駅から騒がしい外へと出た黒豹紳士のエク・シュヴァイスの帽子からはみ出た三角の耳が冷たい空気に触れてぴくりっと震えた。 冬の夜を照らす凛とした月色の瞳を細め、宿敵を睨むように見上げた空は灰色、そこから漏れる光は鈍く、ガスと食べ物が混ざった癖になるような悪臭が鼻孔をくすぐる。 帽子を片手に持ったエクは小さくため息をついた。 「……随分、待たせたな」 「ギリギリ一月経つ前かねぇ? ま、ココまで時間掛かったのはちょいとワケアリだって理沙子への言い訳は優しいオイラに任せろよ!」 ぎくり。 エクは顔を強張らせるとお節介で、一言余計なことばかりいう同行者のカラカルが擬人化した姿を持つテリガン・ウルグナズを睨みつけた。 ターミナルでも同じ人物を慕い、故郷も一緒のせいかどうも遠慮のない間柄だ。 「なんのことだ」 奥歯を噛みしめて、唸るようにエクは言い返す。ぴく、ぴくと神経質に髭が揺れている。 「だからさー、早とちりしてここまで待たせちまったの」 「なっ」 「真理数が出てもねぇーのに、帰属するぞーって燃えあがっちまってよー」 「うっ」 「いやー、あれは恥ずかしかった。もうすげー恥ずかしかった。オイラだったらもう恥の炎に燃え尽きて灰になっちまうか、一カ月は部屋からでれねぇーよ」 「うおおっ」 エクが悶えるのをテリガンはにししっと意地悪く笑う。 今からおおよそ一カ月前のこと。 理沙子にインヤンガイに再帰属してほしいと言われたエクはガラにもなく有頂天になった。心がときめくなんて趣味で集めているワインが増える以外でないと思っていたが、それ以上の高揚感に思わず後先考えずに突っ走っていた。 故郷でも命を助けて、探偵技術を教えてくれた師は 「お前は物事を吟味することを覚えろ」 ころりと忘れていた。 そんなわけでエクは即座に司書を捕まえて再帰属手続きを頼もうとした。 キサと理沙子が笑顔で自分を待ちわびている。それもエクの脳内ではなぜか大好きな甘いシュークリームと一緒に、である。思わず何も考えずにダイブしたい天国のような妄想を現実にするためにもエクは奔走した。 一回目は担当司書が部屋にいないのにどこにいるんだぁああと最終的にナマハゲみたいな顔で探していると深淵ビェイムを持つと噂されるリベル司書の睨みにすごすごとひき下がることになった。 二回目は担当司書がなんらかのトラブルでいなくなっていたのにエクはもうこの際、誰でもいいから申請すればいいと代理司書を見つけ出したのだが 「大変言いづらいのですか」 「なんだッ!」 思わず噛みつく勢いでエクは言い返した。 「真理数が、まだ出てないようですが」 「なぬっ!?」 「にしし、ばーか、ばーか、エクのばーか」 そうである。 エクはまだインヤンガイの真理数を獲得していなかったのだ。 リーダーからエクのことを頼まれていたテリガンははじめから、ずっと見守っていたがとうとう罵った。ちなみにテリガンはエクの真理数が出てないのもその頭上をみてばっちり理解していた。 「あれは見ものだったなー」 「……ッ、黙れぇ」 「まぁ、鏡なんてそうそう見ねーし? 見たとしても顔だしー、自分の真理数が出ているなんて、わかるわけねぇよなぁー。けど、まだはっきり出てねぇのに、インヤンガイに行くぞーってぷはははは!」 「……おい」 エクは怖い顔をしてスーツのポケットから小型の銃を取り出す。 撃つ。絶対に撃つ。こいつは撃ち殺す。 躊躇いもなく引き金をひくのにテリガンは背中の蝙蝠羽を広げて素早く空に逃げてしまうと大げさなほど腹を抱えて笑った。 エクはむすっとテリガンを睨む。 「お前、わかっていたならもっとはやく言え」 「えー、だって、エク、なにも言わねェからオイラ、なにしてるかなんてわかんなったもーん」 からかう口ぶりは絶対にわかっていて自分の奮闘という名の空回りを眺めていたのだと確信する。 「悪魔!」 「おう、オイラは悪魔だよーん。今更、そんなこと知ったのかよ、エク」 にししっ! 不愉快な笑い声を牙を剥きだしに漏らすテリガンにエクは黙って手の中の銃をポケットに仕舞った。 こんなことに時間をとられている暇は俺にはない。 エクはさっさと踵返して、通い慣れたアデル家の屋敷に続く道を進み始める。背後からテリガンが 「なんだよー、なぁなぁ」 無視だ。 真理数が出てないことは正直、ショックだった。 