オープニング

「……オペラ座に棲まう“音楽の天使”?」
「ブルーインブルーにある廃墟の島なんだ。最終楽章の入手が今回の依頼だね」
「以前ロストナンバーが派遣された時には入手できなかったモノなんだろう? ……行くつもりか?」
「行かない理由がないからね。俺は“音楽の天使”に触れてみたい」
「……、……そういうと思った」

 由良久秀がその話を聞いた時、ムジカ・アンジェロはすでに、エイドリアン・エルトダウン直々の依頼に二つ返事で了承の意を返していた。
 そうして当然のごとく、由良を同行者に指名する。
 面倒ごとには極力関わりたくないと考える傍ら、写真家として望まれたのなら応えてしまうのが由良だった。
「……数十年ぶりに海底から浮上した、廃墟のオペラ座か……」
 一体自分はそこで何を取ることが出来るのか。
 興味がわかなかったと言えば、嘘になるだろう。

 *

 かつて音楽都市として名を馳せたその島には、音楽院とコンサートホールが建ち並び、天才肌の楽器職人が集い、選ばれし音楽家とそのタマゴたちが日々学びと創造を追い求めていた。
 中でも、天然の洞窟の真上に佇む《オペラ座》は、千を越えるビロードの客席と、万を超えるガラスで作られたシャンデリア、億を超える装飾品に彩られ、その存在感は、内を貫く巨大パイプオルガン共々、他を圧していた。
 ただし、その劇場がなによりも人々を惹きつけたのは、豪奢な作りではなく、そこに棲まう《音楽の天使》と呼ばれる存在だった。
 天使は、音楽家たちの前にけっして姿を現さなかった。
 だが、天使の作り出す曲ならば誰もが耳にした。
 壁の向こう、鏡の向こう、客席の向こう、ありとあらゆるものの《向こう側》から曲は聞こえ、その後には必ず2階5番ボックスに《楽譜》が置かれていたのだという。
 天使から与えられた曲は、天上の美と称える楽団によって演奏され、この世ならざる世界へと人々を誘い、栄華を極めた。

 しかし、終焉は唐突に訪れた。

 《音楽の天使》の発狂――と言われている。
 その曲が奏でられた時、突き上げるような轟音を響かせながら、シャンデリアが落ち、パイプオルガンが崩れ、地面が奈落と化して、人々を巻き込みながら、オペラ座は無数の死者を抱いて海の底へと沈んでいった。

 *

 今、由良はムジカとともに、至る所に海水が入り込んだオペラ座内部を歩いている。
 床は抜け、壁が崩れ、柱も折れ、辛うじて原型を留めた客席の一部に紛れて散らばる瓦礫を避けて、かつて天使が棲んでいたという、地下洞窟の居住区を目指す。
 最終楽章は、そこで来訪者を待っているのだと聞かされれば、行かないわけにはいかないだろう。
 いったい何が見つかるのか。
 一体なにを見つけるのか。
 目的は明確であるはずなのに、漠然とした違和感をぬぐい去れないまま、彼らは進む。
「なあ、なぜ、惨劇は起きたと思う?」
「さあな」
「なぜ、天使は姿を現さなかったんだろう?」
「さあな」
「なぜ、天使は発狂したと思う?」
「さあな。……ヒドイ音痴でもいたんじゃないか?」
 ムジカの問いに、無感動な応えを適当に返していた由良の足が、不意にぴたりと止まった。
「……死体だ」
 薄闇の中、彼らの照らす懐中電灯の光を受けて浮かび上がった死者たちは、誰もが、蝋人形のように白い肢体に肉食獣に食い千切られたかのような傷跡を生々しく晒し、横たわっていた。
 その表情はどうしようもなく凍り付いている。
 惨劇が起きたと聞いた。
 だが、猛獣に食い殺されたとは聞いていない。
 由良は、そうすることが当然であるかのようにカメラを構え、シャッターを切っていた。
 フラッシュが、場違いなほどに華々しく瞬く。


「……ここで、本当は一体なにが起きたんだと思う?」
「さあな」



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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>

