世界図書館の一画に、「司書室棟」がある。 ここはその名のとおり、「司書室」が並んでいる棟だ。司書室とは、一定以上の経験のある世界司書が職務のために与えられている個室である。ふだんは共同の執務室を使っている司書も、特定の世界について深く研究している司書はその資料の保管場所として用いているし、込み入った事案の冒険旅行を手配するときは派遣するロストナンバーを集めて事前の打ち合わせにも使う。中には、本来は禁止されているはずなのだが、司書室に住みつき寝起きしているもの、ひそかにペットを飼育しているものなどもいると言われている。 司書室棟への立ち入りは、特に制限されていないため、ロストナンバーの中には、親しい司書を訪ねるものもいる。あるいはまだ不慣れな旅人が、手続き書類の持って行き場所がわからずに迷い込むこともあるかもしれない。 司書室の扉には名前が掲示されているから、そこがなんという司書の部屋かはすぐにわかる。 ノックをして返事があれば、そっと扉を開けてみるといいだろう。 たいていの司書たちは、仕事の手をとめて少し話に付き合うくらいはしてくれるはずである。あるいはここから、新たな冒険旅行が始まることさえあるかもしれない。 司書室とは、そういう場所だ。 鼻先をくすぐるのはハーブの匂いだ。扉を開けるとすぐに、ハーブの匂いがやわらかく漂い空気を満たす。それにまぎれこむようにコーヒーの香りが部屋の中に広がっている。 透明な器の中で揺れているオレンジ色の小さな灯火はロウソクによるものだ。ほのかな薄い闇の中、静かに流れてくるのは弦楽器の音。部屋の隅に置かれた蓄音機から流れだすその音は、静かに静かに、部屋を満たす芳香をおびやかすことのない程度に空気を揺らす。 お邪魔します。そう声をかけてみれば、部屋の奥――一郭を覆い隠すようにはられた天幕の向こうから顔を覗かせたのは、銀髪にモノクルをつけた司書ヒルガブだった。ヒルガブの首に巻きつく有翼の黒い蛇が来客を珍しげに見据えている。「すみません、今はあいにくとお渡しできるチケットも特になくて」 言った後、ヒルガブはふわりと笑んだ。「……なんて、だからすぐにお帰りくださいというのも野暮な話ですね。ちょうどコーヒーを淹れたところです。よろしければご一緒にいかがですか?」 ●ご案内このシナリオは、世界司書ヒルガブ の部屋に訪れたというシチュエーションが描かれます。司書と参加者の会話が中心になります。プレイングでは、・司書室を訪れた理由・司書に話したいこと・司書に対するあなたの印象や感情などを書いていただくとよいでしょう。字数に余裕があれば「やってみたい冒険旅行」や「どこかの世界で聞いた噂や気になる情報」などを話してみて下さい。もしかしたら、新たな冒険のきっかけになることもあるかもしれませんよ。
数度のノックをしてから数拍の間をあけて、司書室のドアは開かれた。 流れ出て来たのはハーブやアロマに類するものであろうと思しき香りを含んだ空気。次いでドア向こうから顔を出してきたのは有翼の黒蛇だった。 驚き、目を瞬かせた司馬ユキノに代わり、連れているドッグフォームセクタンのカリンが黒蛇に向けて何度か威嚇の声を放つ。が、黒蛇はうっそりとした眼でカリンを見下ろすばかり。 「お待たせしました」 言いながら現れたのは、その黒蛇を首に巻いた銀髪の男だった。モノクルの奥の目は穏やかな彩で染められ、ユキノの姿を見とめてゆるゆると微笑む表情は、眼光と併せ安穏とした印象を持っている。 「ええと、すみません。あいにくと、今はお渡し出来るような依頼がないんですよ」 申し訳無さげに肩をすくめる銀髪の司書に、ユキノはふるふるとかぶりを振った。 「いいえ。あ、あの。私、司馬ユキノって言います」 言って、ユキノは上目に眼前の司書――ヒルガブを見上げながら軽く腰を折り曲げる。ヒルガブもつられて会釈を返し、それからふわりと微笑んだまま、続くであろうユキノの次の言葉を待っているようだ。 