夜も更けたインヤンガイの薄暗い路地裏、疾走するバイクに跨った青年は恐怖に顔を引き攣らせていた。 「見つけたぞ、暴霊めが!」 「成敗!」 それを黒馬に跨った男が追い掛けている。 『そう簡単に捕まるかってんだ!』 爆音を轟かせたバイクが、独りでに急加速する。 「いきなり加速するなぁあー!?」 青年が悲鳴を上げた。 時は遡り、これより前。 「協力を感謝する」 インヤンガイの探偵の一人である、チェン・リウはある2人を迎えていた。 1人は、長く伸びた白金と黒の斑の髪が目を惹く偉丈夫である、阮緋。 もう1人は、1人と言うべきなのか、深い漆黒が美しい力強い馬である、シンイェ。 「現れているのは、バイクの暴霊だ。昼夜問わず爆音を響かせて走り回っている。幸い轢き逃げ事件は起きていないが、時間の問題だろう」 無駄な前置きもなく、唐突に依頼内容の説明をチェンは始めた。 「その暴霊は、小回りが利き壁や天井も走れる。袋小路に追いつめて退治しようとしたが失敗した」 手帳を捲る音が静かに響く。 「何かしらの未練があるかもしれないが、それについては不明。退治の方法はそちらに一任する」 ぱたりとチェンの手帳が閉じられた。 「以上だ。何か質問はあるか?」 そうして、緋とシンイェに目を向けた。 チェンの視線を受けた2人は静かに目配せした後、緋が口を開いた。 「では、その暴霊が一番目撃されている場所を教えてくれ。後は俺たちでどうにかしよう」 そして、今に戻る。 「逃げたぞ、緋!」 「解っている!」 緋が右足でシンイェの胴に軽く叩けば、ギアの封天にあしらわれた鈴が美しく響く。 そして、小さな鈴の音は激しさを増し、ついには稲妻の如く路地裏に鳴り響き出す。 「良く解らないけど、あれ絶対ヤバイ?!」 『俺もそう思う!』 「征け! 猛き虎よ!」 緋の右足の銀の輪飾りから、虎を象った稲妻が撃ち出される。咆哮で大気を震わせながら、暴霊へと飛び掛かる。 咄嗟に、暴霊は車体を倒して避けるが、青年の足には掠っていた。 『そんな豆鉄砲に当たるか!』 「掠ってる、掠ってる! 俺、足焦げたよ!」 泣き喚く青年を尻目に暴霊バイクは、さらに加速していく。 「逃げるのであれば、少々痛い目に遭うぞ!」 再び大気を震わせて雷の虎が駆ける。 「それ、少々じゃないから?!」 『秘儀、壁走り!』 ハンドルを切ったバイクが、ビルの壁面を走って雷をやり過ごす。 『ノロマな馬さん、こっちだぜ!』 馬鹿にするように気の抜けたクラクションが鳴る。 「ノロマ? 馬? 暴霊風情が生意気な! 緋よ、振り落されるな!」 シンイェの巨躯が競走馬のように絞り込まれていくと、首を前に倒したシンイェが一気に加速する。 「ぎぁああ!? 追いついて来たぞ!」 『そうこなくちゃ!』 「喜ぶなー!」 暴霊を間合いに入れた緋が、手に持った青龍偃月刀を一閃させる。 「破ァ!」 『あらよっと!』 しかし、暴霊はバネのようにびよんと飛び上がると、あり得ない動きで壁に貼り付いて、そのままビルの屋上へと真直ぐ駆け上がった。 『さらばー!』 「くっ、天井や壁を道とする相手が、こうも仕留め難いとは」 得物を構え直す緋の下で、土煙を立ててシンイェが足を止める。 「おのれ、逃がすか!」 興奮したシンイェが鼻息を荒げる。 「しかし、どうやって追ったものか」 「気は進まぬが、翼を作る。このままコケにされて引き下がれるか!」 シンイェの胴体から影が横に突き出した後、それに沿って漆黒の膜が広がる。それは、翼というより蝙蝠の被膜を彷彿とさせる。 「さあ、風を呼べ。ともに駆けるぞ!」 緋の左手の封天が、鈴の音を小さく奏でた。 「帰りたいぃ!」 『男がぴーぴー泣くな!』 「これが泣かずにいられるかっ! 俺、何にも悪くないだろ!」 『たまたま運が悪かっただけだよな』 「お前が言うなぁー!!」 涙目で叫んでいる青年の名前は、ジン。数時間前までは、取り立てて特徴のない一般市民だった。 残業で遅くなったので夕飯を兼ねて一杯引っ掛けた後、ほろ酔い気分で店から一歩踏み出した瞬間。 バイクに跳ねられた。 『乗り手獲得だぜ!』 薄れる意識の中で、すぐ側で誰かの声を聞いた気がした。 そして、気が付けば暴霊バイクに跨り、神さまに追い回されている。 すぐにバイクから跳び下りようとしたジンだったが、暴霊に止められた。 