朝6時45分。 「起きろー、お寝坊ー!」 「! ぐふぉっ……」 朝の鍛錬を終えたアルウィンがイェンスの寝室に飛び込み、ちょっと手荒なモーニングコールを一発。助走をつけて思い切りジャンプした先は勿論イェンスのベッド、毎朝毎時のことでイェンスはもう慣れてしまったとはいえ、今日は……若干当たり所が悪かったらしい。 「イェンス! アルウィンはおなかがすいた!」 「ああ、すぐに朝食の支度をしよう。その前に……」 鳩尾をおさえよろめきながら起き上がるイェンスに、早く早くとまとわりつくアルウィンは今日も元気いっぱい。眼鏡をかけ、乱れた癖毛をなでつけて、イェンスは寝ぼけ顔からいつもの優しくしゃっきりとした表情に。 「その前に? ……あっ、おはようございます!」 「うん、おはよう。騎士たるもの、朝の挨拶は大事な儀式だ」 「おう! ゴウジンにもあいさつしてくるっ」 大好きなイェンスを早く起こしておしゃべりがしたいのと、とにかくお腹が空いたのとで気がはやるアルウィンに、朝の挨拶をきちんとさせるのはイェンスの役目だ。ちゃんと気づいておはようを言ったアルウィンはイェンスに頭を撫でられて破顔一笑、もう一人の同居人を起こすため元気よく隣の部屋へダッシュしていった。 「ゴウジンーー! 起きろー!! おはよう!!」 「んぬ? ……何じゃ、おまえか」 「もう起きてたのか、つまらないなー」 どうやらあちらでは、アルウィンの期待するようなリアクションはもらえなかったらしい。眉を下げて笑い、イェンスは朝食の支度にかかるべくキッチンへと向かう。 こうして目覚まし時計いらずの、三人の一日が始まる。 ◆ 「いただきます」 「いただきまーす!」 「……ん」 イェンスのいただきますにアルウィンが続き、業塵は故郷のやりかたにならって両手を合わせ軽く一礼。今日の朝食は焼きたてのルイスリンプパンにスモークサーモンのサラダ、ベーコンエッグとベリーのフレーバーティー。ライ麦の香ばしさとベーコンの焼けるいい匂いがダイニングを満たす。 ちょっと硬めのルイスリンプパンは薄くスライスして、バターを塗ったりサラダをのせたり、食べ方もそれぞれお好みで。ちなみに今日のメニューには甘いものが無いせいか、業塵はフレーバーティーにいつもより多く砂糖を入れている。 「ところで、アルウィン」 「どうした?」 「今日はいつもより少し遅く起こしに来てくれたけど、何かあったのかな」 そういえば、今日アルウィンがイェンスのベッドのダイブしたのは6時45分。いつもならきっかり6時30分に起こしに来るはずなのだが。 「いい感じのやつが落ちてたから、ひろってきたんだ。あとで見せるぞ」 「そうか、それは楽しみにしていないと」 アルウィンに言わせればいい感じのやつ、とはラムネ瓶の中のビー玉だったり、ケーキの箱にかけられたリボンだったり、石畳に絵が描ける白い石だったり。大人からすれば首を傾げるか懐かしさにひたるかギリギリのラインのものを指しているようで、今日もそんなものを拾ってきたのだろうなとイェンスは目を細めた。 が。 「そうだ、イェンス! いい感じのやつにごはんあげなきゃだ!」 「ご飯だって? 生き物なのかい?」 無機物だとばかり思って安心してたイェンスが途端に目を丸くする。 「うん、もぞもぞしてた。それに、さみしそうだったから」 「……そいつは困ったな」 イェンスの脳内ではいい感じのもの、から謎の物体にクラスチェンジした『寂しそうな何か』はどうやら庭先にいるらしい。ひとまずごちそうさまをした後で、何を食べるかわからないがとりあえずルイスリンプの残りとミルクを持って、アルウィンの先導で三人は玄関先に移動する。 「おー、よしよし! ごはんだぞー、おまえも今日からお家の子だ」 アルウィンが庭先の茂みに向かって声をかけると、タヌキの尻尾のようなふわもこの何かがもぞっと這い出てきた。確かに動物のようだが、顔や手足がどうなっているのかはふわふわの毛に覆われてまったくわからない。 「アルウィン。まだ家に住まわせるとは言っていないよ」 「でも、ひとりでさみしいんだ。かわいそう……」 アルウィンの言い分が分からないイェンスではないが、この謎の物体がどこからどうやって来たのかも分からない以上はうちに迎え入れるわけにいかない。