――ゆるい。ぬるい。 ――何と、娯楽に溢れた世界なのだろう。「しかし……」 儂の欲は、未だ満たされない。 呟き、黒い男・エダムは眉間に皺を寄せて路地裏に蹲っていた。 彼が世界図書館に所属しないロストナンバーとして零世界へと連れて来られたのは、既に去年の出来事だった。 様々な説明を一通り受けた後、こうして零世界での自由を手に入れたエダムだったが、彼には周囲に歓迎されない特徴がある。 それは『幻覚を用いて他者を苦しめることを悦びにしていること』 しかし、ここではその欲は満たせない。事実上の仲間であるロストナンバーを傷つければ何があるか分からないのだ。 己の欲を満たせぬのならば死したも同然、チャイ=プレとやらの言う事をきかず消えゆくのも良いのではないか……と来た当初は思っていたが、欲を満たした時の感覚が忘れられなかった。 ここで大人しくしていれば、いずれまた何かしらの機会が巡ってくるかもしれない。そう考え、エダムはこの半年を息を潜めるように生きてきたのだ。「……」 だが限界というものは彼にもある。 自分の能力で、人の苦しむ、顔が、見たい その欲求はエダムが生まれたその瞬間から彼に寄り添って存在していた。 自身を生み出したのは、母。 欲を植えつけたのは、父。 生まれる前から……否、そのために生み出したのかもしれないが、エダムの強力な幻覚能力を知っていた父親は、自分の復讐のために息子を使い勝手の良い道具にした。 強く分かりやすい欲があれば、他者によるコントロールも容易になる。 しかし父も母も死に、残った自分は故郷に拒絶され、忌み嫌われ、厭われ、疎まれ、自分もそれを良しとした。 好かれた経験など無かったように思う。 そうして彼は二十数年間、欲を満たして満たして満たして生きてきた。それはロストナンバーとして覚醒してからも変わらず、そして――ここへ連れて来られた訳だ。 自身の一部でもある欲を満たせないことは、凄まじい苦痛だった。 それを満たせもしないのにする交流に意味はない、とエダムは周囲との接触を極力絶ってきたが、目に入ってくるものはあった。 白い雪の降る楽しげな夜。 ネンガジョウとやらを送り合う年の初め。 目に眩しい花々を見る宴。 どこかへ旅行に行くのだと、大きな荷物を背負った人々。「何と緩く温いことか。ああ、ああ、儂の欲は――儂は、いつ満たされるのでしょうな」 トレインウォーというものがあるのも知っていたが、知った頃には既に精神的に疲弊していたエダムは参加していない。 きっと殺伐とした面もある世界なのだろう。 だがそこに自分の望むものがあるとは限らない。 何でも良い、どんな可能性にでも縋ろうと最近は思ったが、大人数による戦いはそうあるものではないらしく、そういう気持ちになった時に限って参加するチャンスがなかった。「……」 路地裏から大通りが見える。 そこに世界司書が居た。名前は知らないが、見覚えのある大きな本を持っているのだから間違いない。 エダムは、じい、っと司書を見た。 司書からの依頼を、今まで一度も受けたことがない。むしろ今まで忘れていたくらいだ。 依頼の内容にもよるが、きっと――(――ロストナンバー以外の居る世界へ、ゆける) そう思った瞬間、エダムの足は大通りへと向いていた。 司書の背中に近づきながら、一度力を抜き、そしてとても人当たりの良い笑みを浮かべて肩を叩く。 そして言った。「司書殿、この儂に出来る依頼はありませぬかな。……暇で暇で、頭が溶けてしまいそうなのです。人助けと思って、ここはひとつ」 翌日、ターミナルから列車が出発した。 目的地はインヤンガイ。依頼内容は暴霊の乗り移った大量のカラス型モンスターを討伐すること。 乗っているのは五人のロストナンバーと……黒い男、ひとり。
