オープニング

 雨が降る。
 光を透かしながら空を覆う、淡い色の雲から滴り落ちる朱色の雫。ひとつひとつが柔らかな光を纏い、瑞々しい緑の葉と、霧のような白い花を濡らしていく。
 桜の大樹を抱く屋敷の庭先に、一人の男が立ち尽くす。
 傘を差す事も忘れ、暖かな雨をその身に受けたまま。
 降り注ぐ朱に浸りながら、何かを待ち侘びるように、ただ穏やかな雨天を仰いでいた。
 さながら祈りにも似たその後姿を、屋敷の奥から見つめる視線があった。
 曇天と同じ色彩の小袖を纏う女が、男の立つ庭に面した縁側に静かに腰かけた。白い湯気の立つ湯呑を二つ、その場に置く。

「もし」

 霞のような声音で、女はその背中へ呼びかける。
 臙脂色の肩が僅かに跳ねる。朱色の雫が肩から散り、雨とともに大地へと落ちた。

「どうぞ、中へお入りくださいまし」

 女を振り返る男のその瞳も、鮮やかな朱の色をしていた。

 ◇

「朱昏の南の国、儀莱へと行ってほしい」
 依頼を受けたロストナンバーの顔触れが出揃って、開口一番、世界司書はそう言った。黄金の瞳を穏やかに細め、導きの書を前肢で繰る。
「……今回はね、東雲宮の茜ノ上からの依頼なんだ」
 儀莱の島には、十の集落が存在する。
 北に蝦夷紫躑躅と黒花蝋梅、東に鳳凰木と椿、南に柊と榊、西に空木と桜、そして中央に槐花と金木犀。それぞれの集落で、朱昏を構成する五つの力と同じ色彩の、十の樹木が常に花を咲かせ葉を輝かせているのだ。
「その集落に一つずつ、これを預けていってほしい」
 云って、虎猫が灯の点る尾で指し示したのは、大きな桐の箱だった。その中には、組み合わせれば陰陽珠の形をとる勾玉が二対四色、薄手の布が二枚、そしてひとふりの剣と一枚の銅鏡が収められていた。
「これは神宝十種と言ってね。皇国に伝わる呪具――かつては神器と扱われていたものだ」
 十種なのに八しかないのは、二種は既に同じ依頼を受けた者に預けているかららしい。
「ひとつひとつが五行と陰陽に対応している。例えばこの赤と青の陰陽珠は生玉と死返玉、火行の陰陽だ」
 朱昏の世界計によく似てるけど、れっきとした本物だよ、と虎猫は茫洋とした眼差しを注ぐ。
 十種揃えば死者をも蘇らせると云われた、さる天神の一族に伝わる秘宝。それを何故、儀莱へ届けてほしいと茜ノ上はロストナンバーへ頼み出たのか。
「物質は魂のように循環できない。紅柄の妖のように魂を持っていれば別だけれど。だから、海を渡ることのできるおれたちに依頼をしたようだ」
 十種揃ったのならば、元の持主であった丹儀速日の眠る地に返してほしい、と、天帝の妹はそう言ったのだという。
 そして、生きている人間がロストナンバーの手を借りずに儀莱へ渡る術もない。南の島へ渡った力は、その神と共に眠り続けるだけだろう。
「……しかし、あの島には既に」
 神妙に言葉を挟んだ旅人の一人に、虎猫はゆっくりと黄金の瞳を瞬かせて頷いた。
「物部親子の事かい?」
 先だって東国で事件を起こし、討伐された天神の末裔の名を口に乗せる。母親は真都で、息子は河内の森で、それぞれ朱色の雨に依って儀莱へと送られた筈だった。その彼らの居る場所へ、十揃った神宝を態々送り届ける事への懸念を問われ、しかし虎猫は僅かに笑って言う。
「大丈夫じゃないかな、たぶん」
 酷く曖昧な言葉だ。
 しかし、酷く確信に充ちた言葉でもあった。
「儀莱へと渡った死者の魂は、生前の記憶をすべて喪うんだ」
 現に、ロストナンバーである菊絵は、生前の記憶を取り戻してしまった事で儀莱――朱昏から放逐されてしまったらしい。物部親子が記憶を保っている可能性はゼロに近いだろうと請け負って、それに、と虎猫は言葉をつづけた。
「彼らが目覚めさせたがっていた神、丹儀速日(ニギハヤヒ)はそもそも戦いなんて望んでいないんだし」
 東国でロストナンバーたちの見てきた光景によれば、彼の神は南の海に封ぜられることを甘んじて受け入れたのだという。
 中津国の統治を世界計を得た龍王に任せ、天神は地上から身を引いた。
「今は儀莱の神坐――花の咲く離れ小島があっただろう、あそこの地下にある祠で眠っているそうだ」
 そこまで云って、虎猫はああ、と思い出したように声を零す。
 朱金の前肢が導きの書を捲り、やがてとある項で肢を止めた。
「……そういえば、現地では月に一度の干潮の夜に当たるらしい。神坐の磐戸が開かれて、祠への道が繋がれるそうだから――気が向いたら見に行って、確かめてきたらいいんじゃないかな」
 ――そしていつものように、重大な事柄をついでのように付け加えるのだった。

