕾を観察する彼の横顔は完全に画家のそれになっている。 「凄いな。普通、一本の木には一種類の花しかつかないのに。ちょっとスケッチでも……」 「危のうございますトリシマ殿」 「ん? うわっ」 冷徹な風切り音が耳元を掠め、カラスはその場に尻もちをついた。ラグレスが目にも留まらぬ速さでステッキ――仕込み杖である――をふるい、一束の蕾を刈り取ったのだ。 「わざわざ花を切らなくてもいいんじゃないか? 麒麟を何とかしに来たわけだし」 と止めに入るカラスを一夜のアルカイックスマイルが見つめている。 「この蕾は麒麟殿への餞にございます。死刑執行の前は被告に望みの物を摂取させるが定石」 「……それはちょっと」 「ご安心下さいませ。形式だけの心積もりでございます」 「いや、そうじゃなくて。もしかすると、体内の竜刻を回収すれば麒麟は大人しくなるんじゃないか? なら殺さなくてもいいんだよな」 人を襲ったわけでもないモンスターを殺すのは抵抗がある。生け捕りにして竜刻の摘出手術を行えば良いというのがカラスの主張だった。しかしラグレスは相変わらず眉ひとつ動かさない。 「ご指摘ごもっともにございます。なれどエテルネの花を求める所業が麒麟殿の性(さが)によるものか竜刻によるものかは未だ不明なれば、竜刻の摘出のみを完遂したとしても人類繁殖前夜祭を蹂躙する可能性は否定できません。それ即ちこの町の民の存亡に関わると私は解釈いたします如何お考えでしょうか。加えて繁殖の予兆に浮足立つ人類の群れに麒麟殿が突進すれば死傷者の一人や二人。此度の任務は予防的措置の意味合いを内包しているものと思料いたします」 「うーん……そう……なのかなあ……」 慇懃かつ無表情に畳みかけられ、頼りない良識人は真剣に頭を悩ませている。 「とりあえず」 黒髪を風に弄ばせ、一夜は爽やかな笑顔を一同に向けた。 「予言によれば、麒麟は花を狙うんですよね? だったらここで待ち伏せして全員で麒麟を囲んでふるぼっこにすれば良いと思います。その時にちょっと花が散ったとしても木さえ残っていれば多分大丈夫だと思いますし、思いっきり暴れてしまえばいいのでは」 「見える……黒葛さんの背後に何か見えるわちとてん……」 「そうですか? きっと依頼に挙手した皆さんが零世界から応援してくださっているんですよHAHAHA」 相変わらず好青年然と微笑む一夜だが、その目は決して笑ってはいない。 一夜にも恋人がいた時代があった。しかし女とは我儘で強欲な生き物だ。男には様々な世界があるというのに、男の世界を自分だけで占めることばかりを望む。だが一夜には恋人よりも世界よりも大切な存在がある。妹である。そう、一夜はキリンではないがシスコンだった。 挙句、あっさり振られ、今も恋人はいない。妹とアルバイトが優先なので恋人は特に求めていないが、感情は理屈ではない。苛立つものは苛立つのである。とても苛立つのである。 とはいえ依頼自体はきちんとこなすつもりだ。周到な一夜は、麒麟が近付いた場合に備えて町の上空にオウルフォームのセクタンを待機させていた。 「これが純真で純朴な恋人同士ならまだ応援できたでしょうけどボブとキャサリンのノリだと素直に応援出来ないっていうかぶっちゃけむかっ腹が立ちますよね。花が散って恋も散るなら元からその程度の思いなんですよウフフ」 後段は正論である。 「とにかく、俺は町の方に行ってみる。手術できるやつがいないかどうか――」 カラスはそこで言葉を切った。 蠢動。あるいは、胎動。その不吉な地鳴りは、ウンカの群れのように唐突に湧き上がった。 「麒……麟?」 