――もう、いいよ その山に足を踏み入れた瞬間、微かな声を聞いた。 ◇ 繁る藪を掻き分けて、灰色の小さな影が山中を往く。 その後ろを従順に、大きな黒い影が付いていく。 奇妙な行進を続けながら、アルウィン・ランズウィックと業塵の凸凹騎士団は山道を登る。 「この森に、よーかん? いる、聞いた」 「妖怪」 「それ!」 呆れるでなく笑うでなく、業塵はただ淡々と、アルウィンの謎かけのような言葉を訂正する。幼い騎士も素直にそれを受け止めて、威勢よく片手を上げた。 「よーかん、悪さする。村のヒト困る。アルウィンとゴウジン、助けたい!」 勝手に頭数に加えられている事にも異を唱えず、陰気な眼差しを空中に躍らせたまま業塵は小さな団長の言葉を聞いていた。聞きながら、思考をも宙に飛ばす。 このままでは生計が立たなくなる、と。 世界司書からの依頼を受け、件の地へと降り立った二人を迎えて真っ先に村人は言った。見知らぬ旅の二人組――しかも陰気な大男と幼子と言う組み合わせだ――にも縋りたくなるほど、彼らは頭を抱えているらしい。 不知(しらずの)山、と呼ばれる山の麓に、その村はあった。 数年前、一人の少年が遊びの最中に姿を消した。 それ以来、山には奇妙な力が働いているらしい。 山に入った者は必ず迷い、山から出られなくなる。しかし近付く何者かの気配に気づいたと思ったら、いつの間にか山の麓へと帰されている。村人はそれを山に棲む妖怪の仕業だと疑わなかったが、何故か妖怪が村へと降りてくる事はなかった。 山を封じているモノを祓ってほしい、と。 それが村人たちの頼みだった。 森に充ちる気を感じ取りながら、血の気の失せた唇が言葉を選ぶ。 「山を塞ぐ者が在る」 「ふさぐ?」 村人を山に寄せ付けないよう、或いは何かを逃がすまいとする力が働いている。ぼんやりした様子ながら気配に敏い業塵は早々にそれを見抜いていた。 だが、わからないのはその根源。 「村人の言う、妖怪によるものではない」 「よーかんじゃないなら、何なんだ?」 拳をこめかみに宛て考え込むアルウィンの隣で、変わらず茫洋としながら業塵は空を見つめている。 「……人間も、喰らう為に狩りをしよう」 生計が立たない、と言った村は少なくとも、この森と山を食の宛てとしていたのだ。 アルウィンが、足を止める。 訝しげに振り返った業塵の視線から逃れるように、幼子は地面を見つめていた。 「……獣だって」 ふと、その俯いた唇が戦慄いているのが見えた。 下唇を噛み締めて、拳を握り締めて。今にも皮膚を破って血を流しそうなほどに赤らんでいる。 何かが爆ぜる、その前兆。 業塵の袖口から躍り出た妖蝶が、空気の変化を敏感に察する。 声をかけようとした業塵の、伸ばした手をも振り払って、アルウィンが踵を返す。 「獣だって食べられるのヤダ! だから戦う!」 そしてそのまま、暗い森の奥へと駆け出して行く。 残された業塵は茫洋と、去っていく小さな後姿をただ見つめていた。 ◇ ――だれか、みつけて ◇ 声が聴こえた気がして、駆ける脚をふと緩めた。 ちらりと、背中を振り返ってもついてくる影はない。 足を止めてしばらく待ってみても、背の高い子分の姿はどこにも見えない。見失ってしまった。 ――ほんとうに、ひとりぼっちなのだ。 そう実感した瞬間、アルウィンの背筋がぶるりと震えた。尻尾がぴんと立ち上がり、毛がぞわりと逆立つ。 妖怪の居るこの暗い森で、ひとりぼっち。 「だ、だいじょうぶ」 自らに言い聞かせるように、声を上げる。 「アルウィン、おとなだ。騎士だ。……子分だって、いるんだ」 その子分は、今何処にいるかわからなくなってしまったけれど。 おいてきてしまったのは自分だ。 “ねこのケイティは雨にうたれて、昼間おおかみのヴォルフに言ってしまったことをひどく後悔しました” お気に入りの絵本の一フレーズが、アルウィンの頭を駆け抜ける。 ハッとなって頭上を振り仰ぐが、そこには変わらず青い空が広がるばかりだった。雨どころか雲に覆われる気配さえ見えない。 子分一人面倒を見られないようでは、立派な騎士に――騎士団長になどなれはしない。 迎えに行こうか、と身を返そうとしたアルウィンの耳に、それは聴こえて来た。 ――誰か、と。 泣いている。 子供の泣き声だ。