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!注意!
このシナリオは、同時公開の企画シナリオ『【遥かニライカナイ】ニイルピトの訪い』と同じ時系列の出来事を扱っています。
同企画へ参加予定のお二人は、申し訳ありませんが当シナリオへの参加をご遠慮下さい。
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品目シナリオ 管理番号3085
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメント皆様、こんばんは。玉響です。
今回は皆さまを、南の海と花とが抱く、天神の許へとご案内いたします。

今回の虎猫からの依頼の趣旨は、神宝十種を各集落に預けに行くついでに、現在の儀莱の様子を見て回るといったものです。
これまでに朱昏の各地で命を落とした人々と、お望みであれば再会できるやもしれません。
また、儀莱の雨は皆様の過去を映し出します。視たい光景がある場合はプレイングにてご指定ください。

夜になれば潮が引き、神坐である離れ小島と本島が歩いて行き来できるようになります。それに合わせ、天神丹儀速日の眠る祠への扉が開かれますので、ご興味のある方はどうぞ。

あれこれと申しあげましたが、難しい事は考えず、南の島でのひとときを満喫していただければと思います。

それでは、参りましょう。全ての終わりの雨が降る、魂の還り着く場所へ。

参加者
シーアールシー ゼロ(czzf6499)ツーリスト 女 8歳 まどろむこと
雪・ウーヴェイル・サツキガハラ(cfyy9814)ツーリスト 男 32歳 近衛騎士/ヨリシロ/罪人
ニコ・ライニオ(cxzh6304)ツーリスト 男 20歳 ヒモ
奇兵衛(cpfc1240)ツーリスト 男 48歳 紙問屋

ノベル

 白い傘がくるりとまわる。
 朱の雫がぱたりと跳ねる。
 ぬかるんだ地面を踏みしめながら、不可思議な銀の色彩だけを纏った少女は白い花の下を歩く。
 空木の花を覆い尽くすように、雨が降る。雫の落ちる音に重なるようにして、悲痛な、怨嗟の籠った叫び声が耳を貫く。ふとそちらへ視線を向けたシーアールシー ゼロの視界が、朱のノイズに染まった。
 一瞬の砂嵐の後、全面のスクリーンに映し出されるのは、インヤンガイの廃屋。

(――何故だ。判らぬ、呼べぬ!)

 鼓膜を引き裂くような聲。雨のヴェールが振動に揺れる。懐かしい声だ、とゼロは銀の瞳を瞬かせる。
 かつて、ゼロが名を持たなかった頃に出遭った事件。インヤンガイのポルターガイスト。

(汝に真の名などない、ただの零じゃ――!)

 ――皮肉にも、その言葉が、ゼロに名を与えたのだ。
 声はそこで潰えた。インヤンガイの部屋も。おどろおどろしい暴霊の姿も。雨に打たれ、静かに消えようとしている。
「あれから」
 雨のヴェールへ向けてそう声を掛ければ、それに応えるかのように暴霊の影が揺らいだ。
 彼は、昇天することができたのだろうか。
「安寧を手に入れることはできたのです?」
 疑問を素直に口に出しても、暴霊は何の応えも示す事はない。
 ただ、全てを受け容れる朱の雨に降られるまま。
「……だとすれば、喜ばしいのです」
 安寧の志向を好むゼロは、彼の魂もまた、天へと昇ったことを望むのみだった。

