ターミナルの偽りの明るい空を見たとき、何もかも飲み込む津波のようにどっと身体に押し寄せてきた疲労をロウ ユエは無視して足を進めた。 雪色の長髪は物騒な赤に染められ、服はところどころ破けている姿はターミナルの住人たちの興味と不安の視線を集めた。それらをユエは乱暴に振り払うように大股で進み、今の住まいである平屋の門をくぐった。横に長く、庭には池もあって清涼な雰囲気が気に入って購入したそこは喧騒からは遠く、静寂の憩いをユエに与えた。戸をくぐったが従者は迎えにこない。まだ、帰ってないことを少しだけありがたいと思いながらユエは重い足をひきずって居間にいくと、藤の樹の椅子に腰かけた。 疲れた。 それはいやな類のものではないが、少しだけ寂しさがついていた。 インヤンガイでの騒動を解決させ、ユエは赤ん坊を母親に届けた。 赤ん坊に母親は泣き笑いの顔で向かえて頬すりをした。無償の愛情を当たり前のように赤ん坊は受け取って泣いた。 久しく忘れていた家族というものをユエは目のあたりにした。 そのあとターミナルでは司書の黒猫にゃんこに回収した世界計の破片とキサについて言葉少なく説明した。 にゃんこは少し悲しげな顔をして、黙って受け取った。 見届けることが自分の役目だと錯覚しそうになった。 ユエは故郷で、死にゆく仲間を腕の中に抱え、無力さを嘆きながらもそれを口に出せず、少しでも穏やかに逝けるようにと笑って看取ってきた。 久しく、思い出さなかったことだ けれど決して忘れない、忘れてはならないことだ。 自分は必ず故郷に帰る。待っているだろう仲間たちと合流し、安心できる大地を探す。それは覚醒してからもずっと変わらずある目的だ。 覚醒して数年経っているが、指導者を突然失った仲間たちは、生きていると確信していた。飽きないほどに信じているからこそユエは今まで生きてこれたのだ。 ヒイラギは ユエの頭に心配症の従者の顔が浮かんだ。 長らく共にいるが、従者のヒイラギはあまり感情を表に出さない。その内側は硝子細工のように繊細だが、炎のように燃えている。 感情を自分で制し、隠すことに長けた彼の内を知るのは主人であるユエも目を細め、注意せねばわからないほどだ。 しかし。しっかりと閉めきった箱の蓋の隙間からときどき溢れるものはあった。それが最近、とくにひどくなった。 夜も魘されていることが一度ならず存在し、その悲痛な声を聞きとったユエは飛び起きてヒイラギのいる部屋まで走って、起こしたほどだ。 そのたびにヒイラギは冷水を浴びたような、何かひどい苦しみから解放されたような顔をしてユエを見て、また顔を歪めた。 ――俺がなにかしたか? ユエはたまらず尋ねた。ヒイラギの目も、声も、想いも、すべてが自分に向かっていることはわかっていた。 なにがきっかけだったのかはわからずとも、自分がヒイラギに悪夢を見せているならば理由を知りたい、共に悩んで、解決したい。 けれど ――いいえ、なんでもないんです ヒイラギはまるで雪に覆われた冬花の蕾のように頑なで、ユエもまた口を閉ざすしかなかった。 インヤンガイの死者が大量に蘇る事件が起きた。 そのなかの一人の死者の名を聞いたヒイラギは思いのほか動揺した。いつも変わらぬ顔がはっきりと強張り、不安と恐れ、何かに耐えるように握りしめられた拳。 悲壮な目をしてヒイラギはユエを見た。 行かせてください、 切実な、祈りを捧げる信仰者のような静かな声のなかにある願いをユエは感じ取った。 ヒイラギは、ターミナルに来て変わった。 それはいい意味でも、悪い意味でも。 再会するまでどんな生活をしていたのか、自分の覚醒よりも六年もはやいので実のところはわからないが、それでも再び巡り会ってから変わらず自分のことを慕い、第一に思っているヒイラギが時折罪悪感で満ちた或いは恐ろしい物を見る目で見ている……それは以前から感じていたものだが、インヤンガイでの依頼からヒイラギは塞ぎこみ、あきらかに揺れるようになった。 彼のかかわった事件で、ひとつの街が閉鎖されたことが原因のように思えたが、その根がとても深いことはなんとなく察した。 ヒイラギ、お前はなにを隠している? 問いただしたい気持ちは常にユエの心にあった。けれど、ここでユエが一言尋ねたらヒイラギはどんなことでも話しただろう、自分の気持ちを横に置いてユエの願いを叶えるためだけに。 本人の気持ちを無視したやり方をしたくなかった。話したければ自分からきっと話すときがくるだろうとも思っていた。 けれど、いつかなんてものは儚い幻想であることもユエは知っている。故郷で当たり前のように共にいた仲間が、その日には死んでしまい、もう言葉を交わすこともできないという経験を何度もした。 ――ヒイラギ、お前がなにを抱えているのか。