いつか、こんな日が来ると思っていたんだ。 * ひとりの少女をキッカケとして繰り広げられたブルーインブルーにおける壮絶な事件は、あらゆる所に痛みと傷跡を残しながらも辛うじて幕を下ろした。 そこにどんなドラマがあったのか、どのような想いでどのようなストーリーが語られたのか、本当のところは誰にも分からないのかもしれない。 今後なにが語られ、なにを得、なにを捨て去ることになるのか、本当のところは今はまだなにひとつ分からないのかもしれない。 ただ、相沢優には分かっていることがある。 それは、心の底から大切にしている少女――日和坂綾が、自分の手の届かないところへ行こうとしていること。 そして彼女の想いを、優自身はけっして否定できないということ。 彼女の選択を尊重しようという自分と、頭では分かっていても感情がついて行けていない自分の狭間にいたこと。 言葉を交わし、想いを交わしあい、はじめからひとつしかない《結論》の行き着く場所を互いに確認し合った。 それは、それきり。 それで、それきり。 誰にも入り込めない距離で、誰にも入り込めない時間、優と綾は互いに抱く想いで向き合い、伝えあい そうした後にはもう、多くを語る術はなくなっていた。 あの時間は代えがたく得がたい時間だったと確かに言える。 けれど。 でも。 「綾……」「……ユウ……」 優は綾の手を放す覚悟をしたのに、送り出すと心から思えたのに、なんの約束もなくこうしてターミナルで出会ってしまうと、どうしようもなく心がざわめき、言葉を失わせる。 綾は何も言わない。 優もなにも言えない。 無言のままに、一歩も動けないまま、街路樹の葉擦れの音だけがふたりの間を満たす。 でも、そこで終わらない。 そこで止まったままではいない。 停滞することも迷うことも、優はもうしないと決めているから。 だから、笑った。 笑って、綾に手を差し伸べる。「綾、デートしよう」「え?」「初デートは綾はずっとヴァンさんの着ぐるみ姿で、二回目のデートはオーロラを見にフィンランドへ行って、……今度のデートはどこでどんなことをしようか? 薔薇でできた迷路ができたらしいけど、そこに行ってみる?」 楽しい時間を過ごそう。 思い切り楽しい時間を。 そう言って優は笑い、綾はその手を取って、数日後の駅前広場での待ち合わせを決めた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>相沢 優(ctcn6216)日和坂 綾(crvw8100)=========
「綾」 肩に相棒であるフォックスフォームのエンエンを乗せ、彼女は来た。 「……時間ぴったりでしょ?」 見慣れた赤ジャージではない、ふわりとした肌触りのよい生成りのワンピースにつばの広い帽子、ヒールの高いサンダルを履いた綾の姿は、どこか痛々しいくらいに眩しかった。 「似合ってるよ、綾」 今までとは違うその姿に、彼女の確かな決意と心境の変化を見て取り、穏やかに受け止める。 「……うー……、アリガト」 照れたような困ったような嬉しいような何とも言えない表情を、両手で掴んで引き下げた帽子のつばで隠しながら、綾は言う。 「……今日は、……ユウの行きたいトコ巡りがいいな……」 それは、初デートの時に口にした言葉。 優はそれを笑顔で受け止める。 「それじゃ、まずは」 さりげなく、何気なく、互いの指先が触れるか触れないかの距離を保とうとする綾の手をきゅっと握った。 「ユ、ユウ……!?」 「俺さ、綾に見せたいモノとか、綾と行きたいトコとか、綾としたいコトがたくさんあるんだ」 驚く彼女にやわらかく笑いかけながら、優はその手を引いて歩き出す。 もう片方の手には大きなバスケット、そして肩にはオウルフォームのタイムが首を傾げながら乗っている。 綾と優、エンエンとタイム、4名の時間が始まる―― 「ターミナルって、気づくといろんなお店ができてたりしてさ、無名の司書さん手製のガイドブックはすごすぎると思うんだよな」 「ああ、ここのアイスクリーム屋さん! 