「モフトピアに、吸血鬼のロストナンバーが現れた」 シド・ビスタークが、簡潔に話し始めた。「集落にほど近い湖畔で行き倒れていたところを、アニモフたちに助けられ、介抱されているんだが」 問題は、と、シドはロストナンバーたちを見渡した。「彼が、血の渇きを覚え始めていることだ。今は抑えているようだが……狂乱に陥るまで、あまり時間はない」 我を忘れた吸血鬼は、アニモフたちをその爪で切り裂くかもしれない。「そこで、被害が出ないうちに、このロストナンバーを保護してくれ。 この吸血鬼には、日光も大蒜も十字架も通用しないが、驚異的な再生能力や変化能力もないようだ」 そういう意味では、吸血鬼というよりは、吸血者、あるいは、血液依存者と言い換えてもいいかもしれない。「少しばかり力の強い、長命な人間だと思えば良い。名はクラウス・エンゲルハート。見かけ20歳前後の青年だ」 シドは『導きの書』の文字を、指で追った。「彼の世界は、吸血する者とされる者との身分社会だったようだな。一族は代々都市を治める公子で、吸血鬼をも支配する側にいる。 しかし、彼はどうも自分の一族を好んでいない。吸血鬼としての能力が低かったせいかもしれんな」 エリート一族の中の出来損ない、そんなところだろうか。「能力開発を名目に、何度も懲罰房に入れられている。今回はその途中、何の前触れもなく不意に、転移したってとこだ」 おまえ達の中にも、いきなり日常から飛ばされたのもいるだろう?「何度かの房入りで『魅了の瞳』だけは身につけたようだが、他は、ギアをもったおまえ達の方がよほど強いだろう」 そして、くすりと笑いながら付け加えた。「ただ、アニモフにたいそう好かれちまっているらしいから、その辺が問題といえば問題だが、ま、なんとかなるだろう」 軽く行ってこい。そう言って、シドは人数分プラスワンのチケットを手渡した。 * * * クラウス・エンゲルハートの目の前に、次々とお菓子が積み上げられている。 フルーツたっぷりのタルト。クリームこってりのケーキ。くま型くっきー。綿菓子。オレンジジュース。林檎ジュース。バナナとミルクの甘ぁいジュース。きらきら金平糖。七色のゼリー。 白く小さい熊のぬいぐるみが、入れ替わり立ち替わり、献上品のようにお菓子を置いていく。 心配そうに彼の目をのぞき込む、可愛らしいつぶらな瞳たち。 青い顔色のまま、クラウスは無理に笑顔を作った。 喉の渇きは、刻々と増してきている。 血ガ欲シイ! また一瞬、視界が赤く染まる。「ぐぅ……っ」 呻いて身体を抱くクラウスに、柔らかな手が添えられる。 ――大丈夫かもふ? 彼らの話している言葉は、どうしたってさっぱり理解できない。 しかし、この可愛らしい外観のくまが、とても優しい心を持っていることは、すぐにわかった。 夢や天国にいるんじゃないってことは、逃れられない血の渇きが教えてくれている。 これが現実だとしても、……今のクラウスには、その先の思考が出来ない。 ――旅人さん、なんで、食べないんだもふ? ――ほら、これも、これも、すごく美味しいんだもふよ。 ――食べたら、きっと元気になるもふよ。 ――食べてほしいもふー。 いくつもの白い腕。 ふにふにした。 牙ヲ立テタイ。(俺が欲しいのは菓子じゃねんだよ。血、血なんだってばよ……っ) クラウスは知らない。 自分がいる小屋の、小さな扉の向こう側に、村中のアニモフが並んでいることを。 ――僕が先に並んでたもふよ! ――わたしが先だったもふ! ――順番、守らないと、旅人さんに嫌われちゃうもふよ-? ――ちゃぁんと、お行儀よくしないと、いけないんだもふー 誰も彼もがクラウスのために、元気になるように、と、手に手にお菓子を持っていることを。
