オープニング

 今日も始まる。
 殴られるのがイヤで、殴られているのを見るのもイヤで、でも助けに行く勇気も無くて、小さな窓から外に逃げて耳をふさいで瞳を閉じる。そうすればこの世の中のイヤな事から逃げ出す。いっそ心まで閉じられたらいいのに、と毎日毎日願っている。もしここがインヤンガイでなければ、きっと神に祈っていただろう。
 昔はこうじゃなかった。昔はこんなんじゃなかったんだ。昔から貧しかったけど、何の不満も無かった。
 若い女の絶叫が聞こえる。中年女性の泣き声が聞こえる。中年男の醜い声が聞こえる。あの男の前では自分の存在価値は無くなってしまったんだろうか。昔は、あんなに優しくて愛してくれたのに。
 耳と目を閉じても鼻を閉じるわけにはいかない。酒と生臭い匂いが強烈に漂ってくる。
 嫌いだ。
 この漂う匂いも、泣く以外の抵抗をしない女達も。逃げる自分も。
 それなのに、いつも心のどこかで昔に戻れると期待している自分が居る。それが、一番嫌いだ。

※※※

 その地区は貧困にあえいでいる者たちばかりが住んでいた。
 だがそれは別段珍しいことではない。インヤンガイに住む多くの者たちがそれに属する。壱番世界、特に平和な国に住まう者には小説や漫画の中でしか無いような環境も、また有り触れている。
 有り触れた貧困地区の小さく汚れた長屋住む探偵、ホアンはぼろぼろになったソファに寝転がって煙草をふかしていた。
 その晩もどこかの部屋から罵り合う喧騒や物が投げられ壁にぶつかる音、売春婦の声が聞こえてくる。どうせ俺には金はねぇよ、と苛立ちながら、シケモクをスチールの灰皿に押しつぶす。
 手元の缶ビールを引き寄せるが逆さに振っても渇いた口の中にアルコールは尋ねて来てくれない。
 ああもうどいつもこいつも。
 近所にある馴染みの店ならまだ開いている筈だ。格安で拾ってきた時計は23時をさしている。
 ガチャリとドアを開けると、同時に隣の部屋に住んでいる少年―ハイが出てきた。
 「よう」
 「……」
 ハイの声は小さい。こんばんは、と言ったようだ。口の開き具合から推測するしかない。
 子供がこんな時間にと注意する倫理観は無い。こんな時間から働きに行く子供も多い。
 ふと騒がしかった筈の隣室が静かになったのが気にかかったが、ハイの父親が寝たのだと判断した。隣室の一家―夫妻と娘、それにハイ―の騒ぎはいつだって酒乱の父親が眠れば治まる。
 妻と娘はいつも怯えた目をしていた。彼らはインヤンガイで生まれ育った筈なのに、いつまでたっても世界に適応できないらしい。それはある意味でまともなのかもしれないが、哀れに思うときもある。
 ハイはいつも空ろな目をしていた。何も映さず何にも怯えず、何かに期待することも無い。殴られても蹴られても抵抗もせず、全てを諦めたように生きている。
 いつもどおりのその目で、ハイの背中を見送ったホアンは舌打ちをひとつして馴染みの店に向かった。懐も寂しかったが吹き付ける風の方が、もっとずっと寂寥感を駆り立てられた。


 「インヤンガイで殺人事件が起きたそうです」
 リベル・セヴァンは冷静に読み上げる。
 殺人とは物騒な事件だが、インヤンガイでは別段珍しいことでもない。だが今回は少し珍しい敬意らしい。
 「事件の起きた隣室に住む探偵からの依頼です。真実を解き明かして欲しい、とのことです」
 彼女の表情は変わらない。
 「被害者は犯人の父親と母親と姉です。ハイという名の少年が全ての犯行を行い、全てを手紙に認め自供したのですが、依頼人の探偵がまだ何かがある、と」
 そのホアンなる探偵が言うには、ハイが犯行を犯すとは思えないらしい。だが彼が真犯人をかばうなども考えられない。そこまで親しい相手はいないはずだという。
 そしてハイが一家殺害した動機とは、「姉が秘密の恋人との間に子供が出来たことを激怒した父親が暴力を振るい、留めに入った母親も殴り始めた。それがあまりにも煩いから耐えられなくなって父親を殴り殺した。姉と母も半分死に掛けていて病院に連れて行く金も無かったから一思いに殺した」ということらしい。
 ハイの父親が婚外子が出来たことが怒るほど全うな価値観を持ち合わせているとも思えず、しかし司法解剖の結果姉は妊娠していた。全員の死因もハイの供述どおりなのだ。
 なのにすんなりと納得できない何かがある。
 ホアンはハイが何かを隠していると確信している。それを解き明かして欲しい、ということなのだ。ホアンも調べてみたようなのだが、いまひとつ掴めない。なので世界図書館に応援を頼んだようだ。
 ハイが何を隠しているのか。本当にハイが殺したのか。それともハイは何かを守りたいのか。
 そして今、彼は何処にいるのか。
 家族以外に身よりも無く、その家族も全員殺し、今何処を彷徨っているのか。
 命よりも尊いものが彼にはあるというのだろうか。