全種類制覇目指して、よく皆で通ったよな。さて、どれにする?」 「セクタンストラップ、皆でお揃いにしたっけ。セクタンレンジャーとか言ってさ」 「へえ、路上パフォーマンスなんて、すごいな」 異世界を巡る冒険旅行ももちろんだが、優にとっては、様々なチェンバーで形作られたこのターミナルにも、綾との想い出は尽きない。 「えー! いつの間にこんなにたくさん、新しいお店ができてたんだろ」 「アイス、え、いいの? うぅ、アリガト……やっぱ、ココのが一番おいし」 「……ストラップ前にした皆のあの盛り上がりにはビックリしちゃったけど、なんか……うん、すごく、なつかしい、……カモ」 「……この通りって、ホントにいつ来てもニギヤカだよね。変わってるのに変わんないんだよね」 同じ想い出を共有して、同じ景色を共有して、その瞬間に感じていることを言葉にして交わしあう。 今までとは《何か》が決定的に変わっているのに、何でもない日常の中の、穏やかで賑やかで、これまでと何も変わらない時間として過ごしていく。 優にとって、日和坂綾という少女が、一緒につるんで笑ったり遊んだりイタズラしたりするだけの《仲間》から、《恋愛対象》へと変わっているのを自覚した時、自分は相手との距離感を把握しきれずにいた。 好きだという感情、好きだという想いの在り方、好きだというコトそのものを、もしかすると、結局自分はまだよく分かってないのかもしれない。 それでも、彼女との時間を大切にしたいと望む、それだけは確かな想いだ。 だから、ひとつひとつ優しい記憶をなぞるように、優は綾の手を引き、ターミナルを歩いて行く―― 「ここが薔薇の迷宮か」 「……スゴイ」 優の背丈すらも易々と越えた生け垣と、色鮮やかに咲き誇る薔薇のアーチの入り口が、自分たちを出迎えてくれた。 庭園に続く鉄柵は、大きく開かれている。 チケットを販売しているわけでも、入場を制限しているわけでもなく、ただただ『ご自由にどうぞ』と言わんばかりに自分たちに向けて、扉は開かれているのだ。 「ソレじゃ、挑戦だ」 「うん」 ふたり一緒に踏み込めば、薔薇の幻想が自分たちを包み込む。 最初に自分たちを迎えたのは、陽の光を浴びて輝く、目の覚めるような白と黄の競演だ。 見事なグラデーションを描きなら幾重にも折り重なった花たちは、清廉であったり、可憐であったり、豪奢であったりと、それぞれに微妙な表情の違いを見せる。 「ホワイトチョコレート、ピーチキャンディ、みるく、……なんか、美味しそうな名前が並んでるンだけど」 「こっちは、ハニーレモンやホワイトマカロンだってさ」 「カスタードパイとかカステラとか、もう、狙ってるとしか思えないヨ」 「あはは、お腹が空く迷路って感じだな」 「お茶会もできるんだっけ」 「迷路の真ん中に庭園があるっていうから、そこでティータイムにしよう? それまでに、綾にはうんとお腹を減らしてもらわないと」 「うん」 優と手を繋ぎ、歩きながら、綾は笑おうとして、自分の口元がぎこちなく固まっているのを自覚する。 笑顔を作ろうとする度に失敗してしまう自分の顔を、帽子の下にひた隠す。 自分が引き金となって起きてしまった悲劇、ジェロームに囚われてからの時間を、自分の代わりに毎日ひとりひとり殺されていったあの26日間を、片時も忘れていない。 起きていても、眠っていても、ひとりで居ても、誰かと居ても、あの光景が頭から消えない、目の前から消えない、ずっとずっと消えない。 心の底から笑えなくなった自分が、あの時間のあの空間にずっと取り残されている。 「……ユウ……」 言葉にできない、言葉にならない、言葉にしようのない想いを抱え、綾は、優を見つめては、視線を逸らし、本当に伝えたい言葉たちを呑み込んでは、薔薇の名前を読み上げていく。 その繰り返しだ。 