銀杏の梢に立つ。僅かに残っていた黄金に枯れた葉が宙に踊る。空に惑い始めた銀杏は、吹き寄せた風に翼を得、空へ跳ねた。 風に声得て、風鈴が鳴る。 赤褐色の羽を冬風に揺らし、玖郎は枯葉舞う乾いた空から地へと視線を落とす。 銀杏の大樹の幹に支えられる格好で、小さな寺がある。大樹の反対側の幹に身を寄せるようにして、百の卒塔婆と百の墓石が並ぶ。 季節はずれの風鈴の音は、苔生した瓦の軒下から聞こえる。乾いて澄んだ鈴の音に人は何かを想うのだろうか。 人ではない妖である玖郎は、鈴の声に耳傾けるが如く首を捻る。 古びた瓦の寺を囲うて、今を盛りと真白の椿。濃い緑の葉を覆い隠すほどに咲き乱れる白椿の中、所々、血を散らしたような紅斑の白。 「先頃より真白の内に深紅が混ざり始めましてな」 首ごと落ちた白椿を掌に乗せ、墨染めの法衣纏った若い尼が銀杏の梢を見仰ぐ。 「そなたがあの風鈴を納められた故か」 人ならざる翼負い、猛禽の肢持つ玖郎を、黒々とした静かな瞳で見遣る。黙したままの玖郎に代わってか、軒下で風鈴がちりちりと笑う。 「……それも、証か」 玖郎は尼にとも風鈴にともつかぬ呟きを零す。 遠い空に薄墨色の雲が渦巻いている。凍った風が裸木を引っ掻きながら乱舞する。身体に沿わせて畳んだ四枚の翼や遠目には山伏にも見える衣服の袖が風に暴れる。 (雪がくるか) 出掛けに妻が巻いてよこした兎の襟巻きに顎を埋め、玖郎は白い息を吐く。吐き出した温かな息は北風に散り散りになる。 猛禽の嘴にも似た鉢金の下の眼を上げる。周囲に動物の熱は感じられない。己が命延ばすために喰らう土行の妖の気配も無い。 遠い雪の香よりも近い山の端の原から、大量の人間の血の臭いが風に運ばれてくる。血と鉄の混ざり合った臭い。戦の臭い。 (たがいに喰らいあうにもあらずに) 縄張り争いに命を掛ける意味を、玖郎には解することが出来ぬ。あれほど多く殺し合わば、そのうち人は滅ぶのではないか。 木の枝を掴む、鋭い爪持つ鷲の肢を軽く踏みかえ飛び立とうとして、止める。降り積もった落ち葉の上、何かを引き摺る音がする。 音する方に眼を向ければ、鎧纏った女が一人。 女が抱くように肩を貸し、引き摺るは首の無い武者。 木々の間を走る風が、女の黒髪を別の生き物のようになびかせる。 (ひとにあらず) 『こちら側』の者であると判じるとほぼ同時、身が凍った。羽毛が逆立つ。胃の腑を掴まれるような感覚に息を忘れる。 (あのおんな) 女の身から醸されるは、紛う事なき金気。 五行循環に言う木行の天狗である玖郎を喰らう金行の妖。 総毛立つ身を叱咤し、翼を広げる。肢に力を籠め、飛び立とうとする。 「そこな天狗」 本能に従い即刻逃げ出そうとする玖郎を引き止めたのは、女のどこか鷹揚な所作。少なくとも、今すぐ取って喰おうという気はないらしい。そもそもあれほど後生大事に首無し死体を抱えていては、飛び回る天狗を捕らえることは出来ぬだろう。 そう判断し、それでも女が下手に動けば即時飛び立てるよう翼と肢に力籠めたまま、金行の妖が多く使う幻術に惑わされぬよう鉢金の奥の瞳は伏せたまま、その場に留まる。 「鍛冶に長ずると言う独眼独脚の妖を知らぬか」 女はその身に纏うた幻以外に術を使う気はないようだった。 「いっぽんだたらか」 警戒を微塵も解かず、応じる。一本踏鞴は火行の妖。金行である女には天敵であるはず。 知って居るか、と女は歓喜に近く眼を輝かせる。 「案内しておくれ」 「みずから死地へおもむくか」 玖郎はいっそ無邪気に首を傾げる。 「なにをかんがえている」 首の無い男を抱いた女は微笑む。 「願いを叶えにゆくのだ」 そこで初めて、樹上の天狗に興味覚えたように眼を上げる。すわ、と身を構える玖郎に、今更気付いたように莞爾と笑った。 「案ずるな、案内役を食いはせぬ」 案内を断れば喰われる、と理解する。 「お主は私を導いた事を、鍛冶師への貸しとするがよい」 逃げ延びることは不可能ではないだろうが、大人しく案内役となることと秤に掛ければ、より危険が少ないのは後者か。 