曰く、このバイクから離れたらジンは死ぬ、らしい。 ジンを跳ねた時、勢いでうっかりジンの命を取り込んでしまい、その命を使って重傷のジンを回復させたらしい。 直に、返せと叫んだジンに返ってきたのは、満足するまで付き合ってくれなきゃ返さないもん、という楽しげな暴霊の声だった。 それから今に至るまで、ジンはバイクに跨っていた。 壁面を駆け上がっているジンの髪を、吹き上げる風が巻き上げた。 「え?」 違和感を覚えたジンが振り向くと、漆黒の翼を広げて飛ぶ馬が見えた。そして、その背に跨る偉丈夫は、青龍偃月刀を構えている。 「ひっ」 『飛んだ!?』 意表を突かれた暴霊の反応が遅れた。 そして、光を弾く偃月刀の刃に、恐怖に歪む自分の顔が見えた時、ジンの本能が弾けた。 「しっ」 ジンは前輪のブレーキを掛けた。 『お?』 「死んでたまるくぁー!」 壁面を擦る音を聞きながら、自分の体ごと車体の後部を振れば、一時的に壁に固定された前輪を支点にして、車体が大きく回転する。 コマ送りのように鈍く光る偃月刀の切っ先が、ジンの視界を通り過ぎて行く。 『おおお! やればできるじゃないか!』 「うるぁぁぁー!!」 今度はそのまま壁を地面へと向かって駆け下る。 風を受けて飛んだせいで、途中で止まれずビルの屋上へと2人は降り立った。 そして、深い夜でも灯りの消えないインヤンガイの一画を疾走する暴霊が、2人の眼下に見える。 「敵も中々やる」 「ああ。楽しくなってきな、星夜」 「奇遇だな、俺もそう思ってきたところだ」 2人に殺る気が入ってしまった瞬間だった。 「ちょっと止まれ、一大事だ」 『ん?』 「トイレ行きたい」 『はあ!?』 「生理現象だよ! ほっとしたら、猛烈にトイレ行きたい!」 『お前、死にそうになってるってのに』 「うっさい! 漏らすぞ、この野郎!」 『おまっ!? 人として恥ずかしくないのか!』 「暴霊が言うな!」 『仕方ない。そこの路地裏で済ませろ』 「トイレ行かせてよ!?」 『俺から離れたら、死ぬのに?』 「人はトイレと一緒に生まれたわけじゃないよね」 そして、周囲に人がいないのを確認して、ジンが用を足して戻ってきた時、一陣の風が吹き抜けた。 「こ、これって」 嫌な予感に見上げるジンに、漆黒の巨馬が落ちてきた。 「っぎええ!?」 悲鳴を上げたジンは、暴霊バイクへと飛び付いた。そのすぐ横に降り立ったシンイェの下の路地が、地響きを立てて陥没する。 「早く出せ!」 『お前手洗った?』 「んなこと、今どうでもいいだろ!?」 ジンはキックスターターを蹴り降ろして、必死にアクセルを全開する。 『何だとう! お前、トイレの後に手を洗わない野郎と握手できんのか!』 「それで死なずに済むなら、握手くらいするわっ!!」 全速発進に煽られないように体を倒したジンが、暴霊に唾を飛ばして叫ぶ。 そして、暗い路地の前方を照らすライトの中に、一人の偉丈夫が浮かび上がった。 「挟み撃ち!?」 前方に立ち塞がる緋は、偃月刀を上段に構えている。 『必殺、暴霊光線!』 暴霊のライトが瞬くと、絞り込まれた照明が強烈な閃光を放った。 しかし、緋が驚いたのは一瞬。すぐさま鋭い気合いとともに振り降ろした偃月刀が、閃光を両断した。 そして、ビルの壁面に突き刺さった光が、爆煙を広げ狭い路地を覆った。 振り降ろした偃月刀の刀身に、緋の頭上を飛び越える暴霊の姿が映った。 緋の口元が愉快と言わんばかりに持ち上がった。 煙の向こうから足音が近づいてくると、緋は無言で跳び上がった。 「乗れ!」 白煙から飛び出したきたシンイェの背に、示し合せたように緋が落ちると、そのまま2人は暴霊を追いかけた。 「帰りたいよ~」 『ああもう! いつまでもメソメソするな!』 「死にたくない~」 情けない声を出すジンの下で、暴霊が止まった。 『ほら、早く帰んな』 「え?」 『帰りたいんだろ』 「え、い、いいの?」 『やる気のないヤツ乗せてても面白くねぇんだよ』 「ちょっと待て。帰れって、お前から離れたら俺死ぬんだろ。どうやって帰るんだよ?」 『ああ、それ嘘』 「はああ!?」 暴霊の話を纏めるとこうだった。 自分の未練は、自分を任せられる相棒と一緒に、手強い相手と熱い勝負がしたい、ということ。 手強い相手がやってきたし、見込みのありそうな相棒も運良く見つけられた。 