▼とある中華風の異世界、お昼過ぎ 「何をさぼっている、馬鹿者」 木の根元でまどろんでいた所を、剣の柄で叩かれ無理やり起こされたのは、臣・燕(おみ・つばめ)だ。 彼を起こしたのは、幼馴染の女性。花のように愛らしい顔立ちをしているが、服装や格好は簡素で華やかさはなく、化粧もしていない。性格もきつく男勝りで、美しいが氷のように冷たい女と評判の娘だった。 燕は、妹の臣・雀(おみ・すずめ)と妖怪退治にやってきていたのだが、兄の分まで頑張ると張り切る妹に甘えて、彼は昼寝をしていた。それを任せられるくらいに、妹は優秀な術士なのだ。 そこを、妹とも親交の深い幼馴染は「雀に何かあったら承知せんぞ」と釘を刺してきたのだ。刃のように鋭い視線が怖いので、燕はしぶしぶ妹のもとへ向かった。 「あ。兄貴ーっ! なんで? 迎えに来てくれたのーっ?」 雀はぱぁっと表情を綻ばせると走り寄って来て、小さな体で兄に抱きついた。 雀は「みてみて!」と自慢げに、いくつかの手鞠でお手玉を始めた。その手鞠は、倒した妖怪が封じ込めてある。妖怪は生命力が強く殺しきれないので、特殊な術を用いて封じ込めてしまうのだ。いくつもの手鞠が、雀の手さばきの中で躍っている。 (相変わらずすげぇな。こいつにとっては妖怪退治なんて、緊張感のある遊びなんだろうな) 燕は表情にこそ出さなかったが、心の中では苦い気持ちだった。妹の活躍ぶりは、痛いくらいにまぶしい。 父にも、跡取りとしての自覚が足りぬと叱られる毎日。このままでは下手をすると、厳しい跡取り修行にすら出されかねない。 (雀も大きくなった。こいつがいれば家は安泰だろう。俺の居場所は、ここには無いのかもしれないな) 妖怪退治の様子を興奮気味に早口で語る妹。半ば上の空でうんうんと頷きながら、燕は想う。 「……そろそろかぁ」 「え? 何が?」 「いや、なんでもねぇよ」 心の中で燕は、もう家にいるのも限界だと感じて、前々から考えていた家出の計画を実行すべきだと悟っていた。 † 「……来ているではないか。興味がないふりをして、やはり心配なくせに。素直じゃない奴だ」 そんな二人の帰り道を、木陰から伺っていた一人の人物がいる。燕の幼馴染の女性だった。いつもの鋭い表情はなく、どこか穏やかな笑みを浮かべている。 「……だが、それは私も同じか。こうして聞こえない場所で独り言をつぶやくしかできぬのだから。おまえにこうも振り回される私は、風に翻弄されて揺らめく灯火だな」 はぁ、と重い溜息をつく。ふとそんな自分の様子が滑稽に思えて、ひとり苦笑する。 「そろそろ、あの話も実行に移される頃だ。おまえは……どうする。何を選ぶのだ。自由か家族か。あるいは……もし、少しでもおまえにその気があるのなら、私は……」 唇をかんで苦しそうな表情をしている。強気な彼女が普段、人前では見せることのない表情。 内にか弱さを秘めた女性の呟きは、誰にも届くことが無い。 † ――これは、雀がロストナンバーとして覚醒する、少し前のおはなしだ。 彼女が暮らす世界は、天女や仙人が遊ぶ雲海と魑魅魍魎が巣食う峡谷、それと人里で構成される世界。壱番世界で言えば、古代中国の伝承に残る御伽噺の世界と似通った部分がある。 雀は名家の娘として生まれ、幼いながらも天賦の才を発揮し、妖怪退治も難なくこなしていた。 一方、兄の燕は実力が振るわず、一族からは落ちこぼれと揶揄される日々。妹のことは好きだったが、劣等感に苛まれていたのは事実だった。 それでも比較的、平和な日常を送っていた二人。そこに変化が訪れる。 † 「ふざけんな!」 「待たぬか、燕!」 荒々しい怒鳴り声が交錯する。燕は扉を乱暴に開け放つと、客間から足早に去って行った。そんな息子を、父が声を張り上げながら追いかける。 その様子は、庭にある木の上で話をこっそり見守っていた雀でも確認できた。 「兄貴……」 雀の声音は暗かった。 客間で話されていたのは、兄の燕と、兄の幼馴染(雀は姉と慕っている)との縁談だった。それは父が秘密裏に進めていたものであり、当の兄は知らなかったものだ。突然、綺麗に着飾った幼馴染の女性とその両親がやってきて、燕を呼んで婚姻の話を告げた。 父は燕を幼馴染の女性の家へ婿養子に出すことで、彼に不足している実力と名声を補おうと考えた。