壱番世界の日本ではまだまだ残暑が厳しい。0世界に降り立ったジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは肌で感じる空気の違いに、本当に0世界は停滞しているのだなと感じた。 だが世界が停滞し、身体の時間が止まったとしても、彼女達の時間は動いているのだ。 そう、日に日に友情が深まるように。 ジュリエッタはあるものが入ったカバンをギュっと抱きしめて、そして目的地へと急いだ。 ジュリエッタが訪れたのはとあるアパートメント。音を立てぬようにゆっくりと階段を登り、そして目的の部屋の前へと進む。 英語で書かれた少し古ぼけたネームプレートを見て、ジュリエッタは目を細めた。この部屋の住人は彼女が覚醒するよりもずっとずっと前からここ住んでいて、ずっとずっと時の迷い子だったのだ。 「……」 そっと、そのネームプレートに書かれた名前を指でなぞる。 『サシャ・エルガシャ』 ジュリエッタの大切な大切な友人だ。 友人と会うのに理由などいらない。けれども今日のジュリエッタは重大な用事があってサシャの住居を訪ねていた。 すうっと息を吸って、吐いて。 トントン。 軽く扉を叩く。 「はーい!」 扉の向こうから聞こえてきたいつもの明るい声に、ジュリエッタはなんだか安心して自然と笑みを浮かべていた。 「どちらさまですかー?」 「わたくしじゃ。ジュリエッタじゃ」 「ジュリエッタちゃん!?」 友人の突然の訪問に驚いたのか、扉は勢い良く開いた。目を丸くしながらジュリエッタの姿を認めて「いらっしゃい」と微笑むサシャは、来客の予定も外出の予定もないというのにしっかりと身支度を整えている。身だしなみをしっかりと整えているのは彼女らしいなと、ジュリエッタは思った。 「突然どうしたの?」 「うむ、サシャ殿をデートに誘おうと思ってな……今日の予定は空いているかの?」 「うん、大丈夫だよ。気分転換にスイーツでも食べに行こうかなって思っていたくらいだし」 「ならちょうどよかった。喫茶店にでもいこう」 面白い名前の喫茶店を見つけたのだというジュリエッタに促されて、サシャはアパートメントを出る。 「面白いって……どんな名前なの?」 「『イタズラ好き』じゃよ」 問うたサシャにジュリエッタがニヤッと笑って答える。しかし意味がわからなかったサシャの頭には当然はてなマークが浮かんだままだ。それでもジュリエッタについてトラムに乗ると、たどり着いたのは商店街。 数々の店を抜けて奥まったところまでいけば、そこには瀟洒な建物があった。壱番世界の中世ヨーロッパの貴族の住むような上品な洋館風のそれは一見さんお断りでドレスコードのあるような店に見える。 景観を損ねぬように小さく置かれた看板には『レストラン【ミスチヴァス】』と書かれている。 「……レストラン?」 看板を確認したサシャが小首を傾げた時、数メートル離れた地点から自分を呼ぶ声が聞こえた。 「おーい、サシャ殿。こっちじゃ!」 声の主を探せば、洋館の隣の白い屋根の建物の前にジュリエッタが立っている。サシャは小走りで近づいてその建物を見た。 「わぁ……」 看板からして丸い文字と雲、シャボン玉がパステルカラーで描かれた可愛いお店だ。全体的にメルヘンチックで、お伽噺の中に入ってしまったかのようなその建物。なんとなく、モフトピアを思い出す。 「『Cafe ミスチヴァス』」 看板の丸い文字を読んでなるほど、これは隣のレストランと同系列の店なのかと納得するも、隣接して建てるにはあまりにも趣向が違いすぎるのではなんて思ったりもして。だがジュリエッタはそんな事気にしていないようだった。 「『ミスチヴァス』とは」 「『イタズラ好き』だね。なるほど」 ジュリエッタの言葉を引き継いでサシャは頷いた。いったい隣の瀟洒なレストランではどんなことになっているのだろうなどふと思ったが、今は目の前のカフェに意識を戻して。 ビスケットのような扉を押し開ければ、中もパステルカラーのメルヘンな世界で。雲や星、ペガサスなどのオーナメントが吊り下げられていて見ているだけで楽しい。 案内してくれたお姉さんの短いスカートから急にフサフサの尻尾が飛び出してきてびっくりしたりもしたが、いたずらなのか0世界にいる様々な人種の特徴なのか判別がつかないので二人して顔を見合わせる。 