咲夜はさっと身構えたが、すぐに首を傾げた。なぜなら、地鳴りは町の方角から聞こえてくるからだ。 現れたるは――黒。否、黒山のような人だかり。 人間の集団が、エテルネの木を目指して津波のように走ってくる! 「リア充絶滅しろ」 「祭りは家族とご馳走を食べるための日に決まってんだろヴォケ」 「男はなぁ、三十まで純潔を保てば魔法が使えるようになるんだぜえぇぇぇ!」 「うわっぷ!」 嫉妬憤懣不満怨嗟嫉妬羨望鬱憤嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬。強烈な負のオーラと呪詛のように繰り返される言葉に呑み込まれ、カラスはまたしてもその場に尻もちをついた。 「さあ皆、存分に。ぞ・ん・ぶ・ん・に毟って下さいませね?」 群れの中心から楽しそうな女声が聞こえた気がした。群衆は鬨の声を上げ、砂糖菓子を見つけた蟻のようにエテルネの蕾に殺到する。カラスはもちろん止めようとした。しかし非力な良識人が貪欲なキリンの壁に敵うわけもない。 目の前で繰り広げられる惨劇を見つめながら一夜は相変わらず微笑んでいたし、ラグレスはやはり眉ひとつ動かさなかった。 「まさに津波の如き勢い。これが群集心理というものにございましょうか、負の感情による結託がこうも強固だとはいや実に興味深い」 黒山の群衆が去った後にはエテルネの裸木だけが残された。そう――期せずして一夜の目的は達せられたのだ。 「いやあ残念だなあ、花が全部散っちゃったじゃないですか。でも木は無事だから大丈夫ですよHAHAHA」 ◇ ◇ ◇ 視点の高さゆえにキリンは孤独だ。しかしそれを憂う必要はない。 彼らは、他者に頼らずとも自己のみで満足を得られる。それこそ内面の充実と成熟の証左に他ならぬのだから。 ◇ ◇ ◇ ロストナンバー達は丘の背後の草原へと移動した。森を抜けた所で麒麟を迎撃しようという算段である。 足の下に地響きを感じる。じきにモンスターが――麒麟が現れる。 しかしキリンはいたる所に存在するのだ。そう、世界を股にかけるロストナンバーの間にさえも。 トリシマカラス、三十一歳。現在、彼は医療関係者を求めてエテルネの町を駆けずり回っている。 「誰か手術できるやつはいないのか? ……え? あ、そうだ、俺もキリンか。そっち方面にあんまり興味ないから、嫉妬とかは……魔法? うーん、それ迷信じゃないのか?」 月見里咲夜、十八歳。恋人はセクタンともふもふ。 「ふふ……クリスマスは、家族とクリスマスケーキを食べる日よ。色気より食い気とモフトピア、それがあたしの正義(ジャスティス)、今回はヴォロスだけど。さあ行くわよちとてん!」 咲夜が睨み据える先には、地響きを立てて突進してくる麒麟の姿。 いざ出陣――の前に、問題である。咲夜が身に着ける品のどれがトラベルギアか、お分かりだろうか。 1.身に纏う大正レトロな袴 2.さらさらと靡く髪の毛を飾る清楚な花 3.繊手に携えたドット柄の汗拭きタオル 正解はのちほど。 「準備はよろしゅうございますか皆様。麒麟殿のおなりにございます」 かつんとステッキを鳴らし、ラグレスが平坦な声で告げた。 ぶひひ~ん! と麒麟がいななくかどうかは定かではないが、旅人達の耳にはそんなふうに聞こえた。 しかし、それは真にいななきであったのか。悲鳴、あるいは慟哭ではないのか? 「この麒麟も異性との縁を得られなかった同情すべき方だという理解で良いのかしら?」 ほっそりとした指を顎に当て、マルフィカは緩やかに首を傾げる。彼の細腕には、なぜかエテルネの花弁をこんもりと盛った花籠が抱えられているのだった。 