チャン・ジンが探偵になってから一年と半年以上が経過しようとしていた。 二十四歳ながら童顔の気がある顔立ちのせいで未だに「新米探偵」などと呼ばれたりすることもあるが、今では一人でも依頼をこなせるようになってきた。今日もとある事件の調査のため、繁華街まで赴いたところだ。「たしかこの辺りだったような……」 目的地を探し、自身の書いたメモを片手に視線を巡らせる。 すると一件の飲食店が見えてきた。長い間そこで営業を続けているといった外観だが、窓から覗ける範囲に客は居ない。 それどころか繁華街だというのに、道に人はまばらだった。その原因をチャンは知っている。 この地域に殺人鬼が出たのだ。● チャンの元にその依頼が舞い込んできたのは一日前のこと。 友人であり探偵仲間でもある赤毛の猫耳探偵――人によっては変態扱いされるマオロンと情報交換をしている時に、電話でそれを受け取った。「変な顔してるな、どーした?」「変な顔言うな」 席に戻り、チャンは冷めたプーアル茶を飲み干してカップを机に置く。「……繁華街の付近で殺人事件が増えているらしい。その犯人はどうやら同一犯みたいでな」「手口が一緒なのか」「いや、というか……」 チャンは自分の指先がむずむずするのを感じた。「殺害後、被害者の爪――計二十枚をすべて持っていくらしい」 電話によると被害者に共通点は無く、殺害方法も様々。しかし殺害後に爪を剥がし取っていく点は共通しており、今でも被害者は増え続けているのだという。「爪か……何か別の地域で聞いたことがあるなぁ」「別の?」「探偵仲間に聞いただけだがな」 マオロンは明るい赤色の髪を弄りながら言う。 そして何かに気が付いたような顔をした。「……なんだよ、もしかして」「ど、どうした」「お前、殺人鬼を相手にするの、初めてなのか?」 てっきり事件について何か気付くところがあったのかと思っていたチャンは拍子抜けした。 たしかにチャンは今まで探し物や素行調査等を中心に受けてきた……というより、経験の浅い彼にはそういった依頼しか来なかった。今回が初めて担当する殺人事件になる。 言い返したくなる気持ちを抑えつつ、依頼成功のためにチャンは訊いた。「マオロンはあるのか? 今回はその殺人鬼の正体と、どこを根城にしているのかの調査が中心だ。もし経験があるのならアドバイスが欲しい」「嫌ってほどあるよ」 いつものすっとぼけたような表情に嫌いなものを見た時のような感情を混ぜ、マオロンは答える。「オーケー、教えられることは教えるが……まず聞く。単独で行くのか?」「……自分がどれくらい出来るのか確かめてみたいから、な。もしもの時のために色々と準備はしておくつもりだが」「そうか……ちぇ、土下座して頼んでくれりゃ俺がコンビ組んでやったのになぁ」「するか!」 立ち上がり、チャンは鞄に手帳等を詰めていく。「とりあえず依頼者に会ってくる」「無茶すんなよ」 仲間として、先輩として、マオロンは彼を見送った。● チャンは飲食店から出る。 ここの店長が一番最近の被害者だった。今回はその時一緒に居た娘に話を聞こうとやって来たのだ。 そこで薄気味悪い話を聞いた。「……」 チャンは話の内容をメモった手帳に視線を落とす。 犯人は若い女性。美しい顔立ちをしていたが、娘はどの雑誌やテレビでも見たことがないという。 その世間に露出していない美女は、人間の爪で出来たドレスを纏っていた。……という。(一番最初の殺人鬼が、まさかここまでイカレた奴とはな) 籤運の悪さを嘆きつつ、チャンはふっと昔のことを思い出した。探偵になりたての頃世話になった協力者のことだ。困ったことがあるとついつい思い出してしまう。 