 降り注いでいた雨は気まぐれに已んだ。水気を払った傘を閉じて、シーアールシー ゼロは傍らの空木の樹を見上げた。虚ろな白の花弁を少女へと向け、曇天の空に融けるように花が開いている。この路の先に、空木の祝女が住まう屋敷があったはずだ。
「……?」
 ふと足を止めたゼロは、祝女の集落の近くに、人だかりができている事に気が付いた。
 その輪の中に、以前であった少年の姿がある事に気づいて、ゼロは歩みを寄せる。人々が振り返り、珍しい客人の訪れに目を瞬かせた。
「ようじろうさん、お久しぶりなのです」
「……ん」
 少年は言葉少なに、しかしどこか照れたように相槌を返した。ゼロもまた茫洋と頷いた後で、周囲の人々と、彼らに囲まれている白装束の女を見た。朱紫の蝶が描かれた、大柄の羽織も以前と変わらない。
「みなさん、最近来られた方々なのです?」
「ええ。一度にこれだけの方が視えたのは初めてにございます」
 微笑む祝女の傍らには、黒い傘を畳んで提げる女の姿もある。彼女らは先達として、新たに此の地へ流れ着いた人々に説明をしている所なのだという。
「祝女さんは大忙しなのです?」
「十の集落で分担して受け容れていますゆえ、一人が受け持つ人数はそれほどでもないのですが」
 はにかむように笑んで、祝女は集う人々を上向けた掌で指示した。
 臙脂色の軍服を着た、毅然とした姿勢の男性。手を繋ぐ若い男女。草臥れた顔で笑う壮年。それぞれに、背負う影を振り払った後の、からりとした明るさが見える。まるでなにかから解き放たれたかのような、安寧の内にあるかのような。
 儀莱にたくさんの魂が流れ着いた意味を、ゼロはよく識っていた。
「みなさんお幸せそうで、よかったのです」
 淡々とした少女の唇から紡がれる言祝ぎに、祝女と傘の女はその意図を理解できないまま、しかし微笑んで応えた。

 ◇

 霧の花が降り注ぐ。
 否、霧よりも確かな質量と重みをもったそれは、ごくごく小さな白い花弁だ。それが、気まぐれに降り注ぐ朱の雨に打たれて、ひらりと散る。散り続けているのに、一向に樹上の花は減る気配を見せない。まるで落ちた傍から咲いているかのように。
 不可思議な霧の桜が咲く路を歩きながら、雪・ウーヴェイル・サツキガハラは久方振りの儀莱の空気を穏やかな心地で受け入れていた。黒い傘を差して、一際大きな桜の咲く屋敷に足を踏み入れる。縁側に腰掛けていた白装束の娘が、彼に気が付いて表情を明るくした。
「おいでくださったのですね」
 女は霧のような淡い笑みを浮かべて、雪の許へと歩み寄った。
「ああ。機を見て此方にはまた来たいと思っていた」
「嬉しゅうございます、旅の御方」
 自らの≪婚儀≫を祝い、見守ってくれた旅人の片割れに、霧桜の祝女は深い感謝を抱いているようだった。はにかむような、幼くも柔らかな笑みで以て雪の訪れを歓迎する。
「本日はどのような御用で?」
「噫……とある人からの預かりものを持ってきたんだ」
 促されるままに縁側に坐し、朱の雨と霧の桜を眺めながら、桐の箱に収めた神宝を祝女に手渡す。それが何かを告げずとも理解したのか、娘はひそやかに微笑んで受け取った。――生前この宝に縁があった事を、雪は勿論、彼女自身も知らぬ筈だ。
 ちら、と庭の風景に目を向ける。
 朱色の雨が、ヴェールのように降り注いでいる。霧の桜がその合間を縫って、花弁を絶え間なく散らせている。
「……何か、ご覧になりましたか」
 そっと、控えめにそう問われて、黄金のアーモンド・アイズを庭から離して雪はわらった。
「いや、その逆だ」
「逆?」
 幾つもの旅を累てきた雪は、最早過去の光景を望むことはなくなった。朱の雨に、何も見えないことを確認しただけだった。
「記憶はすべて私の中にある」
 甲冑を脱いだ、平服の胸元に掌を当てる。誇らしげに胸を張る。朱の雨に頼らずとも、瞼を閉じれば蘇る光景。――それは、いつまでもこの胸の中にあり続けるから。
「それよりも、私は、新しい光景を見たい」
 これまでの旅で、人々が己の想いを、信念を、愛を貫く様を見てきた。出会った人々の想いや献身が、雪に変化をもたらした。
「私は、やはり、帰らねば。死ぬためではなく、大切な人々を生かすために」
 敬愛する王を、騎士団長を、仲間たちを、国を。
 故郷に、ロイヤルヘヴンに待つのは、死ぬだけの未来ではない。己の手で真実を掴み取るために戻りたいのだと、雪は静謐な決意を固めていた。
 静かに語る雪の言葉を、霧桜の祝女は――記憶を捨て、神に寄り添うことを決めた娘は、眩いものを眺めるように見つめていた。
「……ところで、物部は健やかにしているだろうか」
「物部、と申しますと」
 不意に零した言葉を拾い上げ、祝女は幼い仕種で首を傾げる。儀莱に流れ着いた者は全て、生前の名を捨てているのだと聞いた。当然の反応だろう。雪は首を横に振り、言葉を変えた。
「いや……つい先日、親子、のような年齢の男女が此処へ来なかっただろうか」
「はい、此方の集落にて暮らしていただいております」
 祝女としての務めが果たせている事が誇らしいのか、控えめに胸を張って、娘は微笑んだ。