● ロストレイルからモフトピアの駅へ、そして経由するどの浮遊島でも、ロストナンバーたちはアニモフたちから温かい歓迎を受けていた。 「おお、ぬいぐるみの群れ。壮観」 金髪金目も鮮やかに、端整な顔立ちをした青年ツーリスト、神喰 日向 (カジ ヒナタ)が、無邪気に呟く。 「いらっしゃいもふー!」 抱きついてくるアニモフをひょいと持ち上げ、高く放り投げてみたり。癖が強くそちこちへ跳ねる髪をひっぱられて、痛ぇだろ、なんて言いながらも、もっふりもふもふな手触りが手放せない。 そんな日向のことを、ちょっと雰囲気が年上の男の人で、近寄りがたいかな、と思っていた小学生コンダクター・藤崎 ミナ (フジサキ ミナ)は、少しだけ印象を新たにした。 ミナの後ろからぽふんと抱きつくアニモフ。 柔らかな肌触りにミナもアニモフに戯れかけ、……だめだめ、今は依頼優先、と思い直す。 「ごめんね、また来たときに遊ぼ」 今回の目的は、クラウスさんを救出すること。 「まずは目的地に着かなくっちゃ」 「うん。助け出して、しっかりと介抱しないとね」 動く鎧のツーリスト、イクシスがうなずく。 「……閉じ込められるなんていじめだよぉ。可哀想だよぉ」 何かを思い出したのか、しょんぼりと呟いて、アニモフにぽんぽんされる。 仕草に和んで、イクシスは手をつないでみた。ちょっと幸せになる。 「そういやさー」 日向がアニモフをぷらんと持ち上げ、ぶらんぶらんと遊ばせつつ 「アニモフって血液流れてんの? 案外噛んでも大丈夫だったりしてな?」 こう、かぷっとさ。 アニモフの腕を掴み、口元へと。 嫌がるそぶりもなくきょとんとしているアニモフの瞳と間近に出会ってしまい、冗談冗談と、誤魔化すようにぎゅむっと抱き抱き。 「ちょっと噛んでみるくらい、別にいーじゃん。なんで我慢してんの?」 「そうデスネ、別にバレても構わないっちゃ構わないんデスヨネ」 銀髪銀目の青年風ツーリスト、アルジャーノが、飄々と世間話でもするかのように話題を引き取る。 「種として、生物として、摂取すべき物を責められる謂れはないのですカラ。 お肉を食べるということは、その生き物を殺しているという事。比べればこの方は血液だけですカラ、良心的っちゃそうですネ。けれど『生きる為に食べる事』って優しいとか酷いとか、そういう言葉で語る様なものではない筈デス」 大層なことを言っているのに、その口調のせいか、あっけらかんと聞こえてくるのが不思議だ。 「ちなみニ、私はお菓子よりもコレが好きデス」 唐突に、道端のレンガを拾うアルジャーノ。そのままボリボリ食べ始めた。 美味しそうな表情からもパフォーマンスではなく本当に『食事』であることが見て取れる。 「むしろお菓子食べるとぽんぽん痛くなっちゃうんですよネー」 困ったように言うアルジャーノの後ろを歩いていたミナは、思わず数歩、距離を取っていた。 「ふぅん、食べないといけない人たちって大変だネェ」 いつのまにか手帳を取り出したイクシス、今回の吸血鬼のこと以外にも、記録が増えて嬉しそうだ。 今回の一行、残り一人のロストナンバー、狼の獣人ツーリストのティルスは、ひとり離れて歩いていた。台詞の練習をしているためである。 「えー、『私は、臨床医学の権威であるティルス教授である。私の体内には』ええと、ま、ま…なんだっけ?」 行きのロストレイルの中から練習していたのだが、まだ全部覚え切れていない。メモ用紙を見ながら、それらしく話せるように、必死に覚えようとしていたのだった。 「そう、『万病に効くワクチンが循環しており、つまり私の血を飲ませれば、彼の病気はたちまち治るのであーる』!」 アルジャーノから距離を取るように歩幅を小さくしたミナの耳に、そんなティルスの声が聞こえてきた。