その店の名前はトゥレーン。 樫の木のドアを押しあけて、中にはいると、静かな店内には椅子が二つ。真ん中のテーブルには紅茶と鉢植えが。 そして、自分の席の前にある椅子に腰掛けているのはチェロを抱えた目隠しの男がにこやかに出迎える。「いらっしゃい、お客様、それで、あなたはどんな花を咲かせますか?」 ここでは、チェロ弾きの主人があなたの話を聞きながらそれに合わせて一曲チェロを弾いてくれる。 きっかり三分間だけの曲を。 そして話終えると、二人の真ん中に置いた小さな植木鉢からひとつ、花が咲く。 どんな花かは、あなたの話し次第。 悲しい話は暗い色を、優しい話しは淡い色を、怒りの話は激しい色を、 ただし花にする話を語れるのは主人が弾くチェロの演奏時間だけ。 トゥレーンはきっかり三分間だけの曲。 その思い出の奥底にある感情を封じた花が出来あがる。 その花を受け取るのも、店主に預けてしまうのも、または破棄してしまうのも、あなた次第。 決して長くはない時間に語れることはほんのわずかなこと。 トゥレーンが始まる。――きっかり三分間。 さぁ、花にしたい記憶の断片を音楽に乗せて口にしよう。
野生の肉食獣を彷彿とさせる無駄な筋肉がついていない腕を大きくふってルンは煉瓦作りの道を進み、樫の樹で出来たドアを叩くように開いた。 ルンにしてみれば軽く押した、程度だがターミナルにきてから随分と体が軽くなった――重力が違うらしく、ルンは超人といってもいいほどの力を所有しているので ばき。 ドアが店の壁に激突して、外れた。 「ルン、壊した?」 「今の音は……これは、大変ですね」 店の奥からマスターが顔を出して、一瞬で状況を把握したのか苦笑いする。 ルンはすぐにドアに駆け寄った。 ターミナルでも樹海を主な生活空間としているルンだが、それでも依頼を受けるために何度かみなが生活している空間に足を運び、彼らの作法というものを知っている。 ものは壊しちゃいけない ルンはドアをどうすればいいのか考えて、両手で軽々と持ち上げると、開いたままの入り口にどすっと落とすようにつけた。 ルンとしては直すのは先ほどの状態に戻す、ということだ。 どうだろうとルンが疑問と不安いっぱいの視線を向けるとマスターが指を鳴らした。 とたんに、ルンのよく聞こえる耳に、かちゃんと音が聞こえた。見ると、ドアはルンが直したときより、しっかりとくっついている。ううん、ちゃんと直っている。 「直った?」 「さぁ、どうぞ。お客様」 「うん」 ルンは頷いて奥に進む。 ソファと、その前にある小さな丸い椅子の上に鉢がちょこんと置かれている。 「この店は、花を咲かせる店です。どうぞ。ソファに」 「……ルン、バーバリアンだ。花を咲かせたこと、ないぞ? 草は、たまに家畜の餌。でも、花はない」 ルンは目を瞬かせる。 「でしたらはじめてですね」 「花はどれくらいでできる?」 「3分ですね」 「3分? 3分で育つのか!? 草が!? すごいぞ、さすが神さまの国!」 数字は苦手だ。けれど両手の指を折ればちゃんとかわかる。 時間も苦手だ。だが最近依頼でこの時間まで待機、といわれて仲間と待つ経験をして肉体の感覚でルンは学びはじめていた。 「ところで、ここは目隠しをしたやつが主人だろう?」 マスターがきょとんとする。 「ここは目隠ししたやつが主人だと聞いたぞ。お前、違う」 「いいえ。私がここの主人でございます。ルン様、もしかしたら誰かと間違えているのではないでしょうか? 私はこのとおり、目隠しというものはしておりません。ああ、親友は片方の顔を仮面で隠していますね。目隠しとは、違いますが」 ルンは首を傾げる。 噂で聞いたことが嘘だったのだろうか? ルンの勘違い? 「マスターみたいなのがいっぱいいるのか?」 「私みたいなのがいっぱいいたら怖いですね」 「うーん? 分からんが、分かった。マスターはいっぱいいるのだな。その一人が目隠ししているんだな」 ルンは一人で納得した。