オープニング

 愛しているわ……だからねえ、目を醒まして。
 わたしの大好きな、大好きな、   。


 薄暗く澱んだ、灰色に沈む空に圧迫される。
 太陽は砕け、白濁した光と成って雲に空に縋り付いているだけなのか。無秩序に聳え立ったビルが、今にも落ちそうな空を辛うじて支えている。
 割れた硝子が嵌められた窓から、切り取られたインヤンガイの景色を眺めていた男は、不意に扉が開かれる音に振り返った。
「アンタらが、手伝ってくれる助っ人とか言う奴?」
 回転椅子に腰かけたまま、男は眼を眇めて訪問者――ロストナンバー達を見遣る。片手はコンピュータのキーボードに置かれたまま、もう片方の手で頬杖をつくその様は、とても彼らを歓迎している様には見えなかった。
「報酬出さなくていいンなら、歓迎するぜ」
 口先だけでそう言って、唇の端を捻り上げた笑みを浮かべる。名乗ることすら不要だとばかりに、男――探偵は狭い卓上に資料を広げた。
「知ってると思うけど、今回探してほしいのはコイツだ」
 クリップで資料の右上隅に止められた写真を、指先で示す。色が悪く、尖った顎の、何処となくカマキリを彷彿とさせる男の顔が、そこに映されていた。
「此処、リージャン街区で霊力技師をしてる、マオって男だ。俺の知り合いでな、数か月前にフラッと姿を消してる。奴の妹に探してくれって泣きつかれちまったよ。……兄貴大好きな女なんだ」
 これ見よがしに溜息をつく、その表情からはとても熱意など感じられない。
 もっとも、治安と言う言葉すら存在しない――そう噂される――この街では、人の蒸発など日常茶飯事だ。探偵もそう思って捜査に身を入れなかったらしいが、ここ一カ月で状況が一変してきたのだと言う。
「最近になって、あちこちでコイツが目撃されてンだ」
 目撃されたのなら後は捕まえるだけだ、何も難しい事は無い。安堵に息を緩めるロストナンバーとは対照的に、探偵の顔は険しいまま優れない。
「別に目撃自体は悪いコトじゃねェ。ちゃァんと立って歩いてたらしいしな。……だが、『多過ぎる』んだよ」
 目撃情報が。
 片眉だけを器用に跳ね上げ、探偵は歪んだ笑みを浮かべる。そして、次に彼の指先が指し示したのは、赤く染まった一枚の地図。
「一日に二~三十件、この広いリージャンの至る所で。それがほぼ毎日」
 否、染まっている訳ではない。赤い小さな印が、無数に鏤められているだけだ。――探偵が言うには、これら全てがマオの目撃情報らしい。
「こンだけの場所で目撃されてる。……とても、一人の人間とは思えねェだろ? ……実際、俺も何回か見かけてる。だが、幾ら声をかけても応えねぇし、追いかけてもすぐに消えちまうんだ。まるで暴霊みてェにな?」
 何が楽しいのか、探偵は目を眇めてクツクツと笑った。

 暴霊。――インヤンガイを都市として機能させるエネルギー、霊力。この世界の生命、それそのものの根源でもある力は、時として人の手では抑えきれない事がある。そうして制御しきれなくなった霊力が暴走し、媒体を得て人に害を向ける様になった存在を、『暴霊』と呼ぶのだと言う。
「ダメージを与えて撃退すれば、暴霊は去り、元の物体に戻ります」
 世界司書の言葉が、脳裏に蘇る。
「……媒体としては、動物や器物に取り憑くのが一般的ですが……時折、人間の死体に取り憑く事も有り得る様です」
 起き上がる死体。壱番世界の言葉で言うならば、アンデッドだ。
 怜悧な視線をふと伏せて、世界司書は静かに息を吐いた。僅かの逡巡の後、言葉が継がれる。
「――この一件は、本来ならば行方不明者の捜索の筈ですが……『導きの書』には、無数の暴霊と戦う皆さんの姿が映し出されました。ピエロの様な、人型の暴霊です。……くれぐれも、油断なさらぬよう」

 説明を受けて、探偵から赤く染まった地図とマオの写真を手渡される。街へ繰り出す為に扉を開けた旅人達へ向け、ああそうだ、と探偵が最後の言葉を投げた。
「……最近じゃァ、死体が行方不明になる事件も増えててな。精々気をつけろよ?」
 言葉に振り返る、その暇さえもない。突き放される様にして、軋んだ音を立てて扉が閉じられる。
 振り返る先に広がるのは、無秩序な霊力都市。


 したり、したり。
 コンクリートが剥き出した天井の、罅割れた場所から水が滴り落ちる。冷たいタイルの床にブルーシートが敷かれただけの、簡素で広い空間に――彼らは、並べられていた。
 黒い髪、白い顔、灰色の唇。昏々と眠る男達は誰も、まったく同じ顔をしている。血の気の無い指先は、蝋人形のそれによく似ていた。
 したり、したり。
 無彩色の部屋に咲いた、唐突の赤。
 伏した男達の隙を縫う様に、女は長いスカートの裾を翻して歩く。水の張った場所を踏まぬよう、優雅にすら見える仕種で、裾を抓んで飛び越えた。
 長い衣裳を彩る赤は、所々で乾き褪せた色を晒している。
 徐に歩みを止め、腰を降ろした女は、赤い唇にうっそりとした笑みを乗せた。
「……ねえ、大好きなの」
 並べて寝かされた男のひとりの頬を撫でる。化粧を施されたかの様に白いその肌には、黒い紋様が描かれていた。心底愛おしそうにそれをなぞりながら、灰色の紅がさされた唇に女は顔を寄せる。
「早く目を醒まして」
 そっと重なる影。女が身体を起こして、もう一度その髪を撫でた。

