窓もなく、調度はおろか家財道具すら見当たらぬ板張りの間。 唯ひとつの例外とも言える、申し訳程度に設置された燭台に燈された薄明かりがぼうっと照らす空間は、然るに飾り気とは一切無縁で、何処か武門の道場――否、寧ろ寺の御堂を思わせた。 その灯火に程近くに、ふたりの――どちらも決して若くはない――男達が座して、互いを見合わせている。 床を経て壁に伸びた影の一方は、膝を抱えるようにしながら、時折控えめにグラスを傾けた。もう一方は盃を置いたまま、殆ど身動ぎしない。 「泣き疲れたんだろうね……――はは、よほどサルミアッキが口に合わなかったのかな」 イェンス・カルヴィネンは、真向かいに居る同居人の胡坐に凭れて、健やかな寝息をたてる少女を労わるように見遣った。傍らには、開封されたチェック柄の紙箱が見放されたように転がり、その縁には錠上の漆黒の粒が半ば顔を覗かせている。この粒の壮絶なる風味こそが、彼女を現在の状態に追い遣った元凶に他ならない。 「…………」 業塵もまた、己が膝上の幼いこうべに手を乗せたまま、件のサルミアッキとやらを気だるく一瞥した。イェンス曰く、彼の故郷では老若男女に親しまれている菓子だそうだが、自身も再度とは口にすまい。そう密やかに誓う。 「だけど――ああ、気を悪くしないで欲しいんだが。実は今、少しだけ驚いてるんだ」 業塵の胸中を余所に、イェンスはその人柄に似つかわしい配慮を示してから、陰気で無表情な男の顔へ、眼鏡越しに人懐っこい視線を寄越す。 「…………?」 何を云わんとしているか皆目判らぬのであろう、只沈黙を以て先を促す業塵に、イェンスは、一寸した照れ隠しなのか口元で手を組んでから、漸く告白した。 「その……君が子供をあやすところを見られるなんて、思ってもみなくてね」 微かに、灯火が揺らぐ。何方より迷い風でも紛れたものか。 「左様か」 業塵は幾分か眼を細め、普段通りの抑揚のない声で、ぽつりと云った。取り立てて気分を害している風でもなく、そもそも何某か感情の揺らぎがあるのかさえ、余人にはまるで窺い知れない。その上――。 「初事ではなき故」 「――え?」 更に続いた主張らしきものが大層珍しかったのか。最前よりも余程驚きを顕わにしたイェンスは、訊き返さずには居れなかった。 「前にも……あったのかい?」 業塵は頷きもせず、只真っ直ぐにイェンスを見据えて、ゆっくりと口を開いた。 そうして疑問に応ずるべく、訥々と、語り始めた。 今や――人の言葉を借りるなら――郷と呼ぶに足る、鞍沢でのこと。 とうに滅びたこの国で、業塵は未だ戦に明け暮れていた。 昼は版図を広げんと欲する暗愚な人間の侵攻が、夜には大妖に取って代らんと業塵を付狙う逸れ妖怪の跳梁が、後を絶たぬ。そうした埒外どもを、業塵は悉く退け、あるいは滅殺せしめて、只管、鞍沢の地を守り抜いた。 踏み込まれねば手は出さぬ。物怪の性も現さぬ。 鞍沢領主天野守久が生前そうしたように、己が領主の如く、さもなくば鎮守神の如く、業塵は守護に徹した。守久の姿を借りたまま。 人間にしてみれば守久の祟りに等しく、業塵にとってそう思われるのは都合が好い。案の定、人間どもは惧れをなし、終には手を出しあぐねた。 だが、妖の反応はまるで逆だった。 ――業塵は人の身に封じられ、人の心に毒された。嘗ての大妖は最早腑抜けた。 誰あろう蟲毒より生じた業塵への皮肉を込めた侮蔑は、程無く物の怪の語り草となり、瞬く間に伝播した。業塵と共に鞍沢へ留まる手下でさえ――否、手下なればこそ強く間近で感じていたのだろう。 ――御主(おしゅう)は変わった。 一部の者などは業塵への失望を隠そうともせず、離別を選んだ。 「引き止めようとは、しなかったのかい?」 イェンスは、一種人間染みた疑問を投げ掛け、直ぐに「愚問かな」と云い添えて、蒸留酒を向かいの盃に注ぐ。 業塵は肯否示さぬまま、満たされた盃を口元に寄せた。 ――今なら討てる。名があがる。 龍蛇に優る大妖の威が翳れば、是を好機と不逞の輩が集いしは必定か。 嘗ての手下。隣国の百鬼。他の大妖の眷属。そして数多の有象無象は、一様に怨念か功名、或いは双方を抱いて打倒業塵に狂い。やがて――。 闇に無数のまなこが光るは、鵺か宿儺か魍魎か。