そして、一歩先を行く優の横顔を、彼の肩越しに見つめる。 真っ直ぐ前を向いて進み、時々こっちを振り返っては笑いかけてくれる、その存在が眩しい。 「……ユウ……」 相手に届くか届かないかの、そんなギリギリの小さな声で、呟くように綾は口の中で何度も名前を繰り返し呼ぶ。 自分はいつもひとりだった。 ずっとずっと、誰かに寄り添い委ねることも、誰かを頼ることも、誰かと分かち合うことも、本当の意味ではして来れなかった。 本当の意味で、誰かと心を繋ぐことをしてこなかった。 人の心が分からない、人の感覚が理解できない、殴り合うことでしか相手の感情を実感できないでいた《自分》がふと顔を出す。 どうしようもなく不安で仕方がなかった、異常なのではないかという思いに絡め取られ、それをぬぐい去るようにストリートファイトへと突き動かされていた、あの頃の《自分》という存在が―― でも。 「綾」 優が振り返る。 「迷路の中心に到着したみたいだ」 でも、優はそんな自分のソバにいつもいてくれた。 「アンジェリーク・ロマンチカっていう品種なんだってさ」 狭い視界が一気に開け、そうして唐突に迷路の中心に出現した庭園は、ふたりのために用意された秘密の空間のようだった。 淡く甘いピンクの、まるで砂糖菓子のように愛らしい薔薇で囲まれたそこには、アンティークの白い円テーブルと椅子が、ぽつんぽつんと置かれている。 自分たち以外にはほんの2~3組しか居ない、静かで贅沢な場所。 「さ、綾は座って」 「うん」 言われるままに席に着き、帽子を脱いで、肩にいたエンエンを自分の膝に乗せる。 「それじゃ、ティータイムにしよう!」 椅子の上にずっと持ち歩いていた籐編みのバスケットを置くと、優はまるでマジシャンのように、ふわりと白いテーブルクロスを取りだし、敷いた。 その瞬間から、魔法が始まる。 蔓薔薇のレリーフが愛らしい白磁のテーセットに、白い皿、ナイフにフォーク、茶葉の入った缶などが出てきたかと思えば、絞りクッキー、焼きチョコ、ガレット、さらにはアボガドやエビ、パストラミビーフにオムレツといった具材をたっぷりと使ったサンドイッチなど、目にも豪華なボックスが次々と並べられていく。 テーブルの上が瞬く間に、おとぎ話のお茶会へと変わる。 優だけが見せてくれる、特別の魔法だ。 「そして、コレが今朝作ってきたタルト」 アフタヌーティに一層の彩りを与えるのは、小さくても赤い花びらが印象的な苺と薔薇のタルトだった。 「なんか、食べるの、スゴイもったいない……コレ、ぜんぶユウがひとりで作ったの?」 「うん、……と言いたいところだけど、実はさ、クリパレでラファエルさんに料理のアドバイスをもらってさ、タルトの薔薇と苺は、モリーオさんにお願いして今朝摘みに行かせてもらったんだよ」 ラファエルにはさらに閉店後の厨房も貸してもらい、自宅ではできないような仕込みをさせてもらった。 「この薔薇ジャムは無名の司書さんからプレゼントされたモノだし、紅茶はヴァンさんからのお裾分け。薔薇ジャムに合う紅茶をちょうど手に入れたばかりだからって」 「へえ、ルルーさんのなんだ」 「本を借りに行ったら、ちょうどアドさんと3人でお茶会の準備をしてたんだ。ヴァンさんの司書室、ウワサ以上の蔵書で驚いたけど、自宅はもっとすごいんだって」 「あ、わかる。1回お邪魔したけど、うん、カフェって感じのリビングもすごかったけど、書庫がね、頭痛くなりそーってなるくらいだったもん」 「そっか、綾はヴァンさんの家に行ったことあるんだっけ」 「衝撃の結末を目にシマシタ……」 「俺もみたかったなぁ、衝撃の瞬間。まあ、あのあと、カリス様のお茶会でルルーさんには会えたんだけどさ」 そこでふと、綾がくすぐったそうに身じろぎした。 「あ、ごめんごめん。ほら、エンエンも食べていいんだよ。ユウの手料理、すっごいおいしいもんね」 どうやら我慢しきれなくなったエンエンが、膝の上でもぞもぞ動きだす。 