「え、この花? ええ、先程ちょっと。リア充たちの陰で涙を呑んでいる人々が協力して下さったものですから。嫌ですわ、扇動ではなく先導とおっしゃって下さる? ……それにしても」 色っぽく反り返った睫毛をそっと伏せ、物憂げに溜息をつく。 「ヒトの世界と同じように、麒麟の世界も厳しいんですのね。私も女の子になかなか恋愛対象として見てもらえませんのよ」 「エッ」 「……あら、女が女を好きになってはいけない?」 「いえいえいえいえ」 妖艶に笑いかけられて、咲夜はぶんぶんとかぶりを振った。月見里咲夜十八歳。大人の世界には知らない方がいい事もあるのだと悟った瞬間である。 長い脚を駆使し、麒麟が一気に距離を詰める。いかに草食とはいえこの巨躯を間近で見れば恐怖も湧くというもの。しかしラグレスは微塵も怖じなかったし、相変わらず落ち着き払っていた。というよりも彼は常に無表情だ。 「待たれよ麒麟殿」 フロックコートを翻し、もうもうと立ちこめる土埃の中にひとり進み出る。底意地の悪い瞳がぎょろりとラグレスを見下ろした。折り目正しい英国紳士は山高帽を取って一礼し、エテルネの蕾を無警戒に進呈した。 「貴殿は人類の未来の為その尊厳をこれより踏み躙られるのです。最後の晩餐を御堪能なさるが宜し」 静寂。そして、一瞬ののち。 べろろろろん。 「……うわぁー」 と呟いたのは誰だっただろう。 何だかシュールな光景であった。 肉厚で巨大な紫の舌が、エテルネの蕾ごとラグレスの顔を愛撫している。 「もしや麒麟殿は私を同族即ちキリンとお考えにございますか。さればこの所業は友愛乃至同情の発露にございますねかたじけのう存じます。しかしこの身は繁殖能力を持たぬ存在なれば伴侶を渇望する貴殿の心情に寄り添うことは到底かないませぬ何卒ご了承下さい」 べろんべろんと舐め回され、しゃぐしゃぐと帽子をかじられながらラグレスは相変わらず表情を変えない。彼は常に無表情である。 「要は、あの紳士は囮になって下さっているのですわね?」 「多分違うと思います」 「この機を無駄にはできませんわ」 一夜の突っ込みを無視し、マルフィカは美しく跳躍した。 「さあ、思う存分召し上がりなさい!」 ぱっ、とエテルネの花が舞う。バレリーナの如く跳びながら、籠の中の花を繊細な指で撒き散らす。花吹雪の如きその光景に誰もが目を奪われた。そう、麒麟さえも。 ぶひひひ~ん! と麒麟がいななくかどうかはさておき、目をハートの形にした――無論比喩である。実際に目がハートの形になったら大変だ――麒麟は罠へと食い付いた。 花吹雪は目くらましだ。 「参りますわ」 マルフィカの髪の毛が蛇の如くうねる。柔らかなウェーブヘアは瞬時に剣へと姿を変えた! 「参ります」 続いて、咲夜がびしっとトラベルギアを構える。 その正体は。 ……タオルだった。 「おほほ、これはれっきとしたトラベルギアですわ。北海道遠征の時も変異動物相手に渡り合えたんだから。というわけで、正解は――3! “繊手に携えたドット柄の汗拭きタオル”よ! ……あ、自分で自分の手を繊手なんて言っちゃっていいのかしら。とにかく!」 ばっちいぃぃぃぃんっ! 「此処で食い止めます! 町には手出しさせませんよ!」 べっちいぃぃぃぃんっ! 小柄な全身を使ってタオルを振り抜く度、鞭打の如き打撃音が響く。日本刀を振り下ろす音と濡れた手拭いを振るう音は似ているという。濡れたタオルを人に向かって振ってはいけないと言われているのはこのせいだ。事実、咲夜の攻撃は地味(画的にも)ながらも確実にダメージを与え続けていた。 