百数えたとて未だ足りぬ、騒々蠢く異形の群。方々より流れ着いて吹き溜まった幽世の化生どもは、月が満ちるのを待ち焦がれた。 他方、鞍沢の国にも秋が訪れて久しい頃、業塵はある噂を耳にした。 「先の乱を永らえた者がある」 事実生存者が居るのなら疾うに識れている筈であり、万にひとつ見落としていたのだとしても、今の鞍沢で今日まで人間が生き伸びるなど、凡そ考え難い。 十中八九、業塵の首級を狙う――恐らくは複数の――意思が、彼を誘き出す為の狂言であろう。咽返る程の薄汚い悪意が漂い、領主の館に居てさえ鼻につく。 この話を齎した手下も、恐らくは。 業塵は総て諒解の上、散策にでも出掛けるように、ぶらりと館を後にした。 只、独りで。 「あえて出向いたわけだ。一網打尽にしようと?」 作家の性か、イェンスは活劇などで定石とも呼ぶべき展開を、即座に思い描く。 聞く限り、叛意を抱く物怪を一掃するには又とない好機であり、又、当時の業塵には、それが可能であろうことを踏まえての言に他ならない。 事実、その時の業塵には、害意を持つ者を灰燼に帰すことしか腹中にはなかったと云う。 「だけど、幾ら君でもひとりじゃ厳しいだろう」 イェンスの尤もな指摘に対し、業塵は、暗鬱たる明快な解を以て応じた。 「……憂さ晴らしよ」 変化をすれば迅く着く。 だが、業塵は、尚も守久の姿のまま、徒歩で赴いた。 別段急いたわけでもなく、枯れた畑に伸び放題の薄なぞ眺めながらのんびり歩いて来たので、その村に着く頃には宵の口を廻っていた。 天を仰げば、藍と朱の境目に、満ちたる月が昇り始めた折である。 人の暦に由れば、時節は観月の頃合だと云うのに。 人の気はおろか、虫の音も響かぬ。 既に傾き始めている草臥れた家屋が疎らに建つだけの、微かに苦しき情念が遺るのみの、最早何ら意味を成さぬそ処は、けれども、やはり村なのだ。 ――もし。 ふと、背後から、女の呼び声がした。 ――御館様ではありますまいか。 悩ましげに懐かしげに、御館様、守久様、と繰り返す声は次第に近寄り、終には業塵の真後ろでぴたりと止んだ。業塵はと云えば、踵を返すどころか身動ぎひとつしない。 やがて、女は、見向きもしない領主を――行き成り抱き竦めた。 月明かりに照らされて青白く光る腕が、守久の胸板を艶かしく弄る。 ――つれのうございます。せっかく生き逢えましたのに。 拗ねたような声音でしなをつくる女に対し、守久こと業塵は些かの感慨も抱くことはなかった。強いて云うなら、心底下らなかった。 女の内と農道の周囲より無数に漂う、禍々しき陰の気を察知してさえ。 ――あら。お気付きになりまして? 途端、女の声が太々しい響きを孕んだ。 静まり返っていた村は、いつしか、眼に視えぬ何者かの騒めきに満ちている。 それ等は口々に囁いて、業塵を嘲った。かと思えば女が素早く身を退いて、けたたましく哂う。 「のこのこ現れおった」 「当に人の如き浅慮ぞ」 「愚かなり」 「ゴウジンオロカナリ」 枯田の狭間。井戸の下。川。茅葺の奥。納屋の向こう。樹上。土中――ありとあらゆる処から、無数の影がぞろぞろと這い出し、乗り越え、飛び降りて。 その総てが、業塵を囲み、きしきしと耳障りな音をたてた。 「所詮は人に下りし、妖の面汚しよ」 「或いは元より恭順こそ本懐か?」 「何を今更」 「未だ憎き守久の姿で居るのだぞ」 「然様。訊くにあたわず」 蟲にも蛇にも獣にも見える化物達の一方的な物云いは、集団のようであり、ひとつの意思のようにも思える。それ自体は如何でも好いが、兎も角、業塵は旋風の如き憎悪に取り巻かれていた。 「語るもあたわず」 不意に、憎悪は一際鋭さを増す。 何故ならば守久の――業塵の口元が歪められていたからだ。 馴染み深い負の感情を一身に浴び、そを遥かに凌駕する怨嗟を、総て。 解き放つ。 「討つべし」 「撃つべし」 「ウツベシ」 刹那、前方より獣が、後方より蛇が矢の如く跳び掛る。更に四方からは鳥が、八方から蟲が、鬼が、魑魅魍魎が、頭上から足元から一斉に業塵を襲った。 貫き、削ぎ、潰し、抉り、千切って、絞り、焼いて、奪い合った。 蟲毒皿を思わせる兇状。 守久の肉体は為すが侭、一見為す術なく挟み込まれ、瞬く間に赤黒い飛沫をあげて肉の塊へと変じた。