深く澄んだ闇が浸食するこの場所を、ニンゲンは《いらずの森》と呼ぶ。 一度迷い込めば二度とでることは叶わない。 一度でも道を違えれば、山の主によって気狂いになるほどの恐ろしさを味わわされる。 それでもなお進んでいけば、やがて自分の身も魂もなにもかもが消えてなくなる。 そんな噂話たちが、ざわざわと、確かな畏怖を込めて囁き語り継がれてきた。 だが、そこに棲まう玖郎にしてみれば、ニンゲンがこの場所をどう呼ぼうともなんら取り合うものではなかった。 平穏であればソレでいい。 樹齢千年を超える大木の、そのてっぺんに止まり、玖郎は夜明けの訪れとともに森の《声》に耳を傾ける。 変わりなく日々が紡がれていくのを確認するために、木々の葉擦れに混ざり、鳥たちのさえずりが届くのを待つ。 待つ。 待って、ふと、さえずりの色が変わったのに気づく。 鳥たちがやけに騒がしくなった。 「……なんだ?」 視線を巡らせていけば、やがて山道を、ひとりの男が何か背負って歩いてくるのが見えた。 ぶつぶつと何事かを呟きながら、重そうに足を引きずり、身を屈め、“スーツ”と呼ばれるものをどす黒く汚したなりで一歩一歩進むその姿は、まるで苦行僧の様に見えなくもない。 ――運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ…… 男が放つ、敵意でも悪意でもなく、ただひとつの純然たる意思が辺りを浸食し始めており、不穏な空気に鳥たちの落ち着きが一層なくなっていく。 「どういうことか」 玖郎が空に手を伸ばせば、その腕に、この森でもっとも懇意にしている鴉が一羽舞い降りる。 きらりと輝く漆黒の瞳には、不愉快さが滲んでいた。 人里にも降りて食い物を得てくる鴉だ。 ニンゲンと出会っただけならば、こうも不機嫌にはならない。 「案内してくれるか?」 ニンゲンの男が一体なにをしようとしているのか、玖郎は見届ける心づもりがあった。 しかし、そのためにはまずこの鴉が導く場所へと行かねばならないと理解する。 ――運ばなければ、運ばなければ、運ばなければ、運ばなければ運ばなければ運ばなければ 鴉に案内されるまま、玖郎は水辺の近い茂みへと降り立った。 一体いつからそこに在ったのか、いや昨日までは確かに存在していなかった、全体を鉄の鎖で何十にも括られた白い直方体がごろりとひとつ転がっている。 そうして哀れにも一羽のカワセミが、その鎖に身を囚われて身動きが取れなくなっていた。 何か分からず近づいて、挟み込まれでもしたのだろう。 「泣くな、いま解く」 複雑に絡み合う鎖からゆるりと救い出しながら、玖郎は肩に止まる鴉の言葉を聴く。 「これをひとは“でんしれんじ”と呼ぶのか」 鉄の戒めから自由になると、カワセミは玖郎の髪を軽くついばみ、空へと飛び立っていった。 怪我をしている様子はない。 だが、鴉はそれだけを伝えるために玖郎をここへ案内してきたのではないのだ。 丸い瞳はせわしなく動いている。 「ほかにも、ひとの運びこんできた《匣》があると?」 山道を行く男の姿が脳裏に蘇る。 アレは、ここに何を運びこんでいるのか。 「つれていってくれ」 鴉はばさりと羽ばたいて、見るべき場所へと玖郎の視線を誘導していく。 電子レンジの次はクーラーボックスが、少し離れた場所に、同じく鎖で幾重にも巻かれて転がっている。 クーラーボックスの次は金庫が、やはり鎖に巻かれて転がっている。 金庫の次には大型のトランクが、鎖に巻かれて転がっている。 点々と、転々と、いったい何がしたいのか、森にそぐわない《異物》が置き去りにされ続けていた。 厳重な鎖は、その匣たちが開かれることを拒んでいる。 鴉は胡乱な瞳で玖郎を見つめ返す。 「このすべてを、先程山道を歩んでいたものが運んだということか」 探るべきなのは、男の素性か。 ニンゲンの文明に関わるモノであり、土には還らぬモノであり、ひいては森の気を乱すモノが運びこまれ、それによって鳥や他の動物たちに害が及ぶならば捨て置けない。 「して、おまえのその足はどうした?」 鴉の足にベッタリと付着した血液は、この鴉自身の傷から出たものではない。 「里に下りてついたか?」 