何を思っているのか、俺にはわからない、だからこの件にお前が行くことで、お前のなかのなにかが変われるなら、行け けれど ――俺は待っている。お前の心が聞けることを。しかし、いつかなんてものは不要だ。近い未来、その未来はお前が決めろ、ヒイラギ ――必ず生きて戻ってこい ――俺はお前を信じている 言葉のなかにこめたユエの気持ちがどれだけヒイラギに届いたのかはわからない。けれどヒイラギは驚愕したあと、静かに目を伏せて小さく頷いた。 ヒイラギを見送ったあと、ユエもまたロストレイルに乗り込んだ。ターミナルで一度とはいえ関わった無邪気な少女のために。 知っている者が傷つくのは見たくない。 これは自分のエゴだ。 エゴで何が悪い。 仲間を守りたいと思って何が悪い。 自分の手で護れるものを守ろうとして何が悪い。 仲間を信じる それと同じで自分も信じる 諦めない、 最後まで、どれだけ絶望があろうとも、希望を捨てたりはしない。自分で掴んでみせる それがユエの強さだ。 ずきり、と骨が軋む。 損傷の自己再生は結局のところは自分の肉体を怪我の前の状態に戻すものだ。治癒とは異なり、比較にならないほどの痛みが発生する。 はぁとユエは疲れたため息をついた。 化物だった。 自分も、玉石混淆なターミナルのなかでかなりの上位に属する異能者だと思うが、それと平然とやりあう、いや、下手すれば上回っている化物ばかりだった。今回はたまたま、運がよかったのだと死闘を思い出すだけで肝が冷える。 疲れた。 もう何度目になるため息交じりの吐息が零れる。 全身の緩慢な痛みと能力の使いすぎによって蓄積した疲労からユエは血がついた服を着替えもせず、目を伏せた。 血が渇いてぱりぱりで肌や服にひっついて気持ち悪いが、体が鉛のように重かった。 疲れた。 手足が沈む。 心が落ちていく。 以前もこんな状況があった。 血の臭いがひどくて、 手足が動かなくて あれは―― ――死んでしまえ! 口汚い罵りの文句とともに背中に突き刺さる痛みを無視してユエは走った。止まれば死ぬ。それがわかっていた。 乾いた空気と腐った大地の匂いを嗅ぎながらユエはひたすらに走り続けた。その背にずきずきと静かな痛みが押し寄せ、熱となって包んでくる。 痛みがあるのは生きている証。だから、まだ走れる。 討伐隊が出てくる情報はなかった。 騙されたのか、それとも自分たちの動きが漏れていたのかはわからないが、今はとにかく走るしかなった。 ユエに故郷はない。 夜都と呼ばれる人とは異なる者が住む国はなにもかもを飲みこむように大地を侵食し、人を喰らっていった。 夜都の住人である妖や獣たちは恐ろしく醜い姿の代価のように強く、知能も人と同じく、もしくは以上を有していたためだ。 だから人は夜を恐れ、用心深く暮らしていた。しかし、まるで水が大地にしみこむように隙間、隙間に妖たちは忍び込んでくる。 たった一夜でユエは国をなくした。 帰るべき場所、大切な身内、護るべき民たちを奪われたのだ。そのときに感じた恨みと喪失はきっと生涯忘れないのだろう。 あのときから、自分すら飲み込んで殺してしまうような憎悪がユエの心を満たしていた。 そんな気持ちを抱きながらユエが死なないのは自分のことをしっかりと抱いて逃げた者の手があったからだ。崩れる建物のなかで逃がした従者との再会を願ったからだ。 なによりユエは死ななかったのではない、死ねなかったというほうが正しい。 絶望は心を殺し、力という力を奪い取っていくものだが、ユエは国の上に立つための教育をされて育った。 優しい母はいつも共にいれなくとも優しい声で自分たちの義務を諭した。 私たちの血はワイン、パンは肉――上に立つとは彼らの命で作り上げられているということ。なにひとつ無駄にはしてはいけません、ユエ 父はつねに行動でユエにこうあるべきだと教え、導いてくれた。 自分の肉体はすべて民によって作られた。 義務はユエが生きている限り果たさなくてはいけないものだ。 ならば たとえ涙の一滴すら、あいつらにやるものか。絶対に 生きてやる。生きて、生きて、生き続けてやる。それが復讐だ。 身分を失っても、ユエは自分のなかにある衝動のような義務感に突き動かされて組織を作り、生き残りを集め、孤児を保護し、戦いながら生きてきた。 いつか。 そんな儚いものをユエは求めない。 自分の生きている間に必ず安寧の地を探すのだ。もう絶望しなくてもいいように、仲間たちが笑って、当たり前のように飢えず、学べる場所を与えてやるのだ。 いつかではなく、今をユエは生きていた。 レジスタンのアジトの情報が定かではないが、夜の訪れとともに夜都の兵が雪崩のように押し寄せてきたのにユエと力のある男たちは女子どもを逃がそうと必死に戦った。 ひとり、またひとりと減っていく仲間を見ながらにユエは鬼神のように敵を屠っていき、力が限界と悟ると一匹でも多くの敵をひきつけようとわざと走って逃げた。 