筋が通った理屈だが、いつもは聞き分けのいいアルウィンも譲らない。 「じゃあまずは世界図書館に行こう。この生き物がどこからやってきたのか調べてくるんだ。もしかしたら飼い主が探しているかもしれないしね」 「……わかった」 理知的に説得するイェンスと、それをしょんぼりと聞くアルウィン。その横では業塵が謎の物体をつついてちょっかいを出している。謎の物体は業塵がつつくたびにうねうねと動いて、拒否しているのか楽しがっているのかはイマイチ分からない。 __ばふぉっ 「!?」 アルウィンがしぶしぶ納得し、謎の物体を連れて世界図書館まで行こうと振り向いたその瞬間。業塵がどう、と倒れ込む。何事かと駆け寄れば、謎の物体が業塵の顔に覆い被さっている。 「ご、ゴウジンー! しっかりしろー!」 慌てて二人がかりで謎の物体を引っ張るが、ふわもこのどこにそんな力があるのかと驚くほどびったりくっついて離れない。業塵がもがもがと何か言おうとしているが、呼吸もままならなずそのアクションも段々と緩慢になっていく。 「イェンス! ゴウジンがしんじゃうー!」 「アルウィン、落ち着くんだ」 トラベルギアのグィネヴィアを発動させ、無理やり謎の物体を引き剥がす。黒絹糸のようなそれに絡め取られた謎の物体は抵抗するようにうねうねと動き続けている。業塵はどこで覚えたのか、親指をぐっと立ててイェンスに感謝の意をあらわしているようだ。 「ゴウジン……! い、いいやつだったのに……」 まだ死んでない。 ◆ 結局、謎の物体は依頼で持ち帰られた異世界の食虫植物だったらしい。大慌てでやって来た世界司書が青ざめた顔で平謝りするが、イェンスもそれと同じくらいに頭を下げる。 「いや、知らずにやったこととはいえうちの家族が大変なご迷惑を……」 食虫植物がカギのついた箱に収まり世界司書の手で連れ帰られるのを見届け、業塵を危ない目にあわせてしまったアルウィンはしょんぼり顔だ。 「アルウィン」 「ごめんなさい……」 「分かればいいよ、業塵にもちゃんと謝っておいで」 「うん」 この日を境に、カルヴィネン家での新しいルール『動く謎の物体は持って帰らないこと』が追加されることになる。 「ゴウジン、ごめんな」 「うむ」 幸い、ちょっと呼吸困難に陥った程度で済んだ業塵はさほど気にしていない様子でアルウィンの頭を撫でた。どうすればしょんぼりしたアルウィンが元通りになるのかよく分からない業塵ではあったが、いつもイェンスがこうすればアルウィンはにっこり笑うのを覚えていたからだろうか。 「次はもっといい感じのやつを拾ってきてやるからな。……動かないやつで!」 「承知」 業塵が怒っていないのを確かめたアルウィンの表情がぱあっと明るくなる。それを見届け、業塵はヒトの機微の面白さをあらためて感じ入る。 「よーし、巡察に行ってくるぞ!」 「ああ、気をつけて」 すっかり元気を取り戻したアルウィンは、ご自慢の槍を構えて颯爽と巡察……という名のお散歩へ。イェンスが一度言い聞かせたことはきちんと守るアルウィンのことだから、もうおかしなものは拾ってこないだろう。 「すまんね、業塵」 「構わぬ」 憂いているのか眠いのかよくわからない表情の業塵だったが、アルウィンの悪気の無さを感じ取ってかいつもよりは穏やかに見える。イェンスの困り顔を見るのが少し愉快なせいもあるかもしれない。 「罪滅ぼしだ、昼食は業塵の好きなものを作ろうか」 好きなもの、の一言に業塵がはっと目を輝かせる。瞬時に大福やらきんつばやら甘いものの映像が次々と業塵の頭をよぎるが、残念ながらそれらはどれも『食事』ではない。そうしてひとしきり甘い妄想で脳内が満たされた結果出てきたメニューは。 「……ぱんけえき、を所望する」 「パンケーキか、決まりだ」 こくこくと肯定の頷きで答える業塵。 ◆ 昼食より先に、まずは部屋の掃除だ。これは三人がかりで協力するのがカルヴィネン家のルール。居室はそれぞれで掃除をし、キッチンやリビング・ダイニングのように皆で使う場所は全員で。業塵が割烹着に三角巾といういでたちで黙々と廊下に雑巾掛けをする姿も慣れれば可愛い(?)ものだ。 