それに、と玖郎は空へ意識を遣る。 この時期ならば、そう山深くへ潜らずとも踏鞴神に遇える。 首が無いとは言え己よりも重い骸を抱いて、それでも女の足取りは軽かった。枯葉を踏み、絡み合うたまま枯れた葛の根を踏み分け、次の世代の苗床となった倒木を踏み越える。女が見失わぬほどに、けれど咄嗟にはどうしようもなく届かぬほどに距離を取った上空より女を見下ろし、玖郎は冬風を翼で打つ。 冬枯れた梢越し、女は一心に獣道を歩いていたが、ふと白い顔を上げた。反射的に高度を上げる玖郎に、磊落な笑い声をあげる。首の無い骸を抱えていても、女の表情は明るい。願いが叶うと定めた故か。 「見ての通り殿は口が利けぬのだ」 険しい山道を歩いても息ひとつ乱さず、女は退屈そうに玖郎を仰ぐ。 「少しは降りて来て私と話をせぬか」 玖郎は黙する。宙に留まり、女の抱く武者を見る。金行の女妖が付き従う首無しの武者は妖ではない。人だ。 鼓動と共に湧き出る血はとうに尽き、最早指の先ひとつも動かすことも出来ず、ただただ女妖に引き摺られるだけの紛うことなき死体。先に山の端の原で起こった合戦に於いて討たれた武者なのだろう。 首の無い骸を、女は白い手で優しく撫でる。 如何程の時を共に過ごしてきたのかも分からぬが、骸は骸。女の言うように話すことすらかなわぬ、喰うにも適わぬ。そんなものに執着して何の意味があるのか、玖郎には判じ得ない。 女の『願い』と関係があるのか。 玖郎は果て無く続く山を見遣り、向かうべき方向を見定める。女と距離を置いた地の上に降りる。近い距離に立つことは本能が拒絶した。 「水音が聞こえるな」 余程退屈を持て余していたのか、女は気安い声を掛けてくる。 うなじの毛が逆立つままに警戒を怠らず、玖郎は横顔で頷く。 「かわに沿ってさかのぼる」 赤土の緩い崖を下り、大岩奇岩の転がる川原に出る。通常、目当ての鍛冶師に会うには川の源流近くの棲家にまで上らねばならないが、冬のこの時期だけは山の浅きに鍛冶師は降りて来る。 火行である鍛冶師にとって、金行の女は格好の獲物。 「……喰らわれるがねがいか」 それとも、と女を振り返る。 「鍛冶の材となるがねがいか」 鍛冶師が金行の妖に行うはそのふたつ。 女は首無しの武者を抱いて語る。 「私は殿に今際の随伴を許されなんだ」 清冽な水音が川原の石を打つ。木々に囲われた山で、冬陽の翳るは早い。黄昏に染められ、視界が見る間に不確かに沈む。 「殿の首は持ち去られ、最早物を語るは叶わぬ」 良いお声をしておられたのだぞ、と女は誇るように笑う。明朗なるお声で、よく笑われた。よく話された。 女は繰り返す。 「最早物を語るは叶わぬ。然し」 女に語らせるまま、玖郎は先を行く。猛禽の肢は地を長く歩むに向かぬ。二三歩歩んでは翼を広げ、何間か先の大岩の上に飛び移る。振り返って女を待つ。 「然し思い立ったのだ、我が身を以って殿に語らせる事を」 何もかもの境界がぼやけ薄れる夕暮れの山中、首無しの骸抱え、女武者は華やいだ声を上げる。 「殿がいつか語っておられた独眼独脚の鍛冶師なれば我が願い叶え得ると思い定めて山中彷徨い、……さて出会うたは天狗であったが」 女の黒髪が氷のような風に踊る。夕闇に紛れて定かには解らぬ女の顔が、大岩に立つ玖郎よりもまだ先に向かう。 流れよりも岩石が多い川の只中に、ぬう、と火行の妖の気配が立つ。 「ほ、こりゃ珍しィなァ」 黄昏の、朱の色した水の中、萎えた片足の代わりに木の杖突いて、小柄な老人。焼いたように赤い禿頭の下、炎を睨みすぎて光を喪った眼は布巻いて隠し、残った片眼で玖郎を見る。 「天狗と、」 火行の一本踏鞴はひとつ眼に金行の女を映した途端、おう、と一声吼えてひとつ足で跳ねた。火の色した水が飛び散る。 「ほうほう、こりゃこりゃ」 喜色満面、片足の老爺とは思えぬ素早さで水の流れとそこから顔出す岩の上を飛び跳ね、駆ける。