 したり、したり、したり。
 落ちる水滴に、横たわる男の指が震えた。

「誰も、誰も……幾ら弄っても、あなたに似ないのよ――」


品目シナリオ 管理番号221
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメント皆様、こんにちは、またはこんばんは。新米WRの玉響(たまゆら)です。

此方のノベルでは、霊力都市・インヤンガイにて、行方不明者の捜索を行って頂きます。
行方不明となっているのは霊力技師・マオ。探偵の個人的な知り合いの様ですが、人付き合いは少なく、家族も妹が一人居るだけの男です。
幸い目撃情報だけは山の様にあるらしいので、捜索自体には苦労は無いでしょう。
ですが、世界司書が妙な予言を残していますので……油断は禁物です。

それでは、参りましょう。陰と陽の入り混じる、混沌と泥濘の街へ。

参加者
ロディ・オブライエン(czvh5923)ツーリスト 男 26歳 守護天使
コレット・ネロ(cput4934)コンダクター 女 16歳 学生
シュノン(cuwd8925)ツーリスト 女 12歳 狙撃手
アインス(cdzt7854)ツーリスト 男 19歳 皇子
メルヴィン・グローヴナー(ceph2284)コンダクター 男 63歳 高利貸し

ノベル

「『暴霊と戦う』予言に『沢山の死体が消えている』、か」
 濁った灰の空の下、冷徹で美しい声が響く。
 青い髪を風に遊ばせて、アインスは目を伏せ呟いた。世界司書の予言に、探偵の情報。皇子の頭の中で、幾つも伸ばされた線が撚り合わされ、一本の太い糸と成り始める。
「……恐らく私達は『消えた死体に憑いた暴霊』と戦う事になるのだろう」
 メルヴィン・グローヴナーは灰色の瞳を緩め、御手並み拝見、とばかりにアインスの推理を聴いている。――だが、その微笑の奥では、瞳と同じ灰色の脳細胞が目まぐるしく働いているのだろう。
「……しかし、なぜ捜索過程でそんな面倒に巻き込まれなければならないのか……む?」
 かつりかつりと行ったり来たりを繰り返していた足を止め、アインスは勢いよく振り返った。
「――そうか、恐らくマオはしつこい妹に辟易して逃げ出したネクロマンサーなんだ!」
 ぐ、と拳を握る。冷涼な瞳は融けてしまいそうな程の熱を孕み、青い残像を伴って四人へと向けられた。
 常の彼とは思えない程の勢いに、コレット・ネロが一歩、彼から距離を取る。
「ねくろまんさー……とは」
「死体や死霊を操る術に長けた道士の事だよ」
 感情の無い瞳で事の成り行きを観察していたシュノンでさえ、やや気圧されながら疑問を口にした。何処となく楽しげなメルヴィンが、簡潔な説明でそれに答える。
「……では、捜索対象は、魔術を使う可能性が……」
 自らに言い聞かせる様に呟いて、幼い腕が強く抱き締めるのは、彼女には大き過ぎるライフルだ。周囲に視線を走らせて、不審な影の見当たらぬ事を確認して小さく息を吐く。
 明らかにアインスの世迷言を真に受けている様子だが、それを正そうとする者はこの場には居ない。――面子が悪かったと、そう言わざるを得ないだろう。
「そうだ。追っ手である私達から逃れるため、アンデッドを作り出して襲って来るに違いない! 流石は私、何と天才的な推――」
「アインス。子供を騙すな」
 状況を見かね、冷静な口調の中に何処か呆れを滲ませたロディ・オブライエンが呟く。良き理解者であるからこその情けも容赦も無い言葉に、アインスは装っていた情熱をあっさりと脱ぎ去ってみせた。
「とまあ、そういう冗談はともかく」
「……冗談、だった……のですか」
「う」
 冷徹ささえ感じさせる、氷によく似た美貌が揺らぐ。
 見上げるシュノンの無垢な瞳に堪えきれなかったのか、アインスは青の視線を気まずそうに逸らし、一度咳払いをした。
「早速捜索を始めるとするか。まずは目撃の在った場所を巡ろうと思っているんだが」
「そうだな。俺も行こう」
 頷いたロディがブーツの音を高く鳴らし、身を翻して歩き始める。
「コレット、ついてきてくれるか?」
「あ、うん」
 長い金の髪の少女が、皇子の誘いに応じてその背を追う。その様は混沌としたインヤンガイには不釣り合いな程に優雅で、美しくさえ見えた。
 三人を見送り、メルヴィンは傍らの黒い少女に視線を向ける。
「シュノン、君はどうしたい?」
「……対象の、捜索範囲が広い、ので……まずは、依頼主の話を、聞くべきかと」
「そうだね。僕も探偵からはもう少し話を聞きたかったんだ」
 多過ぎる目撃情報に、マオの消失した理由。この事件には、不明瞭な点が多い。
 探偵が意図的に隠しているのか、彼自身も知らないのかは判らないが、関係者から一通り話を聴かねばならないと、メルヴィンも考えていた。
「では、行こうか。シュノン」
「はい」
 老紳士の招きに応じて、狙撃手の少女は身を翻した。
 先程閉ざしたばかりのドアを潜れば、窓の向こうを眺めていた、部屋の主が億劫そうに振り返る。