床にモップをかける前にソファのホコリを落とそうとハタキを手に取ったイェンスだったが、アルウィンが何やらソファでがさごそやっている。 「アルウィン? 何をしているんだい」 「おー! 聞いておどろけ見てさわげ! アルウィンは、アルウィンのフュージョンをせーとんしてるんだ!」 ……フュージョン? せーとん、とはおそらく整理整頓のことで間違いないのだろう。まったく自分のいないところで色んな言葉を覚えてくるものだと感心しきりのイェンスだったが、ソファを独占しっぱなしのアルウィンがハタキをかけさせてくれる気配は微塵もない。 「成る程、整頓は素敵な習慣だ。で、フュージョンとは何なんだい」 「今日のフュージョンはこれだな」 ソファに無造作に置かれた紙袋と木箱のいくつか、アルウィンはその中から緑色のセイレーンが微笑む紙袋を手にとって。畳んだ袋の端を恭しく開け、中身を確認してにんまりののち、イェンスに見せびらかすようにソファの上でそれを逆さまにひっくり返す。じゃらんちゃりんと楽しげな、それでいてちょっとやかましい音を立て、中身が顔を見せる。 「おや、すごいな。こんなにどうしたんだ」 「アルウィンのフュージョン、すごいだろ! いろんな人にもらったんだ!」 あらわれたのは様々な世界のコインだ。中には壱番世界で今も使えるものがいくつか見受けられる。そしてアルウィンはフュージョンをどうやら『コレクション』と言いたいらしい。 「これをキレイにするのが今日のアルウィンのお掃除だ」 「よし、じゃあそれが終わったら教えておくれ。僕はソファを掃除したいからね」 「おう!」 これは、ソファの掃除は後回しか。 ◆ というわけで、今日の昼食はパンケーキ。 蜂蜜とバターでシンプルに、あるいは生クリームにチョコレートソース、たっぷりのカットフルーツでケーキのようにするのも、ハムとチーズとマスタードで大人っぽく食べるのもいい。フライパンではなく壱番世界のホットプレートを用意して、めいめい好きな大きさで焼きながらあつあつを食べるのがカルヴィネン家の決まりだ。 「これ焼けた? まだか?」 「もうちょっとだ、生地から空気が出てぷつぷつしてきたらひっくり返すんだよ」 「わかった!」 フライ返しを持って今か今かと待ち構えるアルウィンと、それをなだめるイェンス。業塵はこれもどこで覚えたのか、漫画や絵本でよく見かけるまるくて分厚いパンケーキに挑戦するべく、ひっくり返す前の生地に更に生地を追加するという高等技術をお披露目している。 「いただきまーす!!」 「いただきます」 「……」 朝食のときと同じようにそれぞれいただきますの挨拶。 キツネ色にこんがりふわりと焼けたパンケーキの匂いに、蜂蜜やチョコレートソースの甘い匂いが重なって、食べる前から美味しいことが約束されている瞬間だ。 「おいしい! パンケーキおいしいな!」 「ああ、自分で焼けば美味しさもひとしおだろう」 業塵ははぐはぐと無心に食べている。 余ったフルーツはヨーグルトとあえてデザートにし、食後の紅茶を淹れてほっと一息。夕食はもっと野菜を取らなければなとイェンスが思案する横で、アルウィンはもううつらうつら。お昼寝の時間だ。ごちそうさまを言い忘れたが、夕食のときにしっかり言い含めればいいだろう。 「業塵、すぐに戻るよ。ホットプレートだけ片付けておいてくれるかな」 「御意」 アルウィンを抱えてお昼寝の指定席であるソファに運ぼうとイェンスが立ち上がる。最後に残った生クリームもぺろりと平らげ紅茶をすする業塵は素直に頷き、ホットプレートの鉄板部分を外してシンクに運んだ。他の部品は軽く油はねを拭いて戸棚へと仕舞う。カルヴィネン家に30分だけ静寂が訪れる瞬間だ。 ◆ __問1 イェンスがドーナツを5個買ってきました。業塵も同じドーナツを4個買ってきました。全部で何個になりますか? __問2 問1のドーナツは、どうすれば皆で仲良く食べられるでしょう? お昼寝から目覚めたあとは、ちょっとだけ勉強の時間。皆大好きなドーナツを例に、足し算と割り算で問題を出している。 「うー、5、6、7……9個! ぜんぶで9個だ」 「よし、正解だ。じゃあ問2はどうかな」 問1が正解すれば問2に進める問題設定のしかたは、子供のモチベーションを高く保つという意味で優れたものらしい。