「じゃあ……まあ、よろしく?」「うッス。ガイシャッス」 ロナルド・バロウズと氏家ミチルは闘技場にいた。 白い鉢巻をしめたミチルは、やる気満々で闘志も充分だ。 ロナルドは、外見だけなら可憐で凛々しい美少女、の野生児を見つめて内心に小さく溜息をつく。「まあ……しかたない、よねぇ」 ミチルが稽古をつけてほしいというのをはぐらかしごまかしては断り続けていたロナルドだったが、ことここに至って痺れを切らしたらしいミチルが交換条件を出してきたのだ。「“パラディン”作曲の、ヴァイオリン協奏曲なんてさ……ある意味反則だけど……」 それは、ロナルドが長い間密かに探し続けてきた楽譜だった。 いったいどこで、どうやって手に入れたのか、そしてロナルドが探していることをなぜ知っていたのか、ミチルはそれを渡す代わりに稽古をつけてくれ、と言い出したのだ。 正直言って、あまり気乗りはしない。 戦うわざを磨くということは、今以上に激しい戦いに身を置くことにもなりかねず、チャラい男を演じつつも実は思いやりがあり細やかな気遣いの出来るロナルドが、自分より頑丈な野獣を相手に心配するだけ無駄だと知りつつ躊躇っていたのは当然でもあった。 が、しかし、「まあ、それに、たまには身体を動かさないと太っちゃうしね」 楽譜という餌と、どうせここで断っても懲りずにまた頼みに来るのだろう、という若干の諦観もあって、ロナルドは自分の中で適当に妥協し、受け入れたのである。「あ、そうなんスか。それってつまり、ロナルドさんのダイエットに付き合うってことッスよね。じゃ、オーナーについても聞かせてほしいッス。等価交換ってやつッス」「えええ、何それ汚くない!?」「汚くないッス。一点の曇りもなく清らかッス」「うん、自分で言ってる段階でもう清らかじゃないからね! ミチルくんだけはそんな子じゃないと信じていた俺の純情返してよもうバカン!」「まあそこはそれッス。女は死角からの超剛速球ストレートで生きるべきだって、自分の尊敬するひいばあちゃんが言ってたッス」「死角からってめちゃくちゃ怖いし超剛速球って当たったら死にそうだしストレートとかひいおばあちゃんハイカラだなってああもう突っ込むとこ多いな!?」 思わず頭をかきむしるロナルドと、オーバーリアクションッスねぇと朗らかに笑うミチル、その双方へリュカオスが戦いの開始を告げる。 ふたりの間に、ピリッとした緊張感と闘志が通った。「はーい。まあ、お手柔らかによろしく?」「うス。こちらこそ……ん?」 不意に言葉を切り、ミチルが不思議そうに周囲を見渡したので、ロナルドは首を傾げた。「どうしたの? ドクの応援でも受信した?」「姫の愛なら常時堤防が決壊するほど感じてるので今さらッス。いや、誰かが見てるような、笑ったような、そんな気がして……気のせいッスかね」「やだ……おじさんオバケとか怖いんだから、脅かさないでよ……!」「オバケを怖がるミディアンてわりとシュールッスね。ロナルドさんて怖がりさんッスか? 子どものころはおねしょとかしてたタイプ?」「繊細と言って、お願いだから! あと幼少時の黒歴史を掘り起こす行為はダメ、ゼッタイ!」 軽口を叩きつつ、互いに身構えた。 そうして、望みのものを得るための戦いが始まる。 ――遠い遠い『どこか』から、ふたりを楽しげに見つめる眼があることも知らずに。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ロナルド・バロウズ(cnby9678)氏家ミチル(cdte4998)=========