 ◇

 棘を模した鋭い縁のある、緑の葉が雨露に濡れて輝いている。
 鮮やかな紅の花。首を垂れる罪人のように、下を向く黄金の花芯。肉厚の花弁を伴った椿の花を愛でながら、暖かな風に身を任せる。
 薄く空を覆っていた雲も去り、晴れ渡った青い天の下を、ニコ・ライニオはゆったりと歩いていく。世界司書から預けられた神宝の内東に属する二つを手に、彼は朱の集落を訪れていた。
 路の傍らには、霧桜の集落とは違う、鮮やかで大ぶりの朱の花弁を持った桜が咲いている。
 ニコはふと足を止め、手の中の桐の箱――蓋の開いたその中身へ視線を落とした。ひらり、落ちた桜の花弁が箱の中へ滑り込む。朱と青の陰陽珠に、桜の花。以前この世界で出会った事件を思い出して、ニコの口許に複雑な笑みが浮かぶ。
 ふ、と貌を上げて、其処に在る光景に、ニコは銀の瞳を瞬かせた。
 咲き誇る桜の花、その下に、一人の女が立ち尽くしている。
 いつから其処に居たのかは定かではない。まるで箱から視線を上げた拍子に現れたようだった。
「……きみは」
 問いながらも、彼には答えが僅かながら視えていた。
 細い面の女。磐のよう、とまではいかないながら、荒れた砂地のように乾いた灰色の肌。灰地に淡い紅色の桜が咲く、美しい意匠の小袖に身を包んだ、華奢な体躯の娘。
 娘はニコを振り返り、微笑んだまま彼の瞳を見上げていた。
「月水(つくみ)ちゃん」
 ――根の国では、生前の名は何の意味も持たぬと聞いた。だが、ニコには声を掛けずにはいられなかった。案の定娘は首を傾げて、己の名を呼ばれたとは思っていないようだった。
「どなた?」
 苦悶と哀願だけを紡いでいた唇が、今はただ無垢な疑問を口にする。
「……ああ、ううん。ちょっと、知り合いに似てたからつい」
 ニコは曖昧な、しかし充足した笑みを唇に刷いて、まるきり嘘とも呼べぬ誤魔化しの言葉を声に乗せた。女は首を傾げて、変なおひと、と笑う。その笑顔も、ニコにとっては初めて目にするものだった。
 つい最近若い女の村人が増えたのではないか、と島を総べる黄金の祝女に問えば、彼女は首を傾げたのち、いくつかの集落の名を挙げた。それらを一つずつ訪ねようとして――初めの集落で、ニコは彼女と再会できたのだ。
 忘却は、時に悲しみを呼ぶが、時に幸福を招く事もある。
 生前の記憶と業を洗い流し、また新たな生を待つこの儀莱という島は、歪だが確かに優しい場所だ。
 沢山の贄を捧げられ、生きるに生きられず、死ぬに死ねなかった女。咲いて、散り続ける枯桜の化身。
 願わくば彼女には、呪いと怨嗟から解き放たれて、幸福になっていてほしいと願っていたから。
 こうして、何気ない、普通の会話を交わせることが、ニコには嬉しかった。
「ぼくはニコ。きみの名前、教えてくれるかな」
「わたし? 知華(トモカ)と申します」
 いつもの調子を取り戻したニコが、軽く問いかければ、娘は微笑んで答えた。全ての業が洗い流されて与えられた名、それはおそらく来世で名乗る事になるものなのだろう。
「そう。……また、逢えるといいね」
「? はい」
 願わくば、この島ではない朱昏の地で。