そうすれば相互に家の力は増すこともあり、安泰だと言うのだ。 だが、自分の意見も聞かずに決められた婚姻を、束縛が嫌いな燕が受け入れるわけもない。すぐに父と口論になり、一方的に部屋から退出したのだ。 「大好きな兄貴が誰かに取られちゃうのは嫌だけど、お姉ちゃんが家族になるのは嬉しい。でも……」 まるでこれでは自分にある実力のせいで、兄が家から追い出されたようなものではないか。誉められるからと、ただ無邪気に強さを求めて、何も考えずに妖怪退治をし続けた結果、今回のような事態を招いたのでは。 幼いながらに雀は己に責任を感じていた。木の上でひとり涙を零し、声を押し殺して泣いた。 † その夜、燕は家出を決意した。悟られぬよう手早く荷物をまとめると、早く寝たふりをして部屋に閉じこもる。そして夜が更けると、窓からそっと庭へ身を滑らせた。 「どこへ行く」 そんな彼に声をかける人物が居た。布袋ひとつという軽い荷物を抱えた燕は、足を止めて振り返る。昼間にやって来たままの、柔らかそうな衣と美しい装飾品、可憐な化粧で着飾った幼馴染だった。 「なぜ受け入れない。父君が嫌いなのは知っているが、まずは話を聞け。互いの家のためにもなるし、悪いことばかりではない」 「そうじゃねぇ。おまえはいいのかよ、自分の道を勝手に決められて! 結婚する相手まで選べねぇで、おまえは何とも思わないのか」 女性が淡々と口にする一方、燕は声量こそ抑えつつもやりきれぬ怒りをにじませた様子で問うた。 「だが、どことも知れぬ男のモノになるよりは、少なからずは知り合っているおまえと婚姻を結んだ方が、損害は比較的少ない」 「……なんだよ。少しはあるってことかよ」 「いや、少しどころか問題自体はかなり多い」 「悪かったな」 舌打ちしながらそう返し、そっぽを向く燕。月明かりに照らされて青白く浮き立つ幼馴染は、いつもの冷たい雰囲気とは違って、まるでどこかの麗しい姫君のようだった。 「おまえは……私が嫌いか?」 「何だよ、そういうことじゃねぇ。別にお前が嫌いだから、結婚を受け入れられないってわけじゃねーよ。そりゃ異性としては見れねーけど、まぁおまえ、しっかりしてるし、家のこともちゃんとやってくれそうだしよ」 俯きがちの女性の顔に、悲しい色が浮かんだことに燕は気付かない。 「でも、俺は知っての通り、束縛されるのが嫌なんだ。自分の意思で自由に生きたい。だから、ここには居られないんだ」 幼馴染は、いつものように辛らつな言葉を返してこない。燕は少し苦そうな面持ちでぽりぽりと頬をかき悩むと、やがて女性に近づいてその肩をばんばんと叩いた。 「大丈夫だよ、自信持てって! 俺なんかよりいい男なんて、星の数ほどいるさ。おまえはそんな誰かと一緒になって、幸せになれ。――次、会う時は、ちったぁしおらしくなってろよ!」 燕はしゅぴっと指を立てる仕草をし、一方的に「じゃあな」と言い残して走り去る。闇の中に姿をくらませた。 「……私の気持ちも知らずに。馬鹿者め」 零れた女性の涙が月光に照らされ、銀色の珠のように頬を伝った。 † 雀は眠れなかった。思考が渦を巻いていた。 (謝りに行こう、兄貴に。謝って何か変わるわけでもないけど) そう思い立って寝床から起き上がると、灯りも持たず暗い廊下に足を伸ばす。木製の床が軋んで大きな音を立てぬように忍び足で歩を進め、兄の部屋まで行く。 「……ねぇ、兄貴」 そっと部屋に身を滑らせ、膨らんだ布団に手を伸ばし、ゆさゆさと揺すった。でもその感触の軽さと、人肌の温かさがまるでないことに違和感を覚えて、雀は布団をまくった。布団の下には、もう一枚の余分な布団を縦に長く巻いてある、身代わりだけしか残されていなかった。 どたどたと足音を立てるのも気にせず雀は走り出す。服は寝巻きのまま、足は靴も履かず裸足のままで、夜の帳が降りた暗い庭へ飛び出した。 (そんな……! あたしの、あたしのせいだ。あたしが兄貴を家から追い出しちゃったんだ) 兄ならどこへ向かうだろう、どの道を通るだろう。普通の道を使うだろうか、あるいは獣道を通っていくだろうか。庭先に飛び出て、何か痕跡でもないものかと周囲を素早く見渡す。すると、一本だけぽつんと立つ木の根元で、小さくうずくまっている人影が見えた。