その外見に興味深々、むしろその毛並みを一度触らせて欲しいかな、なんて思いつつ節度を守って遠慮していたのだが、その台詞に思わず突っ込まずにいられない。 「ティルスさん、さっきから何をしてるんですか?」 暗記に没頭していたティルスは、一呼吸遅れてミナの呼びかけに気付いた。 「……あ、えーと、ほら、アニモフさんたちに僕たちが助けに来たことを早くわかってもらわないと、クラウスさんが大変なことになっちゃうでしょ? で、どうやったらわかってくれるかなあ……って考えて」 そこでティルスは胸を張って、予め用意して着込んできた白衣を引っ張った。 「お医者さんの話だったら、皆信用するんじゃないかな、って思ったんだ」 ほら、注射器も借りてきたんだよ? これで、クラウスさんにあげる血液を採取するんだ。 「手首切って血を出したりして、興奮したクラウスさんに噛まれるのは嫌だからね!」 自慢のシッポがふさふさ揺れている。これは相当に自信がある様子だ。 手を伸ばしたいのを我慢して、でも、と、ミナは思った。 (モフトピアにお医者さんって、いるのかな?) 「なー、時間、ねーんだろ? 考えてねーで、早く行っちまおうぜー」 日向が会話に割り込む。肩車をしたアニモフに、お気に入りのムーンストーンペンダントを取られそうになって遣り合っている。 「まー、何とかなるんじゃねぇ? オレらならさ」 けらり。あくまで楽観的に笑う姿の上、アニモフも笑っていた。 ● 世界司書のシドに示された、目的の島が見えてきた。 湖畔を有し、そのほとりに小さな集落。一行はその外れへと雲の船を乗り付けた。 どの浮遊島でも見られた豊かな自然。長閑な景色。 けれど―― 「なー、なんかおかしくね?」 一匹も、歓迎するアニモフがいないのである。 今までの島ならば、彼らを見つけると我先にと寄ってきたアニモフが、誰も駆け寄ってこないのだった。 集落の隅っこまではみ出した長蛇の列の末端、並んでいるアニモフが、こちらをちらちらと見ているようだが、動こうとしない。 「そっか。順番、遅くなるのが嫌なんだ」 理由に、ミナが気付いた。もふもふ慣れし始めてきた頃だっただけに、寂しいような、クラウスが羨ましいような、気がしてくる。 と、いつのまにかイクシスが、アニモフの後ろについて並んでいた。 「並んでたら、会えるんでしょ? お行儀がよいのが一番だよねぇ」 ぬいぐるみの後ろに並ぶ鎧姿、というのも、ほのぼのシュールなものだが。 「イクシスさん。それはちょっと……」 「今は時間が惜しいですヨ。待っている間に暴走が起こっタラ、大変デス」 畳みかけるように促され、5人は揃って列を辿ることにした。 いったい何匹が列にならんでいるのだろうか。 並んでいるどのアニモフもそわそわとお菓子を持って待っている。 町中に甘い匂いが漂っていた。 並んでいないアニモフは、家でお菓子を作っているのだろう。 一行は長蛇の列を辿って、ようやく島の中ほどにある一軒家にたどり着く。 ちょうど、扉が開いて一匹の白くまが吐き出された。 中から顔を出した眼鏡くま、 「次どうぞもふ」 と、列の先頭に並んでいた黒くまに、入るよう促している。 2番目に並んでいた小くまが、続いて入りそうになるところを、眼鏡くまが、めっ!と身体を張って止めていた。 「駄目もふ! 入る人数決めたの、守るもふ」 後ろに並んでいるアニモフにも、なだめられている。 「病人なんだから、いっぺんにたくさんきたら、疲れちゃうもふよ?」 「そうだもふ。学者さんが3人までって決めたんだから、守るもふよ」 どうやらさっきの眼鏡くまは学者さんと呼ばれているらしい。 小くまは納得したのか、大人しく待つことにしたらしかった。 離れてその様子を見ていたアルジャーノとミナ、 「どうやら中には3匹……というか、3人いるようデスネ」 「あとクラウスさんね。