 胸の前で両手を組み合わせ、瞳を閉じたコレットが深く息を吐いた。
 鈍色の街を駆け抜ける風に長い金の髪が靡いて行く様は美しく、神々しくさえ感じられる。濁り澱んだ空気に浸された街角には、白と金の少女は清廉に過ぎた。
 無言で彼女に見惚れるアインスを放って、ロディは探偵から渡された地図を開く。口の中で転がしていた飴が小さくなっている事に気付き、軽く歯を立てて噛み砕いた。
 平面上に広がる街は赤く染まり――その鮮烈な色彩は、現実さえも侵食していく様で、微かに寒気が走る。
「あ」
 新たな飴を探そうとポケットを探る彼の耳が、コレットの小さな声を拾った。
「見つけたか?」
「うん、クルミが視たの。大きな建物の近くで、マオさんを」
 アインスの問い掛けに、要領を得ない言葉でコレットは答える。緑の瞳は開かれ、何処とも知れない虚空を見詰めていた。
 クルミ――オウルフォームを取ったコレットのセクタンが、上空からリージャンの街を探っている。ミネルヴァの眼で視覚を共有するコレットはそちらに気を取られている様だ。
「どんな建物だ?」
 ロディの開いていた地図をアインスが覗きこみ、冴えた青の視線は的確に、地図上の赤い点の上を滑って行く。
「この近くで大きな建物と言うと、病院か映画館か、廃倉庫があるが」
「多分、病院……だと思う。白いから」
 インヤンガイと言う街は彼女の知る世界とは文化が違う為に、断言は出来ない。病院の目印である、あの赤十字さえ、この街には無いのだ。
「病院か、行こう」


 振り返った探偵の不躾な眼差しにも動じず、メルヴィンは小さく会釈を返す。未だ何かあるのか、と不機嫌な声が投げられる前に、「もう幾つか、訊きたい事があるんだ」と先手を打った。
「もう充分説明したろ」
 予想していた通りの不機嫌な声ながら、探偵は彼の向かいに置かれたソファにふたりを促す。
「肝心のマオについて、ほとんど訊いていなかったからね。……まず、霊力技師とはどういう仕事なのか、聞いてもいいかな」
「何、アンタら知らねェの?」
 片眉を跳ね上げた探偵が、初めてコンピュータから手を離して問い返した。信じられない、とその顔が雄弁に語り、信じらんねェ、とその歪んだ唇が呟く。
 ――探偵は、彼らが霊力都市の住人でない事を知らない。霊力と言う概念、それそのものが存在しない世界がある事さえも。
 そろり、とシュノンが窺う様な視線をメルヴィンへ向けた。老紳士は慌てる素振りすら見せずに、悠然と脚を組む。
「この世界は広い。僕達が知る霊力技師と、君の知る霊力技師が同じ職業を指すとは限らないだろう?」
「……あァ。そりゃ、確かにそうだ」
 背凭れに身体を預け、天井を見遣る。彼らにとって当然の様に存在する職業だからこそ、どう説明をしたものか考えあぐねている様だ。
「知っての通り、このパソコンやらあのテレビやら、全ての霊力機器は霊力を利用して動いてる」
「……パソコン」
 探偵には聞こえぬよう、――けれど、隣に座るメルヴィンには届く程の声量で、シュノンがぽつりと呟く。初めて見る機器に興味を持っているのか、時折そわそわと周囲を見回す様は、年相応で微笑ましい。
「それを作ったりだとか、メンテナンスしたりだとかする奴らを俺達はまとめて霊力技師って呼んでんだ」
「ふむ……霊力のプロフェッショナル、と考えていいのかな」
「まァ、カッコよく言えばな」
 投げやりな答えにもメルヴィンは頷いて、顎に手を宛てて考える。インヤンガイの生命そのものが持つエネルギーを操る、霊力技師。霊力が暴走した結果生じる暴霊との関係は、何処に在るのか。
「……最後に、マオの妹が住んでいる場所を教えてもらっても?」
「何でまた」
「話を聞きたいんだ。彼女の名前は?」
 先程受け取ったばかりの地図をテーブルに広げれば、至極億劫そうにしながらも探偵は立ち上がり、ペンで印を書き入れた。鏤められた赤の中で一点、青が鮮やかに引き立つ。
「マオ」
「……それは、兄の名、ではなく……ですか」
「兄もマオなら、妹もマオだ。この街じゃ別に珍しい事じゃねえ」
「音が同じでも、文字が違うのだろうね」
 メルヴィンもシュノンも、表語文字に馴染みの薄い文化の人間だ。音では無く文字そのものに意味を持たせる事にピンと来ないのも無理はない。
 ついでとばかりに兄妹の名を望めば、探偵は微かに眉根を寄せた後、「昴」「茅」と二つの青い文字を書き連ねた。
「便宜上、オレ達はシャオマオって呼んでる」
「なるほど」
 シャオマオ――小さなマオ。兄と同じ名を持った妹は、果たして兄をどれほど愛していたのか。
「……あいつの為にも、マオが無事で居りゃァ良いンだがな」
 与えられた情報を直ちに吟味し始めるのは最早癖の様なもので、そうなると探偵がぽつりと落とした呟きすら鼓膜の隅に引っ掛かるだけだ。
 見かねたシュノンから声が掛けられ、硝子玉の様な黒い瞳に見上げられて、はたと我に返る。
「……君の持つ情報は、本当にこれで全てかい?」
 目の前で剣呑な眼差しを向ける探偵の、その向こう側に薄暗い靄を見る。
「どう言う事だよ、そりゃァ」
「あくまで隠し通すつもりなら、僕が言ってあげよう」
 ――それを暴かねばならないと、彼の『灰色の脳細胞』がそう、告げていた。

