うおー、と、可愛らしくも猛々しい雄叫びが上がる。 やりすぎちゃ駄目だよ、と、笑いを含んだ声がやさしく注意する。 が、 「カブトクビジャー、ウチトッタリー!」 物騒な宣言に軽くむせ、どこで習ったのそれ、と尋ねている。 「てれびんでやってた。しょーりのオタケビだって」 アルウィン・ランズウィックはえへんと胸を張り、業塵の肩によじ登る。 肩車の格好になると、業塵の髪を引っ張って立たせ、 「リョシュウハサラシモノダー!」 五歳の幼女が口にするにはあまりに物々しい台詞を、どことなくたどたどしく叫び、また、うおー、と雄叫びを上げている。掲げた手には、お絵かきの時間につくった可愛らしい旗があって、それを振り回しながら歓声を上げる。 髪を引っ張られるままアルウィンを肩車して、業塵は部屋のあちこちを歩き回った。 「うむ、やはり乗り物はタマノコシにかぎるのう……ほめてつかわす」 言っていることは支離滅裂だが、アルウィンはご満悦である。 同居人が、いったいどんなテレビを見たの、と目を剥いているが、業塵などは輿より馬のほうが速くてよかろうに、などとまったく別方面のことを考えるのみだった。物の怪にツッコミなど求めるだけ無駄である。 きゃっきゃと笑い、喜ぶアルウィンの、小さな身体から、命の躍動のような熱が伝わってくる。血など通わぬ物の怪に、その熱は奇妙な感慨を与えるが、業塵はそれを言葉にするすべを持たない。 しかしそれは、不思議と心地よく、 「ああ、そうか」 業塵は、昔々、同じようなことを思った日の記憶を思い出していた。 子どもという生き物の体温が高いことを、業塵はあのとき、知ったのだ。 * * * 奇妙なこともあるものだ。 業塵は何とも言えない気分でいた。 人間の肉体から見る世界は、今までとは異なって感じられ、その違いに業塵は戸惑わざるを得ない。そして、戸惑う己に訝しさを感じずにはいられない。人間という器に封じられたことで、こんなにも変わってしまうものなのかと。――否、業塵が、その複雑な感情、感覚を、戸惑いという人間の言葉で理解していたかどうかは定かではない。業塵自身ですら判然としない。 しかし、それは、小さくとも確かな変化だった。 目の前に広がるたくさんのものが、彼にその変化をもたらしたことは明らかで、不思議なこともあるものだ、と再び思い、業塵は、鞍沢領領主 天野守久の中からそれらを静かに見つめていた。 穏やかな郷(さと)の光景である。 整えられた田畑と、小ぢんまりと整えられた、簡素だが頑丈な家々、のんびりと草をはむ牛、餌をつつく鶏たち、その周囲で番に勤しむ犬たち。 明るい陽光のもと、人々は農作業に精を出している。小昼飯(こじゅうはん)の時間なのか、握り飯と漬物と茶のたぐいを盆に乗せ、運ぶ女たちの姿が見える。男たちは日焼けした顔を笑みのかたちにし、手拭いで顔を拭った。 鞍沢の郷は今日も平和だ。 あちこちの家から、煮炊きをする煙が立ちのぼっている。 どこかで、童と犬がたわむれる、楽しげな笑い声と可愛らしい吠え声が聞こえてくる。 告天子(ひばり)だろうか、愛らしい声で囀りながら、小鳥が晴れた空を飛び渡ってゆくのが見える。空はどこまでも高くて、風はかぐわしく清々しい。かなたまで続く緑の山々は、威風堂々とそびえ立ちつつ、鞍沢の郷を護るように包み込んでいる。 それらを、業塵は飽きるでもなくじっと見つめていた。 「……どうした、業塵」 守久の問いに、彼の『内側』からにゅうと姿を現した業塵だったが、答えは言葉にならない。 不可解な感覚だと自分でも思う。 「判らぬ」 短く答え、また眼前に広がる光景を見つめる。 先だって繰り広げられた激しい戦いが嘘のような穏やかさだ。 