すすり泣くように、声を殺すようにして泣いている。 狼としての大きな耳が、小さなそれを捉えた。森に入った時に捉えた、幻聴――業塵が相変わらず難しい言葉でそう言っていた――とは全く違う。確かに誰かが、この山のどこかで発した声だった。 躊躇する暇もなかった。誰かが泣いている。それだけで、アルウィンが駆け出すには充分な理由だったのだから。 ひらり、と視界の端で黒と赤の色彩が舞う。 「まってろ! 今行く!」 姿勢を低くし、アルウィンは獣のように大地を蹴った。 ◇ アルウィンと別れた場所に立ち尽くしたまま、業塵は相変わらず空を見上げていた。その表情は、茫洋としながらも己の居場所を正確に捉え、しかしやはり意識をどこか遠くに飛ばしている。 ――二重の呪が、山を覆っている。 否、呪と呼ぶにはいささか造りが甘い。それは寧ろ、怨念や執念と表現できるもののようだった。人や物の怪の感情から生み出された、強い力の塊だ。 山の中を我が物顔で歩き回る、小さくて濃厚な力がひとつ。 それを覆うようにして、山全体を塞ぐ大きくて酷薄な力がひとつ。 二つの力が互いに作用しあい、反発しあって存在している。 山の中を歩く力は獰猛で、残忍な獣の性を宿している半面、山を覆う力には明確な攻撃性が見られない。 初めに感じ取ったとおり、それはただ、山を塞いでいるだけなのだ。誰も外に出られぬよう。 呪物として生まれた業塵は、人の悪意や敵意には敏くとも、それ以外の感情には疎い。多様に面白い人間たちと接した中で、彼らの中に暖かなものが存在する事は知っていたが、未だそれを詳しく理解するまでには至っていないのだ。 それ故、山を塞ぐ者の意図を正確に測りかねて、寡黙な大妖怪は首を傾げる。 ◇ 藪を分け入って、暗闇の濃い方、濃い方へと駆ける。 人の姿では山道は走り辛く、アルウィンは狼の姿を取って低く駆け抜けていた。未だ成獣になりきれない小さな体躯は仔犬と呼んで差し支えないほどで、逸る気持ちとは裏腹に中々辿り着けない事をもどかしく思う。 「!」 そして、茂みを掻き分けた先に、アルウィンは声の主を見つけた。 白く儚い光を纏った少年が立ち尽くしている。顔を覆って泣いている。 「見つけ――」 しかし、最後まで言葉を紡ぐ前に、その姿はふっと掻き消えていた。 駆け寄ろうとした足を止める。訝しげに目を細めたアルウィンは、少年の消えた向こう側にぽっかりと口を空ける漆黒に気が付いた。 洞窟だ。 「……」 ごくり、と唾をひとつ呑み込んで、アルウィンは洞窟の中へと足を踏み入れる。 狼から人に姿を変え、足音を立てないよう、岩陰に身を潜ませながら歩いていく。 やがて、開けた場所に出た。 何かの明かりがゆらゆらと燈る中、業塵よりも大きな影が奥深くで蠢いている。 影が、身を起こす。それは巨大な狐に似ていた。 ぬめるように輝く赤い眼が、隠れていたはずのアルウィンを捉える。 『子供か』 生々しい声が、低く窟内を這う。途端背筋を襲った寒気をやり過ごしながら、アルウィンは灰色の眼差しを改めて周囲に向けた。 『長らく人に飢えていた。丁度良い』 妖怪の周囲に散らばる残骸。死骸。 山に住まう獣のものだと、アルウィンの勘がそう告げている。人の屍は見渡す限りには落ちていない。 ただ喰らうだけではこうはならない。バラバラに引き千切られ、弄ばれた、と呼ぶのが正しいように見えた。――狡猾な妖怪の性が、捕食だけでは飽き足りなかったとでもいうのか。 「……お前、の」 さァ、と、顔から血の気が引いた。 代わりに押し寄せるのは、衝動にも似た怒り。 「――お前のせいだ!」 衝き動かされるように地面を蹴り、小さな槍をまっすぐに突き出す。がむしゃらな一撃はひらりと躱されてしまったが、穂先の周囲に満月の刃が幾つも現れて、その一つが妖怪の背中を捉える。 瞬間動きを止めた妖怪へ向き直って、尻尾を怒りに立たせたままアルウィンは叫んだ。 「お前のせいであの子供、怖くておうち帰れない!」 庇うように片腕を広げる。子供の姿は消えてしまったが、そこに彼が居るのだと彼女の獣としての勘がそう訴えている。護らなければ、と使命感に駆られる。 再び構えた槍の穂先が、満月の刃を纏う。獣のように唸り上げるアルウィンの瞳は引き絞られ、獰猛で鋭敏な狼を思わせた。 