▼0世界ターミナル、バトル・アリーナにて あなたには今、闘う必要がありました。強さを求める必要がありました。 理由は、人それぞれでしょう。 ともあれあなたは自らの意思で闘いを求めて、ここ――『闇黒(あんこく)のバトル・アリーナ』にやってきたのです。 † ターミナルの一角に建造された、とある建物。まるでテーマパークのように広くて大きな建造物で、外観は壱番世界で言う近代西洋風といったところ。大きな劇場のようでもありました。 そこは人形遣いのメルチェット・ナップルシュガーという人物が管理する、戦闘訓練用の複合施設です。中には様々な名を冠した戦闘施設がいくつも用意されており、用途に特化した闘いを行うことができます。 今回、あなたが訪れたのは『闇黒』の名を冠する戦闘施設です。係りの者に案内され、広い部屋にたどり着きます。仮想空間を形成する魔法技術によってチェンバーが構成されているのか、そこは建物の中にも関わらず異質な空間が広がっていました。 部屋の中は、暗がりと影と夜空で構成されています。壱番世界の近代西洋を思わせる街並みのようですが、どの建物にも灯りはありません。街のようでありながら、それらはすべて石のようにただ重い沈黙だけを放って、そこに在るだけでした。 ――不気味な暗い街。そんな言葉があなたの頭の中をかすめます。 そこに佇む、一人の少女がいました。猫耳のあるフードが付いた、不思議なケープを羽織っているその小さな女の子。彼女が当バトル・アリーナを管理する人物、メルチェット・ナップルシュガーです。彼女の隣には、装飾のなされた木製の棺がひとつ横たわっていました。 あなたが、影と闇で彩られた景色の中を歩み寄っていくと。少女は俯いたまま、ささやくようにそっと言葉をかけてきます。「ひとの心とは強いように思えて、とても繊細なところがあります。心はいつも、風に揺れる木の葉のように。正と負の位置を、大きく行ったり来たりするの」 漆黒の空に浮かぶのは、人のように目と鼻と口のある三日月です。爬虫類のようにぎょろりと艶かしい双眸を、あちらこちらに動かして。綺麗に生え揃った歯をむき出しにして。すべてを天より見下し、すべてを青白く照らし出しながら。道化師のように嘲け笑う月がひとつ、浮かんでいます。「ふと弱くなってしまったときの心は。とても華奢で、儚くて。すぐに壊れてしまうのですよ」 少女がゆっくりと顔を上げ、あなたと視線を交わします。真剣で厳しそうで。けれどどこか穏やかさもにじませた視線を、投げかけてきます。「今日和、バトル・アリーナへようこそ。あなたが、今回の挑戦者ですね。ここは闇黒のバトル・アリーナ。挑戦者が〝恐怖〟に抗う場所です」 そう、闇黒を冠するこの部屋で闘うのは、あなた自身の心に潜む弱さそのものなのです。メルチェットがこの闇黒のために製造した戦闘人形〝玉響の戦慄(たまゆらのせんりつ)〟は、どのような人物の心にも戦慄をもたらし、絶対の恐怖で身と心を縛り付けるでしょう。 あなたが挑戦の意を表明すると、少女はこくりと首を縦に動かします。「心の奥底に刻まれた記憶を読み取って、この人形は自在に姿形と能力を変えます。どんなに頑なで強い精神の持ち主であっても、身体の底から恐怖し、震え上がってしまうことでしょう。あなたにはそんな人形と対峙して、自らが覚えた恐怖そのものと闘ってもらいます」 メルチェットは棺へと視線を落とし、愛しげにその蓋へと指を這わせます。「――さぁ、行きませ。すべてのものを慄かせるきみ。すべてのものを屈服させるきみ。今が這い寄る、その時よ」 物言わぬ棺を見下ろしながら触れ、ゆっくりとその周囲を歩き。そうしながら愛らしい声音で、彼女は歌うように言葉を紡ぎます。「主の言葉は空言にあらず。虚ろうヒトガタよ、見せ掛けのヒトガタよ、まやかしのヒトガタよ。幽玄なる輝きをもって、泡沫の姿をここに現せ。仮初めの力を用いて、虚構なる戯れの糧となれ。今、偽りの命を玉響の真なる命に――」 棺を、指先で撫でながら歩いていたメルチェットが、足を止めて。棺を封印するかのように巻かれていた太い鎖の鍵が、ひとりでに解除されていきます。「顕現する命、その名は――〝玉響の戦慄〟」 解かれた鎖が、重々しい音を立てて落ち。次の瞬間、棺の蓋は無造作に内部から砕かれ、吹き飛ばされて。中から這い出てくるものがありました。 黒くて黒くて、巨大で。爛々と赤く目を輝かせて。異質な姿をしたモノが、ぬらりと棺から身体を起こして。慈悲を感じさせない瞳で、あなたを見下ろしします。 あなたは武器を構えます。あるいはトラベルギアを顕現させ、あるいは能力を発動させます。 ――けれど。 ――けれど。 手の中には、何もあらわれません。からだの底からわき上がってくるはずの、力の胎動も。