ぼろい、その建物を見た設楽一意の第一印象はそれだ。 元は建物全体を何色かのペンキで塗られていたのか、それが禿げて現れた灰色が月日をいやでも感じさせ、窓は土埃のせいで雲ってなかを伺い見ることはできない。建物の横にある鉄の階段にはチラシや生ごみの残飯が散らかって悪臭が漂っている。 もし、地震があったら一番はじめに倒れると確信できる二階建ての建物。 「まぁ、タダだもんなぁ」 頭をかきながら誰に聞かせるでもない愚痴が零れる。すると横にいたハフリがぎゅっと一意の左手を掴んで引っ張った。見ると、不安そうなハフリが左手に抱いた白い兎に顔を埋めていた。 「ハフリ」 「臭い」 「……んなこといってもなぁ」 「汚い」 「しかたねーだろう」 「一意のばか」 「あのな、今までの会話のどこで俺の悪口に行きつくんだよ」 一意が呆れて睨みつける。ハフリはつんとそっぽ向いた。それでも握った手は離さない。もう片方に抱いた兎も。 ま、いっか。 一意はそんなハフリに満足する。 ハフリが結界を破ったのはすぐに判明した。 結界を張る術に、ハフリが逃げたり、結界が破れた場合のために報せの術が仕掛けられていたようだ。 呪いが解けたといっても体力と精神力を消費していた一意はすぐに動けないのに、あっという間に白い道士の服に棍棒を握った男たちに囲まれた。 一目で彼らが陰の道に属した術者であること、戦闘能力に長けていることも理解した一意は渋い顔を作った。とてもではないがまともにやりあって勝てるはずがない。せめて、ハフリだけでも逃がそうとしたとき、道士たちが道を開けて現れたのは三人の黒の衣を纏った老人だった。 「魔女が出た」 「不吉な」 「災いが広がる」 口ぐちに紡がれる、まるで呪いのような言葉にハフリが怯えて一意にしがみついた。 頭にかっと血が昇った。 「ハフリはそんなのじゃねぇ! 勝手なこというな、ジジイども!」 手負いの獣のように毛を逆立てて噛みつくように一意は吐き捨てた。 「不吉な」 「災いを広げにきたか」 「愚かな」 不吉な歌のように言葉が流れていく。一か八か兎を喚ぶべきかと思ったとき、別の声が飛んだ。 「それを許したのは私でございます。先導師殿」 振り返ると片目の術者だ。ハフリがびくりと震え上がったのに一意は自由な左手で背中を抱いて落ち着ける。 「魔女は災い、それを解くとは」 「気でも狂ったか、東の長よ」 「肉親愛か」 「否。私は狂うてはおりませぬ。南の長、北の長、西の長よ、肉親愛なんぞ親を死へと追い込まれたときに尽きたもの。私が許可したのはこの男は魔女の災いを抑え、街に福を呼ぶという。ならば試してみるのも一つかと思ったまででございます」 老人たちの淡々としていながら舌鋒鋭い追及を片目の術者はさらりとかわして提案した。 「どうせ、魔女の呪いを受けて死ぬのはこの男、ものは試してみてはどうかな? ハフリの呪いはこれが受けてくれる。失敗すればきつく封じればよいこと」 術者の提案に老人たちは押し黙り、じろりと値踏みするような視線を向けてきた。不愉快さをきつく歯を噛みしめて耐えて、睨み返す。 「言はあるかと問おうではないか」 「聞こうではないか」 「見ようではないか」 「一つだけ、俺から言えることがあるとすればハフリについて責任はすべて自分にあるってことだ。俺がハフリの責任は持つ」 まるで永遠にも等しい沈黙ののち 「よかろう」 老人の一人が代表するように呟いた。 己たちに損はないと考えたのか彼らはそれ以上何も言わず引き上げていった。一意ははぁと息を吐いて顔をあげると、片目の術者はやれやれと肩を竦めた。 「このあとのことを考えているのか」 「……全然」 「愚か者」 鞭のようにしなる一撃に一意は押し黙る。 「責任を持つのか」 「当たり前だ。今のジジイどもは」 一意は即答して、術者を睨みつけて問いかけた。 「この街をそれぞれ収めている術者組合の長だ、四龍長と言われている。ここ最近、街が安定しない上、頼りにしていたエバ様も亡くなられて覇権を争い、ぴりぴりしている。