赤く光る眼を当惑に震わせて、妖怪が足を後退させる。理解の及ばぬ異郷の力を目前に、山ひとつだけの小さな世界しか知らぬ妖怪は戦い方を知らなかった。 ――だが、ここで退く訳にはいかぬ、と。 縄張りを護る獣さながらに、小さな敵へと襲いかかる。アルウィンもまた、それを受けて立とうと大地を蹴る――その眼前を、唐突に闇が侵蝕した。 「な、なんだ!?」 驚いて蹈鞴を踏む彼女を置き去りに、背後から現れて彼女を抜き去った小さな闇の塊は、蠢きながら妖怪へと向かう。 紅の残像が散る。 視界の其処此処でちらちらと煌めくそれは、眩暈の前兆にも似ていたが――違う。蠢く闇は黒い蝶の群れで、散る紅は彼らの振り撒く鱗粉だ。アルウィンはそれを、知っている。 「ゴウジン!」 (吸うてはならぬ) 名を呼ぶ声に、蝶は的外れな応えを返した。幼子の表情が明るくなる。素直に助言を受け入れ、息を吸わぬよう留意しながら、闇蝶に纏わりつかれる妖怪を睨み据えた。 鱗粉を肺に取り込んだ妖怪の動きが鈍る。赤く揺れる眼も光を弱めて、目の前の小さな敵すら視認できていないようだった。 アルウィンは意を決し、息を止めたまま駆け抜ける。 妖蝶に群がられた妖怪の胸元目掛けて、まっすぐに、槍の穂先を突き出した。 確かな手応え。 短い断末魔が山中に響き渡り、やがてそれも掻き消えた。 ◇ ふらふらと、妖蝶と共にアルウィンは洞窟を後にした。一歩外に出ると、眩しい光が目を襲う。 ぱちん、と己の両頬を手で叩く。 ほどよい痛みに、身体の震えが止まった。ぴこん、と兜の上の耳を立てる。森が命に充ちる音を聞く。 目の前に、先程の少年が立っていた。 『……あいつは』 「やっつけた!」 胸を張ってそう言うと、信じられないとでも言いたげな目が向けられる。白く透きとおり、後ろの森を映し出しながら、少年は状況を呑みこめずに其処に立ち尽くしている。 「アルウィン、おまえを見つけにきた」 そう言ってまっすぐにのばした手を、少年は不思議そうに見つめていた。 「一緒にかえろ!」 目を瞠る。開いた口から、言葉にもならない声が零れる。 『……うん』 透き通った少年の手と、アルウィンの小さくて力強い手が触れ合う。 今度こそ逃がさないよう、離さないよう、アルウィンはその手をしかと握り締めた。 彼らの頭上近くで、ひらひらと妖蝶が舞っている。 指先に止まる蝶の触覚が、ピクリと震える。業塵は微かに眉根を寄せ、空を振り仰いだ。 「――力が消えた」 山を塞ぐ力が、刹那の内に消え失せた。 訝しげに目を眇める男の頭上、蒼穹は変わらぬ鮮やかさで、彼らと山とを包み込んでいる。 ◇ 「お前、よく頑張った」 少年の手を握り締め、山を下りて行きながら、アルウィンはそう声をかける。 『……必死、だったから』 「でも、よく護った。アルウィンは知ってる」 見上げる少年の肩から腹にかけて、痛々しいまでの傷跡が目に入る。 少年はこれほどの傷を負いながら、妖怪の魔の手を振り払って山の中へ逃げ込んだのだ。そして、誰かに見つけてほしい、と願う強い心が山を塞いだ。 しかし妖怪は未だ生きていた。ただ見つけてもらうためだけに長く逗留させるのは危険だと、他ならぬ彼自身がよく知っていた。――だからこそ、妖怪の動きを察知するのと同時に山を開いて迷い人を逃がしてもいたのだ。 だが、妖怪の斃された今、それはもう必要ない。 子供が怯えながら隠れる必要など、何処にもないのだ。 「これで帰れるな!」 『うん、ありがとう』 朗らかに笑いかけるアルウィンに力づけられるように、少年もまた笑み返した。透き通った肌が、次第に薄くなってきているのをアルウィンも気づいている。だが敢えて何も言わず、その手を引いて山を降りていく。 やがて、彼らの歩く道の先で、蝶の群れがざらざらと蠢きながら滞空しているのが見えた。 「ゴウジン!」 迎えに来てくれたのか、とアルウィンは目を輝かせ、しかし少年の手を引いている為に走り寄る事はしない。 数多の妖蝶がさざめく。毒持たぬ鱗粉を撒き散らしながら。翅と翅の擦れ合う音の合間に、アルウィンと少年は人の囁きを聞いた。 『隠れ鬼は終いだ』 ちらちらと舞い飛ぶ蝶が、はらはらと落ちる光が、人によく似た姿を象っている。アルウィンはきっと視線をそちらへ据えて、妖蝶の塊を睨んだ。 