駆け寄っていくと、それは昼間の着飾ったままの格好をした、兄の幼馴染の女性だった。女性は膝を抱えて、顔をそこにうずめていた。泣いているようにも見えたが、雀は女性のもとへ走り寄ると、無遠慮に問うた。 「兄貴、兄貴はどこ!」 「ぐすっ……奴は、もうとっくに行ったぞ」 「どっち!」 「向こうだ、山間にある街道の方――」 「……あたし、謝ってくる! 連れ戻してくる!」 「お、おい、雀!」 それだけを言い残すと、雀はすぐに走り出す。外の空気は冷たかった。小石が足の裏にめり込んだりして痛かった。月明かりが照らしてくれるとは言え、くぼみに足を取られて正面から転んだりもした。痛くて涙もにじんだが、それよりも兄に会いたい、兄に謝りたい、兄を引き止めたいという想いが、ひたすら雀を突き動かした。すっかり息が上がっても、走ることだけはやめなかった。 (――?) どれくらい走ったかは分からない。ただ雀は、はたと違和感に気がついて足を止めた。音が無い。風の音も小川のせせらぎも、虫の鳴く声も夜行性の鳥の鳴き声も。 幼子の泣きっ面は、既に戦士のような顔に引き締まっている。顔は動かさずに、周囲へと警戒の意識を飛ばした。 「これはこれは。いつぞやの女子(おなご)ですか」 やけにくぐもった低い声音が響いた。そばにある岩の影から、巨大な影が這い出てくる。野生の熊の何倍も大きい。見覚え、聞き覚えがあった。兄に代わって、一人で妖怪軍団を討伐した時の輩。その時に討ちもらした奴だ。 「まったく、せっかく集めた舎弟たちをよくも懲らしめてくれましたね」 「うるさい、あたしは忙しいの。さっさとどっかに行かないと、痛い目見るよ!」 そうやって強気に声を張り上げる雀だが、内心では舌打ちをしていた。着の身着のままで飛び出してきたため、手持ちの呪符は少ない。常に武器は肌身離さず、いつでも戦えるようにと父から教えられていたが、あまり深く気に留めていなかったのだ。雀は迂闊な自分を呪った。 「おやおや。私が作った、この歪(ひずみ)に足を踏み入れておいて、いつまでその自信がもつでしょうねぇ、ククク」 すると他の影から、その妖怪の分身たちが這い出てきた。皆、赤く裂けた口で卑しく笑っている。 † 「――ったく。なんなんだ急に、こいつらは」 燕は一方、雀がいる所からはさらに離れた場所で、同じような妖怪と戦っていた。雀ほどの実力がないとはいえ、小手先の技術や小細工を駆使すれば、戦えないことはない。何とか撃退し一息ついたところで、さらに複数の影が燕を取り囲む。 (さすがにマズイな、どう切り抜けるか) すべてを相手にするのは無理だと瞬時に判断し、逃げるための算段を脳裏で描く。影の魔物たちが一斉に、音もなく忍び寄ってくる。迎撃しようと呪符を構える。 だが、影たちは不意にぴたりと動きを止めたかと思うと、風に巻かれる煙のようになって消失した。影が消えた視界の向こうで、一人の女性がいた。引き抜いた剣を鞘に収めたところだった。 「お、おまえ」 燕は構えた呪符を解くのも忘れて、その女性を見つめた。美しい衣と装飾と化粧で着飾ったままの、幼馴染の女性だった。彼女は足早に近づいてくると、切迫した様子で問いかけてくる。 「おい燕、貴様!」 「な、なんだよ、今さら何言っても戻らねぇぞ」 「雀と会っていないか!」 「え? い、いや会ってないけど」 燕はきょとんとし、ぱちくりと瞬きをした。女性は忌々しげに舌打ちをし、眉をしかめる。 「くそ! ……雀がいないんだ! 貴様を追いかけて出て行ったきりだ。先ほどの妖怪が大量に出没していることもあって今は皆、総出で探している」 「なんだって。でもなんであいつ、一人で出歩いてるんだ」 「……おまえを止めに行ったんだ。おまえが出て行くことになってしまったことを、謝りたいと」 「ち、くそ――雀!」 「馬鹿者、落ち着け! がむしゃらに探しても見つからん!」 すぐに走り出そうとした燕を、女性は剣の柄で遠慮なくぶっ叩く。 「ぐあ! いっつぅ……」 「もう一度、探索の術式をかける。貴様も呪符で手伝え!」 「ぐぅぅ……わ、分かったよ! ったく」 ずきずきと火傷のように痛む後頭部をさすりながら、燕は呪符を取り出した。 † 「うぁっ」 影の腕が伸び、雀の小さい体を打ち据えた。