「無事で在れば良い――その言葉は、嘘だね?」


 病院の周囲を廻ってみても、マオの姿どころか人一人見当たらない。
 矢張り、発見した後に移動するのでは、どうしても間に合わない様だった。――考えてみれば、目の前でマオを見付けた探偵が見失った程だ。脚で彼らを追い掛けるのは難しい。
「コレット、マオは今どこに居る?」
「あ……ううん、消えちゃった」
 虚空を見詰めていた彼女は、ゆるりとロディを見、首を横に振る。訝しげに眉根を寄せ、ロディは再び地図に視線を落とした。彼らが今居る病院の近くには、殊更赤い点が多く散っている。
 コレットが監視を怠った訳ではない。文字通り、男が『消えた』のだ。
 折れた標識の在る四つ辻を曲がる所までは、確かに視た。だが、それを追ってクルミが辻を曲がった時には、既にマオの姿は無かったのだ。次の角を曲がる程の時間は無い。リージャン街区は混沌としているが、その通りは閑散としていて、身を隠せる様な廃材も見当たらなかった。
「……恐らくは、探偵もそうしてマオを見失ったんだろうな」
 答えを求めていないアインスの呟きに、けれどロディは頷いた。アインスはちらりと視線だけをロディに寄越し、赤い点が鏤められ、色付いた地図を指先で叩く。
「不自然な数の目撃証言から考えると、マオは何体もの偽物が存在すると思われる」
 とても、ひとりの人間が動き回れる量ではない。
「まさか、どこかの劇団の連中が酔狂でマオの化粧をして出歩いているとも思えないし……」
「世界司書の予言と照らし合わせて考えると、目撃されているのは『死体に取り憑いた暴霊』である可能性がありそうだ」
 顎に手を宛てて思案に耽るアインスの推理を、ロディが受け継いだ。青き皇子は首肯だけで賛同を示す。
「マオさん、死んじゃったの?」
「いや……死体が行方不明になる事件が増えている、と探偵が言っていただろう。恐らくは、それだ」
 マオ自身がどうなっているかは、ロディにも未だ判らない。だが、徘徊している『マオ』の殆どが偽物であろう事は、見当がついている。
「……もし、」
 コレットの緑の瞳が、不安に揺らぐ。
「もし、たくさんのマオさんが暴霊さんだったとしても、誰かが意図的に作らないと、同じ顔をした暴霊さんは出てこない、よね……」
「態々その男に似せている、と言う事か……だが、何れにせよ結論を出すには早い」
「……大量のマオを収容する場所が、必要だな」
 地図を目に焼き付けて、アインスは青い瞳を静かに閉じた。自らの意識、自らの心を削ぎ落として、街に漂う感情を読み取る。
 霊力の影響か、この街には人とは違う、微弱な意思の様なものが感じられる。それらと人間の感情とを選り分け、更にそのどちらでもない、何かを探した。
 大量の人間を収容する、大きな建物。病院には生者と死にゆく者の昏い感情が混ざり合い、映画館には粘着いてはいるが活気ある生者の意識で溢れている。二つの選択肢が消え、残るはあと一箇所だ。
 廃倉庫へと向かおうとしたアインスの意識を、鋭い声が引き戻した。
「マオ!」
 鈍色に沈む路に、守護天使の声が凛と透る。
 色を持たぬ男が、彼らの眼の前を虚ろに歩いて行く。
 名を呼ぶ声を聞き留めた様子は無く、夢遊病者の様に、左右に身体を揺らしながら脚を進めるのみ。濁った色の瞳が何を見ているのか、それすらも定かではない。
 浮遊するかの様な不安定な動きを呆然と見守っていたロディは、弾かれた様に脚を出した。アインスの咎める声と、コレットの縋る声がしたが、此処で男を見失うのは得策ではない。向こうが彼らを知覚出来ていないのであれば、意図的にまかれる事も無いだろう。
 金の髪を揺るがして、その不気味な後姿を追い掛ける。


