木は裸の痩身を晒し、草の骸は雪に埋もれ、母はたちまちに老いて死んだ。父はその肉を無言で食んだ。それは厳かな儀式のようで、息子は声を発することすらできなかった。 雪が、まっさらな沈黙だけが山を圧し潰していた。 蝉は断末魔の悲鳴を上げた。木々の狭間に半透明の網が張り巡らされていたのだ。蜘蛛の巣という巧妙な罠が。 吹けば飛ぶような糸が褥のように蝉を受け止める。ジジッ。ジジジッ。蝉が抗う。足掻くごとに糸が食い込み、巣全体が激しく震える。獲物を手に入れたと歓喜している。 肥った蜘蛛が現れた時、巣は玖郎によって引きちぎられた。 赤褐色の翼が蜘蛛の巣を、梢を薙いでいく。玖郎は寡黙だった。散切り髪にこびりつく蜘蛛の巣にも構わず降下を続けている。 まことに降下なのであろうか。墜落ではなかろうか。 濃密な水の香が匂い立つ。 木々の暗がりの底に泉が湧いていた。苔の毛氈が柔らかくたわみ、疲弊した鳥足を受け止める。水を浴びようとした玖郎は仄暗い水面を前に首を傾げた。ここに映っている天狗は誰だ。こけた頬。鉢金の奥の、淀んだまなこ。 木々がざわざわと騒いでいる。梢の暗がりから椋鳥が飛び立った。お喋りな小鳥はヂィヂィと悲鳴を上げながら逃げていく。 とぷん……。水鏡が波立ち、天狗の像が掻き乱された。 「お見限りじゃないかえ」 ぬるりと、白い大蛇――蛟(みずち)が顔を出した。 「おみかぎり」 玖郎は幼子のように繰り返す。何を言われたのやら見当もつかぬ。蛟は縦に割れた瞳孔を愉快そうに収縮させた。 「違うのかえ? さような姿で下りてきたというのに」 「……ああ」 そうか、と己の胸に沈めるように呟いた。言われて初めて自身の状態に気付いたのだ。 「げに悩ましき様であることよ。仔細を妾に話してたもれ」 「おまえには関わりのないことだ」 「聞きたいのじゃ」 蛟はいつの間にか玖郎の傍らでとぐろを巻いていた。水から上がったばかりの鱗が艶かしく濡れながら光っている。朱の舌先が伸びてきて、玖郎は本能的に後ずさった。 「よせ。おまえの男と争うのはごめんだ」 「男」 蛟は剣呑に目を細めながら舌なめずりをした。 「あのような木偶など食うてやったわ」 頭上で梢がざわめいている。ジジッ。ジジジッ……。蝉の、かすかな断末魔。罠に落ちた蝉はまだ生きているのだろうか。生きていたとして、再び羽ばたけるのであろうか。 「あやつは逃げ出そうとしおったのよ。こちらが卵を抱いて動けぬ身であるのをよいことに、な。愚かな男じゃ。よほど妾から逃げたかったのかの? 妾から逃げおおせるとでも思うたのかの? くくく。ま、獲物をとれぬ間の良き滋養よ」 湿った薄闇に二又の舌が踊る。ちらちらぬらぬら、女の口唇の紅のように。 「そうか」 舐めるような視線を頬に感じながら玖郎は応じた。 「おれも食った」 あの時、何が起こったのか分からなかった。しかし巣にぶちまけられた事実を見れば一目瞭然であった。 妻が死んだ。子は消えた。金のものの所業と教えてくれたのは近くにいた鶸であったが、告げられずとも悟っていただろう。玖郎は若く、未熟であった。雄としてあってはならぬ手落ちを犯した。 「つまの肉を食んだ。かつて父がしたように」 真っ赤で新鮮な肉だった。瑞々しい肉汁が魅惑的に滴り落ちていた。美味かった、だろうか。粘つくような咀嚼音ばかりが鼓膜にこびりついている。玖郎は執拗に肉を噛み砕いた。そうせねばならぬと衝き上げられて、肉が半ば液化するまで噛み続けた。