席に到着するまでの間、お客さん達が到着したり料理に声を上げながら楽しんでいる様子を見て、メニューにも期待ができた。 ただ気になるのはところどころにはられている張り紙で。 懐中時計を持ったウサギの絵の横に『僕と一緒に走ってくれるアリスを募集中。時給はトランプ3枚』。 お腹の大きな狼が眠っている側で赤ずきんとおばあさんと狩人が喜んでいる絵の横には『赤ずきんの特性料理、完食できたらご褒美あげちゃう!』 など、おそらくバイト募集や大食いメニューの案内であろう張り紙がメルヘンチックにアレンジされていた。 「わぁ、可愛いテーブルと椅子!」 ロールケーキを模した椅子にミルフィーユのテーブル。子供から女性まで、可愛いものが好きであれば全てが楽しめそうな調度にサシャが声を上げた。 「ご注文がお決まりになったらお知らせください」 「わかったのじゃ」 パステルカラーのコップでお冷が出され、ジュリエッタがフワフワした表紙のメニューを二冊受け取る。それをサシャに渡して。二人は同時に開いて、そして一瞬固まった。 「……」 「……」 二人共メニューから視線を上げて。 「サシャ殿、どうするのじゃ?」 「ジュリエッタちゃんこそ」 メニューには写真が一切無く、しかも料理の名前からスイーツが全く想像できないのだ。かろうじて『ケーキ』『その他』『ドリンク』のカテゴリはあるものの、補足説明が殆ど無い。 「これもイタズラなのかのう……」 「さっきお客さんが声を上げていたのが何となくわかった気がする……」 しかし注文しなければ話にならない。たっぷり悩んだ後、ジュリエッタは『レディ・カリスの腹話術』と『アリスの血の滲む努力』、サシャは『リリイの優雅なポーカー』と『シンデレラの昼下がり』を選んだ。 どんなものが出てくるか戦々恐々としていた二人だったが、ジュリエッタには狐のパペットをかたどった可愛いスポンジケーキにマカロンと、飴飾りを散らしたバニラアイスの載ったホカホカのアップルパイ。そして花火の刺さったざくろジュース。サシャにはトランプを模した精緻な細工の施されたビスケットの間にアイスを挟んだものとドーム状のババロアをスカートに見立てて飴細工の女の人が乗せられているもの。スカートにはシュクレフィレがかけられていてキラキラと輝いている。飲み物は壱番世界でよく売られている半透明の乳酸菌飲料だった。 安心して食べ進める二人。「美味しいね」など軽い言葉は口にしていたが、程なくして話題を持ちだしたのはジュリエッタだった。 「今、何故か初めてサシャ殿と出会った頃を思い出しておった」 「あ、奇遇。私も! 不思議と、気があったんだよね」 それは数年前、ジュリエッタが覚醒した頃の話だった。 二人は口の中に甘い味がとろけるのに逆らうように、過去に思いを馳せる――。 *-*-* 「ふう……」 ジュリエッタは小さく息をついた。肩に手を当ててグリグリと回す。ずっと同じ姿勢でいると肩が凝る。 漸く日本にも慣れ、床の間で趣味に耽るのにも慣れてきた。彼女の趣味は恋愛小説を執筆することで、日本に来て見るもの見るもの目新しくもあれば、インスピレーションが湧き上がる。今書いているものに直接影響はなくとも、いずれどこかで新しく吸収した知識は役立つはずだと思っている。 「筆が走るのはいいのじゃが……肩が凝ったのう」 ずっと同じ体勢でいれば筋肉が凝り固まってしまう。ジュリエッタは伸びをして、ふと風を取り込むために開かれている大窓から庭を眺めた。 その日、サシャは壱番世界日本の某所を訪れていた。そこには覚醒した自覚のないコンダクターがいるという。彼女に事情を話して0世界に来てもらうのがサシャの役目。しかし問題の彼女が住む家まで到着したその時、壁にぶつかっていた。 門を開けて玄関へ回ったがいいが、鍵がかかっていたのだ。まさか不在!? しかし世界司書の予言は絶対。だとすれば彼女はここにいるはずなのだが。 (どこか、中の様子をさぐれる所は……) きょろきょろとあたりを見回す。玄関から直接は回れないようだが、敷地を取り囲む石塀には続きがあった。と言うことは庭やら何やら他に入れる場所があるのではないか。 