由良 久秀(cfvw5302)
ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)

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品目企画シナリオ 管理番号2072
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメントエイドリアンの蒐集における企画ご指名、誠にありがとうございます。

お二方は今回、音楽の天使が残したという最終楽章を手に入れるべく、廃墟のオペラ座にいらしております。
本来ならば白骨化しているはずの死者たちは、どうやら屍蝋化し、その姿を保っている模様。
死因を究明するも良し、探索して音楽の天使の正体を推理するも良し、惨劇の真相を想像するも良し。
最終楽章を手にして、何が起こるのか、何を知るのか、あるいは何を知りたいのか、行動してみなければ分からないこともあるでしょう。
ご自由にアプローチし、思考して頂ければと思います。

何を見、何を求め、何を掴み、何を思うのか。
おふたかたがオペラ座が抱える謎(ファントム)にどのような解を見出すのか、楽しみにしております。

参加者
ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)コンダクター 男 35歳 ミュージシャン
由良 久秀(cfvw5302)ツーリスト 男 32歳 写真家/殺人鬼

ノベル

 すべては私の夢の残滓――

 *

 屍蝋化した遺体は、何故かひどく作り物めいていて現実感からほど遠い。
 だが、間違いなくそれはヒトであり、現実であり、惨劇の爪痕でもあるのだ。
 長く水底に閉じ込められていた死者が、自分たちを出迎える。
 無言でありながらも雄弁に、かつてここで何が起き、いまここで何が起きているのかを語りかけてくる。
 本来ならば、例え《作り物》であろうとも、反射的に目を背けたくなる光景――のはずだった。
 しかし、ムジカと由良に限り、その《想定》は当てはまらない。
 まるで躊躇うことなく、ふたりは死者の前にその膝を折り、臆することなく手を伸ばす。
「……どうにも、天使が食い散らかしたとは思えない……いや、むしろ、《天使》にはそぐわないといった方がいいかな?」
 かつては豪奢な装いだったのだろうが、今はただの襤褸切れに過ぎないそれらを掻き分けて、死者の外傷を検分していくムジカに対し、由良は死体の口の中をペンライトで確認する。
「こいつらが互いに食い合ったとかでもなさそうだ」
「傷口の程度はかなりまちまちだね。小型犬くらいのもあるけど、サメとか、ソレより更に大型な……角度、歯並びからみて、少なくとも人間じゃない」
「海魔、か」
 腐食することもなく、標本のように傷跡が晒されているが、コレは一体いつ頃つけられたモノなのかを知りたいと思う。
「喰われて死んで沈んだのか、沈んで死んで喰われたのか、この状態からじゃ分からんが」
「そこも気になる点だね」
 絶妙なタイミングで呟かれた由良の台詞に、ムジカは無邪気に頷いて見せた。
 あり得ないほどの死者たちに囲まれていながら、ありえないほど冷静に、彼らは状況を分析していく。
「天使が海魔だったと考えてるのか、あんた?」
「いや……表に出られない理由はあったかもしれないけれど、彼がこんな獰猛な傷跡を残すとも思えないかな」