アルウィンも指を折り折り、楽しそうに問題に取り組んでいる。 「9個を、イェンスと、ゴウジンと、アルウィンで仲良くだな。えっと、えっと……」 「儂が5個頂く」 「! ずるいー!」 横からにゅっと顔を出して勉強の時間に割り込んだ業塵が、数式の正解……ではなく個人の希望を言ってのけアルウィンを混乱させる。なるほど業塵の頭では9個のうち5個が自分のもので、あとは2個ずつイェンスとアルウィンにということらしい。 だがそれをとっさに『ずるい!』と評したアルウィンも、ちょっとずつ算数の基礎が身についているようだ。 「ほら、業塵が5個じゃあ皆仲良くとはいかないな。じゃあアルウィン、正解は何個だと思う?」 「ゴウジンが5個だと、イェンスとアルウィンは……2個ずつだから……。3個! みんなで3個ずつだ!」 「その通り、よく出来ました。そういうわけで、今日のおやつはドーナツを9個用意したよ」 「5個ではないのか……」 おやつがドーナツなのは嬉しいが、その個数にはぷーっと頬を膨らませる業塵であった。 ◆ おやつの後は業塵とアルウィンの外遊びの時間。今日はそれぞれ依頼で異世界に飛び立つこともなく、イェンスが仕事で壱番世界に戻る日でもないせいか、アルウィンはいつもより嬉しそうだ。業塵は相変わらず面倒くさそうな眠そうなよくわからない表情だが、子分扱いにも嫌な顔をせず相手をしてやる様子は祖父と孫のように見える。 「ゴウジン、いくぞー! よけてみろ!」 「笑止……ッ」 そんな二人の様子を窓から眺め、イェンスは夕食のメニューを考えながら原稿用紙に向かう。 そういえば、と。 絵本の物語部分を是非にと依頼を受けていたが、長らく構想が浮かばず待ってもらっていたものがあるのを思い出し、イェンスはペンを走らせた。 "なぞしっぽのだいぼうけん ふわふわもこもこのなぞしっぽはひとりぼっち。 じぶんがどこからきたのかもわからないくらいに。 だけどふわふわもこもこのなぞしっぽ、あるひじぶんによくにた、 ふわふわもこもこのおおかみしっぽをつけたおんなのこにであった。 ことばもつうじないふわふわもこもこのなぞしっぽを、 おおかみしっぽのおんなのこはやさしくなでてくれた。" あとは……そうだ、一緒にパンケーキを食べたり、家族を探したり、そしていつか来る別れのときまでお互いに家族であり続けたり。こんな書き出しで始まる物語はどうだろう。イェンスは少しぬるくなったブラックコーヒーをすすり、一人で目を細めた。 「あっ! ゴウジン! よけろって言っただろー!」 「ぐぉ……」 外は今日も賑やかだ。 ◆ 3人が住んでいるチェンバーはそろそろ夕暮れ時。 冷蔵庫の中身を確かめたイェンスが買い物メモを書き出し、それを持たされた業塵がアルウィンと一緒に夕飯の買い物へ向かう。食材が羅列されただけでは(勿論今日使うものばかり買わせるわけではないだろうし)何が出来るのか分からない二人は、今日のメニューに思いを馳せながらマーケットに足を踏み入れる。 「ゴウジン、じゃがいもあったぞ」 「うむ」 じゃがいも、人参、ズッキーニ、それからキャベツに合い挽き肉。好き嫌いのないアルウィンは野菜売り場であれこれ手にとって目を輝かせるが、業塵は二つ向こうのお菓子売り場をちらちらと見ている。 「ゴウジン! 騎士たるものミトンの成功が第一だぞ! 集中!」 アルウィンはどうやらミッションと言いたいようだが、どこでどう間違って覚えたのやら。それでもお菓子売り場から目が話せない業塵を見かねて、イェンスから預かったお財布ではなく自分のお小遣いでこっそりとクリームパンを買ってやるアルウィンは、なかなか優しい上司のようだ。 「食べていいのは、夕飯の後だぞ。あと、イェンスにはないしょだ!」 「御意」 人差し指で唇をおさえ、内緒のサインを見せるアルウィン。その仕草を真似てみる業塵。でこぼこなコンビも意外と仲がいいらしい。 ◆ さて、業塵とアルウィンが買ってきた食材はまずフィンランドの郷土料理カーリカーリリート風のスープ……ロールキャベツになるようだ。