綾は苦笑しながら、サンドイッチをつまんで渡した。 「おまえにはこっちだな」 それに倣って、優も、自分の傍らで首を傾げたままのタイムに、ローストチキンをひとかけ渡す。 誰かが美味しいと言って、嬉しそうに自分の料理を食べてくれると、優はそれだけで幸せになれる。 もっともっと、喜ぶ顔を見ていたいと思える。 もっともっと、どんなリクエストにも応えられるくらい料理の腕を上げて、美味しいって笑ってもらいたいと思えた。 綾に笑ってほしかった。 こんなにも、こんなにも、こんなにも。 切ないくらいに想いはあふれ、涙が出てこないのが不思議なくらいに胸にしみていく。 分かっている。 知っている。 このティータイムが、優と綾にとっても、エンエンとタイムにとっても、最後の時間だということが分かっているから、終わりに近づいていくのが淋しくて仕方がない。 それでも、その思いをそっと閉じ込めて、他愛のない会話を紡ぐ。 他愛のない、日常の、少し前までは当たり前だった時間を、綾と過ごす。 「あ、こら、エンエン!」 「うわ」 何を思ったか、突然エンエンがクッキーを持ってテーブルから飛び出していき、タイムがその後を追いかける。 更にそのあとを追いかけたのは優だ。 他のテーブルに飛び込む寸前で2匹まとめて抱き留めれば、腕の中で、エンエンはタイムにギュッと身を寄せて鼻先を押し当てる。 その姿はまるで、離れることを惜しむかのようで。 「……おまえともお別れなんだな」 抱き上げたエンエンの耳元に、綾には聞こえない小さな声でそっと呟く。 「ごちそうさまでした」 やがて、料理の全てがキレイに皿の上からもカップの中からもボックスからも消えてなくなった。 信じられないくらい、本当に久しぶりに、綾はめいっぱい食べていた。 美味しいと、思えて食べることができた。 「それじゃ、ゴールを目指そっか」 ぱんぱんにふくれたお腹をさするエンエンを抱き上げた綾に、片付けを終えた優が笑い掛ける。 「あ、そだった。ここはゴールじゃないんだもんね」 「うん。まだゴールじゃないんだ」 再び、優の手が綾の手を握った。 「――っ」 同時に、どうしようもなく胸が締め付けられる。 広場で手を繋いでもらった時とは違う胸の痛みが、棘となって突き刺さる。 一分でも一秒でも早く、自分はブルーインブルーと、あの世界と向き合わなければならない。 そうしなければ、生きていることを、食べることを、笑うことを、存在していることを、すべてを自分に許せなくなる。 無駄に死ぬことは、もちろん許されない。 だから、必要最低限の準備だけして消えるつもりだった。 目の前に居るのが相沢優でなければ、きっと自分は、それを強い決意として言葉にすることができるだろう。 自分はもう決めた、死ぬのも消えるのも同じだから、すべてを捨ててあの世界にひとりで行くよ。 覚悟したよ。 大丈夫。 そう、笑って告げられるのに、それは嘘でも何でもないのに。 けれど、優に手を握られ、前を行くその姿を見て、思う。 懸命に足掻いて、もがいて、行き詰まって、息が詰まって、生きることに詰まって。 あの日、あの瞬間、自分は折れてしまったのだと、ただ進めなくなっただけなんだと、気づかされる―― 「着いた!」 何者にも遮られない、目が眩むほどに大きく視界が開ける。 薔薇の香りに包まれた迷路から、自分たちは緑広がる庭園の出口へとふたり一緒に辿り着いたのだ。 「……着いちゃった……」 ここがゴール。 ここで、ゴール。 ふたりの時間も。 綾は自分から繋いだ手をはなし、そっと一歩後じさり、距離を置く。 けれど、優は振り返り、そんな彼女を真っ直ぐに見つめ、ポケットから小さな包みを取り出した。 「綾、これを」 「へ……?」 「開けて」 「……うん」 言われるままに、戸惑いながら解いていけば、中から現れたのは―― 「守り石をブレスレットにしたんだ」 一度は戻ってきた《守り石》を、優はこの日のために馴染みのジュエリー工房に赴き、自ら加工した。 