品目シナリオ 管理番号424
クリエイター小倉杏子(wuwx7291)
クリエイターコメントはじめまして、小倉杏子と申します。
犯人を捕まえる、というよりも、真の動機を明らかにするというシナリオです。
特に難しい判定などは設けてはおりませんので、思いついたまま行動して頂ければと思います。
ホアンのことは無視して下さって一向に構いません。
ハイが何をかばっているのかというより、何を望んでいるのかを考えて頂けるといいかもしれません。
重たい傾向のシナリオでこんなことを言うのもなんですが、どうぞお気軽に参加して下さると幸いです。
それでは宜しくお願い致します。

参加者
手塚 汐(cdfx7539)ツーリスト 女 6歳 小学1年生
三ツ屋 緑郎(ctwx8735)コンダクター 男 14歳 中学生モデル・役者
春秋 冬夏(csry1755)コンダクター 女 16歳 学生(高1)

ノベル

 「……何が本当なんだろうね」
 冬夏はポツリと呟いた。彼女が今手にしているのはハイが残したという手紙だ。文字は汚いというかバランスの悪い、典型的な下手くそな字であったが、判別するのには困らない。
 「ほんとうって、なにが?」
 反復するように問いかけ、手塚汐が冬夏の脇に立って手紙を背伸びして覗き込もうとしている。二人は以前にも会ったらしく、間に流れる雰囲気が柔らかい。
 「ん、これって全部、本当のことを書いたのかなあって、ちょっと思ったんだ」
 汐にも見やすいように持っていた手紙の位置を下げる。
 もしもハイが何かを守ろうとしているのなら、これは全て真実が書いてあるのだろうか? 疑う気持ちとはまた少し違う。ハイが何かを、誰かを庇っているのなら、その相手は今何処で、何をしているのか。
 冬夏の言っていることを理解したらしい汐は、可愛らしく小首をかしげてほんの少しだけ悲しそうな顔をした。
 「ハイってひと、いまひとりぼっちだよね。きっと……さみしいよね」
 「うん、そうだね」
 簡潔に述べるが、冬夏は本当にハイの気持ちは理解できないだろうと思っている。今は、だが。汐を見ていれば判る。この子も恐らく冬夏と同じように家族や友人達に愛されて育ってきたのだろう。それも、とても平穏に。
 だからこそ、理解したいのだ。完全に理解することはきっと難しいけれど。
 「難しいね」
 「? ハイっていくつくらいなんだろう。同じくらいかなあ……でもおとうさんのことなぐれるくらいだから、もっとお兄ちゃんかな?」
 同世代なら、多少は気持ちが判るだろうかと心を巡らせる。汐には母はいないものの、父親が(娘の立場としては)鬱陶しさを感じるほどの愛情を注いでくれている。
 二人が同じ思いに駆られていた時。
 少しばかり離れたところで、緑郎がホアンに食って掛かっていた。が、聞こえてくる彼らの会話から、違うことが判明した。
 理詰めで正論を緑郎は言っているだけだ。
 -30過ぎの男が14歳の少年にやり込められている。
 「かっこわるい」
 しかし汐のまっとうな指摘は全く届いていないようだった。


