駅前通りでも画廊街でもショッピングストリートでもない。そんな場所に、一軒のスナックが佇んでいる。 路地裏とでも形容すれば良いのだろうか。華やかな表通りとは距離を置くようにして『止まり木』という看板が灯っているのだ。といっても夜のないターミナルのこと、明るいさなかに営業するスナックなどどこか場違いですらあるのだが。 分厚い扉を開けば、ラベンダーの香りが鼻をくすぐる。 間接照明に浮かび上がる、薄暗い店内。カウンターが三つにボックス席が二つの、小ぢんまりとした造りだ。 しかし、である。 安っぽい壁紙、うら寂しく流れるブルース、古い型のミラーボール、隅に設えられたカラオケセット等々……。まるで場末のスナックだ。入口脇の台に飾られたプリザーブドフラワーだけが場違いに美しい。真っ赤に煌めくそれは、開店祝いに贈られた薔薇の花束を加工した物らしかった。「いらっしゃいませ～え」 紫色の冠羽を揺らし、オカメインコが現れた。ツーリストの小紫薫子（こむらさき かおるこ）六歳、熟女。黄色い体と頬のまん丸模様が特徴的な、この店のママである。「こういうお店は初めてかしらあ？」 付け睫毛をばさばさとさせ、薫子はギケケケと笑った。「スナックっていっても割と健全だから大丈夫よお。ほら、ターミナルってずうっと明るいでしょお？ 未成年のお客様もおいでになるのよお。いろんな人と触れ合えるからアタシも嬉しいわあ」 ガラス戸の冷蔵庫にはソフトドリンクの小瓶がずらりと並んでいる。薫子の体に合わせてあるのか、カウンターの内側で光るボトルもミニチュアサイズだ。「ンン……このお店ねえ、名前通りの『止まり木』になれればいいと思ってるのお。ロストナンバーの旅は長いでしょお？ たまには羽休めしてちょうだいねえ」
沈黙を撹拌するようにブルースが流れている。 「……オカメインコというのだったか」 広げたおしぼりを怪訝そうに見下ろし、玖郎はようやく口火を切った。 「久しい。息災か」 「おかげさまでえ。お水？ それともお湯？」 「どちらでも」 短い会話に馴染みが滲む。ヴォロスに転移した薫子を保護したのは玖郎を含む三名だ。 「肉食男子だったわよねえ？ ジャーキーとか……駄目よねえ」 「かまわぬ。干し肉であろう」 「しょっぱくないかしらあ」 尾羽を振りながらカウンターに下りる薫子を玖郎は無言で注視した。 耐熱グラスに白湯が注がれ、ビーフジャーキーと共に供される。濃厚な香りは鳥には不向きだ。玖郎はジャーキーを食いちぎり、味を薄めるように白湯を口に含んだ。 「おまえの食餌もかようなものか」 「アタシはフルーツがいいわあ」 「果糖か」 薫子の首に右手を伸ばし、いつかのように掻いてやる。 「アララ……いいわあ、もうちょっと上……」 「目にささる色だ」 体格を確認するように羽繕いを続ける。鉢金の下の眉宇が動いたことに気付く者はない。 「ンン、ありがとお。お返しさせてえ」 薫子が玖郎の肩に飛び乗り、赤褐色の翼に顔をうずめた。 「アラま、綿毛ふわふわ！ 妬けるわあ」 「冬毛だ」 「風切り羽はごわごわだわあ。猛禽だものねえ」 柳刃包丁のような羽根はうっすらと土埃をかぶっていた。戦争の爪痕はいまだ濃く、火薬のような粉塵がターミナルをくるんでいる。 「もう良い」 玖郎は薫子の体を掴み、無言でまさぐった。 「アララ、積極的……くすぐったい……」 「……いらぬ世話と承知してはいるが」 くねくねする薫子をよそに口を開く。 「この体躯、度が過ぎる。いささか脂肪をおとしてはどうだ」 「ンまっ。体重の話い？」 紫の冠羽が扇のように広がる。しかし玖郎は天狗だ。体重の話が女にはタブーであることなど知らぬ。 「自重で羽軸をいためるようでは翼が持ち腐れよう。あたわぬゆえ飛ばぬではさらに体が衰える。ひとが床に寝付くのとおなじだ」 「アタシはママだものお。お店守れればいいのお」 「とぶ用がないというか」 機能性のない体。暗がりでも目立つ黄色い羽色。猛禽たる玖郎とは趣が異なる。 「我等がなぜ翼を持つか知っているか。この足、地でいくるには不向きゆえだ」 「でもお」 地響きが薫子の言葉を掻き消した。