太陽が傾き、空が燃える。夕焼けに追い立てられるようにカラスが編隊を作る。カーカーギャーギャーと騒いでいる。 彼らの中を猛禽の影が横切る。オジロワシ……の、怪人だ。 「おっと」 怪人こと村山静夫は軽やかに口笛を鳴らした。 「ケチなもんに手を出しなさんな。坊ちゃん達にゃツヤツヤの羽があるじゃねえかい」 カラス達がひっきりなしに村山のソフト帽をつついている。 黒い群れが去った後には黄昏と静寂が残された。村山の眼下は水田と畑だ。若稲の絨毯がさわさわとそよぎ、農道に沿うようにしてぽつりぽつりと民家が並ぶ。その中にひとつの空き地が横たわっていた。有刺鉄線で囲まれ、立ち入り禁止を示す看板が突き立てられている。 「覚醒して十数年になるロストナンバーの保護……か。どうしたもんかね」 空き地の中央には朽ちかけた引き戸が佇んでいた。金属のサッシにすりガラスという形状は日本家屋の玄関扉といったところか。 と、小さな人影が空き地めがけて突っ込んできた。そのまま鉄線を乗り越えそうな勢いだ。村山は舌打ちして急降下した。 「よしな」 「離せ!」 村山に抱え上げられ、人影――ナウラは手足をばたつかせた。 「勇敢と無謀を一緒にしちゃいけねえ」 「だったら何しに来たんだ」 とナウラが叫ぶや否や、ごちんという鈍い音が響いた。石のように頑丈なナウラが村山の嘴に頭突きを見舞ったのだ。 「何しやが……」 村山は呻きながら嘴を押さえ、ナウラはその隙に拘束を振りほどく。しかし着地の拍子に体勢を崩し、よろめいた。村山が溜息と共に手を差し出す。ナウラはそれを払いのけ、金眼を強気に輝かせながら村山に噛み付いた。 「無謀なんかじゃない。ちゃんと聞き込みをしてきた」 青い稲が囁き、夕闇が煮詰められていく。 この空き地は民家の跡地だそうだ。家は取り壊され、戸だけが残った。戸をくぐると家の幻影が現れるのだという。脱出しようとしてもドアは開かない。そして、疲れ果てた頃にようやく解放される。 「入院している人もいた。だが、内臓にも脳波にも異常なし。数日寝ていれば元気になるとお医者さんが言っていた」 「極端に疲れただけってえことか。一体何が――」 村山はふと言葉を切った。目の前が急激に暗くなったように感じられたのだ。視線を巡らせると、田んぼの中に建つ家々にぽつぽつと灯が入っていくのが見て取れた。暖色の窓に障子と人影が透けている。 この空き地には引き戸しかない。明かりも、息づく住人もない。 「その入院してる人が」 濃くなっていく薄闇の中でナウラは呻いた。 「家から解放される直前、誰かの溜息を聞いたと。誰もいない筈なのに、とても悲しそうな嘆息が聞こえたと話していた」 水と土の香り。味噌や魚の匂いも漂ってくる。子供達の影法師が農道を駆け抜けていった。 ナウラは気負いも見せずに戸をくぐった。続いて、村山も。 ふうっ――と空気が纏わりつく。 「……おいでなすったか」 それは幻影。あるいは、陽炎。半透明の壁、窓、箪笥、ちゃぶ台がゆらゆらと揺れながら村山を取り囲む。 ナウラはぐるりとこうべを巡らせ、すたすたと歩き始めた。 「迂闊に歩き回らねえほうがいいぜ」 村山の声が尖る。しかしナウラはあっけらかんと応じた。 「手を洗わないと」 「あん?」 「それから、うがいも」 ナウラの目の前にすりガラスの引き戸が現れた。ナウラは躊躇なく戸を引き開けるしぐさをし、次いで村山を振り返った。 「村山も。早く」 戸の先には洗面台が待っている。 村山は首を傾げながら手を洗うふりをした。何せ蛇口も洗面台も半透明で、実体がないのだ。戸惑っているうちにナウラは別の部屋へと歩いて行ってしまう。 「喉が渇いたな」 ナウラの声に呼応するように冷蔵庫が現れた。ナウラは「コップは」と呟きながら周囲を見回す。