石を嵌め込んだシルバーブレスレットは波をモチーフにしたトライバルデザインであり、素人ゆえに多少の歪みはあるけれど、綾の腕にはぴたりと嵌まる。 「よかった」 「……ユウ、いいの? だって、コレって」 「いいんだ」 言い募ろうとする綾に、そっと頭を振った。 彼女の瞳が、哀しげに揺れる。 「ゴメンね。私、自分のことばっかりだった……ユウはいつだって私のためにしてくれたのに、私は結局ひとっつも返せなかったね」 ユウを好きになって、ユウの彼女になれて、ユウとの時間を過ごせて、本当に本当に幸せだったと思う。 嫌われたらどうしようっていう不安は常にあったけれど、それでも、楽しかった。 どうしていいのか分からなくなるくらい、ユウと居られることがとても嬉しかったんだと思う。 そう、綾は告げた。 その言葉に、優の胸が痛くなる。 「俺は、返してもらってたよ。綾から、いろんなモノを受け取っていたんだ」 綾と出会って、綾を好きになって、だからこそ、自分の進むべき道を自分の思いで真っ直ぐに選ぶこともできたのだ。 「綾……」 手を伸ばし、抱き寄せ、抱き締める。 確かにここに存在している大切な少女の、その決意に敬意を込めて、言葉を贈る。 「この石が俺の代わりに綾を護ってくれますように、綾の想いが叶いますように、綾が自分の居場所を得られますように」 祈りを込めて、願いを掛けて、言葉を紡ぐ。 「綾……」 彼女の名を呼ぶ。 そして、 「 」 その耳元で、彼女にしか届かない声で、たったひとことを捧げた。 腕の中で、綾は小さく身じろぎし、抱き締めていた腕を解けば、そっと一歩下がって、顔を上げる。 「ユウ」 初めて、綾とちゃんと目が合った。 彼女の瞳は揺れている。 「ユウ、ちょっとだけしゃがんでくれる?」 「ん?」 小さく首を傾げながら、それでも望まれるままに、屈んだ。 綾はそっと両手を伸ばし、挟み込むようにして彼の頬に触れた。 「……ユウ……」 そうして目を閉じて、額同士をつけ、告げる。 「これから何が起きても、ユウがそれを乗り越えられて……ユウの願いが叶いますように」 触れた肌の温度が、互いの熱で馴染んでいく。 「ありがとう」 泣くわけにはいかない。 泣き顔を見せるわけにもいかない。 だから、綾はつばの広い帽子をつかみ取り、エンエンを攫って、そうして駆け出す。 振り返らずに。 立ち止まらずに。 自ら選んだ道を進むために、優しく力強い彼の手を放し、たったひとりで去っていく。 「綾」 彼女の背がターミナルの向こうに消えてしまうまで、優はじっと見つめていた。 声を掛けず、手を伸ばさず、追いかけずに、彼女の旅立ちを見送る。 「……どうか、綾が幸せでありますように……綾の想いが叶いますように……」 誰に捧げる祈りなのかは、分からない。 それでも、繰り返し口にする。 言葉にすることで、引き寄せられる幸運があるのだと信じて。 ブルーインブルーの帰属を望む彼女と、壱番世界の救済を望む自分は、はじめから、互いに進むべき道を違えていた。 永遠に一緒にいられるとは思っていなかったし、どちらも自分の選んだ道を捨てることはできないと思っていた。 だから、いつかくると思っていた。 どれほどに好きになっても、どれほどに強く想っても、いつか別れの日が来ると。 ただ。 ただ、こんなにも早く、こんなにも苦しく哀しいカタチでこの日が来るとは思っていなかった。 「……綾、」 コレが最後。 コレが最後の、綾と自分のお別れ。 これから先、おそらく《相沢優》と《日和坂綾》ふたりのための物語は新たに紡がれることなく。 ふたりの想いは、停滞し続けるターミナルが抱く《薔薇の迷宮》の中心で、長く深い眠りについた―― END
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