● 波の音に混じって、何かが風を切る音がする。 ブルーインブルーの港で昼寝をしていたアルウィン・ランズウィックは、その音を聞きながら次第に意識を覚醒させていった。何の音だろう、という疑問と共に辺りを見回す。 すると堤防の上で必死に木刀を振る少年の姿が見えた。年の頃は十と少し、明るい金髪に少し生意気そうな可愛らしい顔立ちが特徴的だが、頬や手足に掠り傷が多く、服にも埃や土が付いている。 「お前、何してるんだ?」 「うわ!?」 声をかけると少年は大仰なほど驚いた。 「み、見れば分かるだろ、特訓だよ」 「特訓?」 「……俺、海軍に入りたいんだ! その為にはもっと強くならなきゃ」 ぎゅっと木刀を握り直す少年を見て、アルウィンは真ん丸な灰色を目をぱちくりとさせる。 そしてとても良い事を思いついて、歯を見せて笑った。 「ならアルウィンの子分になれ!」 「……へ?」 斯くしてアルウィンは弟子をとったのである。 「弟子!? こんなに可愛い子を?」 「可愛いって言うなー!」 ごめんごめん、とサシャ・エルガシャは笑って少年を宥める。 市場で買い物を済ませ、恋愛のお守りを見つけて寄り道などをしつつもアルウィンの元へ戻ると、開口一番「弟子が出来た!」と紹介されたのだ。 少年はエクターと名乗った。身長はアルウィンより少し高いくらい。撫でたくなるベストポジションに頭があり、うずうずとしながらもサシャはしゃがんで目線を合わせた。 「なぜ海軍になりたいの?」 「かっこいいから」 単純明快な子供らしい答えだった。 それを笑うこともなく、サシャはうんうんと頷く。 「じゃあこれから特訓……かな?」 「その通り! まずは槍術。エクターはちっこいから、槍が使えれば強くなるはずだ」 小回りの良さを殺さないようにしつつ、リーチを伸ばせば戦いでも有利になるだろう。 ただし軽い槍を選んでも腕力はそれなりに必要になる。槍術を教えながら体も鍛えなきゃ、とアルウィンは特訓のプランを考えていた。 「じゃ、ワタシはお昼ご飯の準備をしようっと!」 きっと二人ともお腹を空かせ、くたくたになるまで特訓を続けることだろう。 その時のために美味しいものを用意しておかなくちゃ、とサシャも張り切った。 特訓は槍の基本的な使い方から始まり、全力での駆けっこ、木登りなどにも及んだ。 巨木の下に到着した二人は早速準備体操を始める。 「これを登るの?」 当の本人より不安そうにしているのはサシャだ。 数少ない土の状態があまり良いものではないのか、大きいといっても何十メートルもある訳ではない。 しかし普通の人間が登るには、サシャにはちょっぴり危険に見えた。 「心配だなぁ。木登りって全身を使えるから、良い運動にはなりそうだけれど」 「わかってるなら善は急げー! 落ちた時は、キャッチ頼んだぞ!」 「うん、わか……えっ、ええっ!?」 サシャの驚く声も何のその、二人は準備体操を終えるとすぐさま木の幹に飛びついた。 段々遠のく二人の背を見上げながら、サシャはハラハラした様子で見守る。これなら大きなクッションでも持ってくれば良かったかもしれない。 ――ちょん 何かが肩をつつく。 ――ちょんちょん 振り返るとまさに海の男! ……を悪い方向にひん曲げたような男二人が立っていた。 「可愛いお嬢さん、一人で何してるのかな?」 「へっ? やだ、可愛いだなんてそんな」 照れている場合ではない。 「この近くに俺らの船があるんだけどさー、一緒に行かねぇ?」 「美味しいものも沢山あるぜ」 「あ……でもその、用事があって」 「そんなの楽しくなっちゃえば忘れるって! さぁ行こう行こう」 「ま、待って――」 ごしゃ! っと音をたてて、二人の男の顔面が踏みつけ……否、踏み潰された。 「ぐえ!」 ばたっ、ばたっ、という倒れる音が二人分。 見事顔面に着地したアルウィンはニッと笑い、ピースサインをサシャに向けた。 「危ないとこだったな」 「ご、ごめんなさい、あーびっくりした……」 「エクターが教えてくれたんだ、こいつら最近現れたガラの悪い奴らだって」 その言葉にお礼を言おうとサシャは木を見上げる。