 ――彼女が、今度は生を全うできますように。

 新たな幸いと“生”を待つ娘へ、赤き竜はそう言祝ぎを与えた。

 ◇

 朱の色を帯びた水溜りの上に、一輪の花が落ちている。
「……ふむ」
 暫しそれを見つめたのち、奇兵衛は樹上を仰いだ。
 薄く広がった花弁が、垂れるように下を向いている。遠目には艶やかな黒と視えるが、光に透かされれば深い紫の色彩を見せる、美しい花だ。――躑躅によく似ているが、ここまで美しい黒い色は奇兵衛もまた目にしたことがない。
 花、雨、樹――此の地には、奇兵衛が親しみを感じる気配が多く揃う。然も、現世に存在する幽世と来れば、彼の興味を惹きつけるのも当然だった。
 暫し椿の花の下に佇み、首のように水へ落ちた花に目を伏せて、奇兵衛は歩き出す。
 歩きながら、すれ違う島人たちの様子をうかがう。青年も、娘も、老爺も、小童も、皆、穏やかな表情で会話を交わしている。過去の一切を忘れ、全てを洗い流して過ごせる根の国。何に煩わされる事もない場所。
 不意に童の一人と視線が合い、奇兵衛はゆるりと笑んで手を振った。童が手を振り返したのを見、唐突に開いていたはずの掌から緋色の華を咲かせる。驚きに瞠られる瞳が愛くるしい。この集落と同じ椿の華を模した紙細工を手渡せば、小童は喜び礼を言った。
「皆様どうぞ、お健やかに」
 祝いの言葉と共に、その場を去る。
 ――我が子が逝ったのも、こんな場所ならば良い、と願うでもなく思う。
 執着に悶えるべきは、あの子の願いを叶えてやらなかった己だけで充分なのだから。せめて黄泉では安らかに在れ――心の侭に天を仰げば、その頬に一雫、水が滴った。
「おや」
 続けざまに二条、三条。晴天に朱の筋が閃く。
 緋色の紙を張った傘を掲げ、柔らかく降る雨を遮った。したしたと落ちる雫の音。視界を覆う淡い朱の紗。椿の花咲く路と傘の中の己の間に隔たりを感じながら、奇兵衛は足を進める。

 ――頬に滴った其の雨が、嘗ての涙のように感ぜられた。

(お帰りをお待ちしております)

 ふと聞こえた聲に立ち止まる。振り返れば、傘で遮られた視界に何者かの脚が映り込んでいる。
「……お前さんは」
 傘を傾け、開かせた視界に飛び込んでくるのは――懐かしき店の軒先。立ち去る主を涙と共に見送る番頭や、下働きの者たち。

 店と、店の者に害を為す輩を払った。
 仕事を与え、仕事に応じた給金を与え、労う代わりに皸(あかぎれ)の手に薬を塗ってやった。そのままでは仕事も侭ならぬだろうと当然の事を言えば、何故か感激に打ち震え、感謝の言葉を呉れた。人のこころは判らぬ、と威人の主は訝しんだ。
 体調や其々の人間関係を見るため、餉は常に共にした。
 藪入りの日には帰る家のない者らと料理や酒を愉しんだ。

 ――常に下の者へ気を配ってくれる主人を、店の者は好く慕った。
 それは決して己が優しかったからではない。そうであるよう努めていたからだ。
 だというのに。
 だというのに、別れの日、奇兵衛の役割を知っていた番頭までもが涙を見せた。どうしてお前さんまで泣くんだい、と面喰いながらつついても、彼は何も応えなかった。後続の者は手配しておいた、何を心配する事もないというのに。――否、その理由を喜兵衛は薄々理解していた。
「……噫」
 朱の雨の合間に視える懐かしき情景に、威人はくすぶる笑みを浮かべる。店の者、ひとりひとりの名も未だ覚えている。寄せられる思いも、内心では悪くはないと感じていた。

「あすこは、悪くなかったな」
 命を懸けてもいいと思わせるほどに。

 ◇

 絶え間なく降り注ぐ霧の桜に視界を覆われる中、雪以外の三人の旅人も祝女の屋敷へと集った。
 緑の映える広い庭をも埋め尽くし、花が降り続ける。縁側に坐して彼らを待っていた雪と、屋敷の主たる祝女は微笑んで客人を迎えた。
「彼らは?」
「この近くの家に住んでいるそうだ」
 祝女との談笑を終えた雪が説明を加えながら立ち上がる。

 薄く空を覆う灰の雲を透かして、陽光が降り注ぐ。
 雨の代わりに桜の花弁と光を受けながら、旅人たちは桜の咲く路を歩いた。辿り着いたのは、生垣に囲まれた、小さな家。道に面した側の障子が開いている。
 臙脂色の小袖に身を包み、生垣に背を向けている、一人の男。来客に気が付いたのか、ふらりと身体ごと振り返る。
 鮮やかな朱色の瞳が、四人を捉えた。