1.野獣vs 「心配無用ッス! 股間は狙わないッスから!」 はじめ、の合図とともに拳を打ち合わせ、氏家 ミチルが高らかに宣言する。 「ぶっちゃけもう諦めつつあるけど、うら若いお嬢さんが股間とか言っちゃいけません!」 バイオリンを構えつつ、ロナルド・バロウズは抗議の声を上げる。 黙っていれば闊達で清純な美少女、口を開くと……な、残念仕様の野獣である。抗議するだけ無駄だとも判っているのだが、おじさんというのは実を言うとピュアな夢を持ち続けているものなのだ。それを壊す権利は何人にもない。そのはずだ。そうだと言って。 「えー? そんな細かいこと気にしちゃ駄目ッスよ。神経質な人は禿げやすいって偉い人が言ってたッス!」 「うん、ダイレクトに心抉りにくるのやめてくれるかな、偉い人! 誰にだって護りたい領域はあるんだよ……!」 実は気になってるんだよね生え際、などと真顔でつぶやき、ミチルのペースに乗せられていることに気づいて深々とため息をつく。ミチルのそんなつもりがまったくないぶん、余計に脱力感が増す。 「いや、まあ……とりあえず」 バイオリンを高らかに、抒情的に、情感を込めて演奏し、各種能力を上昇させる。滑らかな絹を思わせる質感の音が、コロッセオをゆったりと満たした。武骨な闘技場も、今日だけ別の会場のようだ。 「……別に、充分だと思うんだけどねぇ」 同じく、『応援歌』で身体能力を上昇させ、気合十分に身構えるミチルを見やって、ロナルドはこっそり苦笑する。 変態先生萌えの野獣少女とはいえ――いや、だからこそ、か――、その愛敬に救われている身としては、あの真っ直ぐさ、純粋さ、そして他者へ向ける思いの熱さ、それらだけで十分だろうと思いもするのだ。何も、わざわざ、『こちら側』へ踏み込んで来なくてもいいだろうに、と。 「いや……それも、傲りか」 ミチルはミチルなりに、真剣に考えたうえでロナルドにこの話を持ちかけたのだ。彼女の中にもたくさんの思いがあって、ミチルが今のミチルになるに至った、経験と感情の連なりがあるはずなのだ。そしてそれらが、彼女に、護りたい、強くなりたいという思いを与えているのだろう。 空気を読まないようでいて読んでいることもあり、読んでいるようでいてまったく読んでいないことも多々ある彼女だが、心の強さは本物だ。彼女が、戦いの深みにはまることで受けるだろう不具合のすべてを覚悟し、それでも強くなりたいと願うなら、ロナルドは同郷者として、年長者として、そして同じ集団に所属した先達として、真摯に応えるのみ。 「OK、手は抜かずに行こう」 リュカオスがいれば、万が一のことがあっても止めてくれるだろうという意識のもと、ロナルドは戦いに備える。 「きれいな曲ッスね。その音楽が全身に沁みこんで、身体を強くしてくれるんスか?」 「さあ、どうかな」 弦を止めると、ミチルが素直な感嘆を載せて問う。 ロナルドは肩をすくめた。 実は、バイオリンを弾かずとも、肉体や精神に干渉し操り、上昇・増幅もしくは減退させるこの力は使用が可能だ。しかしながらロナルドは、自分への戒めとして、また他者を不安にさせないためにも、『バイオリンを弾いているときだけ能力を使う』ことを自分に課している。 「またそうやってお茶を濁す……まったくこれだから大人は困るッス。先生のピュアさを見習ってほしいッス」 「いやまあ大人が困った存在だってのは判るんだけど、ピュアの代表例にドクが出て来るのは釈然としないっていうか判定のやり直しを要求する! ドクがピュアなら世界中の大人の大半は純粋すぎて日常生活に支障をきたすレベルだと思うよ!」 「ええー? ロナルドさんは判ってないッスねぇ……」 「うん、判りたくもないかな!」 ロナルドが、力いっぱい、全力で否定したのと、ミチルが竹刀を構えたのはほぼ同時。 ロナルドが斜めに引くように身構えるのと、ミチルが地面を蹴るのもほぼ同時。 「……全力で!」 少女の凛々しい双眸に戦意の火が灯る。 そこに存在する瑞々しい意志を心地よく思いつつ、ロナルドは最初の一波に備える。 2.視線 わがままにつきあわせて申し訳ない、とは思う。それも、心底。 しかし、この先、不確定な未来の先に、いったい何があるかも判らない。 故郷でのことのみならず、ロストナンバーとしてのもろもろにも。 「役に立ちたいッス」 故郷の、懐かしい、いとしい、大切な人たち。 覚醒して出会った、やさしい人々の、まぶしいほどの笑顔。 ミチルには護りたいものがありすぎる。 大事なもの、宝物が多すぎる。 「……だから」 信じてほしい、と思うのだ。 