「麒麟いいぞもっとやれと言いたいところなのですけれど、罪のない方々にまで害が及ぶのは良くありませんわね。――ただし」 剣をふるい、マルフィカは艶やかに笑う。 「もちろん、この“罪のない方々”にリア充は含まれませんわよ?」 ツーリストであるマルフィカはなぜか日本のサブカルチャーに詳しかった。 一方、一夜はエテルネの花吹雪に紛れながら攻撃を繰り出す二人の姿を微笑とともに見つめている。 「さて……そろそろ俺も加勢しましょうか」 一夜のトラベルギアはガムテープだ。 「そりゃ、ねえ? 仕事ですから。依頼は依頼としてきちんとこなしますよ、ええ仕事ですから」 祭りを楽しむのは恋人達だけとは限るまい。子供や夫婦、昔を懐かしむ老人もいることだろう。そう思えば祭りを守りたくなる。 「――だがしかし」 びびびびび。勢い良くテープを引き出……もとい、自身の得物を構えた一夜は、 「ボブとキャサリン、てめーらは駄目だァァァァ!」 渾身の雄叫びと共に大地を蹴った。 「ハックション!」 「どうしたのボブ、大丈夫?」 「ああ、大丈夫だよキャサリン。もしかすると、誰かが僕の噂をしているのかも知れないね」 「もう……一体誰がボブの噂をしているのかしら」 というやり取りが聞こえて来てカラスはふと足を止めた。 (ボブとキャサリンって、あの人たちか) べったりと腕を組み、互いをいちゃいちゃとつつき回す二人は沿道に満ちる負の視線に気付いていないようだ。 もっとも、その程度はよくある話。カップルの上にバを付けて揶揄する程度にはありふれた現象である。若さを謳歌する二人の姿は、カラスの目には微笑ましくすら映るのだった。 リベルの予言によれば彼らの愛はエテルネの花と運命を共にするという。しかし――麒麟が時期を早める可能性があるというだけで――、元より花は散るがさだめだ。 「形のあるものでしか愛を確かめられないなんて、それって本当に相手の事を想っているって言えるのかなぁ?」 一夜と同じような事を言っているのだが、一夜が言うよりも数倍説得力を持って聞こえるのはなぜだろう。 「……っと。それより、早く探さないと」 カラスは虱潰しに医者を探していた。田舎町にも医療関係者はいる。しかしモンスターの体内から竜刻を摘出すると聞いた途端に尻ごみする者ばかりだった。 出来ることなら殺さずに解決したい。その後は草に寝転びながら麒麟とのんびり過ごしてみたいものだ。 ◇ ◇ ◇ いかに内面が充実しようとも、孤から個は産まれない。次代を担う子が産まれなければ社会は存続すら危うくなる。 だとすれば、恋愛至上主義や結婚絶対論といった風潮は国家維持のために作られたイデオロギーにすぎないのかも知れない。 ◇ ◇ ◇ エテルネの花吹雪を麒麟に投げつける。視界を奪い、ヒットアンドアウェイを繰り返す。自らの髪で造形した剣を振るいながら、美しき白蛇はわずかに唇を噛んだ。彼は先程から必要最低限の攻撃しか加えていない。 「出来れば、気絶させて森に放したいのですけれど……」 しかし麒麟もさるもの、なかなか倒れない。羽虫を追い払う牛の尾の如く首を振り、ロストナンバー達を蹴散らそうとする。 「ちとてん!」 咲夜の声に応じ、フォックスフォームのセクタンがぽふんと飛び出す。吐き出されるのは火炎弾だ。モンスターとはいえ素体は獣、火を用いた攻撃は効果があったようだ。 「好機」 ラグレスは相変わらず無表情だった。よだれでべちょべちょにされた山高帽を厭う様子も見せず、一気に麒麟に肉薄する。 抜き放たれる仕込み杖。迅雷の如き速さで、一閃! 