「嘘だね?」
 静かな糾弾の声にも、探偵は変わらぬ剣呑な顔で応える。瞳に灯る光は暗く、何も映すまいとしているかの様に、メルヴィンには見えた。
「探偵」
「イェンだ」
「では、イェン。君は嘘を吐いている」
 遠く離れた的をも射抜き貫く様な、惑いの無い指摘。だが、それにさえ彼は動じない。その様子に何かを隠そうという意志は窺えず、だが、進んで語ろうとも思っていないようだ。――言葉にする事で、それが真実となる事を畏れているかの様に。
 だからこそ、メルヴィンはその心の内を見通し、代弁する。
「君はマオがもう生きていないと知っている。だから、彼の捜索を真面目に行わなかったのだろう?」
「……」
「ですが……こうして、依頼を」
 たどたどしい疑問が、隣に座る少女から投げかけられる。メルヴィンは彼女へと視線を向けて、ひとつ頷いて見せた。
「そう。……彼が本当に解き明かしたいのは、『死んだはずのマオが街中を徘徊している』と言う現象の方だ。そうだね、イェン?」
「……参ったね。最初から気づいてたンだな」
 呟いて、長く息を吐く。諦観の滲んだ表情で笑い、顔の前で手を振った。黒き老紳士は、微笑んでそれには応えない。
「どうして、彼が死んだと?」
「そりゃモチロン、見たんだよ。死体を。――ただ、一瞬だけで、すぐになくなっちまったけど」
「その時、君の他に誰がその死体を見ていた?」
「シャオマオだ。……そういやァ、あいつもはっきり兄貴の死体を見てたんだな」
 考え込む探偵を、シュノンの黒い瞳が静かに見上げる。
「それでは……今回の目的は、『霊力技師の発見』ではなく、『現象の真相究明』と言う事に……なるのでしょうか」
 幼い声が淡々と、訥々と言葉を紡いだ。依頼の内容を言葉にして確認を取る事は、彼女にとり大切な儀式の様なものなのだろう。
「ああ。頼めるか?」
 探偵は頷き、応えた。少女の人形さながらの濡れた黒い瞳に、感情の光は覗かない。
「……それが『仕事』であれば」
 彼女はただ、それを遂行するのみだ。


 したり。
 したり、したり。

 落ちる水滴の音だけが、壁に跳ね返って響く。シートに溜められた雫は下に敷く色を映して青く、また一雫、波紋を描いて揺らいだ。
 廃倉庫の内部には何も無く、剥き出しのコンクリートの壁と床、罅割れた天井だけが晒されていた。
 立ち尽くす誰もが、言葉を発せずにいる。
 開かれた扉が音を立てて揺らぎ、青い地面に薄い影を残す。
 犇めき合うようにして横たえられ、眠る男達は、指先ひとつ震わせる事も無い。
「此処、か……」
 我に返ったロディの唇から、押し殺した声が零れる。口を手で抑えて震えるコレットを、一歩進み出たアインスが片腕で庇った。
 白いスーツの膝を着き、入口付近で眠る男の一人を検分する。首筋に宛てた掌に、生の脈動が伝わって来る事は無い。服の裾や襟から覗く男の肌はロディの身に纏う服よりも白く、血の気を喪った青い色すらも見受けられない。
 髪は肌とは正反対に黒く、それだけがこの街の住人が持つ色彩をしていた。唇には灰色の紅が引かれ、閉ざされた瞼の下、頬骨に当たる位置には、黒で五角の星が描かれている。
 目覚める様子さえ見せぬ男達は、どれも皆、同じ顔をしていた。
「マオさん……ピエロ、みたい」
 塗られたかの様な白い肌に、滑稽な黒い化粧。
 アインスの背後から男を覗き込んだコレットが、呆然と呟いた。
「ピエロの姿をした、無数の暴霊――死体に、取り憑いた?」
 世界司書の予言と、数刻前の己の言葉とを、アインスは反芻する。彼らの眼下を埋め尽くすのは、無数のピエロ、無数の死体。