しかしすぐに様子がおかしいことに気が付いた。 「どうしたの?」 「……降りれない」 本当に子供らしい子供である。 ● それでもエクターはのみ込みが早く、アルウィンの教えた事をどんどん吸収していった。 サシャの作るお菓子は美味い、という事まで覚えて何かとクッキーやチョコを要求してきたりもしたが、それらがあったからこそ辛い事も乗り越えられたと言える。 「今日は俺が二人を案内して、観光案内するよ!」 ある時、休憩時間に観光スポットを見て回ることになった。 地平線まで見渡せる時計塔、魚を安く売ってくれる店、夕方になると夕日が綺麗に見える橋。 丘の上まで来たところで、少し離れた所に見える大きな屋敷をサシャは指さした。 「すごいお家。あそこには誰が住んでるの?」 「あそこは……」 先程まではきはきと答えていたというのに、突然言い淀む。それを見て首を傾げるサシャをよそに、彼は何でもないといった様子で別の所にも行こうと誘った。 次なる目的地に向かって水路に面した道を進む。――その時だった。 「えっ……」 「!?」 突然小型のボートが近づいてきたかと思うと、男が身を乗り出し、一番端にいたエクターの体をひょいと抱き上げたのだ。 すぐさま反応したアルウィンが子狼の姿に変じ、助走もそこそこに跳躍すると今まさに船の中へ引きずり込まれようとしていたエクターの足にしがみ付いた。 そのままボートが発進し、自力では陸に戻れない位置まで移動する。 「!」 何が起こったのか理解する前にサシャの体は動いていた。 小さくなってゆく船の上で、男に羽交い締めにされながらも抵抗するエクターの姿が見える。 エクターは攫われた。アルウィンはそれを追った。 分からない事ばかりだが、今はその事実だけで十分。 「待ってて、助けに行くから!」 サシャは走りながら呼吸の間にそう、力強く呟いた。 「へっへっ、おめぇの親父もすぐに血相変えて来るだろうさ。たんまりと金を持ってな」 厳つい男が下品な笑い声と共にそう言う。 エクターは猿轡を噛まされ何も言うことが出来ない。しかしもし猿轡がなくても、ここ――海上の海賊船に連れてこられるまでの間に気力は削がれ、言い返す体力は残っていなかった。暴れてみたが体の自由を奪われ、この海賊達が何をしようとしているのかを知り、自信を根こそぎ奪われたのだ。 残ったのはたった一つ、子供には大きすぎる恐怖心のみ。 男は気の済むまで喋った後、乱暴にドアを閉めて出ていった。途端に静かになる室内。壁を隔てた先から波の音がする。 (たすけて……!!) エクターはそう強く強く願った。 父の顔、母の顔が浮かぶ。そして―― 「エクター!」 ――次に浮かんだ人の、声がした。 (し、しょう?) 「大丈夫だ。きっとすぐにサシャも来る」 乱雑に詰まれたタルの陰から姿を現したアルウィンは子狼から人の姿に戻り、すぐエクターの猿轡と縄を解いた。 エクターは目を瞬かせている。 「師匠、そんな魔法を使えたの?」 「魔法? いや……まあいいや、魔法! 騎士だからな!」 エクターの手を引き、アルウィンはドアを指す。 「逃げよう、ほら」 甲板からわあっという、歓声とはまた違う声が上がった。 「サシャが来た」 サシャのトラベルギアから紙吹雪が飛び出し、海賊達の視界を奪う。 「えいっ」 「どわぁ!?」 サシャは思いっきり一人の男に体当たりした。男はそのままバランスを崩し、情けない声と共に海へと落ちていく。 「な、なんだこいつ!」 「男の子と狼を攫ったでしょう、返さないと承知しないんだからっ」 一人で立ち回る姿を見、男達の中から「あー!」という声が上がった。 見れば、そこに居たのは先日サシャに悪質なナンパをした男二人組。この海賊団の一員だったらしい。 「ど、どうやってこんな海上まで……」 「……一人でボートを漕ぐの、大変だったんだから」 移動手段として用いやすいためか、少々拝借する程度にはボートがそこかしこに繋いであったのだ。その後海賊船侵入までこぎ着けたのは、サシャの涙ぐましい努力の賜物である。 その恨みを晴らすかのように、男の顔面にガネーシャが飛びついた。 