ゆらゆらと、宵闇から溶け出すようにして食器棚が出現した。村山は呆気に取られた。 「どういうこった」 ナウラが行動する度に調度品が現れる。 いつしかぼんやりと明かりが点っていた。天井を仰げば半透明の蛍光灯が揺れている。水を流す音が聞こえる。とんとんとん、包丁がリズミカルに上下している。近所の家の物音だろうか? 村山は舌打ちして戸口に向かった。引き戸は開かない。幻影の窓も同じだ。背中の翼で飛び上がるも、陽炎のような天井は檻のように村山を逃がさない。 「チッ。どういうこった」 もう一度舌打ちする。途端に、密やかな嘆息が降ってきた。 「誰でえ」 弾かれたように振り返る。 密度を増した家の情景がそこにあった。廊下。戸口。台所。日に焼けた畳の香りまでもが漂ってくる。ナウラがちょこんとちゃぶ台の前に座っていた。 「早く。始まる」 ナウラはくそ真面目な表情で村山を手招きした。彼の前にはゆらゆらと揺れるテレビの幻影がある。 「何が始まるってんだ」 「プロレスだ」 「ああ?」 わっ、とくぐもった歓声が飛び出してきた。テレビの幻影がノイズと共に映像を映し出している。ロープの上で拳を振り上げたレスラーが巨体を飛翔させる。歓声の地鳴りが轟く。村山は苦笑いした。 「まるで骨董品じゃねえかい」 映像はモノクロだし、テレビの背部は飛び出しているし、チャンネルはダイヤル式だ。 ナウラはすっかり寛いでいた。チャンネルのダイヤルを気ままに回し、手枕で寝転がる。ナウラの意図を薄々察した村山は彼の傍らで足を崩した。モノクロのプロレスが続いている。サンダーナントカ。ナントカグレート。華々しいリングネームが次々と咲き誇る。 「依頼はちゃんとこなす」 ナウラがふつりと呟く。村山は肯いた。 引き戸の正体は古い家の家守だ。姿は見えないがロストナンバーだという。家族が家から去り、取り壊される瞬間に覚醒してこの世界へ飛ばされ、以後はこの家を守ってきた。 しかしこの家もまた寿命を迎えた。依り代も今や玄関戸しかなく、それすら朽ちかけている。人と関わることもなく、やがて消失の運命に見舞われるだろう。 入った者は家守の望みを考えず、厄介者を取り除けるように戸を壊そうとした。 「一応、家守を保護するってえのが依頼なわけだが」 「もちろん言葉を尽くして説明する。だが決めるのは家守自身だ」 「あたぼうよ。それよりあれだ、腹が減らねえか? ぼちぼち飯の時間じゃねえのかい」 包丁が軽やかに打ち鳴らされる。鍋がしゅんしゅんと煮立っている。いつしか香ばしい湯気が漂い始めた。ナウラは立ち上がり、台所へと歩いて行った。 「今日のごはんは何だ? ……そうか。それはとても……」 途切れ途切れに会話が聞こえてくる。ナウラと一緒に影法師のようなシルエットが揺らめいている。 茶の間に面した窓から唐突にざるが現れた。土の香りを放つざるには曲がったきゅうりにごつごつのトマト、それから小ぶりのスイカ。幻の窓の向こうにはいつの間にか菜園――と呼ぶには大きな畑だ――が広がっている。 「もらった」 戻って来たナウラが素早くきゅうりを奪い取った。土を払ってがぶりと噛み付く。爽快で濃厚な青臭さが花開く。 いつの間にか蚊取り線香が焚かれている。清涼な香りと、子豚の焼き物の口で燃える蚊取りに村山は眦を緩めた。立ち上る煙と一緒にゆらりゆらりと人影が揺れる。半透明の人影はテレビの前に陣取ったり、風呂釜に湯を溜めたり、食器棚から皿を出したりした。 やがて食事が始まった。ナウラと村山、それから大小の影がちゃぶ台を取り囲む。 「いただきます」 ナウラが手を合わせると、微笑のように影たちが揺れた。 食べ物も皿も幻だ。煮物をつつき、味噌汁をすする影たちの傍らで村山はトマトをかじった。皮も実も固い。そして味が濃密だ。 テレビはお笑い番組に切り替わった。