あれらは俺が黙らせるが、お前が失敗すればハフリは戻される。それはわかったか?」 一意は静かに顎をひく。 自分が失敗した場合、ハフリに未来はない。 この場合の失敗はハフリが他者を傷つける、街のなかで騒動を起こすこと、さらには一意の死亡した場合を意味している。 「俺は、ハフリとこの街で生きていくって決めたんだ」 「そのわりには計画性が皆無だな」 術者は呆れた顔をした。 「住まいは俺が用意してやる。お前とハフリをこの街に受け入れる準備だ」 「本当か!」 「先ほど、他の長に見栄をはったからな。最低限はしてやるが、あとは自分で考えろ」 「ありがとう、えっと」 「白龍」 白龍はそっけなく答えたあと、片方しかない目でハフリを一瞥したが、すぐに視線を外した。 白龍の与えてくれた建物は本当に雨露さえしのければいいという建物だ。 前の住人がどうだったのか知らないが、ソファや机などそのまま放置されていた。床は埃とよくわからない書類が散らかって足の踏み場がない。 建物と一緒にもらったのは煎餅布団が一枚と僅かな金。 自由にしろ 白龍は一意に告げた。 それはすべて一意の力量にかかっているということだ。この建物を使い、一体どうするか、考えてぱっと浮かんだのはオカルト関係の何でも屋――自分のもともとの職だ。幸いインヤンガイは探偵という職がある。 ここで昔みたいな仕事をするのも悪くねぇな。 「うーん、なんかの事務所だったのか。くっそ、掃除しないとな」 オフィスとして使われていたらしい部屋の奥にはもう一つ部屋があり、そこはプライベートゾーンとして使えそうだ。さらにキッチン、風呂、トイレも常備されている。二階は広い空間が一つあるだけだ。 「……一意」 「ん?」 部屋のなかを見まわっていた一意はハフリの呼び声に振り返った。 「おなかへった」 「……まずは飯か」 一意は苦笑いした。 箒、塵取といった掃除道具と一緒に屋台でいくつかの料理を購入した。ほかほかの米に野菜と肉をまぜたものを竹の葉で蒸したもの、豚の肉をとろとろになるまで煮込んだもの……ほかほかの食事をひとまず置いておくとまずは換気をして、箒で一意は一階、ハフリは二階の掃除にとりかかった。 「一緒にいるなら協力して生活しないとな」 「う、ん」 ハフリは反論しなかった。ただ空腹を訴えるように睨んできた。 「掃除が一通り済んだら夕飯な? もう夕方だからな、はやくしないと、寝る場所もないぞ」 ハフリは黙って二階に駆け出していった。 その幼さを愛しいと思う。護りたいと思う。ここに、いたいと思う。 自由になった左腕を見下ろし、撫でる。 真姫、彼女の与えてくれた愛は俺を救った。もう二度と会うことはないと、けれど残してくれたものは永遠に残り続ける。 がらでもねーことしてるよな、俺も。 明日からやることはいっぱいある。住まいを手に入れたところで与えられた金は少ないのだ。それでやりくりして仕事の宣伝をして客を獲得して生活の基盤を作らなくてはいけない。 白龍に言えば仕事をまわしてくれるかもしれない、彼はなんといっても術者としてかなりの地位にいる。そうして仕事をしながら、ハフリを認めさせることを考えよう。 どうすればハフリの力が抑えられるのか。今は安定しているが、それはずっと白兎を抱き続けて安心しているからか、一意を心から信頼して落ち着いているのか。心の動きが力に作用するとすれば両方かもしれない。もっと自分で心を落ち着ける術を学ぶなり、別の術で強制的に抑え込む……思えば一意の呪を抑えていたのは真姫の力であったのだし、出来ないことはないだろう。 力をコントロールするか、強制的にある程度は抑え込んだら今度はハフリの今後だ。 見た目は幼いが、すでに成人している彼女に自分はなにを与えられるだろう。この街で生きていく上でハフリは街と関わりあう必要がある。 ハフリほどの力を持つ者ならば、自分の仕事の手伝いをさせてもいいかもしれない、もしくは未来を見れる力をうまいこと良い方向で活用して自立できないものかと考える。 