妻の肉は己の不甲斐なさと共に玖郎の血肉に刻み込まれた。そうあらねばならなかった。 「そちが平らげたのかえ」 兎を食ったかとでも言うように蛟が尋ねる。玖郎はのろのろとかぶりを振った。蛟は巨大な口を裂くようにして笑った。 「蓄えのために洞にでも隠したか?」 からかうような物言いだ。玖郎はひどく億劫そうに首を横に振った。 「そばにいた鳥たちにあたえた」 「なにゆえじゃ」 「ものほしそうにしていた」 妻の骸はあっという間に骨と化した。顔面を妻の血で染めた玖郎は、同じ血にまみれた鳥たちが残り少ないはらわたを争う様を見ていた。抉り出されて滴る眼球も、邪魔だとばかりに引き裂かれる着物も、むしられた頭髪の下から覗く脳味噌も漏らさず凝視した。その次はふくらはぎ。二の腕。肉の薄い肩や脛、果ては指の股のわずかな肉片に至るまで。玖郎の目の前で、妻の分解はつつがなく行われていった。 「骨は如何にした」 「うずめた。木の根元に」 「なにゆえじゃ」 「ひと、は」 声が掠れた。ひび割れそうな喉を湿らすように喉仏を上下させる。 「ひとはそれをこのむと聞いたのだ」 「ご執心じゃの」 蛟は退屈そうに欠伸をした。 かすかな気配を感じ、玖郎はふと顔を上げた。肥った蜘蛛が梢の間に再び巣を張ろうとしている。玖郎の巣は失われた。しかし体の傷は既に癒えた。少し休んで滋養を摂ればすぐに動ける。 何故動く。生き物の最大の使命は繁殖だ。失敗を教訓として次の女を探し、子を守り育てるのだ。 守る。そうだ、雄はそのための性だ。巣と妻子を外敵から死守せねばならぬ。 「愛いのう」 濃密な水の香りで我に返る。同時に、しっとりとした指先が頬に触れた。 「どうれ、顔を見せてたもれ……おお、おお」 無遠慮な指が玖郎の視界を広げていく。何をされているのか玖郎には分からない。分かったとして、拒んだだろうか。拒めただろうか。 「酷い顔をしておること」 蛟が鉢金を上げて玖郎を覗き込んでいた。 「そうか」 無防備な素顔を緩い風が撫でる。 「おれはひどい顔をしているか」 ほとりと、泉に木の葉が落ちた。暗い水面に波紋が立つ。しかしそれもわずかの間で、瑞々しい葉はあっという間に泉の暗がりへ沈んでいった。 「ほうら。妾の顔も見てたもれ」 蛟は玖郎の手を取ってうっとりと頬ずりする。息がかかるほど間近で若い女が微笑んでいる。蛟が化けたのだ。もっとも、下半身は不気味な蛇のままであったが。 「よせ」 ようやく、蚊の鳴くような声が出た。蛟は目と口を三日月形にして笑った。 「まだ何もしておらぬわ」 「何をする気だ」 「如何にして欲しいのじゃ?」 「何も」 答えることすら億劫だ。頭にも体にも鉛がみっちりと詰め込まれている。 「さればこのまま野垂れ死ぬか? 子種の一つも残さずに?」 蛇の尾と二の腕が絡みつく。疲弊した体を甘く締め上げていく。 「蛇とまぐわう趣味はない」 「そなたは何もせずとも良い」 「おまえの子がうまれてもおれは面倒を見ぬ」 「慣れておる。けだし男は種を注ぐのみよ」 蛟は声を立てて笑った。木立を鳴らし、風が吹き下りてくる。泉の匂いが蛇のように這いずる。 「そなたは何もせずとも良いのじゃ」 熱っぽい睦言が耳朶に纏わりつく。ひどく甘美に。どこまでも優しく。 「ただ隣に居てたもれ。さすれば妾は満たされる」 「となりに」 「そうじゃ、そうじゃ。居るだけで良いのじゃ」 女の目が妖しく細められる。瞳孔は縦に割れている。 「もちつもたれつと言うであろ? 