「な、なんだ!?」 「ガネーシャ、ナイス!」 サシャは男の横を走り抜け、アルウィンとエクターを探して辺りを見回す。 大きな船だが複雑な造りをしている訳ではない。少し時間がかかっても虱潰しに探せば……と思ったところで、真横に気配を感じた。 見る前に気がつく。この染み付いた酒のにおい――海賊だ。 「このぉ、女だからって手加減しねぇぞ!」 「きゃっ!?」 男がサシャの胸倉を掴もうとした瞬間、その脛を何者かが思い切り蹴飛ばした。 目を真ん丸くする男の脳天に槍の柄が勢い良く振り下ろされる。思いのほか固い音がして、男は目を回してその場に倒れた。 「だ、大丈夫?」 攻撃に成功したというのに、腰を抜かしてその場にへたり込んだエクターが言う。 「ありがとう……! 無事でよかった、怪我はない?」 「縛られてたとこがちょっと赤くなってただけだぞ」 先に確認していたアルウィンが槍をしならせながら言った。そして前を見据える。 騒動に気が付いた海賊が次から次へと船内から出てきたのだ。 「いっぱい居る……」 「弱気な声を出すな、やれるところまでやらなきゃ海軍になんてなれないぞ!」 アルウィンはエクターを奮い立たせる。 サシャは二人にボートのある場所を教えた。どうにかあそこまで辿り着ければ、ここから脱出する事が出来るが……そう簡単にはいかない。 鍛えられたとはいえ、エクターは先ほどのように不意打ちでもしない限りは戦力にならない。そのエクターを守りながら屈強な男達の相手を二人だけでするのは危険だった。 (どうにかして、この子だけでも無傷で……) サシャはちらっとエクターを見る。 怖かったたろうに、さっきはああして全力を振り絞って助けてくれた。そんな少年にこれ以上傷ついてほしくない。 パパパンッ!! その時だった。 威嚇の炸裂音がしたかと思うと、数隻の船が海賊船に向かって近づいてきたのだ。掲げられた旗を見て海賊は血相を変え、エクターは驚いたように目を見開く。 そして言った。 「海軍だ……」 ● エクターはとある豪商の一人息子だった。 初めからそうではないかと思うところがあったため、サシャはあまり驚かなかった。昔お屋敷に居た頃に見た裕福な人々。その人々に雰囲気が少し似ていたのと、薄汚れていても服の質がとても良かったためだ。 彼は海軍になるために家出し、あの場所で特訓に勤しんでいた。しかしどこから情報を得たのか海賊達に知られ、身代金のために誘拐されてしまったのだった。 誘拐の事を知った父親は様々な覚悟をした上で海軍を呼び、そして今に至る。 「もう帰るのか!?」 父親としばし話し込んでいたエクターは二人の元に戻ると驚きの声を上げた。 「寂しいのか?」 「そ、そんなこと言ってないだろっ」 どぎまぎしながらエクターは頬を掻く。 「あ、あのさ」 「ん?」 「ずっと海軍に憧れてたけど……お前みたいなかっこいい騎士を目指すのも悪くないな、って思った」 自分より何倍も大きな男に向かって槍を振り下ろす姿。 その姿は幼い頃に見た海軍に引けを取らないくらい、かっこよく見えた。 アルウィンはにっこりと笑う。 「じゃあ今日からお前は騎士見習いだ!」 「そして海軍みたいにかっこいい男になってね?」 二人の言葉にエクターは思わず照れ笑いを浮かべて頷く。 「それじゃあ……ありがとう、師匠、サシャねーちゃん! 次に会った時はもっともっと強くなってるからな、絶対見に来てよ!」 その言葉に力強く頷き、二人は父親の元へと戻るエクターを見送った。 「男の子は成長が早いから、あっという間に強くなっちゃいそうだね」 「……。師匠として楽しみにしとく!」 その中にどことなく寂しそうな感じを見つけて、サシャはアルウィンの頭にふわっと手を置いた。 ゆっくり優しさを込めて撫でながら、呟くように言う。 「大丈夫、また会えるよ」 強く強く育った弟子に、きっと。 その日を心待ちにしながら、二人は駅へと戻っていったのだった。
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