インヤンガイ、インヤンガイ……無機質なアナウンスに背中を押された設楽 一意は広い車内から吐き出され、悪臭漂うインヤンガイの地を踏んだ。 悪意が当たり前のように渦巻く世界。そこで出会った幼い娘。 あの子に似たハフリ。 一意が再びこの地に、チケットを握りしめてやってきた理由。 並ぶ屋台、行きかう人々……陽と陰が重なり合い、混ざり合う。楽しげな人々の裏では悪霊と陰謀が渦巻く世界。 ここは自分の住んでいた世界と似ている。 俺は帰りたいのか? 真姫のために帰りたいとぼんやりと思いながらも、今まで何もしてこなかった。 そうハフリに出会って思い知らされた。 俺はどうしたい? 迷い迷って、ここまできてしまった。 もともとオカルト関係の何でも屋である一意ならば、ハフリのことを知ることもそう難しいことではないだろう。 まずは、あの子を、ハフリについて知ろう。 ――この世界の者でもない自分が、ハフリを助ける、そんなことできるのか? 助けれたとしても、きっと、それは今あるものをすべて失うという前提だということは、そう、なんとなくはわかっている。 知ってどうする? と聞かれた。わからない。 一意はどうしたいの? と聞かれた。わからない。 なにもわからない。 覚醒したあとも、のらりくらりと過ごして、いろんなものから目を背けてきた。それが自分らしいという言い訳。 本当はただ恐れ、逃げていた。 インヤンガイの街並を昏い瞳で見つめて一意は腕のなかにいる使い魔であるうさぎを見下ろす。頭を撫でるとうさぎたちは嬉しそうに耳をふわふわと動かす。「それでも、ここにきたんだ。やることをやるさ」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>設楽 一意(czny4583)=========
目を眇めて見れば暗い、迷宮のような建物の間に蜘蛛の糸のように細い雨が降っていた。 濡れてもいいか、いやだな、と踏ん切りがつかなくなる、いやな天気だ。 設楽一意は連なる建物の屋根下を左半身を引きずりながら歩いていた。こんな天気のせいで人の姿は少なく、薄暗さと旅人の外套効果もあれば人の目を気にせず好き勝手できそうだ。 ハフリを探そう。 ハフリは俺の半身を侵す呪いにまるでまだ希望があるように言った。 それを詳しく知りたい。自分に掛けられた呪いを解くために。 着崩したスーツの懐に手をいれて式を呼ぶための小さな四画の白紙には己の血で複雑な円を描いた札を出しながら一意はすぐに否定した。 今更、ここまで来てまだ己を騙すのは無意味だ。 あぁ、呪いのことなんてただの表面上の理由だ。 「あの子に似ている」というのがなによりも大きな理由。 助けようとして助けられた真姫に似ていなければきっとここまでこなかった。 「あの子似たあの子のように可哀想な子」 必要としない力を手に入れて周りに利用され、孤立して、激流に飲み込まれて、ただ身を預けている娘。 あの子にもハフリにも失礼な同情で俺は動いている。 一意の暗い瞳は薄闇のなか静寂を守る街を見つめる。今は陰と陽ならば、完全なる陰の顔だろう。 暗く、淀んだ川のよう。 俺もまたそのなかのひとつ。 瞼を閉じて式を呼ぶことに集中する。 白い兎たちは一意のまわりをぴょんぴょんと飛び回る。白くふわふわの毛はこの闇のなかであまりにも眩しく、思わず目を鞘から抜いた剣のように細めていた。 あの子は兎たちを可愛がった。ハフリも。そんなところまで似ていた。 懐かしさは心を疼かせる。 それに比例して左半身がぶすぶすと泥沼に落ちるように重く、なる。 真姫の元に帰りたい。けれど帰るが怖い。 あの夢で見たような現実を直視することに怯えて足が前に出ない。 ハフリを助けたい。けれど帰属するほどの勇気はない。 何も知らない、ただ似ているという理由だけで惹かれている。 どっちつかずな俺。 兎たちが飛び跳ねるのに一意は一匹を抱き上げて頭を撫でた。 夢みたいな結論を待てる時間もそんな奇跡も存在しない。 犠牲なくして、誰も助けられやしない。 あの時、真姫のために犠牲にしようとしたのは俺自身。 けれど真姫に助けられて……偶然にも助かったこの命。 それを、もういちどあの子に似たハフリに捧げるのもいいかもしれない。 