これが、きっと最後の機会なんだろうと。 『なのになー。嘘で焚き付けても、肝心の相棒がこれじゃあな。せっかくイイもん持ってるのにさ』 「イイもん?」 『お前、気がついてないの? 途中から俺の操作はお前に半分くらい任せてたんだぜ?』 「えっ」 『無意識かよ、つくづく惜しいな。冗談抜きで、お前レーサー目指してみなよ。イイ線いくぞ』 笑うように暴霊のライトが点滅した。 『ほら、さっさと降りろ』 「う、うん」 ジンはゆっくりとバイクを降りた。 「さ、さようなら?」 『だな。それじゃあな』 「お前、これからどうするんだ」 『とりあえずは走るだけ走って、最後はあいつらに退治されて終わりだろ』 「そ、それでいいの?」 『いいも何も、暴霊の最後なんてそんなもんだろ。それとも、俺の走りに付き合ってくれんの?』 「それはない」 『だろ。それじゃな、うかうかしてると追いつかれるぞ』 振り返らないように意識しながら、ジンは重い足を動かした。 帰ればいい。そうすれば、もう死ぬような目に合わないんだ。ここで帰れば、きっといつもと同じ日常に戻れる。 なぜ、足が重く感じるのか。なぜ、振り返らないように意識しなければならないのか。 なんで、走ろうとしないのか。 そして、気がつけばジンの足は止まっていた。 追い付いた緋とシンイェの前に、暴霊たちが待ち構えていた。 「逃げるのは終りか?」 『勝負を申し込む!』 「勝負?」 『ああ、お前らが勝ったら大人しく退治されてやる。だけど、俺らが勝てば、お前らは俺に退治されろ』 「互いの命を賭けるということか」 『その通り!』 「俺たちが受けると思っているのか?」 『思うね。お前ら、そういう馬鹿な真似は大好きだろ? 俺と同類だ』 「ははは! 良かろう、受けて立とう!」 痛快とばかりに声を立てて緋は笑うと、顔を引き締めた。 「俺の名は、院緋」 「俺は、シンイェだ」 無言で名を問う緋に応えて、暴霊とジンも名乗った。 『俺は、フォン』 「ジ、ジンです」 ジンは、自分が酷く浮いているのを感じていた。 「それで勝負方法は?」 『至って簡単。どっちが先に目標地点に着くかだ』 「その場所は?」 『この地区で一番高いビルの屋上だ。鉄塔があるから、大通りに出ればすぐ解る』 「ふむ、そこなら解るぞ」 『それと、空を飛ぶのは禁止だが、それ以外は何でもあり』 「解りやすくて助かる。では、開始の合図は?」 『ジンの投げた石が地面に落ちたら開始だ』 その時、初めて緋はジンを見据えた。向けられる視線の強さに、圧倒されながらもジンは目を逸らさなかった。 「良い目をしているな」 緋が口元を緩めると、ジンの感じていた重圧が消えた。 思わず膝が崩れたジンを、車体で支えたのはフォンだった。 「今更だけど、お前、フォンって名前だったんだ」 『ホントに今更だな。そんなことより、これ使え』 暴霊の座席に、一組のライダーグローブがあった。 『それしてれば、少しなら無茶できる』 「つまり無茶前提、と」 『俺は一回帰してやったんだぞ』 「解ってるよ」 ジンは黒いライダーグローブを身に付けた。 初めてしたはずの手袋なのに、不思議とジンの手に馴染んだ。 『ったく、どういうつもりだ』 「解らないよ。自分でも馬鹿だって思ってるしさ」 『そうだな、大馬鹿だよ。こんな暴霊の酔狂に付き合うってんだから』 「それだと、今ここにいるやつら全員大馬鹿ってことになるな」 『はははっ、間違いないな!』 そして、勝負が始まった。 ジンの投げた石が地面に落ちた瞬間、先に飛び出したのは緋たちであった。 が、その背後に向けて、フォンのライトから閃光が放たれた。 『油断大敵! 何でもありなんだぞ!』 虚を突かれた2人は、まともに光線を喰らって地面に弾き飛ばされた。 それを横目に、ジンを乗せたフォンが悠々と走って行った。 「ふ、ふふっ、汚い小細工を!」 「おのれ、一度ならず二度もコケにしおったな!」 2人の背に燃え盛る炎が見えたような気がした。 「さっきの光、わざと威力抑えたよな?」 『誰かさんが燃料ケチるからな』 「ふーん、それでもいいけど。でも、これであの神さまたちに火が付いたな」 『察しが良いな』 「開き直ったからかな?」 『いいぜ、そのまま吹っ切れてろ!』 