製造限定スイーツである紫芋のパイを知っているだろうか。 世界図書館お抱えとも言われる某お菓子職人の手による逸品のスイーツ。 どれほどの美味しさかと言うと、そのパイを口にした瞬間、余りの美味しさに思わず「抱いてっ!」と叫んでしまう人が続出するという。 この事態を憂慮した某司書が、そのパイの製造を規制したおかげでターミナルに出回る量は極端に少なくなっている。そのため、知る人ぞ知る至高のスイーツと噂されている代物である。 ちなみに、某小動物な司書が味見役として件のパイを食べた時、「抱っこっ!」と叫んで某お菓子職人に普通に抱っこしてもらったという微笑ましい余談もある。 これはそんな伝説のスイーツを巡る熾烈な争いの記録である! ……たぶん。 気の良いのおばちゃん(見た目は少女)なロストナンバーが、ターミナルで営業しているパン屋。普段は穏やかな賑やかさで溢れている店内が、今は緊張感で張りつめていた。 幼い少年の言い分としては、予約していたワシの分! 少女の言い分としては、私に売ってくれたのよ! その時お店にいたのは、少しだけ席を外すからと店番を頼まれたバイトであった。そして、事情が解らないバイトにしてみれば、そんなことは知ったこっちゃなかった。 「とりあえずぅ~、他のお客さんの迷惑なんで~。決着つけるならぁ、お店の外でして欲しいって感じ~?」 緊張感のない間延びした口調で話すバイトだった。 「店番頼まれてる感じだしぃ~、お店荒らされるのちょー迷惑なんですけどー」 「よかろう! ワシの物だと思い知らせてやるのじゃ!」 「人の獲物に手を出すとどうなるか、冥土の土産に教えてやるわ!」 話し方はともかく言ってることは正論なので、喚いていた2人はにらみ合いながら足音も荒く外へと出ていった。 「は~い、じゃあ、勝負開始ぃ~」 バイトが店から持ち出した金物をカーンと打ち鳴らすと、さっさと店番に戻って行った。 「ワシの獲物に手を出すとは、身の程知らずの生意気な小娘め!」 最初に口火を切ったのは、ネモ伯爵。天使の輪の浮ぶ艶やかな灰色の髪と、瞳孔が縦に長い金色の瞳が特徴的であった。 貴族風のドレスシャツを着て黒いマントを羽織った少年は、天使のように愛らしい見た目をしていた。 しかし、その口から飛び出したボーイソプラノが紡ぐのは、幼い外見とは不釣り合いな言い回しであった。 「魔女であるこの私に逆らうなんて生意気ながきんちょめ!」 負けじと言い返しているのは、蜘蛛の魔女。漆黒のドレスに身を包んだ少女であり、その背には少女に似つかわしくない巨大な8本の蜘蛛の脚が生えていた。 魔女の怒りに応じるように、蜘蛛の脚も小刻みに震えている。 「ガキではないわ! 歳は四桁いっておるのじゃぞ!」 「うっわ、枯れ果てたジジイじゃないの!? ジジイなら寂しく隠居でもしてなさいよ!」 「愚か者! ワシはまだまだ現役じゃ! 見よ、このぴちぴちしたむきたてタマゴ肌を!」 「ふんっ、見た目が良くても、肝心の中身がスカスカじゃ食い出がないのよ! かえって、残念さが増し増しよ!」 背中に生える巨大な蜘蛛の脚から次々と糸を飛ばし、周辺に張り巡らせていき、その一本へと飛び移った。 「活きがよいのう」 ネモが口元に親指を滑らせ、指先に浮かんだ血を自分の影に落とした。 「出よ、我が下僕たち!」 影が波打つと、水柱のように漆黒の蝙蝠が飛び出してきた。そして、張り巡らされた蜘蛛の糸を掻い潜り蜘蛛の魔女へと襲い掛かる。 しかし、その蝙蝠たちに白い霧のような極細の糸が噴き付けられる。 白く漂う糸は触れた蝙蝠に次々とへばり付き、瞬く間に糸で包み込んでしまった。身動きの出来なくなった影の蝙蝠がどんどん地面へと落ちていく。 「そんなパシリで、どうにかできると思ったの? そんなことも解らないくらい耄碌してるなら、私がさっさと棺桶にブチ込んであげるわ!」 1本の脚から出した糸に、他の脚から出した糸を巻き付けて巨大な糸の矢を紡ぎ出す。 「白木の杭じゃないけど、私からプレゼントよ!」 巨大な蜘蛛の脚を振り被って、白い矢を放り投げる。風を切って飛来した矢がネモの胸を貫き、ターミナルの地面へとネモを縫い付けた。 次の瞬間、ネモの体が白い霧へと変わると、そのまま空へと流れ出す。 