わかるような、わからないような。けどわからないのは面白いので気にしない。 神様のすべてが理解できるわけがないものだ。 「ここに座って、話す? 作法、たくさんだな。神さまの国、すごいな」 座ったソファはふわふわだったのにルンは驚いて、ふわふわ! と叫んだ。マスターは楽しそうに微笑み、ルンの前に腰かけるとチェロを構えた。 「育てる話か……」 ルンはちょっと考える。ルンにしては珍しく、眉間に皺を寄せて難しい顔を作るのは瞬きを惜しんでいるからだ。 蜂蜜色の瞳がじっと鉢を見つめている。 花が咲くのをしっかりと見たい。 せっかくはじめて花を咲かせるのだから。 どうしよう。 どうしよう。 そうだ。 ルンは決めた。 ぐっと拳を握りしめる。すると、マスターがそれを察したようにチェロを弾く。ルンは知っている。 広い、広い、大地。そこに吹く風の音。それとチェロの歌声は同じだった。 「ルンは狩人 村一番の狩人だから、長の試練を受けた 洞窟、深かった 蝙蝠美味かった ルン、どんどん進んだ ルン、夜目が効く 鼻も良い 迷わなかった」 ルンは思い出す。乾いた大地の匂い、細い樹と獣たちの臭い。燦々と明るい太陽の光に満ちた故郷。 「試練の間、ついたら戻るだけ でもその時、地面が揺れた ルン、触っちゃいけない神の石に触れた だから失敗した 地面、もっと揺れた 神の石、倒れてきた ルン、神の石に潰されて、ここに来た」 ルンは思い出す。あのころを。仲間たちの声、頼られていて感じた、自分のなかにある仲間を守ること、狩人としての誇り。 だから 「みんなもう、移動した ルート、全く同じじゃない ルン、みんなの移動先、分からない 追いつけない、しょうがない」 ルンは思い出す。仲間たちの顔、ひとつひとつ。ここにきたときの驚き、心のなかに吹いた冷たい風のようなもやもや。それをきっと寂しい、不安なのだということをルンは今も知らない。ルンはそれらを吹き飛ばして、今いる場所で最善を探す。狩人は生きるために戦うものだ。 「神さまの国、何でもお金 食べるもお金 遊ぶもお金 字も、分からない でもここ、神さまの国 ルンは神さまの役に立ちに来た ルン役に立つ、だから、神さま ルンは頑張って、神さまの、作法覚える」 ルンは考える。そして言葉を使う。そうしなくちゃここはいけない。ルンなりに必死に覚えよう、役立とうと決めた。 ルンは瞬きせずに見ていて、鉢に光が集まるのを見た。 花だと思ったときには手を伸ばしていた。 「咲いたー! きれ」 とたんに、ずんと重いものがルンを襲った。よくわからないまま、ルンは気絶した。 「大丈夫ですか?」 ルンは目を開けると心配な顔をしたマスターがいた。 「ルン、どうした?」 「花に乗っ取られたのですよ。危なかったですね。ここで作られた花はすべて感情が集まったもので、不用意に触れればその花の宿した感情に乗っ取られてしまいます」 「ルンの花なのにか」 「ええ。そうです」 マスターは微笑んだ。 「ルンのものなのにルンのものじゃないのか」 「申し上げにくいのですが花にした地点で、その感情はその作り手である方であっても戻すことはできないのです。触れただけで花の宿した感情で心をいっぱいにして、大変なことになります」 ルンは驚いて目を見開き、大きくぱちぱちと二度瞬いた。 「そうなのか」 「花の宿した感情はたとえ枯れようと戻りません。私が魔法を解かない限りは絶対に」 「けど、ルン、花はいらない、返せないか?」 「……わかりました。御返ししましょう」 ルンは花をちらりと見る。真っ白い、名前を知らない花だ。けれど花びらが上へ、上へと向いていて、太陽の光を両手で抱き締めているみたいだ。 それは一瞬で光の粒となって、空気に溶け消えた。 ルンのなかに戻るために。けどルンは知っている、花はルンのなかにあることを。
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