会わせてもらえるよう、説得しなくちゃ」 ミナは持参のお菓子を抱きしめた。 「あの学者とかゆーアニモフ、呼び出したら早えーんじゃねえ?」 日向が口を出す。そして思いついたら行動が早い。 よぉと挨拶を軽く交わしながら、扉に歩み寄り手をかける。 「あ、そこは駄目もふよーー!」 わらわらわら。日向から扉を守ろうと、アニモフが一団となってガードし始めた。 「大事なお客さまがいるもふ」「びょーきなんだもふ」「旅人さんでも、駄目もふっ」 口々に必死に抗う姿に、流石の日向も困ってしまう。 そのとき。 うぉほん、と、大きな咳払い、ひとつ。 「『私は、臨床医学の権威であるティルス教授である』!」 伊達眼鏡の位置を直しつつ、ティルスが朗々と、今度は淀みなく、語りながら前へ進み出てきた。アニモフの目が集まる。 「『私の体内には万病に効くワクチンが循環しており、つまり私の血を飲ませれば、彼の病気はたちまち治るのであーる』」 威厳を持たせようとして白衣の襟を正して見せたりもしたのだが、――しかしどうやら、ティルスの台詞は小難しすぎたようだった。彼らに理解出来たのは、 「『治る』のかもふ?」「元気になるもふ??」 たちまち病気が治る、という、そのワンフレーズ。 「『もちろんだ』」 大仰に肯定する、ティルス。ここは信頼してもらわないと。 「そうデスヨ、だから、そのお客様に会わせテもらえないでしょうかネ」 アルジャーノも便乗する。 しばし顔を見合わせていたアニモフたちだったが、一様に期待を込めて、ティルスを見上げはじめた。不思議な力を持つことが多い旅人であることから、アニモフたちはとりあえず、任せてみようという気になったらしい。 「でも、お客さまのことは、学者さんに聞かないともふ」 「最初にお客さま連れてきたの、学者さんだからもふ」 と、アニモフたちは扉をこつこつと叩き、眼鏡くまを呼び出した。 「なんだもふ?」 隙間からこっそりと中をのぞき見れば、黒くま2匹が心配そうに覗き込んでいる相手は、金髪の偉丈夫、俯いて髪が覆うその顔立ちはよく見えない。 「旅人のお医者さんが来たもふ。治してくれるって言ってるもふ」 「えっ、ほんともふ?!」 黒くま2匹はすぐ飛び出してきた。その後ろから、いぶかしげに学者くまが歩み出て、クラウスへ、待ってて欲しいもふ、と言い置き、扉を閉める。 ティルスは彼に、先ほどと同じ台詞を繰り返した。 「――『つまり私の血を飲ませれば、彼の病気はたちまち治るのであーる』」 「……。……ほんとに、ほんともふ?」 信じたい心と、不安と、ないまぜになって声が震える。 「お菓子、食べないんだもふよ? なぁんにも食べてくれないんだもふ」 だから、きっと、 「その、チ、とかいうのも、飲まないと思うもふ……」 これだけ集めたお菓子でさえ手を出さないのだから。 でも、助かるなら、お願いしたい。相反する気持ちに、学者くまは俯く。 こんなときのために、ティルスは前もって用意していた台詞を、切り出した。 「ふむ。『それは、「お菓子食べると元気なくなる病」だ』」 「「「「ええええーーー!」」」」 ティルスの背後から、いくつもの声。 いつのまにか、並んでいたアニモフまで集まってきていた。 「お菓子食べると、元気がなくなるもふ?」 「そんな病気、あるのかもふ」 「だって旅人さんが言ってるもふ」 「うん、旅人さんはいっつも、ぼくらの知らないこととかいっぱい知ってるもふ。きっと、そういう病気もあるもふよ」 「学者さん、旅人さんに任せるもふよ」 「うん、助けてもらうもふよ」 ね? ね? 周りのアニモフも口を揃えて、説得に回っていた。 「違うもふ! そんな病気じゃないもふ!」 ふるふると首を振って、学者くまは叫んだ。 