悪い癖だな、と自分の情けなさに失笑しつつ事務所に帰ろうとすると――なぜか暗い路地が気になった。 音はしない。変わった匂いもしない。 ただ、影から半分だけ顔を覗かせる何かが地面に落ちていた。「石……?」 瞬時に自分の中から「違う」という答えが返ってくる。 そのせいでチャンは余計にそれが気になった。 慎重に近づきながら手袋をはめ、拾い上げる。それは乾燥し縮んだ肉片が付いたままの爪だった。紛れもなく人間のものだ。作り物かと思うくらい異臭はしないが、剥がされてから時間が経っているせいだった。 チャンは前方に広がる闇を見る。左右のビルが高く、日も傾いてきているため雰囲気まで暗い。 一瞬躊躇った後、一度目を瞑ってから闇に目を慣れさせ、かけていたサングラスをポケットにしまってから路地を進んでゆく。 少し進むと野良犬が痩せた腹を見せて眠っていた。特別変わったところはなく、人間の気配も表の通りからしかしない。(……仕方ない、一度引き上げて準備を整えるか。これもきっと手がかりになる) 小さなビニール袋に爪を入れ、鞄の中へ入れる。 その時頭上のベランダから明るい声がした。「ああっ、タオルケットが落ちちまった。お兄さん気をつけておくれ!」 ばさっという音と共に降ってくる布。 チャンは顔を青くした。ここは暗い路地だ、洗濯物を干す主婦など居るはずがない。布もただの大きな布で、タオルケットではない。そもそも直前まで人の気配は「表通りからしかしなかった」のだ。 片腕で顔を庇うが、布は覆い被さるようにしてチャンの視界を遮った。 そして、「落し物、拾ってくれてありがとねえ?」 甘ったるい声が聞こえた。●「インヤンガイで殺人鬼を捕縛してきてほしい。その際、探偵を一人救助するように頼む」 世界司書、ツギメ・シュタインは導きの書を閉じながらそう言った。「殺人鬼の名はソウ・ツィラン。まだ若い女だが身体能力が高く、目的達成のためには自身の体を省みないせいか無茶な動きもするようだ。気をつけてほしい」 得物はナイフらしいが、どうやら本数までは分からなかったらしい。「それと……上手く見えなかったが」 伝えるべきか悩むといった顔をし、ツギメは言葉を選びながら皆に伝えた。「ツィランのバックに誰かが居るようだ。仲間としてのサポート役か何かの支援者かは分からないが、旅団絡みの可能性もある」 これを忘れずに行動してほしい、と彼女は言い、説明を続ける。「探偵の名はチャン・ジン。……前に一度縁があったな。あまり時間は無い、すぐ向かってもらえるか?」 遅れれば犠牲者が一人増えてしまう。 そう言い足し、ツギメはチケットを五枚差し出した。
● もう幾度となく見てきた空をロストレイルは走り抜ける。 「死体からとれば良いものをどうして殺して取るかね」 座席に背を埋め、ヴェンニフ 隆樹が独りごちた。他人の趣味に何だかんだとケチをつける気はないが、疑問には思う。 しかし、殺してでも手に入れる――それも爪フェチであるが故、なのだろう。 目の前に欲しいものがあれば所有者が生きていようが死んでいようが構わない。そんな女なのかもしれない。 それはきっと、あと少しでわかる。 ● 真っ先に動いたのは黒いポニーテールを揺らしたハーデ・ビラールだった。 布を被せられた男と、ベランダから何の躊躇いもなく飛び降りる美女。それを確認した瞬間に地を蹴り、両者の間に割って入る。 ショートソードの刀身をナイフが滑り上がり、鋭い音をたてた。 「っ!? なんだい、あんた達は」 美女、ソウ・ツィランは突然の乱入者に対してあからさまに嫌そうな顔をした。 割り込む際に突き飛ばされるような形になったチャンはよろめき、掴まるものを探して片手を突き出すが布に阻まれる。