 「おじさん、責任は取るんだよね?」
 「責任だぁ?」
 「だってこの事件ってハイって子が犯人なんでしょ? それを追求するってことはさ、ハイが守ろうとしたもの、踏みにじるってことじゃない?」
 言い方は軽いが、その目は違う。
 緑郎ははじめ、ハイが家族を庇っているのではないかと考えていた。
 父親を殺したのは母と姉で、それを弟が秘密にしている。母と姉はどこかに逃げ延びているのではないか-
 しかし彼女達が死亡したのに間違いはなかった。姉がその体に命を宿していたことも。
 なかなかに悲劇的な事件だが、それで済ますことの何が悪いのか。ハイは全てを背負うと決めたのだろう。良い事なのか悪い事なのか、他人で、インヤンガイの住人ではない緑郎はその辺りは自分が決めることではないと判断した。
 だから、このままでも済む問題に真実だの何だのと言ってほじくり返す行為は、無責任だ。
 無法と無秩序の世界で、真実がいったいなんの役に立つというのか。
 せめて身元引受人くらいになって貰わないと割に合わない。
 じゃあそこ宜しくね、とホアンに言い残し、緑郎は冬夏と汐の元へと歩み寄る。
 「ハイくんは今どこに居るんだろうね。一人になれる、静かな場所とか、かな?」
 汐の手をとり歩き出す冬夏が誰にとも無く問いかける。以前汐と出会ったときは彼女の父親が着いていたが、今は居ない。
 当の汐は冬夏と手をちゃんとつないでいたが、いちばんあぶなっかしいのはこのひと、とちゃんと認識していた。
 「赤ちゃん。けっきょくだれの子どもなんだろう」
 「……」
 冬夏も緑郎も押し黙る。
 二人の育った壱番世界はインヤンガイに比べれば平穏極まりないが、凄惨なニュースがよく耳を突いてくる。
 なのである程度の想像はつく。―十中八九、姉が身篭った子は父親の子であろう。
 けれどそれをまだ汐に聞かせたくない。彼女もロストナンバーだから見た目以上に年齢を重ねているかもしれないが、言動からして歳相応だろう。
 「お父さんがとってもおこったっていうことは……もしかして、きんしんそうかんっていうやつなのかな?」
 「し、汐ちゃん!? ちょ、何処でそういう言葉覚えたの!?」
 「パパのもってる、どうじんしっていうのにのってたよ」
 「あ、あぁ……そうなんだ……」
 もし汐に父親に出会ったら変な目で見てしまいそうだ。




 貧相な建物の中でも一際古ぼけているアパートらしき建物がハイ一家の住んでいた所だった。
 「刑事ドラマかなんかだと、黄色いテープ貼ってあるけど……やっぱりないね」
 生ぬるい風に僅かに不快感を表しながら冬夏がハイ家の玄関にそっと触れる。
 「かってに入っておこられないかな?」
 「大丈夫だよ、別に。警察とか、無いみたいだしね」
 激昂する親戚や不信がる大家も居なさそうだしね、と緑郎は言外に付け加える。
 玄関の扉を開けると、むわっと湿った生臭い風が――来なかった。不快な匂いは一切無い。ただ、乾いた空気だけが部屋を支配していた。恐らくはずっと窓が開いたままになっていたのだろう。大家や、隣人のホアンが掃除したとは思えない。
 元々乾いた風が強いから、それで全て奪い取られていったか。
 一歩ずつゆっくりと中に入れば、惨劇の痕跡があちらこちらに散らばっている。流石に遺体は片付けられているし生々しい血痕も色褪せている。
 「思ってたよりは片付いてるね」
 しかしテーブルの上には埃や塵がたまっている。無防備に手を触れた冬夏の柔らかい手はいちどきにそれらに塗れる。その汚れは不快感をもたらすものではなく、寂寥感がいやますだけだ。
 「ハイのおへや、どこだろ」
 あちこちの血痕には全く気を止めず、汐は狭い部屋を歩き回る。
 「あっ、汐ちゃん危ないよ」
 「大丈夫だよ、冬夏さん。ここは人の家なわけだし。それに今はもう誰も来ないと思うよ」
 「ーそうだね、ベランダに出なければ大丈夫かな」
 各々自由に調べ始める。
 冬夏はキッチンを。
 緑郎は寝室を。
 汐はハイの部屋と思しき部屋を。
 荒らすことはなく丹念に調べていく。



