そのカフェは大通りの喧騒から外れた、路地の奥まったところにひっそりと建っていた。 赤レンガの壁に黒い扉。その扉を抜けるとカラカラと鈴が鳴り、豊かな黒髪を持った女店長が出迎えてくれる。 店内にはコーヒーの仄かな香りが漂っており、その中にはケーキ等の甘い香りも混ざっていた。「あら、いらっしゃい。本日二人目のお客さんね」 女店長、ミル・キャルロッテは優しげな笑みを浮かべるとそう言った。 ここは客入りの少ない日が多いらしく、今日も常連が一人来ただけなのだという。 見れば窓際の席に一人の女性が座っていた。 ――草食動物の耳と尻尾を持つ世界司書、ツギメ・シュタインだ。「あの子、ここの常連なのよ。何か話題や質問があれば話しかけてみるのも良いかもしれないわね」 ここならば落ち着いて話をすることが出来るだろう。「そうだわ、あなたは何にする? メニューに無くても大抵のものは作れるから、気軽に言ってちょうだいね」 ミルはそう言って微笑むと、自信あり気に人差し指を立ててみせた。
からりと鳴る鈴の音。扉の方に視線をやると、暖色を中心にアクセントとして白と緑色を織り交ぜたガーベラの花束が目に入った。 グラスを磨いていたカフェの女主人ミルは笑顔で見知った客人を出迎える。 「いらっしゃい、久し振りね」 「オォ、ここは変わらねェなァ」 軽く片手を上げ、ジャック・ハートはちらりと窓際の席を見る。 出てすぐのレンガが並ぶ道が見える席。そこには前に訪れた時のように、動物の耳と尾を持つ世界司書ツギメ・シュタインが座っていた。 「やっぱ居たか……」 デジャビュでも感じそうになるその光景にほんの少し目を細め、口に出して言ってしまったことを取り繕うようにジャックはミルに花束を差し出した。 「ハイドーゾ、お嬢サン? 何となくアンタのイメージだと思ったからなァ」 「まあ素敵、ガーベラね。ありがとう、お店に飾らせてもらうわ」 「俺ァ寝室が良いと思うケド?」 おどけるように言うジャックにミルは笑みを零す。 カウンターにもたれ掛かり、しかしそこへ腰を落ち着ける訳でもなく、ジャックはメニュー表に視線を落とした。 「俺ァコーヒーとピザ。後は……あのお嬢さんの好きそォなモノ、ナ」 「あら……ふふ、わかったわ。クリームを沢山おまけしちゃおうかしら」 ミルは長い親指の先を見、にこりと微笑んだ。 「ヨッ……相席構わねェよナ? ッてか俺はしたいンだがヨ?」 口の端を上げてそう声をかけると、ツギメは話しかけられた事に驚いたかのように顔を上げた。そして見知った者と分かるや否や、表情を和らげる。 「久しいな。構わないぞ、座るといい」 ツギメが言い終わると同時にジャックは椅子に腰を下ろした。 「何か頼んだのか?」 「コーヒーとピザをナ、お嬢さんの分もサービスで頼んどいたゼ」 「……ん、む。毎回律儀だな」 また少し驚いたような顔を見せるツギメを前に、律儀とは少し……いや、大分違うんだがなァとジャックは頬を掻く。 そこへコーヒーと、香辛料やチーズの匂いを含んだ湯気を上げるピザ、プチシュークリームが二つ乗った生クリームたっぷりのパフェが運ばれてきた。 ジャックは無造作にテーブルの脇に置かれていたタバスコを手に取ると――更に無造作に、それをピザへかけた。ピザがほんのりと赤く染まるが手は止まらず、ついには真っ赤になったのを見てツギメは固まる。 「ン? 何だ、喰いてェのか?」 「い……いや、別に、そういう訳ではない。……味覚の違う者が多いのは承知しているが、それはとても……辛そうだな」 「俺ァ辛党だからこれで丁度いいンだヨ」 眉ひとつ動かさずにそれを齧るジャック。辛党という域を越えてはいないだろうか、とツギメは赤色から目を逸らすようにパフェを口に運んだ。 ところで、という声が前からする。 「ブルーインブルーに行ったンだッてナァ」 「ああ、館長の計らいで慰安旅行にな。新鮮な体験だった。ジャックは行かなかったのか?」 「そうそう。……で、土産、あるよナ?」 ずいっ、と出された手をツギメは凝視した。 視線を上げるとジャックのニコニコ顔が目に入る。 土産。休暇慣れしていないこの世界司書は、そんなこと一度も考えたことがなかった。考える余裕が無かったともいうが。 