それをジャック・ハートが些か乱暴に掴んだ。 「ツギメの依頼で死人が出ても困るンだヨ。どいてナ、ボーズ」 「い、依頼?」 布越しでもわかる程チャンは狼狽している。 ジャックは無防備なままのチャンに舌打ちし、思い切り伏せさせた。その頭上を隆樹が跳躍し飛び越す。 「チャン、そのまま布を取ったら退避しろ」 隆樹はハーデがツィランを抑えている真横を駆け抜ける。 ツィランはそんな隆樹に向けて背中越しにナイフを投げつけた。 「……その体勢から投げるか、後ろに目でも付いてるのか?」 「お褒めの言葉ありがと、けれど違うねえ」 一度距離を取り、左右にナイフを向けたツィランは改めて突然現れた邪魔者達を見た。 女と、子供。大人の男は二人のみ。 一見して何とも奇妙な集団だが……。 「ふん、あんた達だね。お姉様の言ってた世界図書館とかいうのは」 吐き捨てるように言い、ツィランは壁に背をつけた。 「お姉様……? やはり背後に世界樹旅団が関わっているのか」 「そうそう、その通り。隠す必要はないって言われてるから教えてあげるよ」 ハーデに頷き、そのままツィランは後ろ向きに壁を駆け上がった。 「図書館は探偵に協力してるんでしょう? ふふっ、なら旅団が殺人鬼に協力してても可笑しかないでしょ!」 袖を振るった瞬間、多方向に向かって小型のナイフが広がり飛ぶ。 隆樹は影でそれを防ぎ、ハーデはショートソードの一閃で叩き落す。 「ボーズ……テメェの拾った爪借りるゼ……あの女の探しモンはコレだからヨ」 ナイフをESPで往なしたジャックは、手だけ後ろに向けてチャンの持つ爪を一瞬で引き寄せた。 それを無言で見送り、伏せたままそこを動こうとしないチャンに眉をしかめる。 「なンだよ、腰でも抜けたか? 早くさっき言われた通り退避して――」 「み、見ておかなくちゃならない」 「……テメェの手におえない上に、助けられてるって知った上で、か?」 「ああ。……すまない、このまま逃げては成長出来ない。それではお前達のサポートなど到底出来ないだろう」 フン、とジャックは鼻を鳴らす。 「ならせめて足引っ張らネェように隠れとけヨ、最初に会ったロストナンバーはどうだったか知らないが……俺サマは気にせず攻撃するゼ。巻き添え食らっても放っておくからナ!」 髪を青銀色に染め、ジャックは全力でチャンを庇っていた者とは思えないことを言い放ってからツィランに向かっていった。 「……初めに会った二人と変わらないさ」 チャンは小さくそう言った。 閃光が走る。 目を擦るのも程ほどにツィランは苦笑いを浮かべた。 「こんな雨雲もない日に雷を見ることになるとはねえ」 「乙なモンだろ?」 這いつくばるツィランを見下ろし、空中に浮いたジャックは獰猛な笑みを見せる。 間一髪で避けた反応速度は侮りがたいが、全力でいけば手傷を負わせられない相手ではない。確かに身体能力は普通の人間にしては上がっているが、防御方面に関してはその恩恵も程々らしい。 ハーデはツィランが起き上がる際に投げてきたナイフを布で巻き込み落とした。 「おや、自分の投げた布で防御されるとは恥ずかしい」 「五対一なのに余裕があるじゃないか」 「ふっふふ。あたし、危機感が薄い、ってお姉様にもよく言われるんだよねぇ……」 一瞬胡乱な目をしてツィランは新たなナイフを手に四本ずつ持った。 ハーデは今までのツィランの行動とナイフの本数を頭の中で数える。落としたナイフも多い。それを拾って使った場面も多い。 「……まるでナイフに特化した暗器使いだな」 接近戦も遠距離戦もカバーしてくる。ナイフも威力こそ低いとはいえ、それはこちらの防御能力が上回っているからこそ。もし当たれば確実に急所を狙って深く刺さっているだろう。