それから朝食に使って少し残ったスモークサーモンをズッキーニ・人参と一緒にマリネにし、じゃがいもはミルクを入れてなめらかにしたコンソメ風味のマッシュポテトに。朝食と同じく甘いメニューは無いが、昼食のパンケーキと、アルウィンにこっそり買ってもらったクリームパンのおかげか業塵は何だか上機嫌に見える。 「いただきます」 「いただきまーす!」 「……ん」 それぞれのいただきますののち、食事の進みに合わせてカトラリーがかちゃかちゃと立てる音の他は、今日あったことや明日の予定などをそれぞれお喋りする楽しげな声が飛び交う食卓。こんな風に一日は少しずつ終わっていく。……のが理想なのだが。 「あっ! ゴウジンそれアルウィンのだ!」 「先手必勝」 覚えたての割り算で、イェンスが15個作ったロールキャベツを大皿の上で5個ずつ分けて満足げなアルウィンだったが、自分の分の5個をさっさと食べ終えた業塵がアルウィンの領分に手を出す。大皿に盛られた料理なのだから確かに早い者勝ちではある、が……業塵、おとなげない。 「ぐうう……ゴウジン、ずるい! クリームパン没収!」 「! 非道な……ッ」 「クリームパン?」 ここでさっき買ってやったクリームパンのことを持ち出すアルウィン、はて、イェンスには内緒だと自分から言い出したのではなかっただろうか? 「あっ……」 「……アルウィン、業塵も」 それまで、いつものことだとロールキャベツ争奪戦を静観してきたイェンスが、クリームパンの一言で眼鏡をきらりと光らせ静かに口を開く。 「夕飯のあとには何をするんだったかな?」 「は、はみがき……」 「その通りだ。じゃあ歯磨きのあとにしてはいけないことは?」 「おやつをたべること……」 「それも正解だ。つまり?」 「ごめんなさいいいいいいいいいいい」 「くりぃむぱん……」 一日でイェンスに二度も叱られてしょんぼりのアルウィンと、本当にクリームパンを没収されて悲嘆に暮れる業塵。おまけに業塵はロールキャベツ強奪の罪で明日のデザート抜きという罰までくらう羽目となってしまった。 ◆ さて、ちょっと残念な終わり方をしてしまった夕食ではあったが、これもいつものこと。仲がいいからこそ起こりうるトラブルだ。ごめんなさいの後は笑って仲直り。お風呂の後は特別に、蜂蜜少なめでベリーたっぷりのお手製アイスレモネードを皆で飲んで、もう一回歯磨きをして、そろそろおやすみなさいの時間。クリームパンもちゃんと冷蔵庫に仕舞われている。 「イェンス、今日はこれがいい」 「よし、いいよ。じゃあベッドに行こう」 アルウィンがリビングの本棚から取り出したのは、もう何度も読んでもらっている猫と狼の冒険物語を描いたお気に入りの絵本。狼とケンカして一人ぼっちの猫を、狼が自慢の鼻で探して仲直りするところがアルウィンの一番好きなシーンだ。 「ゴウジン、おやすみ!」 「うむ、佳い眠りを」 既に眠そうな目をこすり、それでもおやすみの挨拶は忘れずに。業塵に手を振りベッドに向かうアルウィンの背中へ業塵も同じように手を振ってみせ、クリームパンに思いを馳せつつ自分の居室に帰ってゆく。 "ねこのケイティは雨にうたれて、昼間おおかみのヴォルフに言ってしまったことをひどく後悔しました。どうして、『おまえなんかいなくたっていいよ』なんて、思ってもいないことを言っちゃったんだろう。そればかりおもいだして、ケイティはぽろぽろと涙をながしました" ベッドに入り、眠気と戦いながらも物語の先を聞きたいアルウィン。ここからがいいところなのだ。 "『ヴォルフ、ごめんね』ケイティがぽつりと言ったそのとき、まっていた声がケイティの耳にとどきます。『気にしてないぜ』と。ケイティがはっとして涙でぐずぐずの顔をあげると、そこにはヴォルフの姿がありました" 「……」 このくだりを聞いて安心したアルウィンは、満足そうに眠りについた。イェンスはしばらく続きを読んでやるが、アルウィンが目を開ける気配は無い。続きはまた明日。 明日も、明後日も、ちいさな冒険譚や、他愛の無い会話、そこにある笑顔は絶えないだろう。おはよう、いただきます、ごちそうさま、ありがとう、おやすみなさい、また明日。
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