理沙子からの言葉が嬉しかっただけに、自分にはまだインヤンガイに帰るだけの資格がないのだと思うと悲しかった。 理沙子とキサの傍に居たいと痛いくらいに思っているが、それだけではだめなのだろうか? 考えてみると再帰属した者たちはそれぞれに絆を作り、世界で生きるための土台を一生懸命作っていた。 今のエクにあるのは理沙子への気持ちと彼女がこの世界にいてほしいと願った言葉、それだけだ。 エクの見た目はインヤンガイでは珍しい獣人だ。 人間しかいないこの世界にはそもそも合わないのだ。それでも、絆を作れば、生きていくだけの土台を作れば。 気持ちだけでは実際に生きることには繋がらない。 「なぁ、エク」 無視だ。無視。 「やーい、早とちりー」 無視、無視、無視! 「早とちりを一カ月も続けて、空回りした間抜けなエク」 「それは言うなって言っただろう!」 尻尾を膨らませてエクは振り返ると銃を構えてテリガンの鼻先に突きつけた。テリガンは大きな瞳を丸めたあと、にやりと意地悪く笑った。 「でもいいんじゃねーかな、ハワードのおっさんと勘違い同士で気が合いそうじゃん! なんせエクってば、0世界のハワード・アデルって噂立ってたくらいだし?」 「なんだ、その噂」 かなり、ものすごく、不名誉だ。 「勘違いやろー同士仲良くできるかもよー」 「あんなのとしてたまるか!」 エクは声を荒らげて言い返す。 何度かハワードと会ったが、それはすべて理沙子の抱えているトラブルのときのみ、最低限での接触だ。 キサが再帰属した祝いの晩餐会も、ハワードは遅れて現れたのをいいことにろくに挨拶もしなかった。 エクはどうしてもあの男を好きだと思えない。 必要とはいえキサを殺そうとした男だ。 彼にも事情があることは理沙子を通して僅かだか理解したが、やはり、いいや、むしろ、ターミナルでキサを大切に育て、教え、導いた分だけ愛情が増した今はますます彼のことを好きになれない。 「えー、よくねー」 「……撃つぞ」 「そうそう、実はエクの能力もおっさんに似てるんだよねー、ポケットから銃器がわんさかーって、おいおい、オイラとやりあうの? 違ェだろエク、本題忘れてるぜ?」 テリガンのさりげない軌道修正にエクは、今日一日で最も大きな苦虫を噛みしめた。 尻尾が膨れてひらひらと動いているのは苛立ちと怒りを抱えているのだとよくわかる。本当にわかりやすい。 「あーあ、もう、エクってば馬鹿なんだからよー」 ま、だからオイラ、好きなんだけど。さすがにそこまではテリガンも言わずに、あとを追って空中を進んだ。 アデル家につくと、灰色だった空が晴れて明るい光の柱がいくつも地上に落ちる。 鉄門をくぐれば目に優しい緑が出迎えてくれる。 計算して配置された樹は庭の主役の白い薔薇を栄えさせ、屋敷の壁は生命力あふれる蔦が大きな手を広げ、大地を潤す紫のラベンダー。 甘い緑の香りを肺いっぱいに吸い込んでエクは心を落ちつけようと庭を時間をかけながら足を動かして辿りついたのはインヤンガイでは珍しい洋風式の屋敷。 樫のドアを叩くと五分も立たずに女中が出迎えてくれた。 「アポはないが、理沙子に、会いに来た。俺が……エクが答えに来たと伝えてくれ」 女中はエクとテリガンを応接間に案内した。 緋色の絨毯が敷かれ、長椅子にはふかふかのクッション、部屋の端にはさりげなく陶器の壺が置かれた和洋折衷の室内だ。 エクはかちんこちんに固まって長椅子に腰かける。テリガンはエクの様子をにやにやと笑いながら見守り、クッションを軽く叩いて自分好みにすると横に腰かけた。すぐに女中が香りのいい紅茶を持ってやってきた。 インヤンガイでよく飲まれる茶をテリガンは砂糖とミルクを注いで、カップを手に持ってすする。淡く優しい香りと味わいが舌の中に広がると、きっと誰かさんの心を落ち着けるためのチョイスだと飲んでいたテリガンは理解する。 テリガンは尻尾をひらりと振るって、横で髭の先までぴーんと緊張から棒を飲んだような状態のエクを見た。 「オイオイ、あんなに騒いだくせに。いざってときによわいなー。そんな緊張するなよー」 「うるさいッ」 ぎぃとドアが開く音にエクは顔をあげ、テリガンも視線を向けた。 理沙子は光の白と血のように鮮やかな赤を混ぜ合わせたチャイナドレスで、腕は二の上まで覆う長い白い手袋の姿で現れた。 「ハァーイ、二人とも」 「よぉ!」 とテリガンが声をあげ、黙っているエクの横腹をつついた。 