そして消耗が進めばこちらの油断も増え、それが本当に起こる危険性も増す。 「……」 そこでハーデはツィランが疲労していないことに気が付いて眉を寄せた。 同じくそれに気が付いていたMrシークレットが隣で肩を竦める。 「世界樹旅団が関わっているんです、あの人も一筋縄ではいかないでしょうね」 「ああ。……外見からはダメージを推し量れないな。手品師、お前はどう見る?」 シークレットは片手でトランプを弄ぶように広げた。 「――ンフ。そうですね、一気にカタをつけるのが良いかと。私に策があります、協力してもらえますか?」 シルクハットの下から覗く真っ黒な瞳を見る。数秒と経たなかっただろうか、ハーデは得物をサバイバルナイフに切り替えて頷いた。 その瞬間地面を蹴ってツィランに肉薄する。 ツィランのナイフを弾きながら猛攻を仕掛けるハーデ。シークレットもそれに倣いトランプを投げつけようとするが……そのまま擦れ違い、タイミングをずらして投げられたトランプは左右の壁に打ち込まれた。 数多の爪で作られたスカートが広がる。 容赦なく親指を狙って繰り出された斬撃を避け、ハーデが距離を取ったタイミングで逆方向に居た隆樹が踏み込んだ。途切れることのない攻撃に意識を奪われつつ、ツィランはナイフを投擲しようとする。しかし隆樹はその肩を思い切り叩き、手首を持つと背後に回って捻り上げた。 刹那、とても女性とは思えない怪力で抵抗された。 手を離しそうになるのを寸でのところで堪えるが、隆樹の顔を睨みつけようと振り返った顔には妖艶な笑みが浮かんでおり、口には短いナイフ。ツィランは関節のことを一切気にせず、思い切り体を捻って首元を狙う。そこをジャックのカマイタチが走り抜け、ナイフを弾き飛ばした。 「……」 隆樹を振り払い距離を取ったツィランは、唇から血を流したまま笑い、自分の血で喉を潤わせた。 「やってくれるじゃないか、こういう所の傷は治りにくいんだよ」 カッ、とその真横の壁にトランプが刺さる。 ツィランは笑みをしまい、シークレットをねめつけた。 「さっきからどういうつもりだい? どれだけ来るんだろうと枚数を数えてたけど、一枚も当たりゃしない。もう数えるのにも飽きちゃったよ」 「そりゃそうですよ、当てる気はないんですから」 シークレットはお客を迎えるサーカスの団長のように微笑んだ。 残ったトランプを丁寧にシャッフルし、両手に広げる。それを何の気なしに地面に撒き散らす。 それを焦げ茶色の目で見下ろしつつ、ツィランはあることに思い当たった。 相手は普通の人間ではない。図書館のことはお姉様から聞いているが、顔を合わせたのは今回が初。なのにいつの間にか……そう、それと分かる異能力を使うのがジャックだけだったというのもあるが、いつの間にか普通の人間を相手にしているような感覚で動き回っていた。 自分は早々のことでは倒れない。倒されない。倒された経験がない。 それが油断を招いた。異世界の住人を相手にしているという自覚を削り取った。 「このトランプ――」 はっとシークレットを見ると、 「――には、どんな仕掛けがあると思います?」 彼は彼女の言葉を継ぎ、パチンッ、と指を鳴らした。 ● あの四人だけでも対処出来る、とリーリス・キャロンは判断した。 骨の折れそうな相手ではあるが、戦い慣れた者も多い。チャンという護衛対象と狭く暗い場所という足枷はあるものの、全滅をさせられる程ではないだろう。 全滅したらしたで、すぐに駆けつけるつもりではあったが。 ビルの屋上から辺りを見回す。 「……」 リーリスの視界は少し特殊だ。 