あたりをつけて石塀に沿って進むと、大きな木で目隠しされているが、建物の屋根が石塀より遠くにある場所があった。石塀と建物の間にある空間、それは庭である可能性が高い。 石塀を作り出しているブロックは幸いにも角が丸く加工されたものであり四つ角が集まる部分に隙間が空いている。そこから覗けば木や草が邪魔ではあるが、奥にある建物にちらっと人影が見えた気がした。 「あれかな? 確かめないと……」 さてどうやって確かめよう。きょろきょろと見回しても塀を登れそうなものはない。防犯的には大変優秀であるが、サシャ的にはちょっと困ってしまう。 「自力で登るしかないか」 幸い塀の向こうの木から枝がこちら側に飛び出してして、その枝さえ掴んでしまえば何とかなりそうに見える。 サシャは塀の綻びを見つけて、そこにつま先をかけた。はしたないけどそんな事言っている場合ではなかった。誰も見ている人がいないことを確認して、少しだけスカートをたくしあげて足に力を入れる。 「よっ……とっ……」 何とか石塀の隙間に指を入れて自分の体重を持ち上げようとするが、なかなかに年頃の少女には難しいもので。何度も何度もピョンピョン跳ねるようにして漸く身体を持ち上げる。ぷるぷると腕を震わせながら蝉のように石塀に張り付いて、片方の手を伸ばして何とか枝をつかむ。 「やった……」 ギシ……枝は軋んだが、まだサシャを見放しそうにはない。なんとか身体を持ち上げて石塀の上へと膝をつく。肩で息をするくらいには消耗してしまったが、ここからが本番だ。その場からは建物の一室で何か作業しをしている少女の姿が見えた。 「あれが……?」 サシャは枝を伝い、庭へ降りようと試みる。だが、折よく吹いた強風が木々をざわざわと揺らし――結果。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 ずざささささささささささささっ!! 「!?」 ジュリエッタは突然聞こえてきた悲鳴と、植物の揺れる尋常ではない音に反応し、腰を上げた。 「何事じゃ!?」 立ち上がって窓の側に移動する。 ざわざわ、ざわざわ。 低木がざわめいているそのあたりをじっと凝視していると、 「いたたたた……」 ひょこんと姿を見せたのは、陽の光に輝く金色の髪。夜のように深い色のメイド服。そう、由緒正しきメイドであった。 「なんとっ!?」 「あ……」 失敗しちゃったとか見つかっちゃったとか擦り傷痛いとか思っているサシャをよそに、窓際から彼女を見つめるジュリエッタの瞳はなぜかキラキラと輝いていた。 *-*-* 「しかし奇妙な夢じゃな」 「えっと、夢じゃないんだけどね……」 サシャを床の間に上げたジュリエッタは、救急箱を持ちだして傷の手当をしてくれていた。しかしなぜだか彼女はこの出来事を夢だと思い込んでいるようなのだ。 (確かに、メイドがいきなり降ってきたら夢だと思うかもしれないけど……) でもそれにしてもなんだか変だ。理由は別のところにある気がする。サシャが不思議に思っていると、治療を終えたジュリエッタが机の上を指した。 「ちょうど今、そなたのような美少女メイドを主人公にした小説を書いておったのじゃ!」 「えっ!?」 「この話から抜け出てきた主人公のような美少女に会わせてくれるなんて、粋な夢じゃ」 ジュリエッタはご機嫌で原稿用紙を取りまとめている。サシャには気になっていて、言おうか言うまいか迷っていることがあった。意を決して。 「あの、その話読ませてくれないかな?」 「まだ完結しておらんが……読んでくれるのか?」 ジュリエッタはサシャの願いに気分を害した様子はなく、むしろ歓迎だと言わんばかりに笑んで原稿用紙の束を差し出した。 「ありがとう!」 サシャは受け取ると、むさぼるように文字を追う。ジュリエッタは彼女が真剣に原稿に目を通してくれている様子を眺めていたが、そのうちあることに気がついた。 本人は気づいていないかもしれないが、サシャの表情が、コロコロ変わるのだ。まるで主人公に感情移入しているようで、彼女の表情を見ているだけで今どこのシーンを読んでいるのかわかるほどに。 「すごい……この主人公、本当に私みたい!」 「そうじゃろう!」 「この続きは?」 「まだじゃ。