「ぼくたちが用意したお菓子で、病気になったりなんて、しないもふっ」 「……そうね、みんなが用意したお見舞いのお菓子、いっぱいで彼はきっと喜んでいると思うよ」 ミナが優しく、学者くまに話しかける。 「あの人を助けてくれてありがとう」 アナタがいなかったら、彼はきっと助からなかったよね。 労われて、ほろりと泣きそうになる学者くま。 「でもね、あの人が元気になるには違うお薬が必要なの。わかってくれる?」 日に日に衰弱していく彼を、一番間近で見ていたのは学者くまだった。 きっとこのくまは、誰よりも彼を心配しているのだ。 「ワタシ達が、元気にしてくるから。だから、ここでワタシが持ってきたお菓子を食べて待っててくれる?」 ちらり、と、壱番世界より持参した手作りお菓子……家族に渡す為に作ったバレンタイン用チョコレートトリュフを取り出す。 「ね? これは、約束のしるし」 ひとつ、手にもたせると、くまは、すんと鼻を鳴らして、ひとくち食べた。 「……旅人さんのお菓子、すっごく美味しいもふ」 それまでのやりとりを見ていた日向が、口を挟む。 「それに、オレ、クラウスの友達でさ。あ、クラウスってのは、あいつの名前な?」 会話の出来なかった学者くまが、知らなかった彼の名前。 「心配して迎えに来たんだから安心しろって、なー?」 ぽんぽんぽん。柔らかな頭を撫でて。 しばらく無言で俯いていたくまは、眼鏡を取って、目をこすって、かけ直して。そして、確かめるように聞いた。 「ほんとに助けて、くれるもふ?」 「安心して。約束するわ」 「ああ、約束だぜ」 「『もちろんだ。任せておきたまえ』」 ようやく安心したかのような笑顔を見せて、学者くまは扉に手を掛けた。 「わかったもふ。お願いするもふ」 ● 「よォ、クラウス! どこ行ってたんだよ探したんだぞー」 友人の顔で一番に扉をくぐった日向は、鞄からボトルに入れた血液を取り出した。 小屋の中には、クラウスひとりきりだと聞いていた。目の前で倒れそうに伏せている、金髪のガタイ良さそうな男が、クラウスなのだろう。 「オイ、大丈夫かよ?」 いよいよやばいのかと、危ぶんで急いで駆け寄る。ボトルの栓を、開け、 「ほら、持ってきたぜ!」 途端、見た目、明らかに、彼の身体が跳ねた。 続けて「お邪魔しますヨ」とアルジャーノが、えへんと胸を張りながらティルスが、部屋に入り、目撃した。 血の匂いに、何かを抑えきれなくなって叫ぶクラウスを。 「もう、限界、だ………っ!」 逞しい腕が伸ばされ。 指先から爪が、あり得ない早さで伸びて。 日向はアルジャーノに引き戻され。 ティルスは身を翻した。 背後からミナが続いていると分かっている、抱きかかえるように扉の外へ飛び出した。 ティルスの姿の大きさに扉の中が見えないまま、ミナは外に連れ出される。こんな時なのに何だけど、もっふりとした毛触りに、うっとりしたりして。 最後尾のイクシス、ティルスが飛び出した弾みでガシャンと尻餅をついて。驚いた赤い目が、数回瞬きする。 音を立てて閉められた扉の中から、日向の叫ぶ声。 「入ってくんなよ!」 「どうしたのぉ」 きょとんとした顔をして、イクシスが問う。 何が起こったのかと、アニモフたちも心配して寄ってくる。 「アニモフも抑えとけ!」 再度、日向の叫びが聞こえた。何か危険な雰囲気だ。 訳が分からないままに任されたイクシス、彼なりの論理で説得を試みようとする。 「あー、んっとねぇ、殴り合うのも友情の証なんだって、どこかで聞いた気がするよぉ」 何か違う気がする。 助け船を出すべきだと、ティルスが大仰に肯く仕草を繰り返す。 「……『治療前の下準備だ。心配することは、ないぞ。血を飲む前に、運動も、必要なのだ』」 学者くまがとてもとても不安そうに、でも、一度任せたからには何も言えないと、3人を順繰りに見上げて。 