いずれはハフリだって自分の足で立ち上がる。俺が手をとらなくたって歩いていける。本当に自由になれる。 その姿を見たい、心の端で見たくないとも思う声を無視する。 「かずい、さぼってる」 「ん?」 考え事をしていたせいでちっとも掃除がすすまなかった。二階から降りてきたハフリの不満を聞いて苦笑いが漏れる。 「こう量が多いとな」 「かずい」 「なんだよ」 「ハフリはしたのに」 ハフリと、彼女に持たせた兎が赤い目で睨んできた。 「……悪かった、悪かった。飯にしようぜ」 「うん」 食事の一言でころりと機嫌がよくなるのだからまったく子どもだ。 部屋にあった机を借りて夕食をとりながら一意はこれからについてざっとだがハフリに話して聞かせた。 自分の、旅人という身分も含めて。 「かずいは、どこかにいくの」 「いや、俺はここに……出来れば、ずっといたいと思ってる」 「ハフリと一緒に?」 「ああ」 ハフリは円らな瞳をぱちぱちと二回瞬かせたあと、ふっと口元に笑みを作った。 「わかった。ハフリもがんばる」 「ハフリ」 「正直、力のこと、よくわからないの。けど、激しく気持ちが動くとうまく操れないの。本能的に守ろうとするの、自分のこと……ときどき意図的に使うことはあるよ。かずいと別れたときとか」 「俺に触れたのは力を使おうとしてのことか」 「うん。かずいに触れたとき見せちゃえって強く思ったの。そうしたら、だいたい使える。えっとね、危ないなって思ったときみたいな気分になる。使ったあとは心がざわざわして落ち着かなくなる、私も嫌な気分になるの。なんだか昔の悪いこといっぱい思い出して」 「……未来を見せると、お前自身は過去を思い出すのか」 「うん」 呪いと同じだ。何かを成すには代価がいる。ハフリの場合、他者に未来を見せると己が過去を見る羽目に陥るようだ。しかもあまりよくない過去を。 「かずい?」 「もっと活用方法があるかと思ったが、あまり使わない方がいい。きちんと訓練してコントロールして、抑えるのがお前のためだ。術の基礎には瞑想ってのがあるから、それを叩き込んで、心を落ち着けていけばなんとかなると思う。もし術を使うときは自分のなかでスイッチをいれるって、ちょっと難しいが切り替えできるようにすればいいと思うぜ」 「うん」 「不安がるなよ。俺がいるって」 「かずいがいるの、ずっと」 「ああ」 「ずっとよ」 「うん」 「なら……うん」 ハフリはまた小さく笑った。 寝る場所は結局、一階の奥の部屋を使用した。布団が一つしかないのに一意は躊躇わなかったがハフリがものすごく困った顔をして渋った。 「ほら、さっさと寝ろよ」 「……」 「お前みたいなガキに変なことしねーよ」 「かずいのばか」 また罵られた。なんなんだと睨んでいるとハフリはぷんすこしながら一意に背を向けて布団の端で丸まった。その姿に苦笑いして眠ることにした。 夢のなかで一意はなぜか小さく、無力な、泣くだけの子どもだった。すると二十歳くらいの女性が笑って抱きしてくれた。あたたかくて、優しい腕のなかに守られている。大人になりたいと思ったとき現実の姿に戻ったが、彼女は相変わらず傍にいてくれた。とっても嬉しかった。幸せだと思った。 かずい、あのね、大好き ああ、ハフリだったのかと思ったとき手を伸ばし 「っ!」 思わず飛び起きた一意は目をぱちぱちさせた。ちゅんちゅんと雀の鳴く声と朝日が窓から差し込んでいる。 「ありゃ、夢だよな」 横を見ると、いつの間にか胸の中に兎と一緒にすり寄ってきたハフリがいた。 「かずい」 寝言を呟くハフリに一意は苦い顔をした。 そういえば、ハフリって二十歳だったな。しかも未来を見せるが、もしかしたら添い寝すると夢まで干渉できるのか。なぁ あれが未来なんて…… 「あー」 思わず朝から唸り声が漏れた。
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