鴉は頷く。 「運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ俺が運ばなきゃ運ばなきゃ俺が俺が俺が運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ」 あの男の声が聞こえてきた。 「運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ」 呪文のように同じ言葉を繰り返しながら、大きな荷物を背負って、玖郎と鴉が眺める“トランク”の近くまで、茂みを分け入り、入り込み、やってきた。 ようやく、といった体で、男は背の荷物を茂みに下ろした。 鴉が、あれは冷蔵庫なのだと告げる。 冷蔵庫とは、ニンゲンが自身の獲物を詰めておく冷えた匣のことだ。 男の背丈よりはうんと小さいが、両手で易々と持ち上げられるモノでもなく、また鉄の鎖もこの大きさではうまく掛ける事ができなかったらしい。 緩んでずるずると解け、一部を引き摺りながら、それでも男は背負ってなんとかかんとかここまでやってきた。 「それをどこへやろうというのだ?」 男は、鴉を肩に止まらせた玖郎を見た。確かに見た。見たがしかし、認識していないように思える。 「……ひとが、いたのか」 「おれはひとではない。ゆえに、ひとであるおまえに問うている。なんのために、ここへかようなものを運びこむ?」 男の目に光はなく、淀んだほの暗さのまま、玖郎を通り越したどこか遠くを見続けている。 「……運ばなきゃならないんだ」 「そのために森が汚されるのを見過ごすわけには行かぬ。おまえには持ち帰ってもらわねば」 「運ばなきゃならないんだ、ここに運ばなけりゃ、困る……そうしなきゃ、消えてなくならんじゃないか……みんな、匣に入って消えたいんだ、そのためにここに来たいっていってるんだ」 だから持ち帰るわけには行かぬと、突っぱねる。 何故にこうも強情なのか計りかね、玖郎はひとまず冷蔵庫を男に背負わせようと抱え上げる。 途端、戒めの解けていたその匣はいとも容易くその口を開き―― ごとり。 中から転がり落ちてきたのは、ニンゲンだった。 どうしようもなく真っ赤に染まって息絶えた若い女が、音を立てて冷蔵庫の中から落ちてきた。 「……あ、ああ」 困惑気味に、男は溜息とも悲鳴とも驚嘆ともつかないモノを口にする。 「ああ、どうして収まっていられないんだ……どうして出てきてしまったんだ」 女を責めるように、男は繰り返す。 「せっかく運んできてやってるのに、どうして言うことを聞かないんだ、まったく、いつもいつもおまえは昔からホントに変わんないな」 ぶつぶつぶつぶつと、物体と化した女への説教は終わらない。 「まったく、まったく、まったく……ああ、運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ……」 ふと玖郎は、鎖で封じられた他の匣たちのことを思う。 ヒトはヒトを殺めることがあるのだと聞いている。 「そうだ、運ばなきゃ……明日になってしまうじゃないか、運ばなきゃ……」 男は冷蔵庫も地に伏した同胞も、玖郎の存在すらもまるで意識の外に追いやって、ただひたすら同じ言葉を繰り返しながら、元来た道を引き返していく。 「やはり里の状況を見ておかねばならぬと言うか」 この辺りに里はそう多くない。 あの男が向かう方角は、かつて玖郎も幾度か通った道だった。 鴉とともに、玖郎は、のたりくたりとよろけながら山道を降りてゆく男のはるか頭上を飛ぶ。 ――この森でなら、すべてが消えてなくなれる。すべてがキレイになかったことに…… 山間に身を寄せ合うようにして佇む集落は、何十年経とうともそう姿を変えるモノではない。 だが、そこにひとの生はなかった。 あるのは《死》そのものだ。 男も女も老いも若いも関係がない。 家屋の外に、中に、そこら中に、累々と死が転がっている。 昨日の夕暮れまでは確かにニンゲンにとって当たり前の営みが繰り返されていたのだろうが、いまはそのすべてが吐瀉物と血液がまざりこんだ腐臭で掻き消されている。 