大通りに出ようと、フォンが車体を傾けて曲がっていた時、雄叫びを上げる稲妻の虎が、路地裏の闇を引き裂いて飛び出してきた。 後輪に当たるとジンが思った時、自分の右上半身が爆音を出した。 『何やってんだ!?』 ジンの右腕は焼け爛れて、肩から力なく垂れていた。 「あ、いや、後輪に当たると思ったら、つい」 『ついで、腕一本失くすつもりか!』 ジンの右腕の傷がどんどん修復されていく。 「いや、フォンが治してくれると思ったから」 『えっ』 「跳ねられた俺の体を治せたくらいだから、多少の傷なら問題ないかなって」 『お前、それが俺の嘘だったらどうすんだ!?』 「嘘じゃなかったんだから、それでいいよ。馬鹿に付き合うって決めたんだ。とことん馬鹿になるんで面倒よろしく!」 ジンは吹っ切れたように初めて笑った。 『かぁー! 燃えてきたぁー!』 フォンが歓喜の声を上げると、けたたましくクラクションが響き渡った。 『大判振る舞いだ! 皆、一緒に走るぜ!』 すると、クラクションの消えた周辺の路地から、無数の無人バイクが派手にエンジンを鳴らして走り出してきた。 『皆、足止め頼むぞ!』 フォンの号令に従った無人バイクが、大通りへと飛び出してきたシンイェと緋に襲い掛った。 「あの暴霊の力か、小癪な真似を!」 封天から放つ雷虎が、前から迫るバイクを打ち砕く。 車体を倒したバイクが、横転しまたた滑ってシンイェの足を狙う。 「舐めるな!」 避けようともせず、シンイェはそのまま金属の車体を踏み潰して駆け抜けた。 「俺は走るぞ! お前が掃除しろ!」 「承知!」 横から車体をぶつけようとしてくる無人バイクを、緋の偃月刀が両断する。 真っ二つにされたバイクに衝突した後続のバイクが爆発する。 夜明け近いインヤンガイの大通りが、次々と爆音と火柱に彩られていく。 ビルに先に到着したのフォンだった。速度を緩めることなく、一気に壁を駆け上がる。 少し遅れて、緋とシンイェが辿り着いた。 「封天の風で、そなたの翼を叩き続ける。荒っぽいが、構わないか?」 「望むところだ」 左手の封天から鈴の音を止めることなく鳴らしている緋の横で、シンイェはすぐに影の被膜を広げた。 「駆けよ、疾風の如く!」 封天より放たれた馬を象る風が、シンイェの被膜を突き破る勢いで噴き上がった。 まるで嵐に吹き飛ばされる羽毛のように、軽やかにシンイェの巨躯は飛び上がる。 見る見るうちに、先を走る暴霊の背が大きくなっていく。 「緋よ、跳べ!」 屋上を通り過ぎる瞬間、緋はシンイェの背を蹴って空へと跳び出した。 ほぼ同時に、屋上を飛び出したフォンから、ジンも跳び出していた。 そして、先に屋上に降り立ったのは、――緋であった。 それは、一般市民と武人の身のこなしの差であった。 『あー、負けた! 最後なんだから、勝ちたかったな~』 「ごめん。結局、俺のせいで負けちゃったな」 『いや、十分だよ。素人のくせにさ』 「……フォン」 フォンは掛値なしでジンを労った。ジンの上着の右側は焦げ跡が残っているし、受け身も何も知らないのに跳び出したジンは、最後に脳震盪と全身打撲を起こしていた。 『怪我はサービスで修復しといたから、感謝しろよ』 暴霊の車体が、少しずつ大気に溶けるように薄くなっている。 『それに、しても、お前となら、本当のレー、スも走、って、みた…』 フォンの最後の呟きは、夜空に溶けて形にならなかったが、ジンの心にはしっかりと届いていた。 「ありがとうございました。神さまたちが本気になってくれたから、フォンは成仏できたと思います」 屋上に佇む緋とシンイェに、ジンは深々とお辞儀をした。 ジンの言葉を聞いた時、2人はそもそもの目的を思い出した。 暴霊退治に来たはずなのに、いつの間にか真剣勝負に興じていたのだ。 「それなのに、怖がって失礼しました」 続いた台詞に、気不味い雰囲気に襲われた2人が目配せをすると。 「い、いや、解れば、それでいい」 誤魔化すように咳払いをしながら、緋は重々しく口を開いた。 そして、許してもらえたと思ったジンは、ゆっくりと頭を上げた。 「そ、それと、一つお願いが~」 「何だ、言ってみろ」 「下まで乗せてください」 インヤンガイの摩天楼を背後に、ジンは晴やかに笑った。
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