普通の人間とは違いアストラルサイド寄りなため、人ならざる力の痕跡、生命反応、そして人の感情の色などが通常の景色に重なった状態で見えている。 その視界を通して見るインヤンガイは凄まじかった。 悪意、好意、思惑、失望、情念、幾ばくかの喜びと深い絶望。 それらに目を滑らせ、綺麗、という感想をリーリスは抱く。だからこそこの世界が嫌いになれない。 ほんの少しだけ笑い、リーリスは本来の目的を果たそうと動く。 「インヤンガイっぽくないものないかな~。もしくはインヤンガイすぎるものでもいいんだけどな~。あの人の反射神経から考えて、絶対屋上に痕跡があると踏んだんだけど」 きょろきょろと見回し、見慣れたこの世界に似合わない生命反応を探す。 「うーん、もう1回ベランダから部屋を覗きこんでいった方が良かったかなぁ?」 ワンピースをはためかせながら非常階段をタンタンと下りていく。軽やかな足取りは友人の部屋に遊びに行く少女のようだった。 一部屋一部屋ベランダから中を確認し、にこやかな笑顔を窓ガラスに映していく。 十分も経たなかっただろうか、酔っ払ったような表情をした女性が椅子に座っているのが見えた。 椅子は壁際。そして向きは窓の真正面。 突如現れたリーリスと目が合ったというのに、全く動じていない。 「おねえさん」 声の質を変えずにリーリスが部屋へと入り込み、言う。 「ソウ、って人知ってる?」 「……」 「おねえさん、知ってるよね。だってあなたがワームにしたんでしょ? 旅団なら絶対針を使うもんね」 人にあるまじき力を使うツィラン。 ならば本当に彼女はすでに人ではないのではないか。リーリスはそう考えた。 「……」 女性は答えない。 長い金髪の女性だった。中性的な顔つきはツィランには劣るものの美しく、見る者の目を奪う。 しかし目つきは先ほどからぼうっとしており、アルコールが回っているかのようだった。だが酒瓶は見当たらない。 リーリスは魅了の力を強めようとして――気が付いた。 「……あなた、中身がないのね」 臓腑的な意味ではなく、精神的な意味で。 生命反応はある。希薄だが意思も感じられる。しかし近くで観察して初めて、その意識は他人の者だと気が付いた。 (「これ」はソウの言うお姉様じゃないのね……普段これは敵が能力を使うのに必要だから置かれてる。……針じゃない。何?) しばし考え、リーリスは女性の頭を鷲掴みにした。 初めからそう組み込まれていたのだろうか、そこで初めて女性は抵抗を見せたが、構わずリーリスは片手に力を込める。 意識を遡って尻尾を掴もうと追いかける。それは世界を飛び出し、そして。 ばんっ! 「――弾かれちゃった」 倒れ込む女性を見下ろし、リーリスは呟いた。 ● 壁に打ち込まれたトランプが姿を変え、フック付きのワイヤーとなってツィランに向かって飛び出した。 猫のように跳ねてそれを避けるが、飛行し接近したジャックに叩き落される。 フックの一つが二の腕に食い込み、ドレスの一部を地面に散らす。傷口が広がるのも気にせずツィランはそれを乱暴に引き抜いて地面を転がるが、そこでシークレットと目が合った。 「さて、ここは一見何もない路地ですが、実は悪い人が通ると、痛い目を見るようになっておりまーす」 緊張感の欠けた、しかし油断のならない声。 「恐れを知らず進みますか?」 「……逃げるために?」 「ええ。……まあ」 答えは、聞いてませんけれどね。 そうシークレットが言ったのと同時に、地面のトランプが様々なトラップに姿を変えた。 落とし穴がいくつも出来、何十本もの矢が空気を裂き、虎挟みがツィランの足首に噛み付く。 ツィランの抵抗は手負いの獣そのものだった。彼女に危機感が欠けていたのだとしたら、それを今ここで取り戻したことになる。 