 冬夏は冷蔵庫を開けた。
 そこは冬夏の自宅と、一般家庭ではほぼ考えられない中身だった。
 自炊をしない一人暮らしであればまだ違和感が無かったかもしれないが、四人暮らしでこの内容量は異常だ。
 何も無いのだ。
 インヤンガイにペットボトルがあるかは判らないのだが、それに準じた物もなく、野菜も肉も、調味料も、なにも無い。
 ずっと片手に持っていた光沢の付いた手提げバッグをぎゅっと抱きしめる。
 最初はもしかしたらコレはいらないかもしれないとかなり迷ったが持ってきたのは間違いではなかったようだ。
 「あれ、でも」
 冷蔵庫を改めて見直すとなにかが気になる。すっきりし過ぎているせいかな?と扉を閉めたのだがすんなりと納得はできない。
 むうと口を尖らせながら、冬夏はキッチンを再び見回した。
 メモもなにもない冷蔵庫がこんなにも味気ないもなだとは気付かなかった。そう思うのは一家惨殺が起きたせいかも知れないけれど。

 緑朗が寝室のドアを開けると思わず顔を背けたくなるほどの異臭が鼻をついた。
 半分だけでも窓が開いていたから辛うじて堪えられる程度の異臭で済んだのだろう。
 寝室の、窓と反対側にある壁には玄関やリビングなど比較にならない程の血しぶきで彩られている。
 ベッドのサイズと二つという数から鑑みて、ここは夫妻の寝室であり父親が殺されたのもこの部屋だろうか。
 夫妻の寝室に娘を連れ込み、そして--
 考えるのもおぞましい。
 母は何をしていたのだろうか。一度は愛したはずの男が人倫に外れる行為をしている間に。恐怖で身動き出来なかったのか、それとも。
 軽く首を振り、寝室に何かハイの行き先を示す物はないか探索を開始すると、ベッドの下から、薄汚れたガラス製の灰皿らしきものが出てきた。床同様、汚らしくて触れることに幾ばくかの躊躇いを感じさせるものだったが少しは汚れがマシなシーツ越しに取り出した。
 ここで漁るより、汐の手伝いをいた方が有意義だと判断し、緑郎は寝室から出ていく。窓のすぐ外は寂れたベランダで、カラカラとゴミが風に舞う音がした。いやに不愉快だった。