早く、早く、早く―― 逸る気持ちを押さえつけるように、列車は久し振りに見る空を進む。 ●到着 停車後間もなく扉が開け放たれる。周りに誰も居ないことを確認してダルタニアは下車した。 今回の敵はカラス型の暴霊の群れ。 自分の手で浄化させよう、とダルタニアは白い両手を見下ろす。 その前にひとつだけ、列車に乗り込んだ時から少し気になることがあった。それは同じ列車に乗ってきたシーアールシー ゼロも同じようで、先ほどから同じ人物をちらちらと見ている。 (なんだか、腹に一物抱えているような感じがしますね) 黒ずくめの男、エダムに対してである。 車内で挨拶をし合った際に短時間だが会話をした。聞けば答えが返ってくるし、会話も拾って話題を寄越してくる。良い人間の部類に入るのだが、終始笑顔なのが引っ掛かった。 「……」 ダルタニアは少し気をつけて見ておこうと決めた。 他に五人もロストナンバーが居る状況で何を出来るのかは分からないが、警戒することに越したことはない。 エダムを気にしない者、何も気付かず接する者に分かれる中、由良 久秀は特に彼に対して無関心だった。 「カラスはこの先か。少し暗いな」 久秀は既にカラスをどう撮り、どう倒すかに意識を向けていた。 素早く飛んでいるのならばブレるかもしれないが、群れならば木等にとまっている個体も居る可能性がある。場所によっては夜のように薄暗い場所もあるため、フラッシュをたいて撮るならば少し近寄った方が良い。暴霊が許すならば、だが。 「ギアはその中に?」 そこで思考を中断された。 唐突に話しかけてきたエダムが自分のカメラバッグに目をやっているのを見て、久秀はそれを体の陰に隠す。 「いや、これはカメラだ」 実際は折り畳み式ボウガンと矢も入っていたが、久秀はそう答えた。 「ほほう、ご趣味は写真撮影ですかな。依頼をこなしつつ趣味も忘れない、見習いたいものです」 「……そう思うなら時間が勿体無いだろう。さっさと行くぞ」 馴れ馴れしい人間は苦手だ。 久秀はエダムに向けていた視線を数秒で外し、目的地に向かって歩き始めた。 「エダムさん、エダムさん」 目的の住宅街まであと少し、というところでゼロがエダムに話しかけた。 エダムは足を止め、小さなゼロに目線を合わすようにしゃがむ。 「なんでしょうかな?」 「エダムさんは苦悩を齎す凄い幻覚が特技と聞いたのです」 「……どこでそれを?」 少し目の色が変わった気がした。 それでもゼロは伝えたい事のために、たどたどしく会話を続ける。 「半年前、幻覚の達人がターミナルに来たと噂だったのです」 「――なるほど」 「幻覚?」 そこで感心したような声を出したのはスタンリー・ドレイトンだった。 「ああ、失礼。こうして複数で異世界に旅立つのは久しぶりでね。いつもはひとりで旅をしているのだよ。到着までの間、この死に損ないに付き合ってもらえるかね?」 「……会話をご所望な方が多いようですな。宜しいでしょう、儂もこういうのは嫌いではありません。歩きながら話しましょう」 柔和に微笑むとエダムは先を行く仲間を追うように歩き出す。 「しかし幻覚とは頼もしい。対象の数は限られているのかね?」 「一気に百人までは試したことがありますな。ただ、ギアのある今はどれほどのものか」 それでも多数の敵には強そうである。そう受け取ったスタンリーが素直に褒めたが、エダムはどうでしょうなと軽く肩をすくめた。 「そうだ、お嬢さん。先ほどは何故そのような話を?」 「……ターミナルには恐怖を売りにするお店があるそうなのです」 ゼロはエダムの話を聞いた時に思ったこと、能力を知った時に思ったことを言う。 「また、ヴォロスのメイムという町では未来を暗示する不思議な夢を見られるそうなのです。そこで暗い未来を見て苦しみ悩む人、過去の苦難を再体験する人も多いのに、メイムを訪ねる人は絶えることがないのだと」 「ほう……まだ行ったことがありませぬが、摩訶不思議な場所のようですな」 ゼロはこの二つに共通することは何か、とエダムに問うた。 