そのまま体は吹っ飛び草むらを転がるはずだったが、見えない壁が途中で障壁となり、そこへ乱暴に打ちつけられる。雀は崩れるように地へ伏せた。 「ようやく倒れましたか。さすがに、強き術者の一族の血を引くことはある。さぞかし、良い魂魄と生気を宿しているのでしょうねぇ」 見上げるほどに巨大な影は、這いずるように音もなく近づいてくる。鎌のような弧を描いて、口元が歪んでいる。 「その力、喰らわせていただきますよ」 影が、手を伸ばしてくる。夜の闇よりも深い暗黒が、雀に迫る。けれど雀はもう満身創痍で、何もすることができない。手持ちの呪符は使いきり、呪符無しで術式を形成しようにも、もうそれだけの力が湧いてこない。術力が枯渇している。散々痛みつけられたため、全身が早鐘のようにどくどくと痛み、熱を持っている。逃げることもできない。 (兄貴、助けて……嫌だよ) 闇が迫る。闇が小さな体を引っつかむ。今まで感じたことのなかった恐怖に、身も心もすくむ。猛獣に追い詰められた小動物のように、哀れな視線で敵を見上げることしかできない。恐怖と、そしてこれから襲い来るであろう、想像すらできない痛みから逃げたくて、ぎゅっと双眸を閉じた。 (――おにいちゃん!) 子どもっぽいからとやめた昔ながらの呼び方が、つい脳裏で炸裂した。年齢的に恥ずかしいからと、自重した呼び名。親しみと甘えをこめた呼び名。こう呼んで抱きつけば、自慢するときは誉めてくれた、嬉しいときは一緒に嬉しがってくれた、悲しいときは慰めてくれた。呼べば必ず応えてくれた。そんな大好きな兄との思い出が、目まぐるしく頭の中を駆け巡る。 思い出の中で、兄が名を叫んでくれた気がした。 「すずめェーっ!」 術により誰も入り込んで来れないはずの空間に、そんな叫び声が突き刺さってくる。陶器が盛大に割れるような固い音がして、妖怪が形成していた術が砕けて散った。空間を遮っていた障壁の残骸である透き通った破片とともに、二人の人影が滑り込んできた。燕とその幼馴染の女性だ。 「てめぇ、雀を! 俺の妹を放しやがれ!」 「じゅ、術が破られた? くそっ」 鬼気迫る表情で、燕は怪物に何枚もの呪符を投げつける。呪符は炎の弾となって影の妖怪に殺到する。妖怪は手の中の幼子をそこへ放り、自分は後方に飛んで距離を開けた。 「あ、やっべ――」 「馬鹿者、無闇に突っ込むからだ!」 無造作に宙へ放られた妹に、兄の火炎の弾が襲い掛かる。だが女性が稲妻のように剣を閃めかせると、火炎は掻き消えるように消失した。雀には傷一つ付かない。 燕は飛び掛るように身を投げ、落下してくる雀の小さな体をその体でしっかりと抱きとめた。 「雀、大丈夫か雀!」 「目立った外傷は無い、大丈夫だ。連携し、手早く奴を撃退するぞ」 「……なんでおまえはいつも、そうやって冷静でいられるんだよ」 「私が指示し、おまえががむしゃらに突っ込むのは昔から決まっていた立ち位置だろう」 そうやりとりしながら、兄は妹に息があることを確認すると、そっとその体を地面に横たえた。 「それもそうだな。じゃあ遠慮なく突っ込ませてもらう、支援は任せたぜ!」 「言われなくても分かっている、行け!」 二人は怪物を左右から挟撃するように別れ、走り出す。燕は懐から呪符を投げつけ、女性は剣を振るって衝撃波を繰り出す。 雀は薄い意識の中、そばで繰り広げられる攻防の音に耳を傾けていた。剣戟音や爆発音、地面が破砕する音の中で聞こえる、兄の声が心地よい。 (おにいちゃん、助けにきてくれたんだ) 雀は安心した。ほっと温かな気持ちになると同時、心地の良い光を視界に感じた。意識は光の中に沈んで、ぷつりと糸が切れるように遠のいた。 ――そして目が覚めたとき、雀は別の場所にいた。 そこは0世界。元いた世界より放逐され、彷徨い人となった者たちが集う、次元の狭間。 † その後、兄たちがどうなったかは分からない。 ともあれ雀は、世界図書館より説明を受けた後、己に課された運命を受け入れ、協力することにした。 彼女はまた今日も冒険の旅に出る。いつしかまた元の世界に戻り、生き別れになった兄と再会することを夢見て――。 <臣雀の冒険は、続く>
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