蜘蛛の魔女を飛び越え、空にとどまる蝙蝠たちの真上に集まると、すぐさまネモの姿へと転じる。 「少しは糸を扱えるようじゃが。その程度の小手先の芸でワシに勝った気になるとは、可愛らしいのう」 ネモは腕を振うと、足場にしている蝙蝠の一部を矢として撃ち出した。 降り注ぐ黒い矢が魔女の周囲に張り巡らされた糸を断ち切り、蜘蛛の魔女を地面へと落す。 「さあ、どうする小娘?」 地面へと降り立った魔女に向かって、ネモは再び使い魔を撃ち出した。 蜘蛛の魔女はスカートの裾を両手で掴むと、軽やかに足踏みを始めた。それに合せて、蜘蛛の脚も地面を叩き不思議なリズムを生み出す。 「さあ、毒が抜けるまで私と一緒に踊るわよ!」 降り注ぐ黒い矢が、蜘蛛の魔女の紡ぐリズムに魅かれて狂ったように踊り出す。 当然、狙いなどなくなり全ての使い魔が、魔女に当たることなく次々と地面に激突した。 「やあねえ、パシリじゃ相手にならないって言ったのもう忘れちゃった?」 たたん、と足を止めた魔女が、空のネモへと不敵に笑いかける。 「ほう、少しは見込みがあるようなじゃのう。良かろう、この勝負ワシが勝てば、パイのついでにおぬしをワシの花嫁にしてやろう。特別に後妻の座は空けておいてやるぞい」 「花嫁なんてお断り! 介護が欲しいなら、他を当たりなさいよ!」 「いかにワシが魅力的だろうとも、照れずとも良いのじゃぞ。些か優雅さに欠けるが、そこはワシが磨いてやろう」 「だから、断るって言ってるでしょ! 耳まで遠いのかしらね!」 ネモは足場としていた全ての蝙蝠を自分の足下の地面へと降り注がせた。叩き潰れた使い魔の残骸が、地面を走り一瞬で巨大な魔法陣を描き出す。 その中央にネモがふわりと降り立ち、口元に指を滑らせる。そして、一滴の血を魔法陣へと落とせば、魔法陣が赤く輝き出す。 「そういうのって隙だらけよね!」 魔女が束ねた糸を鞭にしてネモへと振るう。が、その一撃は魔法陣により弾かれてしまう。 「そう急くな。すぐに相手をしてやるのじゃ」 ネモが悠々と手を掲げる。 「古き盟約に従いて、捧げし贄は我が命の欠片! 我は何者でもないゆえに、何者にも縛られず! 我が欲を満たし、我が願いを成就せしものよ、我が前に現れ出でよ!」 力強く放たれたネモの呪文により、魔法陣が一際強く輝く。 そして、そのまま無言の時が流れた。 「何も出ないじゃない」 身構えていた魔女が不審げに言う通り、魔法陣は輝いているものの何も出てくる気配はなかった。 「むぅ、おかしいのう。間違いなく繋がっておるはずなのじゃが。盟約に従い、我が呼び掛けに応えし者よ、現れ出よ!」 ネモは再び手を掲げて呪文を唱えるが。 「なーんにも起きないんですけどー。私、このままババアになるまで待ってないと駄目?」 自分の髪を指に絡めて暇を潰している蜘蛛の魔女が欠伸まじりにぼやいた。 ネモは怒りに体をふるふると震わせていると。 「ワシが喚んでおるのじゃ、さっさと来んかぁー!」 いきなり地面の魔法陣に片腕を突っ込むと、気合いとともに何かを引っ張り出した。 そして、勢い良く引き摺り出され放り投げられた何かがベシャっと地面に叩きつけられた。 「ふぁ!?」 気の抜けたような声を発したそれが驚いたように周辺を見渡し、ネモに気が付くとすぐさま立ち上がり駆け寄って来た。 燕尾服に似た衣装を身につけたひょろりとした影であった。顔に当たる部分に、耳元まで広がる口らしきものがあるくらいで、他は上から下まで黒くのっぺりとしている。 「お呼び頂け光栄です! 私、こういうものでして」 「バナナ?」 それがネモに差し出したのは、食べかけのバナナであった。 「ち、違います! これはたまたま食事中に喚ばれたせいでして、あのその!」 「食事中?」 「あっ、間違えました! おやつの時間です! け、決してバナナを主食にしてるほど、切羽詰まってるわけじゃないんです!」 もう問題しかなかった。が、ネモはあえて全てを流して号令を下した。 「さあ、行くのじゃ!」 ネモに指差された蜘蛛の魔女を影が眺めた。 「私の守備範囲はもう少し若い子なんで」 「誰がおぬしの好みを聞いとるか!」 「まあ、あれくらいの大きさなら許容範囲ですが」 魔女の胸元をじっくり見たあと、うんうんと影は深く頷いた。 