さっき漸くそこまで書き上げたところなのじゃ」 そうだよね、とインクが乾いたばかりの最終ページを見てサシャは呟く。そういえば完結していないと最初に言われていた。 「でも凄いロマンチック。苦労を乗り越えていくこの主人公の元に本当に王子様が現れるのかがきになるっ!」 「わたくしに現実で良き伴侶が現れてくれればいいのじゃが……」 「その年で伴侶だなんてっ……オトナだねっ! でも私も憧れる~。これこそ運命って思える恋とか、ただ一人、私だけの王子様が現れたりとか」 祈るように手を組んでうっとりとした瞳を見せるサシャ。ジュリエッタもうんうんと頷いて。 「そなたはこんなにも器量良しなのだから、必ず良き伴侶が現れると思うがのう」 「そうだといいなぁー」 そしてそのまま二人の恋愛談義はヒートアップしていったのである。 サシャが、本来の目的をすっかりわすていた事に気がつくまで。 *-*-* 「サシャ殿」 互いの回想話が一区切りした所で、ジュリエッタは食べ終わった皿をテーブルの脇に寄せて、紙ナプキンでテーブルを軽く拭きとった。そしてカバンから取り出したのは、一冊の本。 手製の温かみのある表紙には手書きでタイトルと作者名が入れられており、リボンで飾られていた。 「ロキ殿と正式に恋人となったと聞いた。おめでとう」 「えっ……」 「これは祝いの品じゃ」 テーブルの上に置いた本をついと差し出されて、サシャも慌てて皿を脇に寄せる。そして本を手にとってリボンを解いた。 「これ、手作りだよね?」 市販の製本セットを使ったので表紙は丈夫なハードカバー仕様になっている。文庫本よりは大きめで、日記帳によく似たサイズの本は、手作り感が出ていて込められた思いが感じられるようだった。 「あの時書いていた『大英帝国時代のメイドが主人公』の話じゃ」 「完結したんだね!」 いい? と断ってサシャは本を開く。そして、あの日の続きから読み始めて。 ジュリエッタはその様子を目を細めて見守っていた。あの日と同じで、サシャの表情の変化を見ていればどの場面か想像がつくのだ。 「え、これって……」 途中でページを繰るのを止めたサシャが、初めのページに戻って読み直す。 そう、途中で気がついたがあの日読んだものとは変わっている設定があったのだ。 あの日読んだ話は主人公である『大英帝国時代のメイド』に『サシャが似ていた』。 だがこの話は、『サシャがモデル』の話になっているではないか。 まさにこれは、世界でただひとつの物語。サシャのために書かれた話。 「ジュリエッタ、ちゃん……」 小説を最後まで読んだサシャの瞳は涙に濡れていた。もうだいぶ前から涙が零れそうだったが、最後の最後で我慢しきれ無くなっていた。 「おめでとう、サシャ殿。心から祝福するのじゃ」 ジュリエッタは席を立ち、サシャの隣に進んでその涙を拭う。 サシャの胸には色々な気持ちが混在していた。たくさんたくさん言いたいことが、言わなければいけないことがありすぎて、はどうしてもどうしても言葉にならなくて。言葉にできぬのがもどかしくて、ジュリエッタに抱きついた。それしか今の気持ちを表す方法がなかったから。 「サシャ殿が二百年かけて彼氏を見つけたのじゃ。きっとわたくしもそれまでに……二、二百年もかかるとは思いたくないのだがのう」 本気とも冗談ともつかぬ声でそう言ったジュリエッタは、サシャを優しく抱きしめて。そのぬくもりが、涙が彼女からの謝辞なのだと感じ取っていた。 大切な人ができても、友情は薄れることはない。むしろ、どんどん深まっていくのだ。 「サシャ殿、ケーキをもう一つ頼まぬか? 祝いに奢ろう。だから泣き止んでくれるかのう」 暫くして、店内の皆から注目されていることに気がついたジュリエッタの言葉がなんだか可愛くて嬉しくて、サシャは太陽に微笑むように笑顔を咲かせる。 「いつか、ジュリエッタちゃんにもジュリエッタちゃんだけの王子様が現れるよ!」 抱き合ったままそう告げると、ジュリエッタも嬉しそうに笑顔の花を咲かせた。 *-*-* 『こうして、幾多の苦労を乗り越えて良き伴侶を得た彼女の物語は一旦幕を下ろす。 この話の先は、彼女達自身で紡いでいくのだ――』 【了】
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