「あ、ああ。本日はお日柄もよく」 「ぷ、なに、いきなり、その台詞」 理沙子は屈託なく笑うと優雅な足取りで部屋のなかにはいってくる。エクはじっとその足を見つめた。 晩餐会のときに治癒されて足が戻ったが、彼女が歩いていることを見ると、エクの全身の毛がぴりりっと辛いものを食べたように緊張とは別の意味で張りつめる。 「エク、座ったら?」 理沙子はもう長椅子に腰かけている。テリガンも座り、ただ一人だけエクが立っていた。 「あ、す、すまない。足、治ったんだな。よかった」 「ありがとう。それで?」 喉をくすぐるように理沙子は微笑む。 運命の女に見つめられている歓びに近い、痺れが体を貫く。 エクは長椅子に腰かけて、理沙子に真摯な眼差しを向けた。 「……ッ。あの時の約束の、答えを伝えに来た。俺は……この世界でキサを、貴女とハワードと共に、見守って生きたい。確かに俺はこの世界ではあり得ない存在かもしれないが、それでも。俺にとって、大切なものが……この世界にも出来たから」 理沙子と出会えた、彼女の生んだ娘のキサと奇妙な運命の糸で繋がった。その細い糸を断ち切りたくないという切実な気持ちをこめた言葉。 理沙子が慈愛深く目を細めて、冬の終わりを告げる淡い春色の唇を開こうとしたとき 「お断りだ、坊や」 太い声が割って入ったのにエクは全身の毛が泡立つのを感じた。 恐る恐る視線をあげて視界が黒く染まる。 ハワード・アデル。 まだらの狼の別名を持つ男は冷やかに笑って立っていた。まるで気配がなかった、わからなかったことへの混乱にエクは息を飲む。 ハワードの全身から放たれる殺気にエクの意識は乗っ取られた。本能が動いたら死ぬと告げている。 「まったく、こそこそと、人のいない間になにをしているのかと思ったら」 「ハワード」 理沙子がかたい声で応じる。 ハワードは理沙子を無視して部屋のなかにずかずかと入ってきた。エクの体の芯が燃え、どろどろのマグマのような熱となっていく。テリガンが心配げに服を掴むが、それを振り払って立ちあがった。 「私はお前を認めない。さっさと帰れ」 「……なぜだッ!」 エクは押し殺した声で反論するといっそ優しいとすら言える微笑みを狼は浮かべた。 「お前は自分で口にしたな、ここではお前みたいなのは珍しい。だのになにもせずに来るつもりか? 計画性のなさに呆れたものだ! ふん、それとも理沙子に寄生するつもりか? そうして理沙子を食いものにして、不幸になれば彼女のせいか? ばかばかしいほどに成長のない。昔そうして不幸にした女がいただろうに」 「ッ!」 言葉の弾丸がエクの心臓を撃ち突ぬく。 キサ、理沙子、この二人といたい。二人も望んでくれている。 けれどエクのような獣人と、インヤンガイの世界はあまりにも合わない。よしんば、二人の心を頼りに帰属すれば、待っているのは不幸になる未来だけだろう。 心は変化していくものだ。 義理の母がそうだった――心では必死にエクを認めようとして出来ずに、追いつめられて首をしかめた女。 心だけでは足りなくて、結局破滅した。今の自分と彼女は同じ道を辿ろうとしている。 今更、そんなことをこの狼に教えられるとは思わなかった。 「俺は、それでも、理沙子と、キサを共にいたいんだ!」 応えたい理沙子に、キサに。言葉だけでは足りなくても、気持ちだけでは不幸になるといわれても、自分は諦めたくない。ここで得てしまったから。 エクの目がぎらぎらと輝き、いつでも襲い掛かるように身を低くする。と、何かが霞めたと思ったときには腹に衝撃が走り、エクは転がる。 「エク!」 テリガンが叫んで駆け寄った。 エクは腹を抱えて床に蹲り、嘔吐した。そこでようやく蹴られたのだとわかった。 一瞬、気絶していた。それほどに強烈な一撃だった。 「なら、見せてみろ。貴様の覚悟とやらを、この俺に」 エクは唸るように苦しげな呼吸を繰り返しながら、ハワードを睨みつけた。 帰りたい。 どこに? ここ、インヤンガイにいる彼女たちの元に。 この笑顔とともにあると決めたのだ。理沙子と、キサと一緒にいたい……この純粋で無垢な気持ちだけでは弱いというならば、行動すればいい。 まずは、目の前の狼に牙を剥く。 どんなものを犠牲にしても自分の大切なものを守るときめた黒豹が吼えたのにまだらの狼は牙を剥きだしにして嗤った。
このライターへメールを送る