玖郎はぐるりと里の上空を旋回し、それからこの里でもっとも大きな屋敷に植わる樹に止まると、わずかに首を傾げた。 「なにが起きた?」 ひと同士が争う戦は今も昔も変わりなくある。馬を駆り、弓を引き、刀を振るった時代には確かにそこら中に屍があふれていた。 だが、ここで昨晩のうちに戦があったわけではない。 そのような派手な出来事があれば、森に届かぬはずがなかった。 「そうだな、熊もここでは狩りをしない」 鴉の言葉にも頷きで返す。 皆が皆、同じ原因で死んでいるとしか思えない。 だが、皆が皆、同じように苦しみ、亡くなるにはどういったことが必要なのか。 たった一晩で村中のニンゲンが死に絶えるような出来事を、呪い以外の何で考えればよいのだろうか。 「おまえはなにか気づくか?」 鴉は漆黒の瞳を閃かせ、玖郎を見やる。 「ではその祭りの場所にむかうか」 年の暮れには村全体で祭りを行うことを、玖郎はおぼろげながら覚えていた。 村の外れに佇む神社には、この土地の神がまつられている。 祭りの準備を進めていたのだろう、組まれた櫓や集められた酒樽の他、一抱えはある白い箱をいくつも組み合わせてくられた独特の祭壇に、更にいくつもの美しく装飾された匣が置かれていた。 その匣のすべてが細い鎖や縄で括られ、けっして開かないように厳重に封印されている。 そういう決まりなのだろう。 だが、 「……なぜ、これひとつだけ開いている?」 誰かのイタズラだろうか。 たったひとつだけ、掌に載る程度の小さな白い匣だけが、光沢のあるその口を開いていた。 中には何も入っていない。 いや、何か入っていたが、封印を解かれて這い出たのだろう。禍々しい気配の残滓が、触れた玖郎の指先にまとわりつく。 鴉が、不意に玖郎の髪を啄んだ。 「ん?」 注意を促され、耳を澄ませば、境内に至る長い長い石段の一番下からあの男の呟きが聞こえてきた。 「運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ俺が運ばなきゃ運ばなきゃ俺のせいだから運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ運ばなきゃ」 里に戻ってきたのだろう、どす黒く汚れた男の手には、いつのまにか斧が握られていた。 「せっかく帰ってきたのに、なんで俺なんだよ、ひどいな、なんだよ美味い酒を飲もうって、美味いモノをもらってきたって、鍋をしようって言ったくせに、俺が先に送った土産物、みんなで先に喰っちまったとか本当にまったく、開けるなって、開けちゃダメな匣だってあるんだっての、ああもう、本当に、運ばなきゃ」 男は手頃な匣に死者となった同胞を詰め込んでいく作業に取りかかっていた。 「運ぶまでしばし待ってくれ。ああ、そうだ、帰ってくる前に匣神様に会ったっていただろう、山伏のような恰好をして、そう、母さんならきっと話したら喜ぶだろうなと考えていたら一日が終わりかけてしまって、だから遅くなったんだ、アレがなかったら、もっと早くに着いていたな」 前後のつじつまの合わない言葉を呟きながら、男は、石段に手を掛け倒れ伏していた老婆に斧を振り上げる。 匣に入らなければ、入るように切断すればいい。 脈絡がないかと思えばひどく合理的な考えの基で行動するあの男だけが、何故生きているのだろうか。 「あれは、昨夜まではここにいなかったということか……しかし、だとすると……」 人里で起きた出来事が、ひとの道から逸れた男の仕業だというのならば、それはそれで構わないのだ。 しかし、いずれ森にもこの《厄災》が波及してくるのであれば対処しなければならない。 匣の中に残っていた奇妙な気配の残滓、指に絡みついた不快な感触を思い起こしながら、玖郎はそろりと考えを巡らせる。 男がその手で村の者たちを殺して回ったのか。 それとも、厄災をもたらすモノを男がここに運び入れてしまったのか。 あるいは、もっと別の何かが起きているのか。 思案する玖郎の背後に向けて、鴉が鋭く声をあげた―― Thinking time Start!
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