それは似ているからだろうか、あまりにもハフリが可哀想だと思うからだろうか? 一意にはわからない。 ただ真姫には真姫を愛する家族が居る……俺みたいな柄の悪い男に好かれるよりもきっといい。 吐き気が出るほどの自己満足と自己防衛、そして逃避。それから目を逸らした。 「式たちよ、調べてくれ。ハフリの居場所を、そして、あの術者の場所を、確認……したいことがあるんだ」 兎たちは飛び跳ねる。 彼らに心なんてものはないから楽しげに、まっすぐに、命令されたままに。 式たちに頼んだあと一意はじっとしてはいられずにしとしとと雨降るなかで体を震えるほどに冷たくして、白い息を吐きながら歩いた。 ハフリにはハフリを思う人がいるのか……もしいないというのならば。 俺がハフリを守る人間になろう。これが俺のたどり着いた結論。 汚い 汚い心だな 街中を歩いて、「魔女」について聞き込みをしている最中、心のなかで己を嘲笑う声がして一意はぎくりとした。 思わず雨のなかに飛び出す。 左腕が痛む。 心臓がまるで蜂に刺されたように苦しくなる。 「ぐ、はぁ」 呼吸すら忘れて雨のなか転がった一意は息を切らす。 ざぁああああああああああ 強くなる雨のなかに佇む人物を見上げた。 自分だ。 代わりがほしいんだろう 自分の居場所を与えてくれる存在ってのが 息を飲んで、締め付けられる心臓を右手で搔き毟る。これは悪い夢だと己に言い聞かせると左半身が疼いた。まるで蛇が這いまわるように己のさらにもう半身を寄こせと言うように広がっていくのがわかる。 「がああああああっ」 どうして いまさら! これは真姫の力で……! あぁ、俺が 真姫を裏切ろうとしているからか? 俺の考えは間違っていたのか? 涙のように頬に伝う雨のなか、一意は黒く笑う己と向き合い、半身の重みに沈みだしていた。このまま重くなってしまったら、今度こそ底の底まで、沈んでいくしか出来なくなる。 仕方ないさ。俺はずっと一人だったんだ。ろくでもない両親、環境、まぁ、師はいい人だったな。けどな、いろんなことをやってきた、人を殺して、呪ったやつはさらに呪われて。汚いな、汚いな、一意 一意は唇を噛みしめる。そうだ、人は汚い。自分を一人にした両親、憎んだ。ろくでもない周りの大人たちを恨んだ。呪術を習得し、それによってもたらされる人の醜さを嘲笑った。世界はほら汚い。汚いじゃないか。だから 黒い己が消えて、血まみれの真姫が現れて微笑む。あなたはひどいひと、自分に都合が悪くなければ言い訳をして捨てるのね 「違う、違う!」 頭を抱えて叫んで、縋るように一意は目の前の真姫を見る。 「違う」 ではなにが正しいのだろう。自分の下した結論。それはきっと逃げているのだと心のどこかで感じていた。 「俺は」 入り口のない迷宮のなかに閉じ込められた一意は茫然とする。 瞼を閉じたとき、薄い闇が広がる。幼い一意を囲む男と女は罵りを吐きだし、殴られた。痛み。ああ、これは両親だ。空腹と寂しさを与える両親。それでも手を伸ばして、ここにいたいと願った。殴られた傷はひどく、ひきずった体は重く、それでも縋ろうと手を伸ばしたとき力尽きた。 ずぶ。 左半身が、沈んだ。 先ほどよりもずっと深い闇を孕んで。一意は香を炊き、呪を口にした。朗々と謳いあげながら、抵抗が強いと判断して目を向けて問うた。老婆は頷いた。殺して。あんな愛人の子なんていらないわ。一意は頷いてさらに呪を強め、――仕事が終わったあと老婆は冷やかな目で一意を見た。人を殺して金をもらうなんてただの鬼っ子。 ずぶ。 左半身が沈んだ。 重くなる、重くなる。どんどん、どんどん。俺は何をしている。俺は、ただ 白い何かが飛んでくる。それが沈んでいく一意に体当たりを喰らわせて仰向けにする。はっとする、自分がどこにいるのかきちんと気がつけと己に言い聞かせる。呪いに負けてしまう。このままでは。 ここはインヤンガイ。 心が弱ければ容易く喰われる陰を孕む。けれど逆に心強ければ輝く陽を持つ。 ――かわいいですね 真姫は式を抱いて笑った。 ――お前は手間のかかる弟子だよ 師は豪快な人で酒を飲んで笑って。 なにもかも絶望したふりをして心を閉ざして見ないふりをしてきた。けれど本当はわかっていた。ろくでもない自分を引き上げてくれる人は、いた。 人を呪い、憎み、けれどその底に希望を抱いて。