「……つまり、もし発狂した天使以外に海魔だのがいたっていうんなら、そいつがまだここにいる可能性も考えなきゃいけないってことだよな」
 面倒ごとを新たに背負い込むのかと、由良は露骨に厭そうな顔をする。
「ただでさえ、この地域は海魔が多かったらしいからな。都市が機能していた頃は辺り一帯を海魔が周遊していたし、音楽祭の日は特にひどかったって話だ」
「へえ、なら、ここはある種のクローズド・サークルということになる」
「は?」
「だって、そうじゃないか? 天才たちがここに集まってきたという話だけど、実際には、抜け出したくても海魔によって阻まれ、抜け出せない……ある瞬間から、嵐の孤島と同じ条件になるんだから」
 くすりとムジカは小さく笑う。
「そういえば」
「……なんだ?」
「あんたがかつて撮った写真を思い出した。シャンデリアの落ちた、あの廃墟の劇場」
 緊迫感のあまりない、どこか悠然とした猫のような眼差しで、ムジカは辺りを見回す。
 浸水した美しい劇場。
 朽ちた匣の中に見出した惨劇の影。
 曲を聴いたモノは薔薇の花びらを幻視とまで言わしめた、あの、最初の仕事が頭を過ぎる。
 同じ《劇場》という器が、崩壊していくものの《美》が、自分にあの写真を思い出させるのだろうか。
「……まあ、似たようなもんかもしれんが」
 てっきり同意が返ってくるかと思ったが、どうやら、相手はそうではなかったらしい。
「違和感はある。アレは自然に任せて朽ちていくが、ここは違う。そういう崩壊の仕方じゃない」
「へえ?」
 ファインダーを通して得たのだろう感覚を言葉にして連ねていく由良に、ムジカは興味を惹かれていく。
 その目には何が見えているのかと、その眼は何を捉えているのかと、追求したくなる。
 その彼の動きが、ぴたりと止まった。
「あれ、どうかした?」
「……いや」
 いいながら、なおも由良はそこから視線を外さない。
「どうかした?」
 再度同じ問いを掛ければ、彼は黙って指で指し示した。
「……穴が開いてる」
「穴?」
「通路だ」
「ああ」
 冷たい石の瓦礫を踏み越え、辛うじて原形を留めている壁にぽっかりと開いた穴を覗き込み、得心した。
「……なるほど、壁と壁の間に、人間ひとりが通ることのできる場所がある」
 あらゆる《向こう側》から天使の曲は聞こえてきたというなら、誰の目にもとまらず劇場の至る所に現れることができたのだとしたら、それは怪奇現象などではなく、壁一枚隔てた場所を行き来していたと考える方が自然だ。
「それが建物全体に及んでいたのかもしれないね」
「……だろうな。おそらく、ここから例のボックスにも向かえるはずだ」
 由良の頭の中には、この劇場のだいたいの内部構造と現在の位置関係が入っている。
 エイドリアンの話、そして事前に確認しておいた資料を思い返せば、ある程度の予測はつくのだろう。
 由良の持つ空間把握能力の意外な高さを、ムジカは信頼している。
「なら、地下へ降りる前に、そこへ行こう! 何かが掴めるかもしれない」
 目的は、あくまでも最終楽章の入手である。
 そのためには、楽譜が存在しているとされる地下の《天使の住処》を目指すべきというのも理解している。
 だが、そこをあえて違え、己の閃きと勘、好奇心をムジカは優先した。
「……あんたが寄り道したいなら、別に止めないが」
「それじゃあ、決まりだ」
 弾む足取りで、歩き出す。