「アッ……」 マルフィカの声は麒麟の悲鳴に掻き消される。 左前脚を切断された麒麟が盛大につんのめり、地響きを立てて地べたに転がった。 「これで皆様の攻撃も当たり易くなる事請け合い。ご希望とあらばもう一本ほど切断いたしますが如何いたしましょう」 「ちょっと。気絶させたかったのですけれど」 「此度の任務は麒麟殿の屠殺にございますれば」 ラグレスはやはり慇懃で、無表情だった。 咲夜はおっかなびっくり麒麟の背後に近付いた。目的は麒麟ではない。麒麟の傍に降り積もったエテルネの花である。 (トランプ遊びの神経衰弱みたいよね……沢山の花の中から、同じ物を見つけ出すって) 試しに一つ手に取り、同じ花を探してみたいものだ。もっとも、同じ花を見つけたところでそれを持つ相手はいないわけだが。なぜなら咲夜はキリンである。 「………………」 咲夜はニヒルに微笑んだ。少女の名残を留める顔立ちには不似合いな笑みである。 「この花……砂糖漬けにしたら、美味しいかしら? ちょっと味見を……」 もっしゃり。 花にかぶりつく女キリンを、セクタンのちとてんが何とも言えない表情で見つめている。 「ふ……ふふ……何やってんだろあたし……」 「危なーい」 という一夜の声で咲夜は我に返った。もちろん、咲夜の行動が危ないのではなく咲夜の身に危険が迫っているという意味である。 べろろろろろろん。 「ひいっ!」 エテルネの花に反応したのか、それとも同族のにおいを嗅ぎつけたのか。首を捻った麒麟の舌がおぞましい速度で咲夜へと迫る。一夜がヨーヨーの要領で得物(ガムテープ)を投擲する。びびびびびと音を立てて放たれるガムテープロールは麒麟の額を直撃した。 ぶひひ~ん! と麒麟がいななくかどうかはさておき、一夜は素早くトラベルギア(ガムテープ)を手元へ手繰り寄せた。伸びたテープがべたべたとくっついたり絡んだりするのはこの武器(ガムテープ)の宿命か。 「……うわぁー」 再び攻撃に転じようとして、一夜は露骨に顔を歪めた。 まさにガムテープ脱毛である。テープの粘着面にはびっしりと麒麟の毛が付いていた、剣山の如くみっちりと。 「これは……地味に効くかも……」 もちろん麒麟の額には中途半端なハゲが出来ている。涙目でぶひぶひと鼻を鳴らす麒麟は、とうとう一夜へと狙いを定めた。野性の本能は、一夜が同族ではないことを見抜いたのかも知れない。 体は大きくとも、草食動物は優しい目をしている。それはこの麒麟とて同じだ。 「お腹空いてないか?」 両手いっぱいに草を抱え、トリシマカラスという名のキリンが歩み寄る。麒麟は嬉しそうに喉を鳴らし、草の山へと顔を突っ込んだ。 べろんちょ。 「よせよ、くすぐったいだろあはは」 どさくさに紛れて頬を舐め回されるが、カラスはそれすら嬉しいらしい。 「やっぱり竜刻のせいだったんだな。殺さずに済んで良かった」 麒麟の首を撫でながら微笑むカラスだが、その瞳をふと寂寞がよぎる。 旅人は任務を果たせば帰還するのみだ。そして、現地の住人は高確率で旅人の事を忘れてしまうという。 「……なあ」 問いかければ、つぶらな瞳が物問いたげにカラスを見下ろす。 「俺のこと……さ」 忘れるなと。残酷な願いと知って尚、そう望まずにはいられない。 べろろんちょ。 いらえの代わりに麒麟の舌が降りてくる。 ああ――紫の舌は、こんなにも温かい。 という夢想は容赦なくぶち壊された。 「――――――!」 戦場へと戻ったカラスは瞠目した。 脚を切断され、地面を這いずる麒麟。なぜか額の辺りが禿げ上がっている。そして、麒麟の先にはトラベルギア(ガムテープ)片手に逃げ惑う一夜。 