「ブチ殺す!」 蜘蛛の魔女の背後に、紅蓮の炎が噴き上がったような気がした。怒りのままに背に生える蜘蛛の脚を使い、あっという間に距離を詰める。 「痺れさせて、嬲り殺しの刑!」 魔女がギアである蜘蛛の爪を影に突き立てると、影のひょろりとした体が崩れ落ちた。 「か、体が痺れて、う、動かない~」 「ほーほほほ! さあ、次はジジイの番よ!」 いつの間にかちゃっかりと離れていたネモに魔女が言い放った。 しかし、ネモは魔女を気にすることなく、不思議そうに首を傾げていただけであった。 「ちょっと待て、おぬしに痺れる神経なぞあるのか?」 「はっ! 言われてみれば、私神経ないですね!」 苦しげに呻いていた影はがばっと勢い良く上半身を持ち上げると、そのまま見事な速さの匍匐前進でネモの元まで戻った。 「デタラメなのもいい加減にしなさい!」 苛立たしげに唸る魔女に合せて、蜘蛛の脚が地面をがんがん叩く。 「あれ伯爵、そうなると私はどうやって痛みを感じてるんでしょうか?」 「ワシが知るか! じゃが、理由が解れば教えろ、ワシも興味はある」 「そ、そそ、そんな、は、伯爵が私の体に、きょ、興味があるだなんて。は、初めて会ったばかりなのにっ」 反らせた上体をくねらせもじもじてれっとする影、ぶっちゃけなくても気持ちが悪かった。 「その役立たずな頭部を握り潰し、一から作り直してやるかのう?」 ちょうど良い高さにあった影の頭部をネモは両手で掴み、ぎりぎりと遠慮なく力を込めた。 「いででで! 頭潰れます!っていうか、もう伯爵の指の間から頭が変な形ではみ出してます! これアウト、もうアウトだから!?」 空気を裂いて、糸の鞭がネモと影に襲い掛った。 「もう面倒よ! まとめてブチ殺す!!」 優雅にマントを翻し鞭を防いだネモは、奇声を上げて鞭に吹っ飛ばされた影に命令する。 「ほれ、さっさと戦わんか!」 「何言ってるんですか、ちょっと歳いってるけど女性に手を上げるなんてできないですよ!」 影は何を言われているのかちょっと解らないという素振りであった。その頭部はまだ微妙にでこぼこしていた。 「おぬし、何のために召喚されたのじゃ?」 「もちろん、可愛い幼女を抱きしめるためです!」 「帰れ」 「待ってください! 私召喚されたの初めてなんです! 全然全く毛ほども掠りもしないほど喚ばれないんで、転職しようか真剣に考えてたところなんです! チャンスをくださいぃー!」 「すがりつくな、鬱陶しい! そんな局所限定的な利用の召喚魔法なんぞ初めて聞いたわ! 返品じゃ、返品!」 「全員出払ってて、誰もいないから仕方なく私にお鉢が回ってきたんですよ! 返品しても今は喚べるの私だけです! ちょっと考えれば解るでしょう! そんなことも解らないのか、このバカ!!」 「何を逆ギレしておるか! ええい、それなら抱きつくなり何なりしてあの小娘の動きを止めてみよ!」 「仰せのままに! へい、そこのお嬢さーん!」 喜んだ影が両手を上げて、無防備に魔女へと駆け出した。 「ふんっ」 鼻を鳴らした魔女の蜘蛛の脚が唸りを上げて、影の顔面部分にめり込んだ。ちょっぴり後頭部側が膨らんでいるのは、見間違いではなさそうだ。 そして、別の脚がすくい上げるようにして空中へと殴り飛ばす。 「とおっ!」 蜘蛛の脚で跳び上がった魔女が後を追う。そして、8本の脚による怒涛のラッシュが始まる。 9hit! 14hit! 17hit! 21hit! エクセレント! その光景を眺めていたネモの耳に、聞いたこともないはずの言葉が聞こえたような気がした。 「清々しいほどの弱さじゃな」 ぐるぐるに縛り上げられデコボコになった元人型っぽいものを、恐ろしく冷めた目でネモは見ていた。 「さあ、こいつを返して欲しくば、負けを認めなさい!」 「むしろ処分してくれ」 「そんなあっさり!?」 「嫌よ、ゴミで手が汚れるじゃないの」 「こっちもあっさり!? しかも、助かったけどなんかショック!」 「まあ、ゴミはどうでもいいわ。大事なのは私の物に手を出したことを後悔させてやることなんだからね」 蜘蛛の魔女が握り拳を鳴らしながら気合いを入れ直す。 「あの、お嬢さん」 「何よ?」 遠慮がちに掛けられた影の声に、魔女は絶対零度の視線で応えた。 