ヒゲやカツラで仮装した芸人たちが舞台の上でおどけている。 「ごちそうさまでした」 ナウラがぷうっと息を吐いて足を投げ出した。とれたての野菜をたらふく食べた彼の腹はぽっこりと膨れている。村山は笑った。 「ちっせえ体でよく食ったもんだ」 「うるさい」 「食う子は育つ、ってな。ちょいとこっちに来な」 村山はナウラの手を取った。ナウラは逆らわずに立ち上がった。 柱の前にナウラを立たせ、村山は穏やかに目を細めた。 「おうおう。去年に比べてこんなに伸びやがって」 「去年?」 ナウラの眉が持ち上がる。村山はぱちんとウインクを落とした。 「毎年こうやって背丈を測ってくもんなのさ」 そして猛禽の爪を出し、幻の柱にナウラの身長を刻んだ。 団欒の夜は続く。洗い桶の中で食器が擦れ合う。 窓際に陣取ったナウラと村山は勢い良くスイカにかぶりついた。 「ほんとによく食うな」 ナウラの食欲に村山は呆れ顔だ。 「デザートは別腹というだろう」 「スイカは野菜だぜ」 「果物のような物だ」 ナウラはぺろりとスイカを平らげ、口元に付いた種を手の甲で拭った。 幻の窓の向こうでゆらゆらと蛍が飛んでいる。不可思議に明滅しながら緩慢な軌跡をえがいている。近所の人間が蛍を見に来ているのだろうか、静かな歓声が漂ってきた。蛙の合唱も続いている。 水田を渡る涼風を胸いっぱいに吸い、ナウラは瞑目した。そして再び目を開き、ちょこんと正座をした。 「実は、用があって来た」 虚空に向かってつと顎を上げる。思い思いに過ごしていた影たちの動きがひたと止まる。村山が慎重に口火を切った。 「まあ、なんつーかな……荒唐無稽と思うだろうが、ちょいと聞いちゃくれねえか」 覚醒。真理。世界図書館。消失の運命。自分でも苦笑いしたくなるほど滑らかに村山は説明を終えた。 「ここは貴方の故郷ではないんだ。覚醒によって転移した、別の世界」 ナウラが付け加える。いらえはない。人影たちが戸惑いながら揺れている。 「明日の朝、発つから」 ナウラは静かに、凛と告げた。 「その時に意志を聞かせて欲しい」 肯くように空気がたゆたう。 夜が更けていく。蛙の合唱は囁きに変わり、幻想的に瞬いていた蛍さえも眠りに就く。 さらさらと流れ込む夜風の中で村山はぼんやりとテレビを眺めていた。 「晩酌でもしてえところだが。ポン酒持ってくりゃ良かったか」 短くなった蚊取り線香がほろりと落ちる。 ナウラは別室で就寝した。茶の間のテレビは白黒の映像を流し続けている。クイズ番組だろうか、張りぼてのシルクハットをかぶった男女がスイッチ付きの席にかじりついている。七三分けに太眉の男が問題文を読み上げ、フリルブラウスを着た女が濃い色の唇で笑う。スタジオのセットも呆れるほどに古い。 この家はこの時間を生きてきたのだ。 村山はテレビの前を離れ、玄関へ向かった。古い戸にそっと触れる。何もかもが幻の家の中でこの扉だけが実体を備えている。 「残ったのはこれだけか」 空気が震える。 村山はふっと口元を緩めた。 「これがちゃんと残ってるってえことよ」 その時、名状しがたい悲鳴が響き渡った。ナウラだ。 村山はばたばたと茶の間に駆け戻った。手洗いにでも起きたのだろうか、ナウラが今にも崩れ落ちそうな姿勢でテレビの前に立ち尽くしている。 「おい。しっかりしろい」 肩を掴んで揺さぶると、ナウラは青くなったり赤くなったりしながら何度もテレビを指差した。 「は、破廉恥! 変態! 村山は最低だ!」 「何のこっちゃ」 『サービス問題でえす。頑張ってねえん』 ブラウン管の中で、お色気バニーガールがプラカードを掲げていた。 白い朝日が差し込んで、味噌の香りで目が覚めた。しかし匂いは幻だ。村山たちの前に出された味噌汁も相変わらず幻影だった。 