 狭苦しい部屋が、ハイと姉、二人分の部屋であろう。汐のベッドより小さそうな粗末なベッドが上下に二つ、並んでいる。
 ベッドには粗末というより汚らしい薄いシーツが適当にかかっていた。いや、くしゃくしゃに放り捨てられていた。洗濯機から出した直後のシーツを連想させる。
 いそいで起きたからシーツがグシャグシャ?
 二段ベッドの階段を上る。手すりは埃や砂、塵にまみれていた。汐の白く小さな手も当然汚れるが、当の本人は全く気にしていないようだ。
 枕元には小さな熊のぬいぐるみが置いてあった。それを見つけて、汐は近寄るが途中で喉の奥から小さく悲鳴を上げる。
 熊の腹部が鋭利な刃物での仕業であろう、裂かれていて、中身の綿が引きずり出されている。
 「お姉さんのこともあんな風にしちゃったのはどうしてかな」
 もしかしたら、と熊から目を逸らさずに後ずさりしつつ逡巡する。
 ハイは姉が宿した子を救おうとしたのだろうか? 母体はすでに虫の息で誰が見ても助からないのだとしたら、せめてと思ってもおかしくはない気もする。
 ならば、ハイは胎児の父親を知っていた? しかし胎児の(遺伝子上の)父は彼らの父親だ。産まれてくる子に罪は無い--というやつか。
 ベッドから降り立ち、改めて狭苦しい部屋を見渡す。
 胎児の父が彼らの父親でなかったとしたら、ハイだけが真実ー姉の秘密の恋人が両親と姉を殺害したーを知っていて彼は敵討ちに出た、そう考えても違和感はないのだが。
 薄汚れた鏡が視界に飛び込んでくる。
 鏡の奥、汐の背中になにかが見えた。
 振り向いてみると、一枚の写真が壁に無造作に貼られていた。
 写真なのは判るのだが、いかんせん、汐の背が小さすぎて全体像を掴めない。
 「むう」
 一度ジャンプしたが一瞬しか見えなかったし、着地した瞬間に盛大に埃が舞って咳こんで噎せたから二度目は遠慮したい。
 「どうしたの、汐ちゃん」
 開け放していたドアから緑郎がひょこんと顔を出す。舞った埃を少しばかり顔付近に感じているのだろう、かるく手で風を起こしている。
 「あ、ごめんなさい。ジャンプしちゃったの」
 「んーん。気にしなくてもいいと思うよ。それにさっきまで僕がいた部屋のが埃もにおいもキツかったしさ」
 柔らかくしかめ面をすると、汐はほっとしたようで、垂れてしまっていた形のよい眉を上げた。
 「あのね、緑郎さん。あれみえる?」
 気を取り直した汐が指し示したのは壁の写真だった。
 「見えるよ。でもこれ誰が貼ったんだろうね。すごい斜めってて気にな……」
 何かに緑郎が気付く。
 乱暴に引き抜こうとしたが、なるべく丁寧にピンを引き抜く。
 「写真、これ一枚だけだった?」
 「はってあるのは、たぶんそれだけ」
 ふうん、と聞いているのかいないのか判別に苦しむ生返事だ。しばらく眺めた後に「見る?」と汐に写真を手渡す。
 インヤンガイにありふれた、来る途中にも何度か似たようなビルだった。どうやらこの辺りでは一番背の高いビルらしい。
 「普通のビルだと思うけど。もしかして見覚えある、とか?」
 「わっ」
 汐の背後から冬夏が写真をのぞき込む。
 「さっき寝室の窓から見えたビルだと思うんだぁ。で、この写真の目線?僕と同じに見えるんだよね」
 少年なのにやけに綺麗な指で少女二人が眺める写真の、問題のビルを示す。
 「多分ハイは僕と同じくらいの年だと思うのね、他に飾ってある写真もなさそうだし、アルバムも見あたらない」
 どの部屋にもクローゼットや本棚のようなものはないし、数少ない引き出しを開けてみたが、粗末な衣服が数着あるだけでそれらしきものは見当たらない。
 「ハイが撮った可能性が高いってことだね!」
 「そういうこと」
 「つまりここにいる可能性がある・・・」
 しかし冬夏は口ごもる。それは緑郎も同じ理由で押し黙る。
 インヤンガイの街は無数の増改築によって街の住民でなければ満足に歩き回ることすら出来ない、無意識の人造迷路だ。
 (こんな時くらい役に立って欲しいんだけどなぁ、あのおじさん)
 表には出さずに緑郎がため息を付く。依頼を出したのだからその程度の役に立って貰わないと割に合わない。
 「ね、ね。冬夏さん。かたぐるまして?」
 「え!? 今ここで?」
 冬夏の袖を摘む汐が首を振る。
 「緑郎さんがみたっていう、おへやのまどから見てみるの。わたし、そういうの、得意だから」
 三次元把握能力ー空間をより理解する。そしてイーグルアイ。この二つの能力に生まれながらに恵まれた汐はその恩恵がある。
 「それに、ふたりのセクタンがいるから、ぜったい大丈夫だよ!」
 つまりー入り組んだ道でも迷わず確実に目的地まで行ける、ということだ。
 汐から見れば冬夏は立派な大人に見えるが、女子高生に小学生女児を肩車するというのは、些か無謀かも知れない。断らない冬夏も冬夏だが、そこが彼女の愛すべき点でもあるのだろう。
 「肩車は無理じゃない? これ乗りなよ、僕らが支えてるからさ」
 やりとりを微笑ましく見ていた緑郎がベランダに打ち捨てられていた脚立を引っ張りだしてきた。
 「ーハイくんは死ぬ気はないって思うんだ」
 「どうして?」
 どこか遠くを見るような目で、冬夏がぽつりと呟いた。
 「冷蔵庫の中身がね、空っぽだったんだ。生活していて一つも無くなる状況ってないでしょう? なにが起きたって、生きているわけだし、生きていくには食べなくちゃいけないわけだし。だから、ハイくんは中身を持ってどこかにいったんじゃないかなって思ったんだ。頼れる人はいなかったと思うよ、居たら食べ物持ってかないんじゃないかな?」
 「なるほどね・・・」
 悲しみでも哀れみでもない、勿論怒りでも無でもない、不思議な表情の冬夏を見つめながら、緑郎は何事か呟いた。
 それは僅かな風にかき消されて誰も聞き取れることはなかった。
 