「それは、よい事で?」 ゼロは頷き、銀色の無垢な瞳を向けた。 「人々は自ら望んでそういった恐怖、敗北、挫折、過去や未来の苦難などを体験することで、自身知らずにいた己の一面に気付いたり決意を新たにしたり己の今後を熟考する機会としたりするそうなのです」 「……」 エダムはそういった類の人間が苦手だ。 自らの欲を満たす相手が、自らの能力で強くなり、成長するというのは虫唾が走る。いっそ存在を消そうかとすら思うが、それには自ら手を下さねばならないため面倒だ。エダムは己の欲から離れたものに対しては無気力さが目立つ男である。 しかしゼロはエダムを「いい人」なのだと認識していた。 0世界で能力を使わなかったのは人の苦しむ顔が見たくなかったから。気を遣い、きっと自分の能力が他人に害をなさぬよう接触を絶ってきたのだろう、と本気で思い本気で信じていた。 「どうです?」 「そう……ですな。考えておきましょう」 澄んだ目から顔を背けるようにしながら、さっきまでより小さな声で答える。 そしてスタンリーを見た。 「先ほど依頼は久し振りと申しておりましたな、ということはそれまで何度も経験がおありのようだ」 「それなりにはね。……インヤンガイに行ったことは?」 「生憎、儂は初めてで。情けないことに依頼を受けたのもこれが初なのですよ。お恥ずかしい」 「はっはっ、緊張することはない」 スタンリーは旅の仲間を気遣い、気が軽くなるようにと話を続ける。 「ここはいいところだよ、きみも楽しめるだろう」 「ええ、きっと楽しめるだろうなと思っていたのですが、これでお墨付きですな」 「光栄だ。……おっと、楽しむ前にまずは義務を果たさねばな。忘れるところだった」 スタンリーは葉巻を取り出し、咥えると指を鳴らすようにして火をつけた。ふわり、と赤紫色の煙が漂い始める。 そして、どこかでカァという声が聞こえた。 到着後、ブレイク・エルスノールは住宅街にあるアパートの屋上に居た。 その古ぼけた大きめの室外機が目立つアパートは仲間とは離れすぎてはおらず、視認出来る位置にある。そこでブレイクは暴霊の姿を探した。 「普通のカラスも居るから分かりにくいなぁ」 暴霊は出目金のような特徴を有しているため判別は容易なのだが、どうしても同じ色、同じ大きさだと判断に一瞬の間を要してしまう。 『慎重ニ見テイレバ分カルダロ?』 傍らで下を見下ろす石像――ブレイクの使い魔、“従者”ラドヴァスターが言った。 ブレイクは答えるように視線を移動させ、発見後すぐに賢者の瞳を使おうと準備する。 「……あっ」 ばさり ばさり 羽ばたく翼がいくつも見え、暗がりから大数のカラスが舞い上がった。それは様々な場所にとまり、互いが呼応するように激しく鳴き始める。その両眼はたわわに実った果実のように垂れ下がり、濁った光を反射していた。 「間違いは……」 『ネェナ?』 間髪入れずにブレイクは賢者の瞳で暴霊の弱点を探った。一気に様々な情報が目を通じて自分の中に入ってくる。 賢者の瞳はブレイクの調査術だ。自分以外の弱点、そして能力等を看破することが出来る。最近覚えたそれを使用し、ブレイクは情報収集と共に使い心地を確かめた。 「両眼は意外と丈夫みたいだね、柔らかいから衝撃を吸収するみたいだ。翼も多少損傷しても飛ぶことに支障はないらしい……弱点は」 見通すように、少し目を大きく開く。 「胸の中央。肋骨が変化して翼の強度を高める役割になっているようだけれど、その分胸の守りが手薄になってる」 『ッテコトハ、防御ヲ捨テタ速度重視型カ』 「そうみたいだねぇ……ん? 暴霊といってもこのカラスには肉体があるんだ」 幽霊ならば霊体に有効な霊撃の刃が効くのではないかと期待していたが、このカラスは暴霊が乗り移って肉体を変化させたものだ。