彼が、決してきれいなばかりではない戦いの場へ、ミチルが深く踏み込むことを案じていると知っている。そういう人だ。おちゃらけているようでいて、いい加減なようでいて、実は、細やかな視線で人を見ている。見守ってくれていると知っている。 その思いをとてもありがたく思う。 同時に、だからこそ心配させたくないとも思う。 ミチルにとってはロナルドもまた大切な人だ。同じ楽団に所属し、同じくディアスポラし、0世界で再会した同郷の仲間だ。彼が心置きなく戦えるよう、強くなりたいという切実な思いがミチルにはある。 未来が不確定である以上、いかなる想定も、備えも、無駄にはならない。 ミチルはそう信じる。 「行くッスよ、ロナルドさん!」 『姫』とは別の意味で大好きな人だが、手加減したまま勝てる相手ではない。 それどころか、全力を出し切ってなお、勝てるかどうかは判らない。 ロナルドは、ミチルより格段に悪魔に近い、側近といって過言ではなかった男だ。こうやって覚醒しなければ、親しく言葉を交わすことすらなかったかもしれない。故郷では、そのくらい距離のある男だった。 ゆえに、ミチルはただ、この機会を活かし、己が研鑽につとめるのみだ。チャンスの女神には前髪しか存在しないと言うではないか。 事実、ミチルは、この対戦を愉しみ、昂揚してもいる。ミチルの中にいる『もうひとり』もまた。 だん、と地面を蹴り、跳躍する。 落下の勢いに乗せて、気合とともに竹刀を振り抜けば、発生した衝撃波が幾重にも連なってロナルドへ向かう。 すっと目を細めたロナルドは、恐ろしい動体視力で衝撃波の道筋を見極め、わずかな動作で回避してしまったが、ミチルにとってもそれは予測済みだ。彼女は、着地と同時に身を低くして再度地面を蹴り、一気にロナルドへと距離を詰めている。 真正面へ飛び込み、ロナルドの意識が正面へ向くと同時に膝のばねを駆使して横へ回り込む。ロナルドがそちらへ向き直ろうとするより早く、更に横へ、後方へと回り込むと、身体を低く落としてロナルドの足を払った。 彼女が後方へ回り込んだ段階で予測していたのか、ロナルドは足払いを跳んで避け、軽いステップとともに体勢を整えると同時に蹴りを繰り出す。戦士であるよりまずバイオリニストであるロナルドだから、手を使わない攻撃に秀でているのは当然かもしれない。 下からつま先を振り上げるように、次に踵を叩き落とすように、それから薙ぐように。 まるで刃のような切れ味を感じさせる速さと鋭さで、そして手を使うのと同等の軽やかさで、重さのある蹴りが風圧を伴ってミチルを襲う。様子は見ていても手加減をするつもりもないことが感じられ、むしろ嬉しくなる。 ロナルドの蹴りを、自らへの『応援歌』で強化した腕や拳を使って受け止め、弾き飛ばす。そのまま脚を掴んでぶん投げようとしたが、感づかれたらしくロナルドは後ろへ跳んで距離を取った。 「ミチルくんってさぁ……ホント、野獣の動きってこういうもの、ってのを体現しちゃってるよね……」 若干残念そうな響きがあるのは気のせいか。気のせいだ。 「お褒めにあずかりコーエイ、ッス!」 「うん、ぶっちゃけ褒めてないけどね!」 突っ込まずにはいられない勢いでロナルドから駄目出しが飛ぶがミチルはまたまた照れちゃってーなどとボケに余念がない。自称ボケのロナルドには辛い状況かもしれない。 「……考えて、試して、『実』にするッス」 遠距離・近距離ともにすぐれた攻撃技を有する相手に、実力や経験で劣る自分が食らいつくにはどうすべきか。それを考えること、実践することは、次の実戦、不確定要素に備えることに他ならない。 若さゆえの柔軟な膝、足首、野生生活で培った強靭なばねと腕力を活かして、トリッキーな動きでロナルドを翻弄する。懐へ飛び込んでのインファイトなら、蹴り技の有効範囲という意味でミチルが有利だ。それゆえ、彼女は、果敢に突っ込んでゆく。 しかし、ロナルドもさるもので、彼女の思惑には気づいているらしく、ミチルが距離を詰めるとスルリとその輪から抜け出るなど、なかなか思い通りには行かせてくれない。 