「大丈夫。大丈夫だから。みんなの前で、我慢してたんだよ」 ミナがくまを抱きしめて、落ち着くように背をさする。 「もう少し待ってて。きっと、助けるから」 日向を投げるように扉に押しつけ、アルジャーノはクラウスに向き直った。 びくりびくりと身体を震わせて、クラウスの髪が伸び始める。 ――ヨコセ! 日向の手の中の血液ボトルから、匂いがすぐ鼻先へ漂ってくる。 「間に合わなかっタ、のでしょうかネ」 それとも、と、少し微笑んで 「よく我慢しまシタ、と言うべきなんでしょうカ」 アルジャーノを超えて日向へと、再び腕を振り上げるクラウスの目の前で、 へにょり。 アルジャーノの姿が消えた。――いや、消えたのではなかった。その足元だったところに、銀色のスライム状の、何か、がある。 それこそが、液体金属生命体アルジャーノ、本当の姿だった。 スライムだったのは、ほんの一瞬、それは腕を囲むように変化した。 「っ!」 爪の切っ先が、日向の鼻に辿り着くまで数センチ。 急速に縮んでクラウスの腕を捕らえ締め付けた銀色の何かは、肩を辿り、胸へ、腰へ、脚へ、駆け上って辿り巻き上げて、その勢いを殺す。 振り上げた腕はあっという間に後ろ手に巻かれた。 当然のように届くと思っていた距離を留められ、呻き振り解こうとするが叶わない。暴れるうちに、足先までぐるりと一巻きにされていた。激しく悶えてバランスが崩れる。 「そんなに暴れちゃ、危ないですヨー」 派手な音を立てて転ぶかと思いきや、まるで伸縮するゴムのような素材として柔軟に、クラウスをぐるぐると拘束したアルジャーノ、優しく、共に、ころんと床に倒れたのだった。 その一幕は、日向から見れば、扉の外へ注意を叫ぶ、ほんの一呼吸ほどの間でしかなかった。 正直なところ、何が起こっているのかと、見ていたにもかかわらず、思う。 「ちょっと、お借りしますネ」 どこからか声が聞こえて、ぐるぐる巻きにされたクラウスの肩口、銀色の一部が変形して、見たことのあるアルジャーノの腕が出現する。それで改めて、その巻き付いているものそのものが、アルジャーノだったのだと認識するのだった。 「や、構わねーけど」 血液ボトルをその手に渡しつつ、強ばった身体の力を抜いた。 「大丈夫かよ? ソイツ……」 まるで蓑虫だ。見えるのは口元だけ。まだ、がたがたと揺れて。 「『食事』が済めバ、落ち着くデショウ」 言いながら、アルジャーノの腕は、日向のボトルをクラウスの口へと強引に突っ込んだ。 息が出来ない。 血だ。 満たされる感覚が、意識を呼び戻す。 伸びていた爪が縮んでいく。 髪も短く戻っていく。 暴れていた力の抜けた箇所から、様子を見てアルジャーノは拘束を解いた。 「すいまセン。日向サンの血液、全部使ってしまいマシタ」 空になったボトルを持ち、元の姿でアルジャーノはすまなそうな顔だ。 「気にすんなよ。蓄えを貰って来ただけだからよ。まー、別にそんぐらいで餓死しない……んじゃね。寧ろあんな似非やか居なくなったところで何も困んねーしー?」 一息ついて安心したせいだろうか、舌がよく回る。 どちらにしろ、クラウスにあげようと思って持ってきた物だ。気にすることじゃない。 「にしても、ソイツ、どうなのよ」 「大丈夫デショウ。まあ、暴れたらまた、拘束しマスガ」 「……あんた、慣れてんな」 「いえイエ、それほどデモ」 言っているうち、クラウスが呻いた。 焦点の合わぬ瞳が開かれ、赤色に煌めく。 しばしの無言。そして、金と銀の、青年を見上げ睨んで、ひとこと。 「おまえら、何だ?」 まずは、と、扉の外で待っていたミナとティルスとイクシスを呼び入れた。いぶかしげなクラウスに、誠意を込めて、ミナは簡単に世界の成り立ちを説明する。 