「手術を手がけられる人間は見つかりましたの?」 マルフィカの問いにカラスは力なくかぶりを振った。もはやどうにもならないのか。もう、殺すしかないというのか? だが、悲嘆に打ちひしがれるカラスにマルフィカはこともなげに告げた。 「魔法で何とかすればいいじゃありませんの」 「魔法?」 「使えるでしょう? 三十歳を過ぎているのですから」 「いや、それは迷信……」 分かる者にしか分からない会話を繰り広げる二人を後目にラグレスの仕込み杖が閃く。咲夜の得物(汗拭きタオル)が唸りを上げる。一夜が振り向きざまにトラベルギア(ガムテープ)を振り回す。べりりと毛を剥がされ、麒麟の怒りに更なる油が注がれる。 ぶっひひ~ん! と麒麟がいななくかどうかは(以下略)、それは真に怒りであるのか。身を切るような孤独の寂寥に慟哭しているのではないのか? 「――仕方ありませんわね。覚悟を決めましょう」 剣(髪の毛)を凛と構え、マルフィカが告げた。 「私達に出来ることは、苦しむ時間を短縮してあげることくらいじゃなくて?」 「そう……だなぁ」 肯きかけたカラスであったが、その視線はマルフィカが持つ花籠の上で止まる。 「わざわざ花なんか使う必要ない、と言いたいんですのね? ごもっともですけれど……」 美しき確信犯は物憂げに瞳を伏せ、 「私は女ですもの、非力なオ・ン・ナですもの、自分の身を守る工夫になるならどんなに小さなことでも積極的にしていかないとすぐにやられてしまいますわ。エテルネの花をだめにしてしまうのは、とっても、とっっっても、心苦しいのですけれど」 目尻に嘘んこの涙を光らせながらしなやかに地を蹴った。 「ではもう一本」 ずずうぅぅぅぅん。巨体が倒れ、もうもうと土埃が上がる。ラグレスに右の後脚を切断された麒麟は断末魔の雄叫びを上げる。マルフィカの剣が肉を斬り裂く。一夜のガムテープが角に巻き付く。 「ああ……」 カラスはその場にがくりと膝をついた。 「ごめん、ごめんな。違う形で出逢いたかったよ……」 その声が届いたのだろうか。 痛々しい咆哮を上げる麒麟の瞳が、刹那凪いだ、気がした。 「さあとどめを月見里殿」 「え、あ、あたし?」 「月見里殿がいらっしゃる場所が一番急所に近うございます故」 「じゃあ……参ります!」 ぶわちいぃぃぃぃぃんっ! 大上段から振り下ろされたトラベルギア(汗拭きタオル)が、不条理な攻撃力で麒麟の命を刈り取った。 カラスは深々と嘆息した。彼に出来ることは、麒麟の瞼をそっと閉じてやることくらいだった。 「あの世でなら沢山食べられるよな……」 降り積もったエテルネの花を丁寧に集め、遺骸の上にかけながら静かに冥福を祈る。 「危のうございますトリシマ殿」 「ん? うわっ」 冷徹な風切り音が耳元を掠め、カラスはその場に尻もちをついた。ラグレスが目にも留まらぬ速さで仕込み杖を抜き放ったのだ。 「な、何をする気だ」 「竜刻を取り出したのち麒麟殿の屍を捕食致します宜しゅうございますか」 「えっ……」 「無論他に希望者がおられるなら独り占めなど滅相もございません。適切に切り分け給仕致します」 「さすがにそれはやめたほうが……お腹壊すかも知れませんよ」 と止めに入ったのは一夜だった。魔法生物たるラグレスが“お腹を壊す”ことがあるかどうかは別として、だが。 竜刻の摘出はラグレスが行った。熟したトマトから硬い骨まで綺麗にスライスできる彼の仕込み杖をもってすればたやすい作業であった。 「これにて任務完了、されば私は祭典の見学へと参ります。