距離を取れば、ギアを駆使して衝撃波を放ち、それを弾幕代わりに目くらましをしてくる。衝撃波で距離感を曖昧にされ、気づけばロナルドに逃げられていることも多い。 右へ左へ、振り回しているのか振り回されているのか、判断がつかなくなってくるが、そのころにはロナルドの真意も読めた。彼は、ミチルのスタミナ切れを誘っているのだ。 「そうはイカの明太子和えッス!」 「ちょ、なにその美味しそうなおつまみ! キューッと引っかけたくなっちゃうじゃない!」 「柚子を少し絞ると、ご飯が三杯くらいは胃袋にすっ飛んで行くッス!」 「ああもう、米食文化万歳!」 なぜかこの場にはそぐわない会話に発展するのもこのふたりならでは。それも、拳を合わせながら、であるから、傍から見れば面白いに違いない。 滑り込んでの足払いをロナルドが跳んで避け、間髪入れず体勢を立て直し、間合いに突っ込んだミチルの腕を軽く捕らえて投げ飛ばそうとするも、ミチルは流れに逆らわずいっしょに跳ぶことで放り出されることを回避した。 ひとつひとつ試すごとに、感覚というパズルのピースが正確な位置にはまっていく。身体への理解が深まり、自分が出来ることへの客観的な判断が正確になってゆく。 そのさなか、ミチルは、『観客』の存在に気付いた。 (あ……また……) 誰かが見ている。 その視線を感じるとき、脳裏によみがえるのは悪魔の忍び笑いだ。 (でも、なんで?) ロナルドの掌打を、軽く身をひねって避け、続けてのひじ打ち、更に踏み込んでの薙ぎ払うような蹴りは後ろへ回転して避ける。 地面に両手をつけてくるりと回り、飛ぶ途中で、倒立の状態で脚を大きく広げたのは、パフォーマンスというよりほぼ無意識、本能に近い。 「ああ、それが噂のY字開脚? ……ドクの胸中を思ったらもらい泣きが止まらんわー」 そこだけは素の声で、ロナルドが目頭を押さえていた。 「いやぁ、なんでか、つい」 デヘヘと笑うと、また視線を感じる。 ほぼ同時にロナルドの目つきがほんの少し厳しくなったのには、何か理由があるのだろうか。 「ロナルドさん」 正面から、横から、斜めから、ロナルドの隙を狙って果敢に、自身が攻撃を受けることを恐れずにさまざまな手を試してゆく。 変なところで甘いというか常識人というか、軽薄を装っていても非情にはなれないロナルドは、決してミチルの顔を狙ってはこない。それが、ありがたくもあり、もどかしくもあり、くすぐったくもある。 「楽団員たちは皆さん、悪魔を『狡猾』だって言ってたッスよね」 「ああ、そうだね。たぶん、全楽団員の共通した認識なんじゃない?」 「……自分、覚醒前後の記憶がないんス。たまに意識が途切れることもあるんスよ……もしかして、彼が?」 「居眠りなんじゃないの?」 「や、それも思ったんスけど。なんか……ちょっと、違うような気も、しはじめてるッス」 「もし彼だとしたら、ミチルくんはどうしたいの」 「――対応策を練っておきたいッス。皆さんに迷惑をかけないためにも」 なぜ悪魔が自分のような末端の楽団員にちょっかいを出そうとするのかは判らないが、もしこれが本当に悪魔の干渉なら、それが仲間たちに与える悪影響を鑑みて、看過は出来ない。 「彼はまだ関わってるんスかね?」 しかし、ロナルドの返答は曖昧だ。 「さあ、どうかな……」 含みがあるのか、それとも本当に知らないのか、判断がつかない。 「それはさておき、どうする?」 一瞬、何を言われたのか判らなかった。 背後にコロッセオの石壁があることを知ったのがその数秒後、巧妙に追い込まれたと気づいたのがさらに数秒後。 もう一歩踏み込まれたら――負ける。 そう思った瞬間、ミチルの身体からすさまじい風が吹き出した。 平均的な成人男性より長身のロナルドが踏ん張ってもこらえきれず、ついには吹き飛ばされてしまったほどの強風が。 「……!?」 何が起きたか判らず、思わず立ちすくむミチル。 視線の向こう側で、ロナルドは、今までに見たこともないような、厳しい顔をしていた。 体勢を立て直した彼の手がギアにかかる。弾けるような、溢れ出すような勢いで衝撃波が放たれる。