撃退すれば元の動物の死体が残るように、暴霊が新たな肉体を手に入れたような状態である。 霊魂型ならば効いただろうが、群れ単位で乗り移った暴霊を滅するには、群れのカラス全てを包むような霊撃の刃で一網打尽にするしかなさそうだが――既に肉体を有している者に効くか定かではない。 「とりあえず皆に情報を伝えよう。すぐ向かうから、先に行って知らせてくれないかい?」 その言葉にラドヴァスターは重たい体を宙に浮かせ、建物の間を縫うように飛んでいった。 ●黒 カァ…… カァッ!! こちらの存在に気付いたカラスが禍々しい声で鳴き喚く。 「こいつらが暴霊……」 ダルタニアがじっと暴霊を見て呟いた。 なんと変わり果てた姿をしているのだろう。全体の大きさこそ変わらないとはいえ、両眼は肥大し飛び出、羽根の付け根も発達及び変形し、嘴も鋭さを増している。 「!」 不意に飛び上がった二羽が交差するように襲い掛かってきた。体を捻ってそれを避けるが、角度を変えたり羽根を広げれば見違えるほど大きさが変わるせいか、見極めに一瞬の間を要する。 「これは……こういう群れには広範囲で巻き込むのが一番だと思います」 「私もそう思っていたところだよ。……ひとつ、二人でやってみるかね?」 スタンリーが葉巻の煙をぶわりと吐き出し、重量感のあるコルトパイソンを片手に持った。 カラスの動きが目に見えて鈍る。ダルタニアはその隙に肺に吸い込んだ空気を全て使って詠唱を唱えた。 「我らが神たる神狼よ、大地を駆けて敵を吹き飛ばしたもうれ。『トルネイド=テンペスト(竜巻災厄)』!!」 カラスの鳴き声を掻き消すように風の凄まじい音が路地を包み、突然何も無い空間に竜巻が出来上がった。カラスは羽ばたく事も出来ず風に呑まれ、同時に巻き上げた小石や塵に体を打ちつける。断末魔すら聞こえない。 スタンリーにとって聞き慣れ切った銃声も轟く。 音を聞きつけて一般人が見に来ないかという危惧はあったが、何かの抗争だと思ったのだろうか。窓さえ固く閉じられている。 (好都合) 短く思考したのは、黒い男。 エダムはゆっくりと壁際に移動しつつ、近くに居たカラスに目をやった。まだロストナンバーの意識は敵に集中しきっていない。準備をしつつも、今は形だけでも任務を遂行する仲間の立場に立っていた方がよさそうだ。 カシャ! 場に似合わない異質な音にエダムは笑顔も忘れて振り返る。 シャッター音。久秀のカメラだ。 「いきなり始めやがって……まあいい」 小さく小さく毒づき、久秀はカメラをバッグに仕舞う。インヤンガイの鬱屈した路地に居るカラスは撮りづらかったが、物の輪郭が薄ぼんやりと分かる暗い場所に、グロテスクな両眼に光を反射させた『生きている』カラスを写すことが出来た。 次は『死んだカラス』の番だ。 カメラを持つ時のように自然な動作でボウガンを組み立て、矢をつがえる。 「……儂が幻覚で援護しましょう」 久秀は片眉をほんの少しだけ上げ――恐らく怪訝な表情をし――エダムを見た。 「ああ、不要ならよいのです。ただ、儂の力は殺しには向いていないもので。その点、由良殿は慣れていらっしゃるらしい」 「勝手にしろ」 ドシュッと高速の矢が放たれる。狙われたカラスは避けようと脚に力を込めたが、一瞬だけ感電したかのような動きを見せた。 その頭を矢が貫く。血はほとんど出ない。矢先にほんの少し付いた赤黒いものだけ垂れるように落ちた。 「どこかに本体が居るのかもと思いましたが、強いて言うなら全てが本体のようですね……」 ダルタニアが歯痒そうに言う。 暴霊は己の霊力でカラスを群れごと乗っ取った。一羽逃しても駄目、全てが全て暴霊らしい。 一方、攻撃の出方を学習したカラスは不用意に近づかず、互いに連携して死角を突くようになった。数は減ったが時間が経つ程相手にし辛い敵となっている。 「胸の中央なのです!」 「ゼロく――」 何故と問おうとして、スタンリーが次の言葉を一瞬忘れる。 