「殺す者は殺される。それが世界の範と知れ」 ハーデがサバイバルナイフを振り下ろし、抵抗するツィランの肩に突き立てた。 ツィランは壮絶な表情をし、歯を食いしばる。 そこへ追い討ちとばかりに光の刃がハーデから放たれ、握り直していたナイフごとツィランを切り裂いた。 「――ッふ、く」 押し殺した声に向かってジャックが電撃を浴びせる。 避ける術は塞がれた。感電死一歩手前、と表すのが一番近いだろうか、白光に包まれたツィランはついに両膝を折った。 「お、……ねえ、さま……」 熱された息を吐き、地面に倒れる。 「ホントおっかねェネエチャンだナ、テメェはヨ」 ジャックはまだ意識があることに口笛を吹き、傍らに降り立った。 「手間をかけさせる……」 隆樹は頬に付いた血を拭い、念のためツィランをロープできつく縛った。 更に影でいつでも攻撃を出来るよう準備をしておく。 「さて、話し合いタイムですね、背後関係を聞き出しましょう」 いつの間にやらトランプを全て回収したシークレットが軽い足取りで近づく。 沈黙していたツィランは長い息を吐いた。 「――綺麗な爪、してるのに、やることえげつないねえ……勿体ないよ」 「お前の胸糞悪い趣味など分かりたくもない」 ハーデが軽蔑を込めた瞳で見るが、シークレットは良いことを思いついたという顔で言う。 「そうです、聞いてくれない場合は……ンフフ、爪でも剥ぎますか?」 「Mrシークレット」 「私だって好きでやるわけじゃないんですよ……これはいわばオイタをした子を叩くようなものです」 飄々と肩を竦めるが、その顔には笑みが浮かんだままだ。 「それに分かってもらいたいでしょう、爪を剥がされた人の痛みってやつをね。……ああ、剥ぐのは自分で殺した後の死体からでしたっけ?」 「ふ、ん。その辺りにこだわりはないよ、爪さえ、手に入れば……それでいい。それに無駄さ……」 ツィランは垂れた手に視線を落とす。 彼女は爪が大好きだ。それは自身に生えているものも含む。自分を生爪を剥がしコレクションに加えたのも一回や二回ではない。 思えば爪に固執するようになったのは、男娼だった実父を殺した時からだったろうか。 殺した彼の美しく手入れされた爪を見て、ひと揃え欲しいと強く思ったのを今でも覚えている。 ――そう、お姉様と出会った時も、彼女の爪に惹かれた。 自分よりもとても、とても年若い少女だったというのに、姉と呼び慕いたくなるほど。 「ッ……!!」 不意にびくんっとツィランが体を跳ねさせた。 「なんだ!?」 隆樹が警戒を強め、ハーデが武器を構えたまま近づき様子を窺う。 力が抜けてだらりと垂れた頭。髪を掴んで顔を上げさせると、意識が朦朧としているようだった。 先程までダメージはあっても回復すれば噛みついてきそうな雰囲気を纏っていたというのに、それが一瞬で霧散している。 それはまるで大怪我を負った普通の人間のようだった。 「……ふふ、ふ」 小さな笑いが漏れる。 「おね、えさまとの、繋がり……消えちゃった、よ」 悲しそうな声で最後にそう言い、ツィランは意識を手放した。 ● 金髪の女性を背負ってリーリスが帰ってきたのは、それから数分後のことだった。 「うー、重たいっ! リーリスもうダメ~」 仲間の前に女性を放り出し、リーリスはダウンした。もちろんふりだが。 「あの部屋に居たの。ソウの身体能力はワームのせいかなって思ったんだけれど、どうやら旅団員の力だったみたい」 「力?」 「うん、中継となる人をその世界に置いて、自分は本拠地から力を提供……つまり中継者を通して誰かを強化出来る、そんな感じのものだと思う」 どうしてそれを? と言いたげなハーデにリーリスは舌を出す。 