 したり、 したり、 した――。
 天井から滴り続ける水が、不意に絶えた。

「――退け、ロディ!」
 アインスが鋭い警告を発したのと、真白な手がロディの右脚を鷲掴んだのは、全く同時だった。


 広いリージャン街区の中でも、その区域は特に光の差し込まぬ、湿った臭いを伴った場所であった。鉄板の張られた階段を昇る度、錆びた悲鳴に似た高い音が上がる。
 扉の傍の壁には幾本ものコードが走り、天井や床に広がるその様はまるで糸の巣の上に構えた蜘蛛が脚を伸ばしている様だ。
 時折青白い燐光を走らせるそれが向かう先を目で追い、シュノンは微かに首を傾げる。ほのかに光る青が霊力だと言う事は想像に難くないが、何しろ彼女の世界では馴染みが無かったものだけに、幼い彼女の好奇心は抑えられなかった。
 対峙した扉を静かに観察して、メルヴィンは片手を上げる。住民の名を示す筈の表札は剥がれ、既にその意味を為していない。
 緩く握った手の甲で二三度扉を叩けば、直ぐに応(いら)えが返った。
「はい」
 足音が聴こえたと思った後、ドアノブが独りでに廻り、内側から扉が開かれる。立てつけの悪いベニヤ板が、軋んだ音を立てた。
 中から姿を見せたのは、小柄なひとりの女。長いスカートの黒い裾が、吹き込む風にひらりと揺らぐ。
「こんにちは」
 会釈を一つし、微笑むメルヴィンに、彼女もまた微笑をもって応えた。
「僕はメルヴィン・グローヴナー、こちらはシュノン。探偵……イェンの知り合いでね。君は、シャオマオで合っているかな」
 卒の無い自己紹介をこなしながらも、老紳士の怜悧な灰色の視線は女の向こう側、彼女の部屋を走る。入口から覗く限りでは、別段事件に関係の在りそうな物は窺えなかった。
 女の視線が、小柄なシュノンへと向けられた後、メルヴィンへと戻される。
「ええ。……イェンの、と言うことは……兄さんの?」
「そう。その件で、幾つか君に――」
「まあ!」
 頷いて答えた途端、女は表情を綻ばせた。拭いきれない違和感に、メルヴィンは眉を顰める。
 女の顔に浮かぶ笑みは陶然としていて――とても、兄を喪って塞ぎ込む妹の浮かべる顔では、ない。
「そう、やっと起きてくれたのね!」
「……起き、た」
 感情の籠らない声が、女の言葉を復唱する。だが、その表情に何も浮かばなくとも、彼女が探偵の説明と女の言葉の食い違いに戸惑っているだろう事は明白に見て取れた。
「待ってくれシャオマオ。『起きた』とはどういう事だい?」
「霊力技師は……行方不明に、なったはず」
 女はきょとんとした顔で二人を見、首を傾げた。その仕種は、実際の子供であるシュノンよりも幼く、薄気味が悪い。
「兄さんは居なくなってなんかいないわ。眠ったまま、目が覚めないだけなの。……私が幾つ身体を用意しても、駄目だったのよ。どれも違うって、言われた」
 不意に背筋に寒気が走り、シュノンは抱えたライフルを強く抱き締めた。その原因が何処に在るか、幼い彼女には判らないが――ただ、目の前のこの女からは、得体も知れない何かを感じる。
「……なぜ?」
 メルヴィンの口から、問いが零れる。
「いや……君は、お兄さんをどう思っているんだね?」
 衝撃が去ってしまえば、彼の脳裏を占めるのは、女が狂う程の執着を抱く、その理由についてばかりだ。
 愛する兄の話題を振られたからか、女の表情がぱっと輝く。綻ぶ様な華やかな笑みは、矢張りこの事件には似つかわしくない。
「大好きよ」
 紅い唇から零れる言葉も、甘く蕩ける様だ。
「愛しているの。私の、たった一人の兄さん。……あの人の為なら、私は何だってするわ」
「――死体の顔を、造りかえる事も?」
 メルヴィンが慎重に発した言葉に、女は緩やかに頷いた。
「ええ。……だって、身体はダメでも、心は生きているんだもの。代わりの身体が在れば、きっと目覚めてくれるでしょう?」


 デス・センテンスが火を吹き、ロディの脚を掴んだ男の腕を雷撃が打ち砕く。
 白い手は枯れ木か苔玉の様にあえなく弾け、衝撃で男の身体が吹き飛んだ。悲鳴の一つも上げぬ男は、倒れ込んだまま容易く動きを止める。
「マオさん!」
 男に駆け寄ろうとしたコレットを、アインスが庇う様にして引き留める。
「それはマオじゃない、ただの暴霊だ。それよりも、私から離れるな!」
 油断は出来ない。もしこれが司書の予言の通りなら、一人だけで終わる筈がないのだから。
 左腕でコレットを護ったまま、小型の銃を取り出して、右手に構えた。
 アインスの危惧通り、横たわっていた男達が、次々とその身を起こし始める。――白い顔に表情が浮かぶ事は無く、蝋人形に似たピエロは、呻き声一つ上げずに三人へと殺到した。
 迫る白と黒を、炎と雷とが穿つ。
 背に三対の翼を発現させ、ロディが天井近くへと飛び上がる。祈りにすら似た優美な仕草で右手を滑らせれば、虚空に滲み出た稲妻が幾つも矢の形を取り、起き上がったばかりのマオの胸を貫いた。間髪入れずに、上空から裁きの雷撃を降らせ続ける。
 アインスは入口から離れず、コレットを護る様に立ちはだかる。銃を持った手首を翻して、弾丸を数発バラ撒けば、放たれた炎は不規則な軌道を描いて暴霊へと襲い掛かる。
「……どうして」
 その背中で、コレットは武器として選んだ木の棒を握り締めたまま立ち尽くす。呆然と、事の成り行きを眺めている事しか出来ずにいた。
 この沢山の暴霊は、マオではない。
 そう判っている筈なのに、マオの顔をしていると言うだけで、コレットには彼らを傷付ける事は出来なかった。
「マオさん……本当に、死んじゃった、の……?」
 震える声でそう呼び掛けても、モノクロのピエロ達からの応えは無い。


 トラベラーズノートのページを開く。
 数瞬前までは確かに白紙であったその紙面に、踊る様に、滲み出す様に、走り書きの文字が浮かび上がった。
「……ふむ」
 背の低いシュノンからは、そのノートに何が書かれているか読み取る事は出来ない。だが、その必要も無いと、彼女は思っていた。今の彼女は、同行者――メルヴィンの意思に沿って行動すると決めている。
 ノートを閉じて、灰色の視線が再び女へと向けられる。
「来たまえ。何が起きているか、見せてあげよう」