 ※※※
 幻想に近い名誉を望んでいた。
 ささやかな幸せを守りたかった。
 父は愚かなアルコール中毒で、母と姉は暴力に怯える悲しい弱者で、自分はただの傍観者で。その名誉を守りたかった。それが名誉かと言われるだろうが、自分とってはそれが名誉なのだ。
 優しかった父と母、そして姉。これだけを望んだ。
 かつて父に連れられてきたこの場所で星空を眺めたときは曇っていて半分程度しか星が見えなかったのに、昼下がりの今、よく晴れた空の方がくすんで見えるのは何故だろう。
 足元に転がるビールの缶は家から持ってきたものだ。飲んでみたら少しは父親の気持ちが判るかと思ったが、そもそも味覚に合わなすぎて舐めるだけで終わった。残りは全部捨てた。
 全てが憎らしくて、全てがどうでも良くて、あとはもう。



 「……ハイくん?」
 緑郎と同じくらいの背丈の、ぼさぼさ頭の少年が振り返る。
 「……そうだけど、なに?」
 抑揚は無く小さい、しっかりと聞き取らなければ単語がぶつ切りになってしまうような声だ。
 「きみが全部、その、えぇっと……」
 直接的な言い方は、と適当な単語を探して言い澱む冬夏だが、緑郎は真相があればそれは隠すことだと思っていたから敢えて口を挟まない。
 「殺したけどなに?」
 反論や激昂というほどの語気の強さも無く、逆に冬夏自身が悪事を指摘されているような気にちょっとなる。ハイの足元を見ればゴミが散乱している。先程冬夏が指摘したとおり冷蔵庫の中身はやはりハイが持ってきていたようだ。
 「あ、あのさ、ハイくんのこと聞かせてよ」
 「なんで」
 「えっと……きみのこと、知りたいって思うから」
 「どうして」
 かすかにハイの声に苛立ちが混じるのを緑郎は感じ取った。
 ひとを理解したい考え方は緑郎には無いから判らない。冬夏の様に、真摯に誰かと向き合うことが大事なのも理解してはいる。そういったことが出来るのは、相手を理解したいと本気で思っている者だけだろう。
 だから敢えて口を挟まない。理解したい、受け止めたいとか、思っていない自分が口先だけで言えば何もならない。
 演技で言えとなればいくらでも出来るが、それと今回はまた違う。
 視界に端に写る汐は真剣なまなざしで二人を見つめている。手にはギアと思われる弓矢を持っている。
 「だってさ、誰かが傷ついたり悩んでたり苦しんでたりしたら、助けたいって思うよ」
 バツが悪そうにハイは冬夏から目線を逸らす。
 きっとこんなに真剣に、しかも話を聞いただけの相手に、自分のことを思われるなどと言うことは無かったのだろう。
 「全部理解は出来ないかもしれないよ、でもね、私達は」
 「……さい」
 「え?」
 「煩いんだよ! 何も知らないくせに、そんなこと言うな!」
 ガンッ、と錆付いたフェンスをハイが力の限り殴る。冬夏と汐がビクリと体を揺らす。緑郎は二人の前に立つ。だがハイはつかみかかるとか殴ろうとするとか、そういう行動は起こさなかった。
 何も無い空ろな目がほんの僅かに色を映す。
 「知らないよ、知らないから知りたいって思うんだ」
 「知ったからなんだって言うんだよ! じゃあお前があいつらなんとかしてくれたのかよ!」
 あいつらとはハイが手にかけた家族のことだろう。彼の目が充血して滲んでいる。
 冬夏は必死に話しかけているが、彼自身は全く耳に入っていないようでわあわあ喚いている。暴力に走る雰囲気は無い。が、いつそう発展するかは判らない。緑郎は冬夏を下がらせようと一歩前に出たが、それよりも早く汐が前に出る。
 その手には弓があり、破魔矢のような矢が番えられていて―
 なにを、と聞く前に汐の破魔矢が放たれ、ハイの胸に刺さるがそれはまるで光のような速さで、そして光の様に消えていく。
 「しんぱいしないで」
 驚く全員に汐はにっこりと微笑みながら答える。
 「あれはね。破魔弓矢。人を傷つけない。ふの心をじょうかするだけだから、しんぱいないよ」
 「負の心を、浄化?」
 ハイを振り返ると、放心したようにぐったりとフェンスに寄りかかっている。
 ギシギシと不安定な音を立てるから、崩れるようにも思えたので緑郎がそっとフェンスから離れた場所にゆっくりと座らせる。
 「おちついて、ね?」
 小さく柔らかい手で、汐がハイの頭を撫でる。
 ゆっくりと動くその手に負の心が浄化されたハイが涙を流す。
 顔を覆わず嗚咽も漏らさず、ぽろぽろと涙が頬を伝いコンクリートに落ちて水跡をつける。
 恐らく安堵したとか、そんな感情ではないだろう。疲れたのだ、ハイは。何もかもに疲れて、破魔弓矢でなにかが断ち切れてしまったのだ。
 「あ、あの、さ。こういうときになんだけど。ハイくん、これ。良かったら食べてくれないかな」
 コンクリートに座って目線を合わせ、ずっと大切に持っていた手提げバッグを冬夏がそっと差し出す。
 涙を流しながら不思議そうに冬夏を見ながらハイが首を傾げる。
 「私が作ったんだけどね、味はそんなに悪くないと思うんだ」
 照れ笑いを浮かべながらバッグを開けて中身のタッパーを取り出してあけると、そこにはタマゴサンドとレタスとトマトのサンドイッチが入っていた。壱番世界では珍しくないステンレス製で出来た水筒もある。
 「……」
 沈黙を保つハイだが冬夏は一切気にせずにタッパーを押し付けて水筒からお茶を取り出し、それを持ってハイが食べ始めるのを待っている。
 なんともいえない雰囲気でハイは躊躇いながらもゆっくりと蓋を開ける。中身に手をつける前に汐から手をふかないとダメ、と指摘を受け、渡されたウエットティッシュで手を拭くが妙にたどたどしい。今までそういった習慣が無かったのだろう。
 食べながらハイは泣いていた。先程までのとは違う嗚咽交じりの泣き声だ。
 三人はそれを見守った。
 食べるということは、生きるうえで不可欠なことだ。僅かに残っていたハイが自らの意思で命を絶つという可能性はもう無いだろう。
 誰であれ死ぬよりは生きているほうが良い。
 そしてこれからどうするのかはハイ自身とインヤンガイの司法が決めることだ。インヤンガイに司法があるのかはまた別として。