妾はそなたに安息を……そなたは妾を守ってたもれ。それが雄の本分じゃろうて」 「おれは役にはたたぬ。何ひとつ守れはせなんだ」 「妾の天敵は土行じゃ。木行の天狗がおれば彼奴らは近付けぬ」 芳しい息が玖郎の嗅覚を鈍らせる。心地良い香りが、その奥に横たわる泥沼の息吹を覆い隠している。若い玖郎には分からない。老獪な蛟の情念にどうしても気付けない。 「のう……?」 白魚のような指が頬から首筋へと伝い下りる。 玖郎の肩から力が抜け落ち、憔悴した腕がだらりと垂れた。 「この身にまだ使いみちがあると言うか」 息継ぎをするように頭上を仰ぐ。幾重にも重なった葉の間で朧な光がちろちろと揺れている。水底から水面を見上げているかのよう。 「愛い奴よ」 女の舌がねっとりと首筋を這った。二又の舌は糸を引き、肩へ、胸へと下りていく。玖郎は大蛇の巨体に押されるままに倒れた。痛みはない。濃密な苔が褥の代わりをしてくれる。 「まて」 のろのろと手を上げ、女を押し留める。 「羽のはえた蛇が生まれたらどうするのだ」 「それもまた一興じゃ」 ささやかな抵抗は女の両手で呆気なく絡め取られてしまった。玖郎の指の間に指を這わせた女は、美酒に酔うたようにまなこを濡らしていた。 貼り合わされた指の間で体温が混じり合う。ぬるい汗が湧いた。不快だと表明するより前に玖郎の体は引きずられていく。ずるり。ずるり。暗がりの底で、更なる薄闇へと向かって。 「案ずるでない」 仄暗い泉に引き込まれていく。 「目を閉じよ。委ねよ。すべて良きにはかろうてやろうぞ」 とぷん……。大蛇に巻きつかれ、玖郎は緩慢に入水した。 深更に降り出した雨は大地を湿らせて去った。雨上がりの夜明けは瑞々しい静寂に包まれ、まどろむ草木がさわさわとそよいでいる。 木の葉の上に水の珠が連なっている。葉は弾むように身をしならせて雫を落とした。落ちた先は玖郎の鼻先だった。 玖郎はゆっくりと目を覚ました。 濃密な水の香り。木々がざわざわと呻いている。頭が、体が重い。濡れた着衣が重く纏わりつき、体温と気力を吸い上げていた。 玖郎は動くことができなかった。枝と蔦で縛められ、木々の間に逆さまに吊り下げられていたのだから。 (何があった) たちの悪い夢を見ていた気がする。記憶をまさぐるも、手が届かない。深い水底から水面を仰ぎ見ているかのよう。 頭の下には薄暗い泉が横たわっていた。ざわざわ、ざわざわ。木々が唸るのに水面はひたと動かない。目と鼻の先では肥った蜘蛛が巣を編んでいた。でっぷりした腹部と蚊のような足の対比がおぞましい。膨れた腹には何が詰め込まれている? とぷん……。鏡のような水面が揺れた。 「酷い顔じゃ」 白い大蛇――蛟が現れ、這い寄ってきた。 「おれはおまえを知っている」 玖郎は力なく呻くことしかできない。玖郎は獲物よろしくがんじがらめにされている。 「妾もそなたを知っておる」 蛟の上半身が人の女に変じた。滑らかな手が、愛おしそうに玖郎の頬や額を撫でさする。玖郎の鉢金はいつの間にかなくなっている。 「おまえをゆめに見た。奇怪なゆめであった」 「さようか、さようか」 ぬらつく舌がちろちろと揺れる。暗がりの底に、玖郎と蛟が二人きりだ。 「妾の水は夢より甘いぞえ」 真っ赤な口が耳まで裂けた。 交尾を終えた雌蜘蛛が巣を紡いでいる。 (了)
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