修験道をおさめた守久との戦いは熾烈を極めた。一度は退けたが二度目で敗れ、業塵は守久の肉体に封じられた。 残した役目を片づけ、家督を譲るために天野荘へ戻った守久は、すべてが終わったのちは人里離れた山にこもる心算でいるらしい。 大国すら脅かすほどの大妖であった業塵だが、その力はいまだ健在で――無論、以前ほどの脅威はないが――、それは、人間という弱い生き物の社会においては充分すぎるほど危険だからだ。そして、その力を外に出さず悪用させず、抑え込むことが出来るのは守久しかいない。 業塵は、確かに畏れられている。 民も侍も、守久に――彼の中の業塵に気づくと顔をこわばらせ、身を硬くした。 当然のことだ。 人と物の怪が相容れることはない。今までも、これからも。 ――しかし。 * * * あーそーびーまーしょ。 ある日のことだった。 五つばかりの童女が、業塵たちのもとへやってきた。 ふくよかな頬を持つ、可愛らしい童女だ。 身なりは粗末だが、それはこの時代では普通のことで、人々は一枚の着物を何度も何度も繕いながら着て、最後にはすっかりほどけてただの布きれに戻ってしまうまで使うのだ。 そんな時代であるから、子どもたちの着物がみすぼらしく、あちこちにきれが当ててあり、裾が擦り切れていたとしても、特筆には値しない。 が、童女が業塵に近づいてきたこと自体は特別だった。 いつものように守久からにゅうと姿を現し、何ごとかと見やる業塵を恐れるでもなく見上げ、童女はふっくらとした顔を満面の笑みにした。 「そこにいるばっかりじゃあ、たいくつだろうから」 だから、いっしょに遊ぼう。 無邪気な誘いに、業塵はしばし沈黙する。 この、おそろしい、猛り狂えば国のひとつやふたつを軽々と飲み込むような大妖を、彼女は何の屈託もなく遊びに誘うのだ。 その時脳裏をよぎった言葉、感情、感覚を何と表現していいか判らず、業塵はこう答えるしかなかった。 曰く、 「……喰うぞ」 と。 「馬鹿たれ」 当然それは守久の鉄拳制裁を呼び、業塵はむぎゅうという妙な音を立てる。 「まったく……これだから物の怪は!」 「物の怪とはそういうものだ」 「これだから脚が何本もある輩は!」 「そういうおまえとて二本あるではないか」 「……そういえばそうだ」 「……そこで納得するとは思わなんだ」 「うむ、私もだ」 もっともらしく頷く守久に、業塵もそうかと返すくらいしか出来なかった。 何とも言えない空気が流れる中、弾けるように笑ったのは童女だ。業塵の脅しにも、微塵も怯えた様子がない。 「お館さまたち、おもしろい。ねえ、遊ぼう遊ぼう」 きゃっきゃと笑い、童女がまとわりつく。 業塵は辟易としながらも、手荒なことはしなかった。 しかしそれは守久が怒るからではない。この童女の姿かたちや心を傷つけ、損ねるようなことはしたくない、と、なぜか思ったのだ。 そのため彼は、童女がまとわりつくに任せ、あろうことか背に負ってやりさえした。童女は視界の高くなるのを喜んで、明るい笑い声を響かせ続けた。 ――それが、日常となるまで時間はかからなかった。 「あーそーびーまーしょ」 日が経つにつれ、やってくる童が増えた。 親の目をかいくぐって――大半の親は、おそろしい物の怪となど遊んではならないと口をすっぱくして言うはずだ――遊ぶのも面白いのだろう。 縄跳び、かけっこ、かくれんぼ。輪投げに凧揚げ、こま回し。お絵かきにかるた取り、歌くらべ。 子どもたちは次から次へと遊びを思いつく。ひと時もじっとしておらず、あっちこっちへ駆け回り、飛び跳ね、歌い、笑う。 躍動する生命の輝きを、業塵は確かにその中で見た。 