「と、そういうわけなの」 本格的な説明は、世界図書館の司書がしてくれるだろう。今はただ、違う世界へ来ていることだけでも、理解してくれればいい。 長い沈黙の後、クラウスは嘆息した。 「……まぁ、嘘だろっつーのが本音だけどよ」 扉をちらりと見るクラウス。 世界の真理の話だ、アニモフは入室厳禁と話してあった。 「あんなのが動いてんの見たら、なぁ」 目だけが柔らかく笑んだ。アニモフのことは、相当気に入っているらしい。 「とにかく、俺の世界はここじゃねぇのは分かった。そして、夢の中でもねぇってのはよ」 あんな世界には帰りたいとは思わない。思わないが、寂寥が胸を覆う。 (ずっと、俺の居場所なんてねぇとは思ってた。だけど、それでもまだ、『世界』っつう居場所が、そのときの俺にはあったってわけだ) だが、これでもう、どこからも放り出された。 「――ね、ワタシたちと一緒に行こう?」 クラウスの表情に影が差したのを見て取って、ミナが誘った。共に、0番世界へ、と。 「オレもいきなり、違う世界に飛ばされてさー。気持ちはわかんなくもないぜ」 「あ、僕は遺跡を調査していたところで、覚醒の扉を開いちゃったんだよねえ」 「ボクは、逃げてる途中で異世界に辿り着いたんだぁ」 日向、ティルスとイクシスが、自分の覚醒の経緯を話す。 アルジャーノは静かに微笑んでミナを促した。 「そうなの。ワタシたちみんな、アナタと同じなのよ」 生まれた世界への帰属を失った<ロストナンバー>なのだと。 ああそうだ。どうせ、どこにも行き場がないのならば。 「――わかった。俺を、連れてってくれ」 どこにいっても、同じではないか。 ● クラウスを連れて6人になった一行が、帰りの雲の船に乗る。 クラウスは、学者くまにだけは特別な情を持っていたらしく、 「また、来っからよ。元気でいろよな」 と、名残惜しそうに何度も、何度も頭を撫でていた。 他のロストナンバーは、何も言わない。言えなかった。 腕がちぎれそうなほど手を振る、くまたちに見送られて、ロストレイルの駅へと向かう。 「あっちに行ったらさ、いろいろ案内してやるよ」 面白い飴細工屋があってさー、と、親しげに話しかける日向に、クラウスは面食らう。 記憶には残っていないが、初対面で、自分は彼を襲おうとしたはずだ。 もらった血液ボトルは彼の物だと聞いている。 それなのに、あまりにフレンドリーで。 「おまえ、なんでそんな馴れ馴れしんだよ」 ぶっきらぼうに、クラウスは問う。 違う、嫌がっている訳じゃない、むしろ喜ばしい気持ちで救われてもいるのに。クラウスには、そんな言い方しか出来なかった。 「んー? あー、知り合いと同じ名前だからさー」 日向はクラウスの態度など意にも介さず、さっきよりも笑いを深くする。 姿も性格もさっぱり似ていないが、クラウス、という、その名前を聞いて思い出したひとがいた。 「案外さっくり忘れてたんだけどさぁ。何かさー、懐かしくなったんだ」 (今頃何やってっかなー。あの、嫁大好き子供大好きな、二人して可愛がってもらった、ちょっと残念なひと?) 忘れかけていた過去を少しだけ引き寄せて、日向はくつくつと笑う。 「そういえば、クラウスさん」 ミナがお行儀のいい笑顔で話しかける。 手にあるのは、果汁100%のトマトジュース。 「お腹、減ってませんか? これ、いちおう、用意してきたのですが。その、……やっぱり……血液、じゃないと、駄目なんでしょうか」 「ああ、すまねぇな」 それじゃあ駄目なんだ、と、クラウスが首を振る。 あたわた。勢い込んで、ミナは腕をまくり上げた。 「その、生きているのがいい、っていうことなら! ちょっとだけなら飲んでもいいですからっ。い、痛くしないでくださいね……?」 注射針を待つように、思わずぎゅっと、目を瞑る。 