光の傍に行きたいと焦れてもいたのだ。それを自分は一時でも手に入れて、だから誰かを呪う刃を捨てて、護る盾になろうと願った。 真姫を、俺は助けたかった。けれど逆に助けられた。この命は、だからせめてもう一度、何かに、誰のために使いたいんだ 深い闇のなかで光を見た気がした。それに一意は無我夢中で左手を伸ばしてしがみついた。 もう溺れないために 俺はそうだ、汚い、醜い。けれどそれでもなにかを成したいんだ。逃げてきた。だからもう逃げないときめた。代価がいるなら俺をくれてやる! 俺自身だ。助けられた命を、繋いだこの命を使うと決めた。 ハフリ! 俺に、もう一度でいい、チャンスをくれ! しとしとと涙のような雨音。 薄暗い室内に、いくつもの札のはられた荒縄が張られて、なにかを守っている。 なにを? 目を凝らすと女の子がいた。ハフリだ。ハフリは白いふわふわの式を抱いていた。 ほのかな笑みを浮かべたハフリは式を撫でていた。 「どこからきたの? またあのときの人の? かわいい……ごめんね、ごめんなさい、私は、人を不幸にするから」 ちがう。そうじゃない 「不幸にしてきたから、私は」 ちがう。そうじゃない、 「ここにいて、みんな幸せなら、それで、いいよ。もういいよ、だって心を開いたら、また失う、もういやだ」 幼い少女を抱きしめる手はなく、寒々とした座敷牢のなかで押し殺した声が漏れていく。 ハフリは、たった一人で自分の制御できぬ力に怯えている。 無意識の力で周りを傷つけてしまい、どんどん追い込められた。心を開こうにも、また失ってしなうことを警戒して閉じこもるしかなくて。 たった一人。 雨に打たれながら一意は灰色の空を見つめた。今のは呪いが持つ幻影だったのか、そして、先ほど脳裏に飛び込んできたのは……思考を巡らせると、一匹の兎が赤い両目で一意を見る。主人を見下ろす不届きな兎の目は赤い硝子玉のように澄んでいた。 この命は真姫に助けられた。 彼女は、愛を、護られることを知る、強く、優しい人だった。太陽のような人だった。だから惹かれ、変われた。俺のなかのいろんなものを壊すことができて、再生させてくれた。 俺みたいな、じゃないな。俺を真姫は選んでくれた。 ほのかに左腕が熱くなっているのがわかった。手を見て力をこめて握った作った拳。僅かな痺れと痛みがあるが、鉛のように重くはない。 一意次第ね、 憎悪は種、悲観は育み、諦念は呪いを広げる。 「呪術の専門家のくせ、そんなことも忘れてたのかよ」 自分の間抜けぷりに舌打ちする。 覚醒は一意のなかの不安を生んだ。悲観と諦念は呪いを肉体に留めてしまった。それを必死に留めていたのは真姫への希望、愛、出会えて感謝……溢れるほどのあの子に対する言葉に出来ないほどの想いだった。 どちらかをとるのではない。 真姫は自分をずっとこうして支えてくれる。 ハフリは守り、教え、そして愛すればいい。 どちらも両立する愛なのだとようやくわかった。 雨に濡れたまま立ち上がり、一意はふらふらと歩き出した。しばらく歩いて曲がった狭い路地に赤傘をさした片目の術者が兎を抱いて待っていた。術者は兎を雨のなか自由にした。 「あんたはハフリのなんなんだ」 「知ってどうする」 「俺はあの子を守る、決めたんだ。差し出すのは俺だ。足りないか」 「……兄だ」 術者はあっさりと答えた。 「ずいぶん歳が」 「あれはもう二十歳だ」 一意は目を見開いた。何かがハフリの肉体の時間を止めている。 「あれのせいで両親は死んだ。俺はあれと縁を切りたくて、ずっと憎んでいた」 淡々と、けれど深い諦念と憎悪をこめた言葉に一意は俯いた。 「……そうか」 「助けるというならば、やってみろ。しかし、街の災いとなれば殺す。あれは力の使い方を知らん、力を無くせる方法もわからん。牢にはそういう事情もあってあれ自身が望んで入ったんだ、それを変えられるか?」 冷たい雨に左腕が疼いた。まだ、呪いは消えてはいない。何重にもかさなった鉛のような呪いは自分を、ハフリをがんじがらめに苦しめている。 けれど気がついたとき冷たい雨は止み、見上げた空は明るい太陽の日差しを零していた。
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