童たちは物おじせず、畏れず、奇異の目で見ることも、物の怪だからと差別することもせず、業塵を真ん中にして、時間の許す限り遊び続けた。家の手伝いのために帰った子どもも、用事が終わると戻ってきて、なにごともなかったように加わった。 終始その遊びに付き合わされる業塵はというと、なぜ自分がという思いでいっぱいだった。子どもたちのやわらかな肌、すんなりと伸びた手足、きらきら輝く眼が視界に入るたび、何とも言えぬ居心地の悪さを味わった。 が、それすら、次第に和らぎ、薄れていく。 面倒ではあったが、不快も嫌悪もない。 そこで子どもたちが遊ぶ日々が、当たり前のことになっていく。 「……奇妙なことだ」 守久は、ほぼ無意識にこぼれたにひとしい業塵の言葉を聴いたはずだが、彼は何も言わず、静かに微笑んだだけだった。 それにもまた、居心地の悪さを感じて、業塵はもぞもぞと身動きをする。 ――業塵は物の怪である。 それも、手下を無数に従える大妖、人間とは相容れない、人に害をなす存在の最たるモノなのだ。 験力のある人間に封じられたこともあり、業塵の中にある物の怪としての性(さが)、老獪で残忍なそれはなりを潜めつつある。人間の感情は複雑すぎて、業塵には捉えきれぬことも多い。多いが、業塵は、少しずつ人間というものに興味を覚え始めている。 忌避すべきことなのかもしれない。 この変化が、業塵によくない何かをもたらすのかもしれない。 しかし、業塵の胸のうちと言えば、 「もう少し、見ているのも悪くはない」 その、ひとことに尽きるのだった。 * * * あーん、あーん、あぁーん。 童女たちが泣いている。 身も世もなく、頑是なく、悲痛に、かよわい命が泣いている。ととさまかかさまと呼ぶ声も、途切れそうに弱々しい。 大地は鳴動し、太陽は分厚い雲に隠されて夜のようだ。 ぎちぎち、ぎちぎちと、耳障りな鳴き声が弱い人間を嘲笑う。断罪者のごとき不吉な鋭さの鎌が、獲物を求めて開閉される。 ――蟷螂の変じた巨大な物の怪が、鞍沢を襲ったのはいつのことだったか。 人知を超えた力を揮う強大な物の怪に、験力や霊力を持たぬ人間が出来ることは少ない。それが、年経た古いモノであればなおさらである。彼らは狡猾で抜け目がなく、冷酷で残忍だ。人間という小さな生き物が血を流すのをことのほか好むものもいる。 鞍沢を襲ったのも、そういう、性質(たち)の悪い――といっても、物の怪の大半は性質が悪いが――たぐいで、そいつの目的はたくさんの人間を喰らって今以上の力をつけることだった。 どこかから、童たちの泣く声が聞こえてくる。 父を母を、家族を、友だちを喪った悲嘆だろうか。それとも、住む場所を破壊される恐怖だろうか。 業塵はしかし、いくらも奴に『仕事』をさせなかった。 蟷螂の物の怪が刈り取れた命はいくらもなかった。 なぜなら、集落での騒ぎに気付いた守久とともに駆けつけるや否や、 「ここは儂の縄張りぞ。我が治める地を荒らして、ただで済むと思うな」 轟く雷のように言い捨てた業塵が、ほとんど一撃のもとに奴を滅してしまったからだ。 物の怪は、馬鹿なともまさかあなたがとも言わなかった。それを言う暇さえ与えられず滅ぼされ、骸は塵になって消えた。 嵐はすぐに収まり、雲は晴れ、すぐに静けさが戻ってくる。 人々はおそるおそる顔を上げ、事情を知ると顔を見合わせて、わっと歓声を上げた。脅威は去ったのだ。 親しい人々の死を嘆きながらも、生き残ったことを喜び、傷ついた者たちの手当てを始める。炊き出しを始めるものもいて、辺りにはかぐわしい匂いが漂う。 「強いな、人間は」 知らず、業塵はつぶやいていた。 哀しみを拭い去ることは出来ないが、建物が再びつくりなおされ、田畑が耕し直されるように、少しずつ癒されてゆくだろう。