表情はそのままに、段々とうろたえ始めたツギメを見てジャックは堪え切れずに笑う。 「プッ……冗談だヨ。お堅い司書サマから個人的にモノが貰えるなんて思っちゃねェヨ。ホント可愛いよなァ、アンタは」 「かっ、からかうのもほどほどにしろ、心臓はそう強いものではないのだからな」 「あなた、本当にそういうのに弱いわよねぇ」 花瓶に挿したガーベラを窓際に飾りながらミルが笑う。 それに何だか居心地の悪そうな、それでいて嫌がってはいなさそうな顔をしながらツギメはガーベラを見る。色の多彩さが美しい。すべて同じ種類とは思えないくらいだ。 「気になンのか?」 「そうだな……綺麗な花だと思ってな、何という花なんだ?」 「ガーベラ、だ。……俺はキレイなオネーチャンにはそれ相応の敬意払うンだヨ。店主チャンは絶対居ると分かってたからなァ。次があったらアンタにも持ってくるサ……何がいい? 白薔薇かい」 ツギメは言葉と共にクリームを飲み下す。 「ジャックは綺麗と言ってくれるが、そんな大したものではないさ。それにここには美しい者など沢山居るだろう?」 「さァなァ。俺はアンタの耳もツノも好きだし、背筋がピンとしてるところも好きだし、仕事に真面目なのも好きだ。嫌いなトコ一個もねェからヨ」 なぜこうも照れもせず思っていることを口に出来るのだろう、と思いかけたところで、それがこの者の長所か、とツギメは眉間を押さえかけた手を顎にやる。 「それに何より……」 その前で更に言葉を紡ぎかけ、ジャックは一旦そこで切った。 気恥ずかしさを紛らわせるように目を逸らしていたツギメは、少し不思議そうに獣の耳を動かして訊く。 「何より、なんだ?」 「……イヤ、何でもね」 「な、なんだ。言いかけたままでは気持ち悪いだろう」 「何でもねェッて」 はぐらかすように言い、ジャックは最後の一切れを口に放り込んだ。 皿に残るのは少しこぼれたタバスコの赤い跡のみ。完食したことにツギメが目を奪われた隙に、彼は席を立つ。 「軽口叩ける間は大丈夫ッてナ。んじゃ次も会えたら相席させてくれヨナ、ツギメチャン?」 ギャハハハと楽しげな笑い声と共に歩き出し、背を向けるジャック。 ミルに代金を支払い、出て行こうとしたところで―― 「待て、ジャック」 今度はツギメから声をかけられた。 そんなに言葉の先が気になるのかと振り向くと、それと同時にツギメが何かを投げて寄越した。 横に傾けた手でそれをキャッチすると、視線を落とせば手のひらに白いもの。貝を涙型にくり抜き、赤い天然石と共に革紐に通したペンダントだった。 「これは……」 「土産は、と問うただろう。誰かに贈るために買ったものではないが、自分では着けられないでいたものだ。……趣味ではないかもしれないが、どうだ?」 それは旅行先の露店で目を奪われ、慣れない手つきで買ったものだった。 ジャックはニッと歯を見せて笑い、パチンと指を鳴らす。すると、いつの間にかその首にペンダントが下がっていた。 「コリャ驚いた、ありがたく頂戴するぜェ?」 そしてそのまま、カッコッとブーツの音をさせて出て行く。 追う様に鈴の音がカラカラと鳴った。 ● 店も、元居た道も見えなくなった。 大通りに戻る気にもなれず、ジャックは路地裏を目的地の決まらないゆっくりとした足取りで進む。 あの空間でツギメと言葉を交わすことは嫌でも苦でもない。なぜなら初めて会った時から、ジャックは彼女に同族に対する親しみのようなものを感じていたからである。 「……」 しかし分かっている。 同族はここには一人として居ない。本来共生しようという気持ちを抱くべき一族は故郷のエンドアにのみ居り、忠誠を誓った者もその遠い故郷に居る。 だというのに、会ってから現在までの間、この実際ならば見当違いなはずの親しみはまるで旧情のようにジャックの心に絡み付いていた。 苦しくはないが――しかし、自身への戸惑いとも困惑ともつかない気持ちはあった。 「この世界に同族が居る訳ァねェのに……クソッ。何なんだヨ、俺ァヨ」 迷いながらも問いに答える相手は求めず、ジャックは一度だけ、来た道を振り返った。
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