先の玖郎と同じに本能的な恐怖に捕われ咄嗟に動けぬ金行の女へと向かう。 「まて」 大岩を蹴り、翼を広げる。一本踏鞴と女の間に翼に巻いた宵闇の風を爆ぜさせる。猛禽の肢に弾かれた砂利と川水が跳ねる。 「邪魔じゃア!」 喚いて、それでも老爺は不承不承足を止める。焼けてほとんどない白い眉を不機嫌に寄せ、単眼を剥く。 「何で天狗が庇うのや」 一本踏鞴は特段飢えても居らぬようだった。寿命延ばす餌となるはずの木行が天敵である金行を庇う、その不思議さに関心覚えた様子。 「案内をたのまれた」 玖郎は翼広げて立ったまま、女を見遣る。僅かの後に女は自分を取り戻した。眸を占めていた恐怖が静かに治まる。小さく頷き、女は老爺に対し頭を垂れた。女の動きにつられ、首無し武者がその断たれた首の断面を老爺と玖郎にさらす。 「風鈴を作って欲しいのだ」 天敵に対する恐怖に代わり、ひどく明るい色が女の眸を満たす。 「私の『身』で鐘を作り、」 己を殺せと言っているに相違ないはずの女が何故それほどに明るい眸をするのかと不審に思うとほぼ同時、それが女の願いだからだと思い至る。 「その内に殿の骨で作った舌を垂らした風鈴を」 女は寒風に晒され半ば凍りついた首無しの骸をどこまでも優しく抱く。 「さすれば吾らは共に、風より声を得よう」 唇に笑みを刷き、女は陶然と瞳を閉じる。 「物言わぬ死物と化すのを免れよう」 開いた瞳には強い光があった。 殺せと言っているのではない、死地に赴こうとしているのではない。――否、確かに身は滅び、形を変える。形を変えたものに元の意志はそのまま宿りはしないのだろうが、それでも、女と男が存在したという証には成り得るのだろう。たとえそれが誰に知られぬとしても。 一本踏鞴は赤い禿頭をごつい指先で掻き、鎧纏った女を見詰める。 「ええ『身』やな」 短い言葉は、首是と同じ。 一本踏鞴にもう一度深く頭を垂れて後、女は穏かな眼を玖郎へ向けた。 「風鈴は寺にでも納めておくれ」 手間を掛けて済まないが、と笑う。 「そしてお主も、偶には吾らを語らせてくれまいか」 翼を畳む玖郎の脇を、女は首無し武者と共に過ぎる。物言わず見送る玖郎の前、鍛冶の神の裔の足元に『身』を差し出す。 女の姿が消える。その身は一振りの薙刀となる。 支え失い、首の無い武者の身が揺らぐ。骸に付き従い、薙刀が骸と共に川原に転がる。 冬の終わりの風が通り過ぎる。椿の葉よりも深い青緑の色した鐘の内で真白の舌が揺れる。音の尾ひいて、風鈴の音が消える。 地に立つ尼が風を求むるように銀杏の梢に立つ玖郎を仰ぐ。唇引き結んで身動ぎせぬ玖郎に黒い眼を細めて微笑む。寺社の階に立て置いた竹箒を手にし、首ごと落ちて腐らず枯れてゆくだけの椿花を集め始める。 砂利の上に白と朱が山となってゆく。 風は来ない。風鈴は鳴らない。 (……留めたく思うも、留まりたく思うも、) 玖郎は小さく息をする。短く印結び、風を呼ぶ。蒼穹より吹き降りて舞う風に、風鈴がちりちりと楽しげに笑う。 (どちらもまさしく未練であろう) 涼しげな声あげて笑う様は、本体を薙刀とする金行の女によく似ている。持ち主の武者を主と慕い、慕うが故に物としての道を外れ、主と同じ、人としての感情を抱くに至った、憑物。 「かくも証を遺さねば、彼岸へ発てぬものなのか」 憑物としての魂得て、主に付き従うだけでは事足りず。添い遂げるだけでもなお事足りず。主が生きた証を、己が在った証を、せめて遺して逝こうと足掻いた。 応えようとしてか、風鈴が風に鳴く。幾つもの花の首を集めながら、尼が白い顔を上げる。 「そなたなれば如何に?」 玖郎は小鳥がするような仕種で首を傾げる。 「死するときは死するのみ」 玖郎の呼んだ風が空へと帰っても、風鈴の音は暫くその場に留まり響き続けた。 「ひたすらに生くるのみ」 尼は静かに微笑むばかり。妖の身と人の骨で出来た風鈴は笑うばかり。 終
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