「客人か」

 朴訥とした笑みと共に、迎え入れるように彼らの許へと歩み寄る。その瞳には確かに瞳孔と虹彩があり、決して硝子玉のような異質な光を持ってはいなかった。それを認め、ゼロは微睡むように瞳を細める。
「はじめましてなのです」
「ああ」
 都に居た頃のような、刺々しく鋭利な気配は払拭され、男はただ穏やかな視線を銀色の少女へと注ぐ。彼女の姿を見ても何を思い出したりもしないようだった。
「ゼロはゼロなのです。あなたは?」
「私、は……穐原(あきはら)だ」
 聞き覚えのある名だ、と思う。皇を呪った血筋の魂が、次は将軍の家に生まれる。数奇な縁だ。彼は新たな名と命の在り方を与えられ、生を受けるその日まで此処に留まっている。
「御達者なようで、何より。お母上は?」
「母ではない……が、共に住んでいる者なら、先程槐の集落へと出かけて行った」
 此の島に住まう他の人々と同じように解き放たれたような清々しい佇まいを目にし、奇兵衛は眦に皺を寄せ、微笑む。人には荷の重い、淀んだ血の願いを一身に背負いながら、それを一途に叶えようとしていた男の姿はない。
 神が望まぬ願いを叶えたところで、果たして何が起きていたやら。
 何処か酷薄な笑みを扇子の裏側に隠して、奇兵衛はもう片方の指先を顔の高さに掲げた。柔らかく皺を描いた指先が、色香すら感ぜられる所作で滑る。軽く握り、転がすように開けば、その手の内から数羽の蝶が飛び立った。白や緋の、美しい紙片の蝶が。
「おお」
 小童のように驚いた顔を見せて、素晴らしいなと穐原はわらう。拙く伸ばされた指先に、一羽の蝶が止まった。
「何、心ばかりの礼に御座りますよ」
「礼?」
 訝しげにする男へ、奇兵衛はくすむように笑み、扇子を仰ぐ。風に乗って新たな紙吹雪が舞い、霧の花と紛れて踊る。
 解き放たれたように穏やかな佇まいの男を、旅人たちは優しく見守る。
 ――いずれ新たな生を受けた時、はじめて彼は己自身の命を全うできるのだろう。

 ◇

 やがて陽は沈み、薄紅の光を纏う、大きな満月が東の空に姿を見せた。
 コバルトブルーの海が、深くたゆたう群青に代わる。満月が波間に浮かぶ。薄紅色は静かに、凪いだ水面に充ちて、緩やかに海上は淡い色を帯びる。
 薄紅の水面の上を、一筋の光が滑った。
 祝女たちの立つ砂浜から神坐へ、一直線に、海上を奔る朱色の燈。それは鮮やかに海面を燃して、質量のある海水をも二つに割り開いた。
「すごいのです」
 ゼロが僅かに目を開いて、ぽつり、と感嘆したようにつぶやく。雪もまた一つ頷いて、眼前の奇跡に魅入っていた。
「ただ潮が引いて路ができるだけかと思っていたが……これは美しいな」
「これもまた、朱昏の神秘なのです」
「ああ」
 注ぐ光、咲く花、そよぐ風にすら、カミが充ちている。

 ――割れた海の向こうに姿を見せたのは、岩壁の中央に大きく口を開いた洞と、それを鎖す堅牢な磐戸だった。

 ◇

 開かれた磐戸の向こうは、驚くほど光に溢れていた。

 淡い青の、植物とは思えぬ艶やかな質感を持った蔦が、縦横無尽に洞内の岩壁を覆い尽くしている。視界は青に染まり、まるで海中か、或いは空の果てに立ち尽くしているような錯覚に陥る。
 水が浅く張った地面の中央に、白い砂が敷かれた道がまっすぐに伸びている。
 神威に呑まれて足を止めた旅人たちの中で、雪が一歩前へと進み出て、深く頭を下げた。
 充ちる神への敬意を、無言で態度に示す。
 そして、そのまま甲冑の音を立てながら白砂の路を進み始めると、残りの旅人たちも彼の後を追った。

 五色の光が、蔦壁の彼方此方に燈る。淡く明滅を繰り返し、旅人たちの路を彩る。よくよく目を凝らせば、それは小さな電球のようにも、硝子のように硬質な花蕾のようにも視えた。蔦も、花も、全てが鉱石で出来ているような場所だ。
 光の五色と蔦の蒼が、水面に反射して煌めきを映す。不完全な水鏡の中央を旅人たちが進む、その姿をも映し出して、鏡は僅かな波紋を描いた。