――すべての手加減を排除した、本気の攻撃だ。いかに頑丈なミチルといえど、当たれば、ただでは済まない。そして、硬直したままのミチルには、それを回避するすべがない。 「……避けろ!」 それは、無意識の攻撃だったのか。 放った後、ハッと我に返ったロナルドは、ミチルの様子に気づいて絶句した。 が、すぐに衝撃波を追い越す速度で十数メートルを跳躍、ミチルの前に立ちはだかると、拳をひとつ揮うだけの動作で、己が放ったそれを吹き散らかしてみせた。 彼から力の波動が伝わってくる。 身体能力を上昇させる力を、自分に幾重にも重ねてかけたらしい。 「あああ……びっくりした。おじさん、寿命が三日ぶんくらい縮んだよ……」 ため息をつく姿は、いつものロナルドだ。 礼を言おうとして、不可解なことに気づき、ミチルは沈黙する。 ――ロナルドは、バイオリンを奏でていなかった。 3.あくまのねがいごと 「ああ……そうだったのか。懐かしいな」 手渡されたそれに、ロナルドは目を細めた。 ミチルはこれを、0世界の不思議な世界で見つけたという。 元の世界で噂を聞き、面白そうだと探していた楽譜だ。そういえば、ミチルの『姫』には話したことがあるかもしれない。 「君か……」 初見殺しと呼ぶのがふさわしい、複雑で超絶技巧ありの曲だ。これを弾きこなせるものは、故郷にでもそう多くはいるまい。 作曲者名はかすれていたが、ひと目で幼馴染の筆跡と気づいた。複雑な思いだが、やはり、嬉しさや喜びのほうが大きい。この楽譜の持つ音楽そのものが、まるで懐かしい友からの手紙のようだ。 「……ロナルドさん」 懐かしく楽譜を見つめつつ、どこか困惑した表情のミチルに、 「役立つ話かどうかは判らないけどさ」 乞われるまま、悪魔について知っていることをぽつぽつと話して聞かせる。 「確かに悪魔は狡猾だよ。でも、音楽を愛する心は本物だった。常軌を逸するほどに、さ。なにせ、芸術を創造できるのは魂を持つ人間のみだからね、もしかすると、俺たち人間を羨んでたかもね」 「羨む、ッスか。どんな願いでも叶えられる悪魔にも、不可能はあるんスね」 「気の毒なことにね。『もし才能を得られるなら何でもする』ってさ」 肩をすくめると、ミチルは一瞬口ごもった。 「あの」 「?」 「……さっきの、って」 「ん? ああ、火事場の馬鹿力ってすごいね。『応援歌』で、周囲の空気まで強化されてたんでしょ、あれ。よっ、さすが野生児!」 もちろん、本当に彼女が訊きたいのが何なのか知っているが、残念ながらそれに応えてやる手立てはロナルドにはない。 「ミチルくんの異変は、たぶん悪魔の影響が抜けていないせいだよ。もしくは、遅い成長期なんじゃない? ここから盛大に脱皮して、ミチルMark-Ⅱとかになっちゃうんじゃないのコレ?」 適当に答えつつ、ロナルドは確信していた。 ミチルの中に、悪魔がいることを。 あの、最終局面での干渉が証拠だ。今回のこの手合せですら、悪魔が仕組んだものかもしれない。碌でもないあの男のことだから、『ふたりをからかって遊びたくて』とか、そんな理由で。 (今、言っても、不安がらせるだけだ) 今や彼らは世界を超えた。 彼に出来るのは覗く程度のはず。以前ほど干渉しては来られないはずだ。 考えて、苛立ちの声を飲み込む。今も、悪魔の視線を感じている。腹が立つのを通り越して、いっそ笑いが込み上げるほどだ。 (お望みなら、楽しませてやる) 今、彼は、悪魔を引きずり出すために行動している。 その方向性が少し具体的になった。 それだけでも成果のある手合せだった、と、ロナルドは楽譜をなぞりつつ目を細める。 ――彼は知らない。 ミチルが、疑惑の眼差しで自分を見ていたことを。 楽器を奏でもせずに能力を発動させ、人間にはありえない動きを見せたロナルドの姿に、悪魔を重ねていたことを。 芽吹いた疑念がいかなるかたちに育ち、彼らにどんな運命をもたらすのか、神ならぬロナルドに知る由もない。
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