 自分がどこに立っているのか、いまだ気づけていないのだろうか?
 富も名誉も愛さえも、すべては壊れ行くモノの上へと塗り重ねられているに過ぎないというのに――



 どこか遠くで軋むような鈍い音を聞きながら、由良は時折シャッターを切りつつ、神経を張り巡らせ、周囲を警戒する。
 浮かび上がるのは、壁に刻まれた幾本もの引っ掻き傷のような痕だった。規則性を持った五本の線が歪に走る奇妙な痕。
 泥や砂の汚れ、ひび割れや穴によって不連続となっているが、自然にできたモノとは考えられなかった。
「海魔の爪痕、か?」
「だとしたら、ソレはこの通路を壊さず行き来できる幅じゃないと難しいけどね」
 そこで一旦ムジカは言葉を切り、そして続ける。
「むしろ、人工的なニオイがするかな。さっき歩いてきた通路にはなかったから、《内側》にだけあると考えてもいいかもしれない。天使の通り道にだけ存在しているとか」
「道に迷わないように、矢印でもつけたってのか?」
 死者についた傷跡は、人外のものだ。
 しかし、いくら屍蝋化しているとしても、本来ならばもっと大小の魚に食われるなり、他の海魔のエサになるなりし、あれほどキレイなカタチを保つことはできないだろう。
 ならば、なぜそうならなかったのか。
 牽制するモノが存在していたということか。
 しかし、再度の検分をしようにも、地下に降りていく道にはあれほどあふれていた死者の姿も今はなく、理由が見えてこないことで余計自身の居心地を悪くする。
 この建物の崩壊具合にはやはりどこか釈然としないものが残っていた。あまり長い時間は留まりたくないと本能が告げている。
「音楽の天使は一体どうして、姿を現さなかったんだろう?」
 ムジカの意識は《天使》そのものへと向けられている。
 それを適当に聞き流しながら、由良はシャッターを切り続け、そして、ふと目に止まったものへ手を伸ばす。
「……なんだ?」
 拾い上げたのは、それ自身で淡くオパール色に発光するウロコだった。
 名刺サイズか、と思う。
 同時に、そのウロコが実は瓦礫に隠れてあらゆる場所にひっそりと散らばっているのにも気づいてしまう。
 厭な予感は当たる方だ。
 うんざりしながら、由良が顔を上げるのとほぼ同時に、
「ああ、ここだ……!」
 一歩先を行くムジカの子供のようにはしゃいだ声が、薄暗い空間に反響した。
 2階5番ボックス。
 天使の指定席。
 広い空間に置かれた椅子も、かつてはビロードと宝飾品で彩られた煌びやかなボックスだったのだろうし、そこから見える光景もまた美しいモノだったのだろう。
 だが、いまやありとあらゆる輝きは失われ、緞帳はちぎれ、客席は沈没し、パイプオルガンは歪にひしゃげている。
 巨大な蛇にでも締め上げられたかのようだ。
「ここから、彼の曲を、パイプオルガンの音色を、直接聞いてみたかったな」
 劇場のホール全体を見渡すように、細やかな彫刻が施されていたのだろう手すりから身を乗り出すムジカの、その無防備な背を、由良はじっと見つめる。
 これは誘惑だった。
 けっして甘美ではなく、衝動に近しい、どす黒く歪んだ誘惑が、ふつりと湧き上がってくる。
「彼の音楽には、一体なにが込められていたのか、知りたい……」
 彼は、色褪せ、砕け散った景色に、かつての栄華を重ね見ることに夢中だ。
「天使は、ある日突然発狂したんじゃないのかもしれない。崩壊させるための準備を、進めていた気がする」
「爆弾を建物銃に仕掛けて回ったとか、そういう話か?」
「美しさには欠けるよ」
「美しさが関係するのか? ここにあるのは大勢の人間が死んだっていう《事実》だけのはずだ」
「でも、そこに至った《理由》はあるじゃないか」
 天使は狂い、音楽都市は海に沈んだ。
 それは紡ぎ方さえ誤らなければ、とても美しい物語になるのだとムジカは告げ、だからこそ、《物語》の真相として、《爆弾》という存在は即物的すぎると言う。
「洞窟の上に建っていたからって、たまたま落盤事故が起きただけとも思いたくないし」
「あんたの好みで決まるのか?」
「シュレディンガーの閉じ箱なら、きっとそれが許される」
「……なら、発狂すれば建物が崩れるのか? そんなバカな話はないだろう?」
「天使の曲に、崩壊を起こすほどの不可思議な力が宿っていたとか、そんな話でもないと思ってるよ」
「じゃあ、なんだ?」
 言葉を返しながら、由良の中の誘惑は依然消えることがない。
 いま、ここで、その無防備な背をあちら側へと押してしまいたいと言う、その想いと同時に、殺害に至った際の隠蔽処理を含めた《メリット》と《デメリット》が脳内で計算されていく。
 ここは、いつどこが崩落してもおかしくない、危険な場所でもある。
 ここは、生きているものがほとんど存在しえない場所でもある。
 ここは、そう、目撃者のいない、あらゆる証拠が海底に沈むことが前提の――
「クローズド・サークル……」
 ぼそりと呟き、密やかな衝動のままに手を伸ばしかけたところで、
「それだ!」
 ムジカが不意にこちらを振り向いた。
「……この建物は、やっぱり天使によって《崩壊》させられたんだ」
 一体なにに気づいたのか、弾んだ声とともに、今度は自分の脇をすり抜けて、階下へ降りる道を目指す。
「地下に行こう。たぶん、動機が分かる気がする」