元が何であったか当人でさえ忘れる程に撃ち砕かれた。 そう、業塵は、忘れていた。今の今まで。 己が真の姿を。その――本性を。 羽蟻の如く集る物怪どもの央より、突如忌々しげな赤色の奔流が天へ吹き出す。 真紅の間欠泉かと思われたそれは間近で殺戮に興じていた雑魚の半数を、只顕現しただけで轢き殺した。不快な断末魔の輪唱に迎えられる中、奔流は処処でぐねぐねと捩れ、村全体を空から覆う程の巨大さを示す。 赤は黒を経て青白をも帯び、骨にも石にも似た硬い体櫛が形作られる。その総てに呪詛抱きし人面瘡を抱き、頭から尾まで体櫛の両端に無数に生えた、歩肢と呼ぶにはあまりにも鋭い櫛足は、百対を三度数えたとて到底足りまい。 語り尽せぬ凶性秘めし、二股の尾を先へ先へと遡れば、やがて守久の瘡を経て、林をも草の如く刈り取る触覚と、万物を噛みしだく二重の顎門が開かれた。 最早、百足と呼ぶのさえ生温い。 他の化生さえ畏怖を覚え怯むであろう、絶対者の威容。 月輪を背負い、枯れた杉にも似た影の頭で、怨敵に忌まれ、また忌む為にのみ備わった双眸が、紅く妖しい光を放った。 喰らうのみ。 「おのれ業塵」 「こけおどしに過ぎぬわ!」 「殺れ」 「殺せ!」 「コロセ!」 流麗に宙をたゆたう化物に、化物どもが蝗の群よろしく襲い掛かる。 業塵は首を擡げ、頭からその只中に飛び込んだ。 見覚えのある大蜘蛛の上体を噛み千切ると、その膨れた腹は田を転げた。 そろそろ農夫達が稲を刈り終えている頃だろうか。 金棒を振り被る牛頭の首を刈り取れば、勢い余って家屋が三軒ほど消し飛んだ。 その日の営みを終え、談笑しながら囲炉裏を囲む家族の夕餉。 大蛇を丸呑みしたところ、井戸の屋根やつるべ、縄に桶まで口に含んだ。 守久まで村の衆に混じって穴を掘り、やっと水を探り当てた時、皆笑顔だった。 何か弾き飛ばした気がして見ると、背をあらぬ角度に拉げた化け狐が、小さな社を潰してこときれていた。 豊穣を山神に感謝し、収穫を喜ぶ祭りの時節。時に唄い、踊り、騒いで。時に望月を静かに眺めて。祭りの夜は侍も平民も無く、笑って酒を酌み交わしていた。 今やここで催されるのは、殺戮の宴。 鵺の如き獣を、天狗の如き鳥を、鬼の如き者を、蛟の如き鰐を、毒々しげな蝶を、潰し、抉り、穿ち、捻り、咀嚼すると、薄を大量に巻き込んだ。 村の童は薄の原に集い戯れる。業塵も共に遊び、童女に懐かれ持て余した。 今や村は、妖集う蟲毒皿。 儂は何だ。 得体の知れぬ情念を振り払うように、業塵は家を畑を野を巡り薙ぎ倒し、既に逃げ惑う物の怪どもを悉く撃砕した。何匹喰ったのか。拾か五拾か百八か。 喰らえども、喰らえども、晴れるどころか増すばかり。 この感情は、何だ。 村は、再び静寂を取り戻した――否、村などもう無い。今しがた業塵が魔物共々喰らい尽くした。僅かな残骸と疎らに生えた薄の荒野。 大百足は、美しい月に哭いた。声にはならず、故に木霊することもない。 それでも。 悲鳴のような、やり場の無い想いを、少しでも吐き出すように――。 「御館様」 城に着く頃には、空が白み始めていた。 「よくぞ戻られました」 城門で待ち構えていた手下が、白々しいうわべの礼で業塵を出迎える。 「お帰りが遅いので遅いのでよもや何者かの襲げ、き」 未だ何事か云いたげだったが、面倒なので業塵は蠅でも叩き落とすようにその頭上へ右腕を振り下ろした。手下は、ぐちゅりと不快な音をたてて果てた。 飛散した体液から一匹羽虫が涌いたが、一瞥もくれずそれも握り潰した。 斯くして、鞍沢の国に、虚ろなる平穏が訪れた。 「でも……君の心は晴れなかった」 「………………」 仇名すものどもを残らず討ち滅ぼし、静まり返った里。 あれからと云うもの、業塵は、相も変わらずも守久の姿を借りて、只呆けたように無為な日々を過ごしていた。得体の知れぬ感情を、何処かで持て余したまま。 尚も従う手下達は、そんな業塵を訝しんだものだが、大妖が縄張りに腰を据えるのは当然とも取れた為、足並みを揃えて大人しくしていた。 木々も粗方葉を落とし、そろそろ冬の足音が間近に迫る。 そんな、ある日のこと。 ――…… 呆けていた業塵は、何かの弾みで我に返った。 