ターミナルに、「無限のコロッセオ」と呼ばれるチェンバーがある。 壱番世界・古代ローマの遺跡を思わせるこの場所は、ローマ時代のそれと同じく、戦いのための場所だ。 危険な冒険旅行へ赴くことも多いロストナンバーたちのために、かつて世界図書館が戦いの訓練施設として用意したものなのである。 そのために、コロッセオにはある特殊な機能が備わっていた。 世界図書館が収集した情報の中から選び出した、かつていつかどこかでロストナンバーが戦った「敵」を、魔法的なクローンとして再現し、創造するというものだ。 ヴォロスのモンスターたちや、ブルーインブルーの海魔、インヤンガイの暴霊まで……、連日、コロッセオではそうしたクローン体と、腕におぼえのあるロストナンバーたちとの戦いが繰り広げられていた。「今日の挑戦者はおまえか?」 コロッセオを管理しているのは世界図書館公認の戦闘インストラクターである、リュカオスという男だ。 長らく忘れられていたこのチェンバーが再び日の目を見た頃、ちょうどターミナルの住人になったばかりだったリュカオスが、この施設の管理者の職を得た。 リュカオスは挑戦者が望む戦いを確認すると、ふさわしい「敵」を選び出してくれる。 図書館の記録で読んだあの敵と戦いたい、という希望を告げてもいいし、自分の記憶の中の強敵に再戦を挑んでもいいだろう。「……死なないようには配慮するが、気は抜かないでくれ」 リュカオスはそう言って、参加者を送り出す。 訓練とはいえ――、勝負は真剣。「用意はいいか? では……、健闘を祈る!」●ご案内このソロシナリオは、参加PCさんが地下コロッセオで戦闘訓練をするというシチュエーションで、ノベルでは「1対1で敵と戦う場面」が描写されます。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、敵や戦闘内容の希望をお聞かせ下さい。敵は、・過去のシナリオに登場した敵(自分が参加していないシナリオでもOKです)・プレイヤーであるあなたが考えた敵(プレイングで外見や能力を設定できます)のいずれかになります。ただし、この敵はコロッセオのつくりだすクローン体で、個体の記憶は持たず、会話をすることはできません。
リュカオスが手を掲げれば、石造りの床は大地に飲み込まれ、木々が即座に生え出す。まるで映画の早送りのように、瞬く間に落陽広葉樹であるブナがコロッセオの一画に林立する。 そして、青々としたブナの葉が紅く染まり、一斉に散り出して落ち葉の絨毯を敷き始めた。 玖郎は静かにただ目の前の光景を見つめていた。そして、枯葉の舞い散る林へと足を踏み入れた。枯れ葉を踏み締める懐かしい感触が玖郎の心に響いた。 「それでは、試合開始!」 リュカオスの合図を聞いた玖郎は、気持ちを即座に切り替えて翼を大きく広げて空へと飛び立った。 眼下に見える舞台は茶碗程度の大きさでしかないが、例え二重鉢金で視界が狭められていても、人間の8倍以上にもなる玖郎の視力には十分に舞台の全てが見えていた。 玖郎は翼を広げたまま悠々と上空を旋回し、その影を大地に落しながら獲物を待った。 (狩りはひさしぶりだ) 野に身を置く玖郎にとって、人間社会の習わしに準じるターミナルは不可解なことが多い。特に食物についてそれは顕著に表れる。それが人間の習わしなのだと理解はすれど納得はできず。ならばせめて狩りの腕を磨くことだけでもせねば、いずれ故郷へ戻った際に死活問題となってしまう。修練場での狩りならば咎められる心配もなかろうと玖郎はコロッセオに足を運んだのだった。 そして、空を舞う玖郎に林の中に出現した鹿が見えた。狩りへの喜びから玖郎の顔が知らず獰猛な笑みを浮かべた。 しかし、玖郎の巨体では、林の中へは空から襲いかかれない。玖郎は悩むことなくいくつか簡単な印を切った。すると、雲一つない青天のチェンバーに霹靂が轟き出す。 林に潜む鹿の近くに小さな雷が炸裂すれば、その轟音に驚いた鹿が勢い良く林から飛び出してきた。 玖郎は翼を体に添わせて落下する。その姿は美しいまでの見事な流線形であった。 そして、落下中に翼を浮かせて方向を調整、地表間近で翼を大きく広げ、大地とほぼ並行に空を滑るように飛び、勢いそのままで鹿の頸部に足の鉤爪を突き立てた。 ぐきり、という感触に猛禽の性が玖郎の体を喜びに震わせる。 玖郎は勢いを止めず大地へと飛び込み、鹿の首を掴みつつ宙返りし、鹿を大地へと叩き付けた。 広げたままの翼で巻き起こった風がぶわりと周囲の枯葉を舞い上げた。 (しとめた) しかし、突然に玖郎が掴んでいた鹿が砂のように崩れ去った。 