何より、生きているからこそ、彼らはまた喜びを見ることも出来るのだから。 守久と、その身に封じられた奇妙な物の怪を讃える声が、うねる波のように集落を満たしている中、業塵は居心地悪そうにもぞりと動いた。 人間に、こんなふうに喜ばれる日が来ようとは思ってもみなかった。高らかに名を呼ばれ、讃えられることに全身がむず痒くなり、業塵は思わず口走っていた。 「……民を護ったわけではない」 「そうか」 守久のいらえには、どこか笑みがにじんでいる。 それに、奇妙な落ち着かなさを感じて――しかし、別段、不快ではなかった――、業塵はなおも言い募る。 「己が縄張りを荒らされて不愉快に思わぬ物の怪などおらぬ」 「そうか」 どこか言い訳めいたそれを否定はせず、守久はただそれだけ答えて、静かな、やさしい眼差しで、人間という生き物たちが持つ強靭な生命力に満ちた集落をじっと見つめていた。 その事件を境に、業塵を危険視するものはほとんどいなくなった。 民も侍も、彼らの『お館さま』に向けるのと同じ親しみを業塵に向け、あれこれと話しかけたり、彼の好きな酒や甘いものを供してくれたりするようになった。宴会の席に呼ばれ、もてなされたこともある。あなたのように強い子に育つよう抱いてやってくれと、生まれたばかりの赤子を差し出されたこともある。 子どもたちは相変わらず業塵のもとへやってきては、さまざまな遊びに興じて、彼は延々と付き合った。 一年も経つころには、そこにいるのが当然であるかのように受け入れられていた。業塵もすでに郷の住民のひとりだった。彼はそれを、不思議と嫌だとは思わず、乞われるままに手伝いをしたり、物の怪の世界に関する話をしたりした。 それは、本当に穏やかな時間だった。 物の怪として生きる限り、決して知ることはできなかっただろう世界を、守久と彼らが見せてくれた。 そう、鞍沢という国の滅亡まで。 * * * 「おーい、ゴウジン、ゴウジン!」 肩の上からアルウィンが呼ぶ声で、業塵は我に返った。 つい、物思いに耽っていたらしい。 数分くらいのものだったようだが、それは懐かしい記憶の奔流だった。 懐かしいという感情を、業塵は漠然と理解できるようになっていた。 「……いいこと、思い出してた?」 覗き込むように問われ、首を傾げると、 「ちょっと笑ってた。モモエムしてた」 アルウィン語に言うところの『微笑んで』いたと指摘され、業塵は戸惑う。 そうか、と返したのち、 「さて、な」 肩から彼女をおろし、やさしく立たせる。 小首を傾げて見上げてくる彼女に、在りし日の童女を思い起こし、業塵はまた深い感慨を覚えた。 頭をなでてやると、隊長にぶれいだぞと怒るふりをしてみせつつも、まんざらでもない顔だ。 「ゴウジン、もういっかい馬になれ! こんどはトリデを落とすのじゃー!」 肩車をせがみ、自分の脚をよじ登るアルウィンを抱き上げ、再度乗せてやりながら、業塵はまた遠い遠い昔の記憶に思いをはせる。 その片隅で、彼を初めて遊びに誘ったあの子が、弾けるように笑っている。もう、二度とあい見えることのできない人々が、しきりと業塵を呼び、笑っている。 己に去来し、包み込む感情、感覚を、ヒトの言葉で何と表現すればいいのか、業塵にはまだ判らない。人間の複雑な感情は、業塵には難解に過ぎる。 しかし、それはやはり、不快ではないのだった。 「ゴウジン?」 「なんでもない」 こたえて、業塵はゆっくりと歩き出す。 元気だねぇと、同居人が笑うのが見えた。 ――今は、童の相手も面倒ではない。
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