 ※



 確かに、両親と姉の命を自分が奪った。
 巻き込んでしまってごめん、と小さな、しかしちゃんとした声でハイは謝罪する。
 優しかった過去と今の暴力に耐えられなかった。計画はしていない。衝動的に、けれど後悔はしていないと。
 当局に出頭する間もハイは少しだが話をした。とりとめの無い話を。冬夏や汐が相槌を打ちながら聞いている。彼女達は時折自分達の話を少しずつ混ぜている。冬夏が一日で転んだ回数が一番多かった日の詳細や、汐が学校の宿題でつけていた朝顔の観察日記について。ハイは僅かに返事をする程度だが、ちゃんと聞いているようだ。
 やがて当局に着いた彼は、小さな声で「なんていうか、ありがとう。美味しかった」と残して中へと入っていった。
 「大丈夫かな」
 「どえだろう。でも、大丈夫な気がするよ」
 心配そうに背中を見送る汐の小さな手を、冬夏が優しく、励ますように握った。

※※※

 帰る列車の中で、緑郎はハイがこっそりと言い残したことを思い出す。
 女の子と子供にはどうしても言えなかった、と彼は言った。
 父は憎しみが募りすぎて。
 姉は父と母を殺したのを見られ、その上で「殺して欲しい」と懇願されたこと。
 母は。
 本当は一番最初に殺した母は。
 何より衝動的に殺した母は。
 父親からの様々な暴力から力の限り抵抗する娘を殴られて腫れた顔を歪ませながら押さえつけていたから殺した。
 心配してくれた彼女達には申し訳ないがどうしても言えなかった、黙っているのもいいしお前から言ってくれてもいい、とハイは緑郎に言い残した。
 緑郎は言われたことを忘れることにした。
 インヤンガイで起きた事件だ。真実や正義がまかり通るわけでもない。
 

 真実は、白く正しいものとは、限らない。

クリエイターコメント皆様はじめまして。
海のものとも山のものとも判らないであろうWRのシナリオにご参加頂き、誠にありがとうございました。
プレイングを生かしきれていない点は申し訳ございません。
暗い内容のシナリオではありますが、大変楽しく書かせて頂きました。これもPC様、PL様のおかげです。

誤字・脱字等、お気づきの点がございましたらご指摘頂けると幸いです。出来る限り対応させて頂きます。
重ね重ね、この度はどうもありがとうございました。
公開日時2010-04-20(火) 18:30

 

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