「ホッとする」 しかしナウラは律儀に汁椀を抱えるしぐさをした。 髪を梳き、身支度を整え、玄関に向かう。 「じゃあ……」 靴を履き、天井に向かって声をかける。いらえのように空気が揺れた。ただ、それだけだった。 「そうか」 ナウラの瞳が睫毛で翳る。 しかしそれも一瞬だ。ナウラはすぐに顔を上げ、静かに微笑んだ。 「今までありがとう。行ってきます」 玄関扉に手をかける。 幻の家は、二人を抱擁するように溶けながら消えた。 日常が戻ってくる。眠そうなサラリーマンをランドセルの子供達が追い抜いていく。錆びたバス停に路線バスが停まり、セーラー服の女学生がポニーテールを弾ませながら乗り込む。さらさら、さわさわ。若い稲がカーテンのようにそよいでいる。 空き地には古い戸の残滓だけが横たわっていた。 ナウラが戸を拾い上げた途端、劣化したガラスが抜け落ちて割れた。サッシもぼろぼろと折れて潰えていく。ナウラは破片を丁寧に拾い集め、そっと胸に抱いた。 「貴方の役に立てただろうか。そうなら嬉しい」 世界が変わっても家守は家守だった。この家は家守の家だった。 新たな家族と過ごした時間を……平凡な幸せをもう一度。 ナウラは初めから家守の望みを理解していた。ナウラもまた、人の為に生まれた“道具”なのだ。 「最後まで家と共に、ってか。頑固なこった」 村山が軽く嘆息する。ナウラは肯きつつもかぶりを振った。 「道具はみんなそうだ。ただ人の役に立ちたい、それしか望まない。存在意義がそうだから……別の道を見出すことは稀だ」 「役割に縛られてるってことじゃねえのかい」 「そう……なのだろうか」 サッシを抱く腕に力がこもる。 「愚かだと思うならそれでもいい。だけど、どうか笑わないでくれ」 さらさら、さわさわ。若稲の健やかな息吹がナウラの呟きを包み込む。 「はん。誰が何を笑うって?」 村山はニヒルに鼻を鳴らした。 「それよか、そいつはどうすんだ」 ナウラの腕には引き戸の破片が抱えられたままだ。黙って持ち去るわけにもいくまい。ナウラは呆けたように、あるいは我に返ったように口を開けた。 「どうすると言われても……その」 「おう。言ってみな」 「……考えていなかった」 「成程な」 小さくうなだれるナウラの前で村山は肩を揺すった。 「道具のあり方は変えられねえってわけだろ」 ナウラの手から破片を抱き取る。 「だったら、どう使うかは人間が考えてやるこった」 土地にはようやく買い手がつき、工事が急ピッチで進められた。出来上がったのは洋風の、瀟洒な白壁の家だ。古臭い引き戸の名残は綺麗さっぱり拭われたし、菜園があった場所も石畳と芝生の庭に塗り替えられた。 「出来上がったのか」 新しい家の前でナウラは家守を思う。 村山がナウラを手招きした。そして玄関を示す。ナウラははっと息を呑み、目を見開いた。 「な?」 村山はぽんとナウラの頭を叩いた。 「こんな道があってもいいだろうがよ」 こじゃれた玄関ドアは引き戸のサッシと同じ色をしていた。あの破片が溶かされて混ぜられ、資材として再生されたのだ。 ナウラはぎゅっと眉根を寄せて目を伏せた。そして呻いた。 「……村山」 「あん?」 いつになく真剣な風情に村山は目をぱちくりさせる。 ナウラは村山を見上げたが、軽く頬を膨らませてそっぽを向いた。 「礼は言う。だが変態は変態だ」 「まだ言ってんのか。あのオネーチャンはたまたま――」 「その番組を見ていたのは自分だろう。破廉恥だ!」 「へいへい」 村山は肩をすくめるしかない。 家の周囲は相変わらずの田園だ。透き通った風の中、青い稲が健やかにそよいでいる。無邪気な足音が駆け回り、笑い声がこだました。 (了)
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