 ――其処に、神は眠る。

 光が収まって、彼らの前に初めに目に入ったのは、巨大な朱金の鳥。鶏冠から伸びる長い飾り羽を誇らしく閃かせ、孔雀に似た禽獣は凍り付いたように瞼を閉ざしている。豊かな朱の被毛は、しかし胸元を過ぎた辺りから滑らかな黄金の鱗に変わっていった。禽の肢は爬虫類が持つ鋭い爪に変わり、尾羽の代わりに鱗に覆われた太い尾が長く伸びている。
 禽と爬虫類の混合した異形、それは奇しくも、物部護彦が成り果てた姿によく似ていた。
「此れが」
「天神丹儀速日(ニギハヤヒ)……か」
 広い洞の天井までも届く程の丈を持つ異形の神を、五人の旅人たちは胸に去来する畏れのままに見上げ立ち尽くした。
 その神の在り方は醜悪で、しかし息を吐くほどに美しい。
 水面から伸びる蒼い蔦に全身を絡めとられ、何処か充足した面持ちで眠り続けるその姿に、何者かへの憎悪など微塵も感じ取れなかった。
「では、この蒼い蔦が龍王さんの妹さまなのです?」
 丹儀速日の尾の根元と同じ程の太さを持った蔦は、天神を絡め取った後天井の或る一点へと集中して伸びていた。上へ往くほどに蒼から紫を経て朱へと色を移していく、その質感は樹というよりも、やはり石に似ていた。朱の色彩は地上に咲く珊瑚の樹を思い起こさせる。
 ――よくよく見れば、天神の足許で細く伸びた蔦の一本が、青と黒の陰陽珠を掲げ持つように絡めている。これが儀莱に存在するという木の宝珠なのだろう。
「ゼロちゃん、何やってるの?」
 いそいそと天神の足元――青い蔦にもたれかかり、トラベルギアである枕を抱え始めたゼロへ、不思議に思ったニコが声を掛ける。
「眠る神さまに、微睡みの中でコンタクトを取ろうと思うのです」
「そ、そっか……何となくゼロちゃんなら難なくやってのけそうな気がするよ」
 淡々と、しかし真面目にそう云ってのけるゼロを止める事もなく、ニコは彼女のしたいがままに任せる事に決めた。
「接触……か」
 ゼロの言葉を受けて何事かを考え、雪はおもむろに天神の前へと進み出た。甲冑が澄んだ音を立てて鳴る。
 深々と頭を下げ、両の手を胸の前で合わせ――高らかに一つ、打った。
 鳴動。
 波紋を描くように、洞の内部が重く震えた。
 そして、澄んだ気が充ち、ヨリシロの願いに応えて、カミは降りた。

( ――客人か )

 脳裏に直接響くような、言葉を伴った聲。
 ゼロは微睡みながら、その響きが何処か龍王のものによく似ている事を感じ取った。
「これ……天神の声?」
「そのようですな」
 戸惑いがちにニコが視線を持ち上げて、扇の向こうから奇兵衛が笑う。龍王が目覚めに近づいている今、同じ天神の一柱たる丹儀速日の意識もより鮮明なのだろう。そこを、雪の柏手が捉えて呼び寄せたようだ。

( なにゆえ此の地まで参られた )

 聲は問いかける。
 しかし、青い蔦に戒められた、朱金の禽獣は微動だにしない。瞼を閉じたまま、羽先の一片も震わせずにただ、其処に在る。
「何。ちぃとばかし天神様にお聞きしたい事がありましてな」
「私は、あなたが安らかで在れるよう、舞を捧げに」
 眼前の神威に臆する事もなく答える奇兵衛と、敬意を以て応じる雪。天神は左様か、と鷹揚に頷いて、旅人たちの言葉を待っているようだった。
 微睡み続けるゼロもまた、意識の中に朱金の禽獣の訪れを識る。
「此の島が創られたのは貴方様が為と伺いましたが」

( 私の為と云うならば、そうなのだろう。此処は蒼で織られた我が檻ぞ )

 遥か神代の昔、龍王の妻たる木行の蛇神が、王に抗った天神丹儀速日を絡め取り共に南の海へと沈んだという。しかし当の天神にはそれを恨むような素振りはなく、言葉尻に笑みを孕んでさえいた。
「そのように朗らかに檻と仰られるとは」
 奇兵衛もまた、扇の奥で笑いを返す。

( ――私一人の為の孤独な檻が、時を経て皆の揺り籠となっていたのだ。此れを喜ばずして如何する )

 変質した島の在り方も此の世の摂理と受け容れて、天神は其処に在る。
 彼ら二柱の為に、敬虔に祈りを捧げる祝女たちの存在もある。何を厭う必要もない、と禽獣はわらった。
「あなたは……幸せなんだね」
 その朱色の翼に、ニコは嘗ての、山に棲んでいた頃の記憶が蘇る。人智を超えた存在は、その心がどうあれ、人に畏れられ、或いは崇められるものだ。

( 噫。私は幸せ者だ )

 人を愛する竜の言葉に応え、平穏を愛する禽獣は穏やかに云った。

 甲冑の踵を鳴らすように堂々たる歩みで、異国のヨリシロは神の前に立つ。
 持参してきた黒い紙を広げ、天神の足許に置くと、雪は深々と頭を下げた。紙面には白墨で描かれた龍の姿がある。
「――本当は、こんな即席の物ではなく、もっと力を籠めて描きたかったのだが」

( それ程の時間はなかろう。気に病むな )