「ゴウジン、怖がらせちゃダメ!」 「……む」 己よりも背の高い少年を庇って、腕を広げる。妖蝶の群れは小さく唸って、隊長の言葉通りに人としての姿を取り戻し始める。少年はそれにも目を丸くして、しかしすぐに微笑んだ。 『……おれ、もうかえるよ』 「ひとりで平気か?」 『うん』 心配そうに覗き込むアルウィンに笑い返して、少年の身体がすぅ、と薄くなる。木陰から差し込む光にほどけて、やがて静かに消え去った。優しい微笑みの気配だけを残して。 二人だけの騎士団が、それを見送っていた。 ◇ 村へ戻った二人は村人に事情を話し、彼の少年の墓の場所を教えてもらった。 「会いにきたぞ!」 骸の収められていない、虚ろな墓石だ。 ――しかし、そこには確かにあの子供がいると、アルウィンにはわかっている。あの子はようやく帰る事が出来たのだ。 墓石の前に広い葉っぱを敷いて、その上にころころと手の中に握っていた物を転がす。業塵が興味深そうに顔を寄せた。赤や青の光を放つ、すこしひしゃげた形のそれは飴玉だ。ちゃんと舐めることだってできる。 その隣に、飴玉よりも一層透き通った色の硝子玉を同じように転がして、アルウィンは満足げに顔を上げた。 「アルウィンの自慢のフュージョンだ!」 「……持っていたのか」 コレクションをフュージョンと言い間違えたまま治らないんだ、と、彼らの同居人が溜め息をついていたのは覚えている。業塵にはそれらの言葉の意味はわからないが、アルウィンにとってとても誇らしい物だと言うことは知っていた。 だからこそ、それを惜しげもなく差し出す姿に少しだけ、目を瞠る。 「ゴウジン」 「ん」 ぽつり、と名前を呼ばれて、大男は小さくいらえを返した。 「カクレオニ、って何だ?」 首を傾げて見上げてくるアルウィンに、口数少ない物の怪はふと黙りこむ。隊長の真似をするように小首を傾げ、ややあってひとつ口を開いた。 「童の遊びだ」 「わらべ?」 言葉を返すごとに、知らない語句が増えていく。子供だ、と面倒がる素振りひとつ見せず大きな子分はそれに応じた。 「鬼の童が目を離している隙に他の童が隠れる。数刻於いて『もういいよ』と告げる。鬼が全ての童を見つけ出せば遊びは終わる」 業塵にしては長く喋った方だ、と、見上げるアルウィンは思う。相変わらず彼の説明の全てを理解する事は出来なかったが、とにかくこの世界――この村にそう言う遊びがある事だけを理解して、強く頷く。 「あの子供はそれしてた、けど、帰れなくなった。そういうことだな」 「応」 数年の間、彼は一人であの場所にいた。 誰も応えてくれない孤独。妖怪が常に傍に在るという恐怖。それがどれほどのものだったか、考えるだけでアルウィンの背筋が震える。 消えた子供の心に寄り添う内、知らず、灰色の瞳が涙を零していた。 業塵の大きな掌を頭上に感じる。宥めるように頭を撫でてくれているのがわかる。――だからこそ、涙は止め処なく溢れた。 ひとしきり泣いた後、アルウィンは業塵を見上げた。 その暗い瞳を見つめる内、自然と言葉が零れ落ちる。 「……ゴウジン、ごめんね」 お気に入りの絵本の中、ねこのケイティはそう言って、おおかみのヴォルフに謝っていた。短い言葉に、暖かな力がこもる。 「アルウィンの子分なのに、アルウィン、ゴウジンのこと置いてった」 背を押されるようにして、小さな手を大きな子分へと差し出した。 業塵はしばらくぼんやりとアルウィンを見下ろしていたが、やがて、何も云わずにアルウィンの手を取った。ぱっと、幼い隊長の顔が明るくなる。何度もこくこく頷いて、眩しそうな笑顔を見せた。 「……やる!」 そして、もう片方の手に何かを押しつける。再び首を傾げた業塵が己の掌を見下ろせば、そこには先程の丸い飴玉がひとつ。 「おお」 「もも味だ! あと一個しかないけど、ゴウジンにやる!」 判り辛く目を輝かせた業塵に、胸を張ってアルウィンは応えた。子分の好みを把握するのは隊長としての義務だ。 「帰ろ、ゴウジン!」 「御意」 いそいそと飴玉を口に頬張る子分の手を引いて、小さな隊長はすっかり暗くなってしまった丘を駆け降りた。 <了>
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