● 梅雨も明けきらない午後、空は厚い雲に覆われ粒の小さな雨がいくつも大地へと降り注いでいた。 太陽の光を遮られた街はひんやりとした肌寒い空気に包まれ、傘をさした人々が家路を急ぐように行き来している。 ニワトコは緑色の柔らかな髪を雨に濡らし、まるで森林浴でもしているかのような笑顔で路地を歩いていた。身体をリラックスさせ、一歩ずつ足を踏み出す。その度に道を濡らす雨がぱしゃっと跳ね、靴へとしみ込んだ。 しかし気にせず進む。それどころか、跳ねる水を面白がるように足を進めた。 今感じている感覚は夏の暑い日に美味しい水をもらい、それを飲み干した時の感覚に近い。 ニワトコは人の形をしているが、樹木であることに今も昔も変わりはない。そのため彼は雨が好きだった。全身に浴びることに不快感はなく、むしろ心地よさを感じる。 そんな時だった。 「……?」 雨を楽しみながら歩いていたニワトコは、小さな小さな声を聞いた気がして足を止めた。 ざああ……という雨音の中に軒先から水の滴る音が混じり、そして―― にゃあ、にゃあ そんな声が他の音に掻き消されそうになりながら、聞こえてきた。 「なんだろう?」 曲がり角の先からだ。雨の匂いに鼻腔をくすぐられながらひょいっと覗くと、電柱の下に箱が置いてあった。 蜜柑などの果物が入っていたダンボール箱だろうか、毛布の端が隅から覗いていた。屋根になるものは無いため、箱はしとどに濡れている。 声はその中からした。 そうっと近づき、中を覗いてみる。蓋はされておらず、すぐに中に何が居るか分かった。 が、ニワトコには最初それが白い毛の塊に見えた。 「……子猫?」 すぐに思い当たり、様子を窺ってみる。 「寒そうで、震えてる……ひとりぼっちなのかな」 箱の中にはその白い一匹のみで、辺りを見回してみても他に猫は居なかった。人間の姿もないため、訊くことも出来ない。 どうすれば良いかわからないが、何かしてあげたい。 そう思ったニワトコはおもむろに隣に座ってみた。 (ぼくは濡れても平気だけど、この子はそうじゃないみたい) か細く震える子猫の背を撫で、おずおずと抱き上げる。疲れているのか、それともニワトコが人間ではないと気付いているのか、子猫は抵抗する素振りを見せない。 しかし抱いてみても雨を防ぎ切れる訳ではない。 ニワトコは自分の片手を見下ろした。 (この腕が枝で、手が葉だったら……) もしも自分が大きな樹だったならば、その枝と葉とで子猫を守ってあげられるのに……という思いが湧いてくる。 しかしニワトコにあるのは腕で、手のひらだ。 ならばそれで出来ることをしてみよう。 「ちょっと待っててね」 子猫を箱に戻し、きちんと蓋を閉めてからニワトコは走り出した。 ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ 自分の走る音が聞こえる。 厚い雲から水が降りそそぐ中をニワトコは進んでいた。左右を見、そしてまた走り出し、左右を見る。 思っているものがどこにあるのかは分からない。きっと売っているのだろうが、どの店に入れば良いのか分からなかった。 そもそも全身を濡らした状態では入店させてもらえないかもしれない、という不安故にニワトコの足は繁華街には向いていなかったが。 (こういう時は、人間のひと達が使う……傘!) あれがあれば雨を凌げるはずだ。 きっと子猫を雨から守ってくれる。自分には出来なかったことをしてくれる。 毛の先から水滴をしたたらせつつ、ニワトコはコンクリートの階段を登り、視線を辺りに巡らせた。 「……あった!」 緑の草が生い茂る川沿いの道にそれはあった。黒い男物の傘だ。誰かが捨てたのだろうか、穴が開き柄は少し曲がっているが使えない程ではない。 閉じた状態のそれを手に取ってみて、ニワトコは静止した。 ――どうやって使うのかが分からない。 雨を避ける必要性のなかったニワトコは、傘を使った経験がなかった。他の人が使っているのを見たことはあるが、それだけで仕組みを理解している訳ではないのだ。 そもそも既にさしている場面しか見たことがあらず、閉じた状態からどうやって開いているのかは知識にない。 「う、うーん……」 ぶるぶると震わせてみる。雨粒が飛ぶだけで、開かない。 骨の一本を持って引っ張ってみると、惜しいところまで行ったが手を離すと戻ってしまった。 石突と呼ばれる棒の先端部分を試しに押してみるが、もちろん開かない。 ストッパーになる部分を上げ切ってしまえば良いのだが、傘が若干錆びていたため手ごたえが固く、壊してしまっては元も子もないと思ったニワトコは思い切って上げることが出来なかったのだった。 「……」 残念そうな顔で、彼はそれを草陰に戻した。 「ごめんよ、こんな方法しか思いつかなくて」 慣れた場所から引き離すのが可哀想に思えて、ニワトコは謝りながら子猫を箱から出すと軒先で雨宿りを始めた。 自分の匂いのない場所に長時間居るのは不安ではないだろうか。 そう思って上から覗き込んでみると、子猫は未だ小さく呼吸をしているだけだった。落ち着いているようにも、弱っているようにも見える。 雨どいから溢れた雨粒が縁を伝い、小さな川のようになって地面へと続いている。 濡れたアスファルトの暗い色が視界のほとんどを占める中、子猫の真っ白な毛並みがよく映えて見えた。濡れてぼさぼさになりピンク色の地肌が見えているが、ゆるゆると撫でているとそれも大分ましになった。その指先から子猫の小さな鼓動と、温もりが伝わってくる。 それを感じて、ニワトコは子猫を愛おしいと思った。 こんなに小さいのに、生命の温かさを持った生き物。触れている自分の眺めると、そこに温かさが残っている気がした。 「そうか、ぼくも……」 温かさが残っているのではない。 自分の手のひらも、子猫に応えるように温まっているのだ。 それは枝や葉で雨を凌ぐことよりも素晴らしいことだと感じた。ニワトコは子猫を胸に抱いて撫で続けながら、口元に小さな笑みを浮かべる。 自分にないものは分かっていた。 自分にあるものは、今分かった。 ● 温かさに包まれた次に訪れるのは眠気である。 ふわふわとした感覚に包まれながら、ニワトコは手を動かしている。そこにはとても温かなものがあって、撫でるたびに癒される感覚が広がった。 目を開いているのか閉じているのかは分からない。 しかしそんなことは関係ないと思えるほど、ニワトコはそれが何なのか知っていた。 出会った時の震えているような声が頭の中で再生されるが、撫でている内にそれはなくなり、何かを感謝するかのように肉球が指の付け根に押し付けられた。 あたたかい。 とても、あたたかい。 いつの間にか壁に背を預け座り込んでいたニワトコは自分が寝息をたてているのを自覚し、はっと目を覚ました。 雨は上がっていた。まだ湿り気の残る空気だが、それは濡れた大地を太陽が照らしているからだ。 黒い雲を追い払うかのように照る太陽を見上げ、ニワトコは大きく深呼吸する。 肌に沁み込むようなぽかぽかとした陽気が全身を撫でた。梅雨の晴れ間は夏の気配が濃い。 「――……雨も好きだけど、やっぱりお日さまはいいなぁ」 にゃあ! 返事をするような鳴き声が腕の中からする。 そうだね、と同意されたようで、ニワトコは嬉しそうに微笑むと太陽に照らされた道を歩き始めた。 地面の水溜りに、自分と白い子猫を映しながら。
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