声は頭上から。しかも振り返って見えたのはゼロの足のみ。もちろん足から上が無くなった訳ではない。巨大化したゼロは小さなアパートと同じくらいの大きさで、カラスの攻撃や注意を引き付けていた。大きな攻撃対象に向かってカラスは飛んでゆくが、大きくなることで耐久力の増した彼女になかなか致命傷を与えることが出来ないでいる。 スタンリーはゼロとは顔見知りではあるが、この姿を見るのは初である。 「可憐なだけのお嬢さんではないと思っていたが……」 驚きはした。が、すぐ平常心を取り戻し、カラスの胸を撃ち抜く。 それまで多少の傷ならば再度向かってきていたカラスは、たったの一撃で沈黙した。 「なるほど、弱点」 エダムはさも感心したかのように呟く。 その実、彼は戦闘が長引くように一羽一羽にしか幻覚を見せないようにしていた。力を全て発揮すれば敵すべてを巻き込むことも可能だが、それでは自分の目的を果たしにくくなってしまう。 だがその不慣れな戦い方が隙を招いた。 エダムの頭部目掛けてカラスが鋭い嘴を突き出す。 「!?」 回避は不可能……に見えたが、それを防いだのはゼロの手だった。手のひらを突き刺したカラスは離れ、次の獲物に向かってゆこうとしたところを久秀の手斧が捕らえる。斧により壁に打ち付けられ、胸に矢を直接突き立てられてカラスは痙攣して動かなくなる。 「大丈夫です?」 ゼロは術士の類は防御に不慣れなことが多いだろうと心配していた。結果、なんとか惨事になる前に防げた形だ。 ……庇われ、守られた。 防御よりも不慣れな体験にエダムは下唇を噛む。しかしそれをすぐ笑顔の下に隠し、大丈夫と返した。 自分のおかしな感情はどうでもいい。 今は、欲を満たすことを先に―― 「弱点、効果覿面なのです」 『ダロ? アア、ヤット分析シタ奴ノ到着ダゼ』 ラドヴァスターは息を切らせて走ってくるブレイクをゼロの肩の上から見下ろす。 『?』 そこで、一人徐々に距離を取っている人影に気が付いた。 エダムだ。 ブレイクはエダムの幻覚の効果範囲を気にし、巻き込まれないようにと注意を向けていたが、その使い魔であるラドヴァスターは違っていた。その警戒はダルタニアのものに近い。 じいっと見ていると不意にエダムの姿が消えた。 いや、溶け込んだ。 『……姿ヲ消ソウガ、使イ魔ノ眼ハ誤魔化セネェ』 どういった原理かは分からないが、何か能力を使ったのかもしれない。もしくは、トラベルギアの能力。 だがおぼろげながら何かが移動している気配だけはある。それは闇に属する悪魔であるラドヴァスターだからこそ分かるほど微小なもので、他の者は気がついていなかった。 視覚的にはほんの一瞬の間。消えた後も元からそうだったという妙な意識が働く。 気配的には完全に無いと言っても良い。偶然そちらを向かなければ、人間がそこに居たなどとは思わない。 聴覚的には無音。足音もしなければ、呼吸音すらするりと闇に呑まれた。 そんな中、唯一気付いたその悪魔は、黒い男を追って空に飛び立った。 「……む?」 何羽目か分からないカラスを落とした時点でダルタニアが気付く。 カラスに集中していたのと、彼が攻撃らしい攻撃をしていなかったせいで視野外に置きがちだったのが悪かった。エダムがいつの間にか居ないのだ。 伝えられ、スタンリーも辺りを見回す。 「たしかに居ないな。いつの間に」 「嫌な予感がします。……私は、初めて彼を見た時から信用出来ないと思っていました。探し出しましょう」 ダルタニアはサーチ・マジックを使用してエダムを探す。ギアによる能力を感知する保証は無かったが、幻覚の術ならばきっと分かる。 「!? なんて遠い所に」 「そんなに遠いのです?」 「はい。これはそれなりに時間が経っていますね……」 ぐしゃっとカラスを踏みつけ、久秀が言う。 「ここを任せて探しに行っても良いぞ。