繁殖前夜祭の雰囲気を見聞するのも勉強のひとつでございましょう」 「あ、お祭り見に行くんですか? あたしもちょっと見てみたいなー」 「御一人様の御婦人はエスコートも承ります如何でしょうか月見里殿。外観は凡庸な好青年を自負しております故お気軽に御用命下さい」 「あはは、ちとてーん、待ってよぅ。もういっそちとてんが恋人よ」 「成程、私ごとき凡庸な生物など狐型セクタンの不条理な愛らしさの前では視界に入らないというわけでございますね理解致しました」 「あ、良かったら一緒にどうかなぁ。俺も祭り見て行きたいし」 「殿方のエスコートとは未知なる領域。精一杯務めさせていただきますが初めての体験ゆえ粗相をしでかしてしまうやも知れませぬその折はご容赦下さいませ。それでは興奮の坩堝へと参りましょうトリシマ殿」 「え、ちょ、待」 貴婦人よろしく腕を取られて引きずられて行くカラスを一夜のアルカイックスマイルが見送っている。 その頃、エテルネの裸木の下ではキリン達による慰労会が催されていた。噛み砕いて言えば自棄酒である。 「ありがとう。皆のおかげで任務を果たせましたわ」 乾杯の音頭を取るのはマルフィカである。酒と美女(?)を囲む宴会にキリン達のテンションはアゲアゲだった、自分がリア充になったのではないかと錯覚する程度には。 「いっ、一番! マルフィカさんにアタックします!」 「ちょおーっと待ったァァァァ! 二番、マルフィカさんに告白します!」 「「マルフィカさん、よろしくお願いしまぁぁぁぁっす!」」 「ごめんなさいね。私、女の子が好きなんですの」 撃沈。しかし、強靭なキリンはそんなことではへこたれぬ。 「百合美女萌えェェェェ!」 「百合? あらそう、そんなふうに見えまして? ふふふ」 マルフィカはミステリアスに微笑むばかりだ。 その後、マルフィカは余ったエテルネの花を持ち帰ろうとして車掌に止められた。リベルへの土産にするつもりだったのだが、異世界からの動植物の持ち込みは禁じられている。 エテルネの花はキリンに毟られてしまったが、祭り自体はつつがなく執り行われ、カラスのスケッチブックには沢山の素描がおさめられることとなった。 紙をめくる度、祭りの雰囲気が静かに再現される。睦まじく寄り添う恋人たちの姿。若かりし頃を懐かしむ老夫婦の穏やかな笑顔。幼子の手を引く若い夫婦。三白眼を好奇心で光らせながら出店を覗くラグレス。「手が滑った」と言いながらトラベルギアを大暴投する一夜、頭髪をガムテープ脱毛されて茫然とするボブ、悲鳴を上げるキャサリン。セクタンと一緒にエテルネの花合わせに興じる咲夜とほんのり困り顔のちとてん。マルフィカ教を名乗る男たちを引き連れて練り歩くマルフィカ……。 最後のページに辿り着いた時、誰もがはたと手を止めるだろう。 そこには、草を食む麒麟の姿が優しいタッチで描かれている。 ◇ ◇ ◇ 地に生きる大衆は、作られた幸福論によっていつの間にか右に倣えの人生を歩むよう仕向けられる。恋愛ありきで異性を求め、急き立てられるように結婚と出産を渇望する。孤は不幸だと刷り込まれているからだ。子孫を残すために孤を脱却せねばならぬという強迫観念に無意識下で苛まれ続けているからだ。 一方、天空に近いキリンは違う。彼らは常に冷静に世の中を俯瞰し、お仕着せの幸福ではなく自らに適した幸せの形を選び取っている。 だがしかし。 「イラっとくるものはくるんですよねウフフ」 「見て、ちとてん。黒葛さんの後ろにやっぱり何か見えるわ……」 (了)
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