 この身を秘された醜悪な怪物が紡ぎ奏でる曲の意味、ソレを知る瞬間が、夢の終わりを告げられる刻――



「ああ、すごいな……」
 ムジカは自然、感嘆の溜息をついていた。
 高い天井からわずかに差し込む光に浮かび上がる、いくつもの柱が水面から伸びて並び立つ、この光景をなんと形容すればいいのだろう。
 辛うじて使えそうなゴンドラを見つけ、はじめから存在していたらしい地下水路を経て辿り着いたのは、水面に浮かぶ《書斎らしき場所》だった。
 本棚や机、椅子、割れた食器の類いなど、ひどく傷んではいるが、わずかに残る調度品の装飾、細やかな彫刻やデザインが芸術性の高さをも示していた。
 ここが《天使の住処》であったことは間違いない。
 足を踏み入れれば、岸壁によっていくつかの部屋に区切られて、更に奥へと続いているらしいことも見て取れる。
 わずかに水の膜が張られた平らな岩の上を歩きながら、懐中電灯の乏しい光源を頼りに彼らは進む。
 進みながら、ふとムジカは自分の背後を歩く由良を肩越しに振り返り、首を傾げた。
「由良、あんた、もしかして疲れてるのか?」
「なんでだ?」
「さっき、地下水路までロープを伝って降りる時、あんたおれが下につく前に手を放し掛けただろ? 重いカメラの機材とか持ち歩くわりに、体力がないんだな」
 笑ってみせれば、気を悪くしたのか、由良は視線を外し、むっすりと口をつぐむ。
「岩壁をくりぬいて書棚にしているモノもあるんだね。布製や石版を利用した書籍も多い」
 だが気にもとめずに、ムジカは先を行き、片端から気になるモノへと手を伸ばし、指で触れ、確認していった。
「読めるか?」
「なんとか……詩のようだ」

 すべてはまやかし、すべては夢、すべては虚構、すべては、そう、目覚めてしまえば消えゆくもの。
 この《牢獄》がどこに建てられているモノなのか、思い知るといい。
 この《夢》の代償に、震え、戦くがいい。