「どうせなら、もうちょっときつめに縛ってください」 「黙っとけ!」 魔女は糸を飛ばし、ゴーレムの口辺りを顔が変形するほどの力強さでぐるぐる巻きにした。 呻きながら転げ回る影を放置して、蜘蛛の魔女とネモが向き合う。 そして、戦いの火蓋が再び切って落とされた。 2人は周囲への迷惑を省みずぶつかり合っていたが、周辺のロストナンバーも仲裁に入ろうとはせず、どっちが勝つかなどと賭けをし出している始末であった。 無責任に野次を飛ばしたり応援したりと、むしろこういう騒動を楽しんでいるようである。 そんな観衆に混じるようにして、影はバナナを食べながらネモを応援していた。ちなみに、皮は行儀悪くその辺に投げ捨てている。 「仕事をせんか!!」 青筋を浮かべてネモが影を怒鳴り付ける。 「らっへ、はりゃがへっはらちかりゃぎゃでぬぁいでふお?」 「食いながら喋るな、見苦しいぞい!」 ネモの放った黒い稲妻が、蜘蛛の魔女の張り巡らせた糸を焼き切れば、焼け落ちる糸の隙間を縫って魔女が蜘蛛の脚から糸玉を撃ち出す。 ネモは洗練された動きでマントを翻し、迫り来る糸玉を弾き落す。 「ネモちゃーん」 そんな時、ほのぼのとした幼い声が響いた。 思わずネモが声のした方に顔を向けると、ネモと見た目はそう変わらないであろう年齢の少女が、お盆を持って小走りに近付いてきていた。 そして、そのお盆の上には伝説スイーツである「紫芋のパイ」が2つ載せられていた。 「ごめんね~、パイが入荷したからネモちゃんへ言伝を頼みに行ってたのよ。ちょうど行違いになっちゃったみたいね」 「ストライクゾーン!」 ぽてぽてと聞こえてきそうな小走りをしているパン屋のおばちゃんを見た影は叫んでいた。 「バイトの子に聞いたんだけど、そっちのお嬢さんの分もあるから、喧嘩しないで仲良く食べてね~」 2人は明るく穏やかな笑顔に毒気を抜かれてしまった。 「ふん、ワシが予約しておいた分なのじゃから、ワシが食べて当たり前じゃろう」 「私に売ってくれたんだから、私がもらって当然よね」 不承不承ながらもお互いに構えを解くと、万事解決という空気がネモと蜘蛛の魔女の間に流れた。 そんな時、事件が起こった。 「きゃ!?」 おばちゃんがバナナの皮で滑ったのだ。お盆を持っていたせいで足下が良く見えなかったのだろう。 前のめりに転ぶおばちゃん、そしてお盆から飛び出す紫芋のパイ。 誰しも予想外の事態に身動きできなかった。そんな中で1体だけが動いていた。 「危なーい!」 転ぶおばちゃん、見た目ストライクゾーンの幼女、を抱しめるために、影が動いていたのであった。 可愛い幼女を抱しめるために存在するというだけあり、その動きは鋭く素早かった。 影はおばちゃんを抱き締めよう全力を発揮しただけであり、見ているものはおばちゃんであり、パイは全く眼中になかった。 だが、大口を開けて叫ぶ影は前方からおばちゃんへと駆け寄っている。そして、おばちゃんは前のめりに倒れながらパイを放り出してしまっている。 結果、2つの紫芋のパイは綺麗な放物線を描いて影の口の中へと消えた。 もっぐもっぐもっぐ、ごっっくん 影は己の存在意義の通りにおばちゃんをしっかりと抱きしめて転ばせなかった。 そして、ついでに口に入った何かを、確かめもしないでとりあえず噛んで飲み込んでいた。 時の凍りついたネモと蜘蛛の魔女の耳に、その音が嫌に響いた。 「う~ん、デェ~リシャ~ス」 余りの美味しさに似つかわしくない流暢な発音が影の口からこぼれた。 「はっ!?」 そして、美味しさにうっとりとしながらおばちゃんをずっと抱きしめていた影は、途方もなく恐ろしい何かが背後に迫っていることを感じ取った。 先程とは違う意味で生唾を飲み込んだ影が、恐る恐る振り返って見たものは……。 その後、彼(?)の行方はようとして知られていないらしい。 「結局ー、あれだけ騒いで何も買わなかったんだから、いい迷惑って感じぃー」 第三者であるバイトは、最後まで正論であった。 様々な世界の住人が行き交うターミナルではよくある出来事の一幕であった。 ……たぶん。
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