 上方へ攻撃する術を持たぬ相手に、攻撃を降らせ続ける。
 それは一方的な殺戮の様にも思えたが、ロディは構わず上空に留まり続けた。雷矢がマオの胸を貫いて、雷撃がマオの肩を砕く。それでも次から次へと起き上がる死体の数は一向に減らず、焦燥から一つ舌を打った。
 攻撃の手を休めている暇などは無い。次の雷を喚び出して、地上の二人へと迫る集団に向けて振り降ろした。
 鋭い青の矢が死体の腕を穿ち、小さく弾けた火花を狙ってアインスの放った炎の弾丸が抉る。赤い焔の舌は瞬く間に勢いを増し、無彩色の身体を呑み込んだ。
 倒れ伏し、炎に悶えるマオを踏み躙り乗り越えて、新たなマオが歩み寄る。表情の無い顔はただ虚ろで、見開かれた瞳はただ穿たれた穴の様にさえ見えた。
 迫り来る虚無。確かに死の匂いを感じさせるそれは恐ろしく、――だが、怯えてばかりではいられない。
「マオさん!」
 コレットは庇うアインスの手を振り払い、駆け出した。護られているだけでは、足を引っ張っているだけではいけない。彼女だって、戦う覚悟をしてきたのだから。
 悪い霊に取り憑かれているのであれば、救いたい。ただその一心で、木の棒をマオの一人へ突き付けた。
 だが、虚ろな黒い目は、それに動じる事すらもない。硬直した白い腕を振り上げて、震え、立ち尽くす少女へと落とす。
 死体の指に伸びた爪は、濁った灰色だ。
「――コレット!」
 強張る腕が、背後から強い力で引き寄せられる。
 バランスを崩して背後へ倒れ込む、その視界に、青い髪が躍るのだけが、はっきりと視えた。

 飛び散るのは、鮮明な赤。

 抉り取った肉片が指先にこびりつき、その部分だけが鮮やかな赤に色付く。モノクロのピエロは眉一つ動かさずに、もう一度腕を振り上げた。
 天井から鋭い雷矢が落ちて、暴霊の腕を叩き落とす。
「アインス、無事か」
 三対の翼を背に仕舞い、守護天使がアインスの傍に舞い降りた。硬直していたコレットも慌てて駆け寄れば、血の滲んだ顔を上げ、皇子は気丈に笑ってみせる。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「心配要らない。名誉の負傷だ」
「……格好つける余裕があるなら、大丈夫だな」
 傷を癒そうと展開したライフスティールを解き、呆れた様にロディも頬を緩めた。
 血を流しながらも危なげなく立ち上がり、再び銃を握り構える。翼を再度広げた天使が軽やかに飛び立ち、雷矢を虚空に描き出して――しかし、動きを止め振り返った。
 長いスカートの黒い裾が、緩やかに翻る。
「……兄さん?」
 扉の傍に呆然と立ち尽くす女が、起き上がる死体を眺めて呟いた。
「どうして、起きて……どうして」
 うわ言の様に繰り返して首を振る女が、一連の事件を引き起こしたマオの妹、シャオマオであると、三人は直ぐに思い至る。
「何で……兄さん……」
 ――女には、彼らを暴霊に変えるつもりは無かったのだろう。
 立ち上がる無数の死体の動きが、一斉に制止した。
 同じ顔の男達を掻き分ける様にして、また同じ、白と黒の男が姿を見せる。だが、その男は、それまでの死体とは明らかに、何かが違っていた。
 左右に身体を揺らしながら、死体が、唇を小刻みに震わせる。ひゅうひゅうと悪戯に風を通すだけであったそれは、何度も繰り返される内次第に、音を伴った言葉へと変わっていく。
「……ぁ、お」
 灰色の唇は、あお、あお、とただそれだけを繰り返す。虚ろな目は彷徨い、白い腕は利かぬ視覚の代わりに何かを探り当てようとでもしているかの様に突き出されている。
 子音までは発せずとも、彼らにはそれが、理解出来た。
 シャオマオ。
「……あれが、本物のマオか」
 デス・センテンスを降ろし、呆然と呟くロディの声を受けて、アインスも銃を構えていた腕を降ろした。
 命を喪って、暴霊として蘇って尚、ただ妹の名を口にする。
 彼ら兄妹の間に、どんな絆が在るのかは判らない。だが、アインスとて、情を理解しない程の冷血漢ではなかった。――護りたいと思う女性が、彼にも居るのだから。
「兄さん、やっと、起きてくれたのね……?」
 夢見る様に微笑んで、長い衣装の裾を翻して女が駆け寄った。
 震える女の指が、蝋細工によく似た頬を撫でる。突っ張られた死体の腕が、激しい痙攣を起こしながらも、曲がっていく。己の名を呼ぶ兄の声を、女はうっとりと聴いた。
 灰色の唇が、静かに歪む。痙攣する頬は、まるで生者のそれの様で――。