足もとをウロついているカリンを抱き上げて、ユキノはわずかに視線を移ろわせた後に口を開く。 「受付のひとに、優しい司書さんって誰ですかって訊いたら、ヒルガブさんかなって教えてくれて。……私、相談したい事があって」 受付に座っていた、人の良さそうな中年女性の顔を思い出しながら、ユキノはヒルガブの反応を窺いつつ述べた。 「そうなんですか、光栄です」 ヒルガブはあっさりとそう返し、さらにドアを開けてユキノを招く。 「私でよければ伺います。コーヒーぐらいしかご用意がありませんが、どうぞ中へ」 開かれ、招かれた先。揺らぐ数本のロウソクがやわらかな光だけを光源とする仄暗い部屋が広がっていた。 部屋の隅に置かれた蓄音機が、静かでやわらかな音を紡ぎ、流す。 通されたテーブルは小さめで丸く、置かれた椅子も四つ程度。そのうちのひとつに腰をおろし、ヒルガブが消えていった方に視線を向ける。ほどなく戻って来た司書は、手にしてきた銀のトレイの上からカップをユキノの前に用意した。 「私のところに来てくださる方はあんまりおられないんですよ。なのでお茶うけの用意もろくになくて、申し訳なく」 言いながらトレイの上からミルクピッチャーを砂糖もテーブルに下ろす。 「そうなんですか?」 意外なことを聞いたと言いたげな顔で目を瞬かせ、次いで、思い出したように手土産をテーブルの上に置いた。 「これ、お土産のお饅頭です。よかったらどうぞ」 「お土産、ですか? すみません、ありがとうございます。……ではさっそくいただきましょう」 ヒルガブは穏やかに笑いながらそう言って、包み紙をはずして箱を開ける。中には白と茶の饅頭が収まっていた。 ユキノは、茶饅頭をひとつ手にとって口に運ぶ世界司書を盗み見るようにして見上げ、それからカップに指を伸べて簡易的な礼を言う。自分のカップにミルクをいれるヒルガブの指の動きを見るともなく見つめ、倣うようにユキノのカップにもミルクをいれた。 「私、覚醒して一年ぐらい経つんです」 続いて砂糖を投じ、カップの中のコーヒーをかき混ぜながら、ユキノはわずかに上目でヒルガブを見る。 テーブルの向こう、司書はユキノの言葉を静かに聞いている。目が合うとやわらかく笑った。 「初めて会うのにこんなこと頼んじゃっていいのか分からないし、すごく申し訳ないんですけど」 「私で務まるのならばなんでも」 言いながら顔の前で指を組む。ユキノに話の先を促しているのだろう。 カリンはユキノの膝の上でユキノの顔を仰ぎ見ている。その背を撫でてやりながら、ユキノはそろそろとヒルガブを見やって口を開けた。 「トラベルギアを未だにうまく使えなくて」 「トラベルギア、ですか?」 返された声に首肯を返す。 「私のトラベルギア、カード型で、なんでも許可証、なんですけど」 「なんでも許可証ですか。効力とかは?」 「強制的に相手に言うことを聞かせることが出来る、んですけど」 「強制的にですか。それはそれは……見せていただいても?」 ヒルガブは組んでいた指をほどき、ユキノに向けて手を伸べてきた。ユキノは小さくこくこくとうなずいてから、ポケットからカード型のギアを取り出し、ヒルガブに手渡す。 世界司書はユキノのギアをしげしげと見つめ、感心したような短い息をひとつ吐く。 「本当に色々なギアがあるんですねえ」 「カード型っていうのは見たことありますか?」 「私はこれが初めてです」 お返ししますねという言葉と共に、ギアはユキノに戻された。ユキノは戻されたカードを受け取ろうと手を伸ばしかけて、しかし、思い出したようにかぶりを振った。 「武器型ですとか、そういうのはよく目にしますけれどもね」 「武器かぁ。……これは使うときにいくつか制約があって、一回の旅につき三回までっていう上限つきなんです。あとは物理的・相手の能力的に不可能なことは無理っていうのと、持ち主の世界間移動により効果が切れるっていうことです」 「なるほど、制約がつくんですね。