「このおねえさんが倒れる前に教えてくれたの。もっとも、起きても何も覚えてないかもしれないけれど」 さらりと嘘をつき、リーリスは女性を見た。 意識を辿った時のことを思い出す。 女性の名はリカ・リエンレス。辿りきる前に弾かれてしまったが、その先で見えたものがあった。 「ねえ皆、少し気になることも聞いたの。帰ったら調べてみない?」 「旅団に関することか?」 「ソウに力を渡していた人に関すること。曖昧な情報しか得られなかったけれど、……多分特定出来る」 リーリスは他人のレポートを読むことが多い。その際、別の依頼のレポートで似た容姿の者を見かけたのだ。 その容姿とは―― 「頭の両左右からね、羽根の生えた女の子」 その子がきっと何か知っている、とリーリスは言った。 影を駆使し、隆樹が周囲を再度探索したが、旅団の足跡は見つけることが叶わなかった。 「本当にインヤンガイに足を踏み入れることなく干渉していたようだな」 「厄介な奴だ……どれほどの人数に力を与えられるのかどうかも気になるところだな」 ハーデは小さな溜息をつき、虫の息なツィランを更に強く縛った。ジャックもその上からESPで拘束をかけ、舌も噛ませないよう見えない猿轡をする。 それを見て物陰から出てきたチャンが声をかけた。 「また助けてもらったな、すまない。……死にかけに見えるが」 チャンは自分がこの女に殺されかけたことを思い返し、言葉を飲み込む。 その先にどんな言葉を続けようとしたのか感じ取り、ハーデは苦々しい表情をした。 「依頼は捕縛だ、チャン。この女はお前の数倍腕が立つ。これはお前がこの女を安全に連れ歩くために必要な処理だ。気を緩めれば、お前途中で殺されるぞ?」 「……」 チャンは無言で頷く。 恐らく「お姉様」との繋がり……つまり力の供給が断たれ、ツィランは驚異的な身体能力を失った。 しかしそれはまだ仮定に過ぎない。ここは安全を過信するには危うい場所である。 「とりあえずこの殺人鬼は専用の病院に入院させる。意識が戻ったら覚えていることを洗いざらい吐いてもらおう」 チャンはどこかに電話をし、それを閉じるとふうと息を吐いた。 「横から聞いていただけだが、世界樹旅団、だったか。敵なのか?」 「ああ」 隆樹が重く頷いたのを見て、チャンは再度ツィランを見る。 「――では今後それに関する情報が入ったら報告しよう。今回は……また図書館の人間の世話になる結果になってしまったが、人手はあった方が良いだろう?」 「ンフフ、また狙われて真っ青な顔をするんじゃありませんよ?」 シークレットのその言葉に、チャンは少々ばつが悪そうな顔で頬を掻いた。 その背中を叩いたのはジャックだ。 「何にせよ初仕事成功ゴクローサンッてかァ、ボーズ? これからもどんどん泣き付いていいンだぜェ、ギャハハハハ」 「なっ! 泣き付く!?」 一瞬子供じみた噛み付き方をしそうになり、チャンは咳払いをしてそれを押さえ込んだ。からかわれるとすぐ熱くなるのは悪い癖だ。 「今回のことで自分の実力はわかった。助力が必要な時は世話になろう。対価は情報くらいしか払えんが……」 「まだ払えるものがあるでしょ~?」 リーリスが意味深な笑みを浮かべて近づいてきたのを見、チャンは思わず半歩下がった。 「払えるもの?」 「うん、たとえば……」 明るい路地の方を指す。そこには――定食屋の看板。 「美味しい昼食全員分、とか」 チャンは拍子抜けした顔をしてサングラスをかけなおし、 「好きなものを頼むといい。だが忘れるな、俺は貧乏な探偵だからな?」 そう言って笑った。
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