 五本の傷痕が残る壁に指を這わせて進みながら、穿たれた穴の規則性に合わせてムジカが口にするのは、天使が石版に残した《詩》だった。
「なんだ、それは? 呪詛か、挑戦状か、予告状か、宣戦布告か?」
「由良の言った通り、ここは言い伝えられているような美しいモノじゃなく、《至上の音楽》を作り出す者たちを捉えておく牢獄だったのかもしれない」
 裕福層が足を運んでは去っていく、音楽家たちには逃げる術がない、豪奢な見世物小屋――
「……それに、何故前回の蒐集が未完に終わった理由もこれではっきりしたね」
「……確かに。これを持って帰ることはできないだろう」
 いくつかの壁を経たその先で、ふたりはぴたりと足を止める。
 《楽譜》はそこに在った。
 超然と、悠然と、他を圧倒するほど優雅に聳える断崖絶壁、その一面に、ソレは刻まれていた。
 壁に穿たれた穴が音符だとさえ気づければ、横にやや不規則ながら伸びていく傷痕が五線譜代わりだと言うことにも気づくのは容易だ。
「天使は、このオペラ座に自分の曲を刻んでいたのか」
「写真を頼む」
「ああ」
 壊れずとも、由良は既にカメラを構えていた。
 重くとも手放さずにここまで運んできた機材を並べ、ムジカにもライトを持たせて、由良はシャッターを切っていく。
 幾枚も幾枚も。
 そうしてすべてを収めきり、機材を再び鞄へとしまい込んだところで、ふと気づく。
「おい?」
 由良の声に、初めて焦りが混じった。
 ムジカは、歌おうとしている。
 楽器を携えておらずとも、彼はたったいまそうしたように、自らの喉を使って、よりにもよってこの場所で、破滅をもたらしたと言われる狂気の音楽を蘇らせようとしている。
「……何かが起きるかもしれない、起きないかもしれない、だが、たぶん、これで全ての謎が解ける」
 見える、分かる、読める、聞こえる、天使がかつて奏でた曲が、自分の中に流れ込み、自分の中からあふれ出す。
 壁に刻まれた哀しみが。
 真実を知るものの優越が。
 はじめから夢見ることができなかったモノの切なさが。
 ムジカの声となって迸る――途端、がくん、と大きく地面が揺れた。
「おいっ」
 うねるような振動が徐々に強まっていく。
 巨大な何かが蠢く、大小様々なモノが目を覚ます、そうして一斉にこちらへと向かってやってくる、確かな振動。崩壊の兆し。
「天使は発狂したわけじゃない」
 ムジカは陶酔の眼差しで呟く。
「彼は、そう、オペラ座に潜むファントムのような、叶わぬ愛を求めた悋気ゆえの行動ではなく、……彼は夢の終わりを望んでいた」
 この都市が何故作られたのかを知った瞬間から、彼は計画し、実行した。
 表舞台にはあがらずとも、壁一枚隔てた《向こう側》から曲を作り、奏で、ひっそりと崩壊の時を、自分を捉え続ける者たちへの復讐の日を、引き寄せていたのだろう。
 自分を閉じ込める《夢》から目覚める術を、長い年月を掛けて作り上げたのだ。
「じゃあ、行くか」
 凄まじい音を立てて、天井が落ち、頭上から水が降り注いでくる。
 だが、流れ込んでくる大量の水も、ムジカの弾丸が撃ち込まれた瞬間から、まったく別の存在へと成り代わる。
「ああ、くそ……っ」
 だが、由良にはその術がない。
「あんた本当にツーリスト?」
 トラベルギアにあらかじめ装填しておいた《詩》は、無限にある海水から翼を作り出し、ムジカを護った。
 ほとばしり流動する水の翼を得て、軽々と天へ舞い上がるその手が、由良の腕を掴む。
「ああ、お姫様抱っこの方がよかった?」
「……断る」
「なら、そのまま少し我慢するといいよ」

 瓦礫を避け、水を弾き、翼を得たムジカは由良を連れてひたすらに上昇する。
 昇って、昇って、昇って――
 何者にも視界を阻まれない《上空》まで駆け上がったふたりは、そこで初めて、音楽都市を俯瞰し、そして目撃するのだ。
 うねり、蠢き、声なき声で咆吼する姿、陽光を反射してオパールの輝きを放つウロコを持った巨大なウミヘビが、都市を再び呑み込んでいくのを。
 天使の《楽曲》は、海魔を操る。
 ムジカが歌うだけでこれほどの効果があるのだ。
 オーケストラで奏でられたとしたら、その効果は果たしてどれほどのものになるというか。
 由良は、不自由な体制でありながらも、カメラを構え、シャッターを切っていた。

「ああ、そうだ。その写真、彼にも見せる気はある?」
「……ああ」
「良かった。それじゃ、行こうか……あの人に、楽譜だけじゃない、景色を届けたいんだ」



 後日。
 最終楽章と物語を手土産として《ネモの湖畔》を訪れたふたりは、そこで思わぬ邂逅を果たすことになるのだが、それはまた別のお話。



END

クリエイターコメント4度目、あるいは7度目まして、こんにちは。

エイドリアンからの指名によるブルーインブルーの廃墟探索はいかがでしたでしょうか?
最終楽章入手という依頼にまつわる《音楽の天使》の謎は、このような物語となりました。
すべてが明らかにされたのではないのかもしれません。
すべてが、ただ状況から《想像》されただけなのかもしれません。
しかし、これはひとつの解答ではあるのです。
実行には移されることのなかったひそやかな《殺意》共々、楽しんで頂ければ幸いです。

それではまた、別の冒険でまたお二方とお会いすることができますように。
公開日時2012-08-26(日) 19:40

 

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