藍に染まる室内には、張り詰めた寒気を伴って月明かりが差し込んでいる。 何時の間に日が暮れたのかさえ覚束ぬが――それよりも。 何か、微かな声を聞いた気がした。猫のような、狐のような。高い声音。 ――…………ん 気の所為ではない。徐々に近付いている。 耳を澄ませると、どうやらそれは、館の中で啼いているらしい。 ――……わあぁーん……わあぁーん 否、泣いている。泣き叫んでいる。狐狸に非ず。人間の――童の涙声。 業塵は、彼にしては機敏な所作で自室を出ると、大股で邸内を歩き始めた。声の主の正体が、気になって仕様がない。又、裏切り者が謀ろうとしているのか、さもなくば真の生存者か――。 業塵は、己が何事かを期待していると云うことに気付かぬまま、只管、声を追った。領主の館と云えど然程の広さはない。 程無くして、それは業塵の前に姿を顕した。 ――うわあああぁーん、うわああああぁぁぁーん 姦計でもなければ、生存者でもない。 それは、鞍沢が滅んだあの日、理不尽に命を奪われた、童女の魂。無念を泣き叫びながら里を彷徨っていたものが、館に迷い込んだのであろうか。 無念とは何だ。死したことか。殺されたことか。親御と離れたことか。居所を失ったことか。――その、総てか。 殺された時の血に塗れた着物を纏い、幼き怨嗟が館に木霊した。 「…………」 業塵は、無造作に童女の元へと近寄り、真上からその頭を掴む。仮令魂であろうとも、この大妖ならばひと握りで滅殺せしめ、喰らうであろう。 ――うわあああああああああああああああああん! 「……っ!」 童女が一際激しく叫んだ時、業塵は、掌に力を込めた。 ――……あれ? 気が付けば童女は、血塗れでもなければ、瘴気に侵されても居らず。 邪気の欠片も窺えぬ蜻蛉玉のような瞳を、きょろきょろと業塵に向けた。 業塵は、未だ頭を撫でるような姿勢のまま、童女と視線を交わす。 ――物の怪のお館様だ。 見知った娘だった。あの村で、子犬が人に懐くようにじゃれてきた童女。随分と手を焼き、その度に守久にからかわれたものだ。 始末に困る面倒な感情を思い出し、業塵は漸く手を離した。 ――また遊ぼうよ。 ふくよかな顔で嬉しそうに笑って、童女は無邪気なことを云う。業塵は、以前は御免蒙るつもりだった、その申し出が、不思議と嫌ではなくなっていた。 そればかりか、この娘と接することに何らかの執着心さえ芽生えていた。 だが、執着心が満たされることも、その正体を識ることも、叶わなかった。 ――……あ。 不意に、童女が虚空に視線を泳がせた。彼女が耳にした声は、業塵には聞こえなかった。只、魂が何事か聞きつけたのなら、恐らく、冥土――極楽から呼ばれているのだろうか。親兄弟が迎えに来ているのやも識れぬ。 背を向けて呼び声の方へと歩む童女の姿は、次第に薄れていく。 慌しい、と、業塵は少しだけ思った。 そんな業塵を、消え行く童女は一度だけ振り返って、小首を傾げた。 ――物の怪のお館様は来ないの? 「…………」 童女の後姿が、無邪気な問いが、業塵を再度あの感情で満たす。満たされながら、その中には穴が空いているようで、如何ともし難い。 業塵は思いを持て余したまま、既に目視の叶わぬ娘に、ぽつりと応えた。 さてな。 「それを『寂しい』と言んじゃないかな」 陰気な同居人の昔語りに、イェンスは尤も相応しく優しい言葉を添えた。 寂しさも、どちらかと云えば負の感情だが、それは必ずしも、嘗ての業塵や他の魔性が得意とするような邪気に結びつくものではない。 業塵は、腑に落ちたような、物の怪が持つ質ではないと不思議に思うような、なんとも形容し難い複雑な思いにかられ、沈思した。 「……僕は」 イェンスは、グラスと盃の双方に酒を注ぐ。 そうして自身は勿論グラスを手に取り、軽く乾杯の仕草をして微笑んだ。 「今の君も、悪くないと思うよ」 摂り合えず盃を持ち、馴染まぬ所作を形だけ真似てから。 業塵は、眠れる童女に、今一度視線を落とした。 「……左様か」 零番世界に来て以来、あまり寂しいと思わなくなった事に、ふと気づいた。
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