どうせサボってるんだろう……内容までは知らないが」 「いいのですか?」 「もう数も俺で捌ける程度だ、まあ――ああ、そいつくらいは置いていってほしいが。生憎誇れるほど戦闘が得意な訳ではなくてな」 久秀が指したのはブレイクだった。頷き、ブレイクはダルタニア、ゼロ、スタンリーを振り返る。 「もし出来るならラドヴァスター……僕の使い魔も一緒に探してもらえないかな、迷子になっちゃったみたいなんだ」 久秀の方に歩きながら、そう彼は使い魔の心配をした。 目が大きく見開かれる。 持っていた肉まんの袋が落ち、中身が転がり出た。一人で食べるには多い数に相手の家族の姿を見、エダムは口の端を上げた。空虚な作り笑顔ではなく、本当に心の底からの笑顔を浮かべる。 眠ったかのように、そして死んだかのようにその場へ崩れ落ちた男性を見下ろし、エダムは彼に見せている幻覚へと没頭した。幻覚は見せるだけでなく、自ら入り込んで干渉することが出来る。エダムはそれが好きだった。幻覚内は時間の感覚を弄れるため、長く長く他者の苦痛を楽しんでいられるのだ。 「……」 しかしすぐに邪魔が入った。突然幻覚が掻き消えたのだ。 それはラドヴァスターの魔法、打ち消しの影響だった。 『シカシテメェモ勿体無ェナァァ』 ふわり、と空から降臨する魔王のようにラドヴァスターはエダムの前へと降り立つ。 『セッカク幻覚ヲオ見舞イ出来ル“敵”ヲ寄越サレタッテノニヨォ?』 「カラスのこと、ですかな?」 『アァソウサ、ソノ術、霊ニモ使ッテミテェトハ思ワネェノカ?』 エダムはしばらく黙り込み、目の前の悪魔に去る気が無いと判断し、口を開いた。 「霊は既に死したものですからな。恐怖し苦悩する心と顔があればよいが……それは最良の品が無い時、譲歩して選ぶもの。価値が低いのです、貴殿には分かりましょう」 こんなにも獲物が居る場で、わざわざ二番目のものを選ぶ必要はない、とエダムは言う。 『アァ……本当ニ勿体無ェ』 「儂も人の居らぬ地に行けば、今のことを思い出し、そう思ったかもしれませぬな」 しかしありえぬ、とエダムは地を蹴り、再度闇に溶け込んだ。 間近でそれを見たラドヴァスターは予想と照合を繰り返して理解した。エダムのトラベルギアは、その身に纏った黒い布――闇に溶け込みそうな姿をした男は、本当にその闇に溶け込む能力を得たのである。ただ溶け込むだけではない。使用中はエダムそのものが闇であり、その中を自由に行き来出来るらしい。 闇に広がるエダムの気配。拡散して撒くつもりか――と、ラドヴァスターは唯一まだ気配の濃い位置に体当たりをした。 「っぐ!」 水から打ち出されたかのようにエダムが出現する。 『ドウヤラ、集中力ガ無クナルト制御ガ難シクナルミテェダナァ?』 「どうやって追ってきたのか気になっていたが……不覚でしたな、貴殿は闇に近いせいで効きにくいようだ」 口の端を拭い、エダムは腰から短刀を引き抜いた。自分は戦闘には不向きだが、満たされるためにはやるしかない。 しかし次の瞬間、彼の耳に複数の足音が届いた。 「やはり……!」 駆けつけたダルタニアが倒れた男性を見て言う。そしてラドヴァスターと対峙するエダムの手には、短刀。 間髪入れずにレイピアを繰り出し、エダムの短刀を弾き飛ばした。 「!」 スタンリーの煙がエダムを襲い、彼の意識を掠め取る。地に伏し、最後の最後に視線を上げたエダムにスタンリーは言う。 「善行を強いるつもりはない。私にその権利はない。私が個人的に不愉快だからきみをとめるのだ。……悪く思っても構わんよ。きみ同様、慣れている。嫌われるのはな」 「……甘い、お人だ」 返答か否か、エダムは口の端を一瞬上げると意識を手放した。 列車が空を駆け、帰路につく。 そこには来た時と同じ人数が揃っていた。
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