屋外では瓦礫の移動が続いている。頭上でミラーボールが軋み、不安定な輝きが二人に降り注ぐ。 「あれが降らばさけられるか」 玖郎はじっとミラーボールを見上げている。 「猛禽のごとく極限まで無駄を削げとは言わぬ。せめて負荷なく飛べるならば、死をいささか遠ざけられよう」 薫子はじっと考え込んだ。 猛禽とオカメインコは同じではない。 しかし両者はともに鳥である。 「己が身をささえられぬなど、いきもののあるべき姿ではない」 甘ったるいブルースはいつしか鳴りを潜めていた。 「そなえなく飛行にはげめば、それこそ体を痛めよう。まずは巣立ちの雛が為すように、走りながらはばたくとよい。土の上が適すやもしれぬ。確りと爪でとらえられるよう」 「羽ばたき……。懐かしいわあ」 「いまの暮らしは長いのか」 「ンン、お店持った時からかしらあ。若い時に散々飛び回ったしい……。それにね、スナックってシェルターなのお。もうひとつの家なのお。いつも同じ場所でお客さんを待つものだわあ」 「己が巣といのちを共にすることはない。もののふでもあるまいに」 薫子の安否は気になってはいた。身の自由が利かねば無為な落命の憂き目に遭おう。牢獄のように堅牢な家屋も身にそぐわぬ大きさの調度もたやすく凶器となる。 「逃げる機を逸せばたちまちおまえを押し潰す」 玖郎は再び白湯に手を伸ばした。唇が乾き始めている。 「ここも、かならずしも安寧にたゆたう、すべてが凪いだ地にあらずと知れた」 「だからよお」 薫子の目を濡れた膜がうっすらと覆っていった。 「お兄さんはオスでしょお。アタシはメスなのお、メスって巣に執着するものなのお。それにねえ、母鳥も本命のメスも港みたいにどっしりしてないとお」 「おれはかつて巣を失った」 玖郎は訥々とジャーキーを咀嚼する。薫子の冠羽が揺れた。 「つぎの女を見つけ、新たに巣をつくった。雄のつとめはたたかうことだ。何となれば、巣のなかの妻子を死守するため。巣そのものにあらず」 鉢金の下から薫子を見据える。 「おまえが守りたいものは何だ」 防音扉の向こうで重機が吠える。 「生きるにあまる欲と、ほとばしる情の衝動と、嗜虐の酔いに率いられたいくさの餌食になど、ならずともよいのだ。……なるべきでは、ないのだ」 薫子は答えない。 人の声。振動。薄暗い店の外で時間が流れ続けていく。玖郎は口内を雪ぐように湯を含んだ。噛み砕きすぎたジャーキーはわずかに苦みを生じている。 「……そうねえ」 付け睫毛は伏せられたままだ。 「軽やかさって、いいわよねえ。昔、ミュージシャンの卵に言われたのよお。本命のメスは港のように自分を待っててほしい、でも油断したらするりといなくなっちゃうような危うさもあるといいって。その子、結局卵のままだったんだけどねえ」 「うごかぬゆえの波止場であろう」 「そうなのよねえ。アタシも昔は分からなかったんだけどお……」 薫子が酌をし、耐熱グラスが白湯で満たされていく。 「そういうものなのかなあ、って今は思うのお」 「げに奇怪だ」 「若いわあ～」 「いかにも、おれは若鳥だが」 ギケケケと笑い飛ばされ、首を傾げるしかなかった。 結局、飛行の訓練は復興作業が落ち着いてから始める段取りとなった。どんくさい鳥が作業の邪魔になってはいけない。 「おれが見張りに立つも良い。今のおまえは猫の好餌だ」 玖郎なりの優しさだ。 「食べられるのは嫌だわあ」 「天高く羽ばたかずとも、機敏にうごけて損はない」 首周りに手を伸ばし、掻いてやる。刹那の心地良さに薫子は目を細めた。 後日。青空に羽ばたくオカメインコと、それを見守る玖郎の姿が目撃された。 「行ったか」 玖郎も追って飛び立つ。消灯された『止まり木』を尻目にぐんぐん上昇する。気が付くと同じ空の下に薫子の姿はなかった。知らぬ間に追い抜いたのであろうか。 翼を開き、減速する。滞空しながらこうべを巡らせる。 黄色い羽毛が落ちてきて、するりと手の上をすり抜けていった。 （了）
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