仕留めたはず獲物が消えたことに不快感と怒りを覚え起き上がった玖郎に影が被さった。 気配を感じた玖郎が顔を上げれば、そこには立ち上がった黒い毛並みの熊がいた。首筋にあるのは白い三日月の模様、ツキノワグマであった。 長身である玖郎とほぼ変わらない大きさの熊の剛力による一撃。 この距離に迫るまで気付けなかった玖郎は、下手に避ければ傷を負うと判断し、大地にしっかりと鉤爪を立てて熊の一撃を受け止めた。 鋭い気勢を乗せた啼き声で威嚇し、両翼をばさりと一気に広げる。 5mを超える玖郎の大きさに熊が怯んだ隙に、玖郎は広げた翼を羽ばたかせ空へと舞い上がった。逃げ出すこともせずその場で猛り狂う眼下の熊の姿に、玖郎の中に僅かな違和感が浮かぶ。 しかし、先ほど仕留めたはずの獲物が消えたのは、あの熊のせいであると玖郎は本能で感じていた。そして、自分の獲物を横取りされたと感じた怒りが、その違和感を消し久しぶりの大物へと玖郎を駆り立てた。 空より美しい流線形となって舞い降り、熊を仕留めようと幾度となく鋭利な鉤爪で熊の体を苛む。守る子もいないのに、傷つきながらもその場に残る熊の姿に、玖郎の中で拭い切れない違和感が生まれた。 空へと駆け上がりながら、玖郎はいつくかの印を切った。 「所詮、いつわりか」 不吉な影を熊へと落しながら、玖郎は空より止めを刺そうと舞い降りる。 玖郎に先んじて、空より雷が走り大地を打ち据える。その爆音に怯んだ熊に決定的な隙が生まれる。玖郎は冷静に熊の頸部へと己の鉤爪を突き立てた。 ごきり、という確かな感触に玖郎は我知らずほくそ笑んだ。 力を失い大地へと倒れ伏した熊の上、生き残った勝者としての所有権を主張するかのように玖郎は佇んでいた。 「……で、これは食えるのか?」 しかし、またも前触れもなく熊は砂のように崩れ去ってしまった。 偽りだと気が付いていたはずなのだが、久方ぶりの狩りに玖郎の気も高ぶっているようであった。そして、周囲に新しい獲物が出現する様子もないことから、玖郎は舞台へ入ってきた入口に体を向け歩き出した。 玖郎が空を見上げたの全くの偶然だった。 どこか故郷を思い出させる舞台に郷愁を感じたせいかもしれない。 見上げた玖郎の視界に、ブナの枝の上に立つ一人の青年の姿が映った。 玖郎とほぼ変わらない背格好であり、同じ匂いのする化生。 後ろに流した散切り髪は黄褐色、黒みを帯びた黄褐色の二対の翼を背負い、膝から下は猛禽に似た鉤爪のある逞しい鳥足。 玖郎とほとんど変わらぬ巨躯。違うとすれば、目元を覆う二重鉢金、両手足に武装がないということであろう。 その怜悧な金の瞳に猛禽を想わせる面差し。 ――天狗(あまきつね) そう、リュカオスはまだ終了の合図を出していなかったのだ。 人間ならば試合は終了していないと理解し警戒を解かなかったかもしれない。しかし、新たに獲物が出現してこないことで玖郎は警戒を解いていた。 それが相手に先手を取らせた。 天狗がブナの枝より翼を広げて玖郎へと襲いかかった。 玖郎と同じく洗練された無駄のない自然な動き。 まるでコロッセオの中だけ時の流れが遅くなったかのように、その天狗の動き一つ一つが緩やかに鮮やかに玖郎の視界の中で羽ばたいた。 緩やかな世界の中で、玖郎も空へと飛び上がろうと翼を羽ばたかせた。 迫り来る天狗を見据えた玖郎の視線は、鉢金越しでさえも、その天狗の瞳を精確に読み取った。 生も死も何も映していない、覗き込めば金の奈落へと引き摺り込まれてしまいそうな、二つの虚ろ。 自然ではあり得ないその異質さが、玖郎の心をほんの一瞬だけ奪った。 しかし、自然界では、一瞬の隙が生死を分ける。 玖郎がそれを自覚したのは、己の首に天狗の鉤爪が食い込むのを感じた瞬間だった。 「そこまで、試合終了!」 同時に、玖郎の目の前で天狗は砂のように崩れて消え去り、己の首元から鉤爪の感触も掻き消えた。 玖郎は思わず自分の首に穴が開いていないか、首に手を当て確かめていた。 狩りでの高揚は今の一瞬で消し飛んでいた。その証拠に、己の首に当てた手の平が汗でしっとりと濡れている。 そして、今の天狗が掻き消える最期の瞬間、話さぬはずの模造体の声無き声を玖郎は聞いたような気がした。 それは偽りとはいえ、今際の時の聞かせた幻であろうか。 ――兄者 玖郎には、そう聞えたような気がした。 (今の天狗はいったい) 玖郎の疑問に応えるものはおらず、静かに立ち尽くす玖郎の回りに優しく枯葉が舞い降りていた。
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