……持ち主が、っていうことはつまり、このギアは対象に持たせなくてはいけないんですね」 納得したようにうなずいたヒルガブに、ユキノもまたこくこくとうなずく。 「ギアを使う練習に付き合ってほしいんです」 「ああ、なるほど。いいですよ」 言って、ヒルガブはユキノのギアを両手で持ち、続くであろうユキノの言葉に耳を寄せる。再びユキノの次なる言動を促しているのだ。 ユキノは小さく息を整え、姿勢を正してヒルガブの顔を見つめた。 「私、今、故郷に伝わる昔話の読み聞かせを練習してるんです。これからひとつお話するので、『しょうじきな感想を聞かせてください』」 カリンの耳がぴくりと跳ねる。カリンの目はユキノの顔を仰ぎ見た後、弾かれたようにヒルガブの顔へと向けられた。 ヒルガブはユキノのギアを持ったまま、静かにユキノの声を待っている。 蓄音機から流れる音がわずかに止んだ。 ◇ 『豆腐とこんにゃく』 昔あるところに、豆腐とこんにゃくがいたったずもな。 ある時、豆腐が棚から落ちて大怪我したんだと。 こんにゃくがそれを聞き、ベッタラクッタラとお見舞いさ行ったと。 「豆腐どの豆腐どの、なんたな怪我したべえ」 って言ったら、豆腐が怪我の所を見せてから、 「お前いいだらや。なんぼ棚から落ちても怪我することねえもの」 って、羨ましがっただと。そしたらこんにゃくが、 「ねえさ、ねさ。おらだって、毎日生きたそらねが」って言ったと。 「何してよ」って豆腐が聞いたらば、 「ほだって毎日『こんにゃくう(今夜食う)、こんにゃくう』って言われるもの。生きたそらなかんべだらや」って言ったとさ。 どんどはれ。 ◇ ユキノの、凛と張った声が司書室の中の空気を揺らす。 語り終えたユキノは冷めかけているコーヒーを口に運び、それから再び窺うように司書の顔を盗み見た。 ヒルガブはユキノの語りが終わったのに小さくうなずいて、それからしばし何事かを考えているような顔を浮かべる。 「そうですね」 ゆっくりと口を開いた司書に、ユキノはカリンを抱きかかえて目を瞬いた。 「壱番世界の、日本という国にある地方の言語、だったように記憶していますが、……率直な感想としましては、私には今ひとつ把握しきれない言語であったようです」 「……え」 「結びのセリフから察するに、おそらくはダジャレのようなものなのでしょうけれども……やり取りの端々にある方言が把握しきれないので、お話の全容も今ひとつ見えず……」 申し訳ありませんと頭を下げたヒルガブに、ユキノはしばしぽかんとした。 つまり、お話の内容の感想以前に、ヒルガブには豆腐とこんにゃくが作中で交わしあっていた言語を解することが出来なかった、というのだ。 ――なるほど、正直な感想だ。 一気に肩の力が抜け落ちる。ユキノはゆるゆると笑った。 「ヒルガブさん、本当に優しそうな人でよかったです」 それに、どこか教師を彷彿とさせるような空気を持っているようにも思う。 ヒルガブからギアを受け取って、ユキノは酒饅頭を手に取った。 「またお手伝いをお願いしてもいいですか?」 「はい、ええと、あんまりお役には立てないかもしれませんが」 申し訳なさげに首をすくめる世界司書に、ユキノは笑いながらかぶりを振る。 「私は正直な感想を聞かせてください、って言ったんです。とても率直な感想を聞けたと思います」 「そうですか」 安堵したように笑ったヒルガブも冷めかけたコーヒーを口に運んでいた。その笑みを見つめ、ユキノははたりと思い出す。 「そういえば、受付の人が”爆発のお祝いをしてあげて”って言ってたんだけど、どういう意味ですか?」 目を瞬かせながら訊ねたユキノに、ヒルガブが思わずコーヒーを噴き出したのは、ユキノのギアとは関係のない効力だったのだけれども。
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