 心惜しげに呟く雪へ、天神は鷹揚にわらう。磐戸が開かれている時間はあまりにも短い。その場で陣を描く事は難しかった。
 無礼を受け容れたカミに感謝の意を示して、雪は頭を上げた。腰に佩いた剣の柄に手を掛ける。
 静寂。
 澄み渡るような大気を切り裂くように、刃が閃いた。
 青銀の光を纏い、抜き放たれた刃が滑る。雷光のように迷いなく、淀みなく剣を揮い、甲冑を高らかに鳴らして異国のヨリシロは舞踏のように白砂を踏む。幾度となく此の地で見せてきた舞は、鋭く、美しく、天神の許へと捧げられた。
(それが、あなたがたの選んだ在り方ならば、私は尊重し、敬意を払う)
 舞を捧げながら、心の裡で言葉を添える。
 声には出さずとも、神威充ちる空間で、その言葉は確かに届いたようだった。
 五色の燈が、柔らかく弾ける。
 蕾が綻び、そして散り急ぐように、天神の眠る周りを五色の光が彩った。

 美しい刃鳴りの音を聴きながら、微睡むゼロは意識の裡(うちがわ)で天神と対面する。
 銀の星が白い空に浮かぶ。微睡みの裡に現れた神は、朱の翼を緩やかに羽ばたかせながら中空にとどまっている。金の光を散らせた朱の瞳が、ただじっとゼロを見据えていた。
(はじめましてなのです)
 眠る神と、まどろむものは、声を交わさずに対話する。
(ゼロには此の島が居心地良いのです)
( そうか )
 禽獣は僅かに瞳を細めた。どうやら微笑んだらしい、と微睡むゼロは把握する。自身の領域を肯定されて、厭な気にはならなかったようだ。
 此の島は安寧と平穏に充ちた、ゼロにとっては理想郷のような場所だ。
 だが同時に、それらが異質なものであり、世界のすべてを覆う事がないのだとも知っている。

(天神さまはこの安寧を広めようとは思わないのです?)

( ――此の世は是で均衡を保っておる。どちらに振れても、安寧からは遠退くであろうよ )

(そういうものなのです?)

( そういうものだ。それに、其の役目は磐余日子(イワレビコ)が担っておる )

 世界計を持つものは、自らの思い通りに世界を総べる事が出来る代わり、その均衡までも気を配らなければならないのだと。
 ただ一人の世界に存在したゼロへ、丹儀速日は静かに語る。

 ◇

 輝きを燈す刃を鞘に納め、雪は黄金の瞳を静かに開いた。神秘的な視線をつい、と滑らせて、彼らを取り囲む水面の様子を視る。
「潮時のようですな」
 水に縁のある奇兵衛もまた、その異変を気取っているようだった。艶めいた所作で息を一つ零し、扇をはためかせれば、紙片の蝶がひらりと滑り出る。
「では、参りましょう」
「あ、でもゼロちゃんが」
 ニコが躊躇うように声を掛ければ、旅人たちの視線は未だ微睡み続けるゼロへと向けられる。
 枕を抱えて蔦に凭れ掛かっていた少女は、ふ、と僅かな震えと共に銀の瞳を開いた。
「寝過ごすと扉が閉められちゃうのです」
 目覚めたゼロは立ち上がって、ふらふらとした足取りで蝶と、仲間たちを追う。

 白砂の路を先導するように羽ばたく蝶は、いつしか二羽に増えていた。緑金と並ぶように、質感の違う朱紫の蝶が躍る。
 奇兵衛は緩く目を細め、ふ、と笑んだ。
「心配性な御仁だ」
 威人の声に応えるようにして、朱紫の蝶がひらりと姿を変える。朱藤を飾った花笠を被る、小さな娘の姿へと。
「あなたは、確か」
 目を細めた雪とゼロに頭を下げて、人の背丈の半分もない小さな妖はふわり、と花の香のようにわらう。そして、緑金の蝶と共に、彼らの道案内を買って出た。

 旅人たちが本島の岸へ辿り着いたと同時に、薄紅色に輝いていた海は再び群青の闇を取り戻した。
 磐戸と開かれていた路を埋め尽くさんばかりに、波がうねり始める。

 世界を愛し、眠りを甘受する天神の祠は水面の下。
 安寧と共に、穏やかな海の内側へと鎖されていった。

 <了>

クリエイターコメント四名様、大変お待たせいたしました!
穏やかな根の国でのひとときと、天神との邂逅をお届けいたします。

納品時期が前後してしまいましたが、こちらのノベルは『【瓊命分儀】あけのあやかし』『【瓊命分儀】しろかたり』以前に起きた出来事して扱わせていただきます。
祝女や住人たちへの優しいお言葉、ありがとうございました。皆様の言祝ぎは、確かに此の地の住人と天神へ届いた模様です。

筆の向くまま自由に捏造してしまいましたので、口調、設定、心情等、イメージと違う点がありましたら御伝えください。出来る限りで対処させて頂きます。

それでは、御縁が在りましたら、また何処かの階層で御逢いしましょう。
公開日時2014-01-01(水) 21:50

 

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