死ぬつもりはない。 だがこの身体を張って仲間は守る。 冷たい夜気に血の臭いがした。 あまりの臭いにくらくらして、吐き気すらする、背中に浴びたいくつもの矢を乱暴に引き抜いて、まだ走れると思った瞬間、ぐらりと肉体が崩れた。 毒か? いいや。まだ進める。 剣を杖のようにして進もうとしたとき、風を切る音がしてぐらりとユエは倒れた。何が起こったのかと視線を巡らせると、両足がふっとばされていた。 鋭い爪が伸びてきた。腕をおさえて、力まかせにひきちぎられた。 声すらあがらない。 黒い、血塗られた視界で黒肌の女が嗤っているのが見えた。 鋭く、大きな爪がユエの腹から背まで貫通して、ざりぃと心臓箇所まで皮膚と肉と血が裂かれる。 心臓がとられる! わざと痛みを引き延ばそうとした爪の愛撫に似た引き裂きに奥歯を音がするほどに噛みしめてユエは燃える瞳で睨みつけた。 激しい怒りが激痛に塗り替えられるなかでも目だけは敵を捕らえ続けた。 これで終わりなのか? これで? まだなにも成し得ていない。まだ、なにも、 無念ゆえに悲しかった。同時に自由になれると、少しでもラクな方向に心が動いた己が許せなかった。 ユエ 母の声がした、父の声がした。 ユエ様 大切な従者の声がした。 仲間たちの声、護るべき民の まだ俺は死ねない! ユエは唯一、自由になる声だけでも抵抗した。まだ死ねなかった。自分を生かすもののために、どれだけ傷つこうと 己は刃だ。民の敵を殺すための 己は盾だ。民を守るための その奥底にあるのは大切なものと笑いあった、幸せだった日々を取り戻したいという切実な祈りのようなユエの心だった。 「!」 ユエは汗だくで目覚めた。まるで水から上がったように呼吸方法を忘れ、苦しさにはっと息をつく。 すぐに現実に戻って安堵のため息をついて、気がついた。 寒い? 「ん、これは」 なぜか服がはだけているのだ。その服を掴む手があるのに視線を向けると、ぽかんとしているヒイラギがいた。 「ヒイラギ?」 「……ユエ様」 「お前、なにを」 「これは、その」 「お前、見たのか」 傷を見られたことにユエは動揺した。対するヒイラギはこののっぴならない状況に硬直し、恐れ戦いていた。 いや、だって、脱がしてるし。 ヒイラギが戻ってきたのは五分ほど前。今回の事件にシロガネが関わっている以上、ほっておけなかった。きっと、これが彼女と向かい合う最後のチャンスだ。 彼女の最後の言葉を聞いて、ようやくヒイラギは自分自身の決着をつけるとすぐにターミナルに戻ってきた。 ヒイラギには気にかかることがあった。事件に関わったキサのことをユエは気にかけて、彼女を迎えに行くと口にしていたからだ。 主は強い。 きっと無事だろうと思うが、インヤンガイは時折、本物の化物がいる。 不安とともに無事を祈って戻れば、主がいるのにほっとしたが部屋いっぱいの鉄の臭いに眉をひそめた。見ればユエが血まみれなのにヒイラギはいつになく動揺し、普通ならば絶対にしない不作法―-ユエの服を脱がして怪我を確認しようとしたのだ。 そしてユエの白肌に刻まれた古い傷を見て息を飲んだ。これは 気持ちのよい話ではない、気にするな 覚醒についてユエは語ってくれなかった理由を察したヒイラギは俯いていた。 そして最悪のタイミングで目覚めた主人と、ついうっかり寝ている隙をついて服を脱がしている従者は視線を合わせて大変気まずい思いをする羽目に陥った。 「大ッッッ変申しわけありませんでしたッッ!!」 いつかのインヤンガイのときのようにコメツキバッタ並に頭をさげるヒイラギにユエは椅子に腰かけたまま頭を抱えた。 とりあえずこの混乱をなんとか落ち着ける必要がある。 「いい、いいから、顔をあげろ、ヒイラギ。俺の怪我を心配したのだろう?」 「はい。しかし、ユエ様の寝込みを襲うなど」 「俺は気にしない。それに襲うって、お前」 「しかし」 「俺を心配してのことだろう」 ヒイラギは恐る恐る顔をあげたのにユエは緩く笑った。 「茶がほしい。そのあと話さないか。今回のことと、そうだな。俺についても、……お前に語れといったのに俺がまず隠していたな」 「そんなことは! ユエ様は私のことを考えて」 「ああ、そうだ。だが、言葉を使わないから、ますます心配をかけてしまうこともあるだろう?」 「ユエ様」 隠しても無駄ならば聞かせるしかあるまい。そういえば再会したときも茶を飲んだな、と思い出すとますます笑えてきた。 「ユエ様……お茶を用意します。けど、その前に、ゆっくりと語るのでしたら服を着替えましょう。湯の用意もします」 ユエの優しい笑みにヒイラギは光をはじめた目にした子どものように息を飲み、小さく頷くとそそくさと立ち上がった。
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