 銃声。

 確かに笑みを形作ろうとしていたマオの顔が、頭部ごと、飛散した。
 人の手に触れられた鳳仙花が弾け飛んだかの様な、呆気無い幕切れ。愛する兄の血飛沫を、飛び散る肉片を、至近距離で浴びた女はただ、虚ろな顔で微笑んでいる。
 不意に、糸が切れた様に、血を浴びた女が青いシートの上へと倒れ伏した。咄嗟に降り立ったロディが駆け寄り、抱き上げる。
「妹さん!」
「大丈夫だ、生きている。……意識を失っているだけだ」
 血と硝煙と、生物が腐敗する臭いが、周囲に立ち込める。
「今のは……」
 マオの頭部を違わず撃ち抜いたそれは弾丸ではあったが、雷も炎も纏わぬ、ただの鉛の塊だ。ロディでも、アインスでも、ましてや銃を持たぬコレットでもない。ならば――。
 示し合せた様に、三人は同時に振り返る。
 ヘンリープールの老紳士と、黒い少女が、其処に佇んでいた。
 老紳士は蝙蝠傘を杖代わりに付き、ただ冷めた目で成り行きを見守っている。
 未だ硝煙の立ち昇るライフル――ワンダーランドを構えたままの少女は、静かに銃から顔を離し、感情の無い面(おもて)を彼らへと向けた。
「シュノンさん、……どうして」
 震えるコレットの声が、投げかけられる。幼き狙撃手の瞳は、硝子で造られた人形の眼の様に、何の想いも灯さない。
「これは……『仕事』、ですから」

 死体が死体に戻った、ただそれだけの事だ。そこには何の、痛みも無い。
 なのに、コレットの胸は確かに痛み、確かに苦しみを訴えている。

 ロディの腕の中で眠る彼女は、何処か満ち足りた笑みを浮かべ、瞼を閉じていた。赤に彩られたその表情はおぞましく、けれどあどけない。
「大好きだったのね、お兄さんのこと……」
 目を伏せ、小さく呟きを落とす。
 ワンダーランドを徐に降ろして、シュノンは黒い瞳を彷徨わせた。幼い彼女には大きすぎる銃を、ただ一つのよすがの様に抱え直す。
「……だいすき」
 コレットの言葉が、彼女の小さな心の中で響く。
 愛している、と囁いたシャオマオの声がそれに重なって、まるで歌の様に繰り返される。
 けれど、少女は未だ、その言葉の深さ、美しさ、残酷さ、その全てを知らない。
「……わかりません……」
 当惑から、小さく首を振った。幼い声は、何の感情を表す事も無い。
「私には……わからない」
 ――だが、何の感情も表せないからこそ、その言葉は悲痛だ。
 シュノンの黒い髪が微かに揺らぐのを、メルヴィンはただ目を細めて見つめている。


 シャオマオを引き渡す為に呼び出した探偵は、廃倉庫の惨状を目にして思わず呻き声を上げた。
「何だよ、こりゃァ……」
「見ての通りだ」
 ロディの冷徹な言葉が、探偵の戸惑いを切って捨てる。紫水晶に似た瞳を倒れ伏す無数のマオへ向け、飴を一つ取り出して口に放った。そして不意に、思い出したかの様にアインスを見遣る。
「そう言えば、この件にはネクロマンサーが関与しているんだったか」
「……まだ引っ張るのか」
 アインスの冷たい美貌が歪められ、うんざりだ、と言葉に出さずとも雄弁に語る。ロディはシニカルな笑みをその唇に刷き、言葉を続ける。
「これだけの死体全てに、マオの思念が取り憑いていたとは思い難い。恐らく、彼らはバラバラの意志を持って動いていたのだろう」
 赤い地図を、脳裏に思い描く。時間帯も場所も不規則なその地図は、パターンを見出すことが難しかったが――そもそも、初めから法則など無かったのかもしれない。
「ふむ……古来中国には、出稼ぎ人の遺体に魂を込め、故郷まで送り届ける術があったはずだが」
「みんな、帰りたかったのね」
 祈る様に両手を握り締めるコレットの、長い髪が静かに靡く。彼女のセクタンが小さな羽を羽撃かせて飛来し、その肩に摺り寄る様にして止まった。
「お家に、帰してあげられないかな」
 緑の瞳が縋る様に見上げてくるのに、アインスは小さく頷く。
「大丈夫だ。探偵に任せておけばいい」
「え」
「死体の身元を突き止めるだけだ。専門だろう?」
「こンだけの数を、オレ一人でかよ!」
 吼え猛る獣の如くに天を降り仰ぎ、信じらんねェ、と探偵は呻く。縋るように周囲へと視線を走らせるが、老紳士はただ穏やかに微笑を浮かべ、幼い少女は眉一つ動かさない。
 ただ一人コレットだけが、項垂れる探偵に声を掛けようとしたが――それさえも、先回りしたアインスに制止された。
「私達はこの街区に詳しくないものでな」
「顔も広いお前が適任かと思ったんだが」
 青の皇子の端正な顔に浮かぶ酷薄な笑みは、凍てつく氷の様だ。畳みかける様に、天使が淡々と言葉を繋ぐ。
「だからって、」
「「出来ないのか?」」
 二つの美貌が口ずさむ、冷酷な響き。
 空しい抵抗は、いとも容易く封じられた。

クリエイターコメント五名様、御参加ありがとうございました!

混沌の街を徘徊する無数の暴霊達と、その行方を巡る事件を記録させて頂きました。
字数と物語の展開上、拾えなかったプレイングが幾つも御座いました事を御詫び致します。
ですが、皆様のおかげで無事事件は解決しました。ありがとうございました。

筆の向くまま自由に捏造してしまいましたので、口調、設定、心情等、イメージと違う点がありましたら御伝えください。出来る限りで対処させて頂きます。

βを除けば初めてのシナリオと言う事で、緊張しながらもとても楽しく書かせて頂きました。ありがとうございました。
御縁が在りましたら、また何処かの階層で御逢いしましょう。
公開日時2010-01-27(水) 19:30

 

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