大きな手が、伸びてくる気配がして、身を縮める。と、頭にぽん、と乗せられた。 「腹は減ってっけど、気にすんな。我慢できねぇほどじゃねぇからよ」 ほっとして、瞼を開ければ、初めて見せたクラウスの笑顔が飛び込んできた。 くしゃくしゃと、頭を撫でられる。 「あ、だったら、ボク、いろんな種類の『血液』用意してきたんだよぉ」 良かったら食べて欲しいな、と、イクシスが取り出したのは、赤や橙、無色透明のパック。いくつかには、ラベルが貼られて、どこかの研究所の文字が見える。 「こっちが『カイコの血液』、これが『ムカデの血液』、あと『カブトガニの血液』と、これこれ、『トマトの血液』と『オレンジの血液』なんだって」 よく見ればそれは、トマトジュースとオレンジジュースのパックだ。 「ボク、『血液』って何だか知らないから、調べたんだよぉ。それに、どんな血液がいいかわからないから、たくさん用意してきたし。お好きにどうぞ、だよ」 にこにこと微笑んで、無邪気にイクシスは勧めてくる。 しかし、どれかを選べと言われてもどれも選べない。クラウスの顔色にも気付かず、イクシスは、続けて鞄から注射器とチューブを取り出した。 「あとね、食べられない状況に長く置かれると、自力で食べることが出来なくなるらしいって聞いたから、チューシャキとチューブ、用意したんだぁ」 ほどよい長さの透明チューブと太めの注射器を、得意げに掲げる。 「チューシャキに『血液』入れて、チューブを鼻から入れて、お腹の中まで通したら、チューブの端に、チューシャキを取り付けて、流し込んだら、いいでしょ?」 「イ、イクシスさん、そこまでにしておいて下さい……」 どこで止めたらいいのかと迷っていたミナ、カイコの血液を注射器で吸い上げようとしていたイクシスに、流石に声を上げる。 「だって、直接お腹の中へとお食事入れないと、元気にならないよぉ?」 「いいえ。大丈夫です。というか、ごめんなさい、それ全部クラウスさんのお食事にはならないと思います……」 終わりになるほど小声になるのは、配慮というものだ。 「――勘弁してくれ」 やっと言葉にしたクラウスに断られ、イクシスは残念そうに鞄に仕舞う。 種類が足りなかったのかなぁ、なんて呟きつつ。 フフと笑って、やりとりを眺めていたアルジャーノが、朱い輸血パックを取り出した。 「私も差し入れ、持ってきたのですヨー」 壱番世界から仕入れた輸血パックは、好みを考慮したのか、A、AB、B、O、RH-各種の豊富な取り揃え。しかし、どれも何故かでっかい唐辛子のシールが貼り付けてあった。 「あ、それはアニモフ対策でス」 興味本位で飲まれては、困りますからネ、と、指を立てて説明する。 そのシール以外は、ごくごく普通の輸血パックだった。 並べられたまともなモノを見て、明らかにほっとするクラウス。 「コレは不当に略奪された血液ではなく、医療用に善意で提供された物デス。命の糧という部分では同様なので、貴方が頂いても良いデショウ」 さあどうぞ、と、示されて、クラウスは、いいのかと5人を見返す。 アルジャーノが肩をすくめて、ミナが頷いて、当然じゃんと笑いながら日向が、瞬きながらイクシスが、そしてティルスが当然のように。 「もちろんだよ」 「――っ、悪ぃ」 ひとことぽそりと言うと、端の輸血パックを手に取るなり、口を付けた。 ボトル1つの血液では、やはり足りなかったのだろう、いかにも『美味しそうに』食べているクラウスに、思い出したようにアルジャーノが。 「あ、勿論、お金は払って下さいネ」 ――クラウス・エンゲルハート。金髪赤目、腕力自慢な吸血鬼。 保護ののち、ロストナンバーとして登録。
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