何も、何も、感じないのです。(トラベルギアが取り出せない)(力も使えない) その事実に気付いたとき。笑う月の光を遮るように、黒い異質はあなたの前に立ちはだかります。それを思わず見上げたあなたは――。 呼吸が、苦しくなりました。心のうちから、腹の底から。冷たい冷たい何かがわき上がってきて。それがあなたの呼吸を阻害します。 満足に息が吸えません、吐き出せもしません。あなたは苦しそうに喘ぐも、他に何もできません。息が詰まるほどの恐慌が全身を支配しています。 そしてさらには。平衡感覚を失いそうになるくらいの、思わず足元をふらつかせるくらいの、強烈な眩暈に襲われて。恐怖でしびれてしまった手足の感覚も、どこか虚ろで。気が付けば、歯も根が合わないくらいに、おびえて震えて。からだもこころも、全てが恐怖に絡まり飲まれていて。何もかもが言うことを聞かずに、恐れ慄いているのです。 そんなあなたの頬を無意識に伝う液体は、冷たい汗でしょうか、あるいは涙でしょうか。分かりません、分かりません。 ――ああ、それでも。ひとつだけ、分かることがありました。自分を見下ろすこの黒い怪物は、自分の命を奪う危険な存在であるのだと。(逃げなければ、殺される!) 本来であれば自由に使えるはずのトラベルギアや、己の特殊能力。そのすべてが使えない今、あなたには逃げることしかできません。反撃の戦略を練ろうにもとにかく今は、この場を離れなければ。 あなたは、かろうじて動く足を引きずるように動かして。自分ではひどく緩慢に思える動作で、その場から走り出しました。怪物が悲鳴にも似た奇声をあげたのを、背中越しに感じました。猛烈な勢いで後を追ってくる気配も感じました。(どうすればいい?) 見ず知らずの街並みに翻弄されながら、あなたは暗がりの中を疾走します。そうしながら考えます。力のすべてが封じられた今、この状況を打開する術を。追ってくるあの異形への対抗策を。この暗い街から脱出する方法を。 すると。ふとあなたの脳裏に、少女の幼いささやき声が響きます。(どこかにある〝希望〟を、集めてください。求めよ、さらば与えられん――) 聞いたことのあるような声でしたが、その主が誰であるのか、今のあなたには分かりませんでした。それどころか、無意識のうちに。ここが訓練のための施設であることですら、なぜか記憶から消えてなくなっているのです。あなたはここにいる理由も追われている理由も分からずに、暗い街をさまよう迷い人となっていました。 浮かぶ月が、けたたましく笑います。嘲るように、げらげらと。蔑むように、げらげらと。笑い声は暗い街にこだまします。 そんな耳障りな月が浮かぶ、暗い石の街。気を抜けばすべてが闇に見えそうな、暗い街。そこをあなたは走ります。疾ります。恐怖に侵食されて、今にも身体が動かなくなりそうに、なりながら。けれどもあなたは。必死に抗って、全力で、前へと――。 あなたと恐怖との戦いが今、始まります――。
▼どこかの暗い街の中(0世界ターミナル、バトル・アリーナにて) 温かさに欠けた、冷たくて暗い石の街。その中を、飛天・鴉刃(ひてん・えば)は逃げ続ける。息を切らせながら、袋小路から大通りへと身を滑らせる。 けれど彼女が飛び出した大通りには、見上げるほどに巨大な漆黒の異形が待ち受けていた。石造りの家屋と同じくらいに大きな、黒色の脅威。獣なのか怪物なのか判別はできず、ただただ漆黒の何かに包まれている、大きなそれ。爛々と輝く赤い双眸が、彼女をじぃと見下ろしている。 (くそ、またか! 撒いたかと思えば、いつの間にか前にいる――) すぐさま足を止めて翻る。鴉刃は舌打ちする暇も惜しんで敵から離れようとする。大通りを駆け抜けていく。異形を背中越しに振り返る。 GRRR、と猛獣が喉を鳴らすにも似た音を立てて、異形は幹のように巨大な腕を上下に振るった。黒い爪が槍のごとく伸び、鞭のごとくしなって襲い掛かる。 とっさに鴉刃は身を投げて攻撃を回避する。異形の腕が石造りの床に叩きつけられる。爆砕する。粉々になった石がばら撒かれた。触手のように伸びたその腕は、周囲の建造物へも激突する。粉塵が雲のように膨らむ。 身に降り注いだ破片を払いながら、鴉刃はすぐに立ち上がる。体を投げ出した際に擦りむいた箇所が鋭い痛みを訴えるが、そんなものに構ってはいられない。 (奴の視線、奴の姿、奴の声――全てが危険だ! あれが近くに在るだけで心が叫び声をあげてしまう。とにかく今は、奴から離れなくては……!) 舞い上がった粉塵に紛れて、鴉刃は袋小路の奥へ身をくらませる。 獲物を見失った異形は、癇癪を起こした子どものように、その場で暴れ続ける。石造りの街並みが破壊され、砂へと還っていく。 † しばし、当ても無く逃げ続けた。 既に鴉刃は肩で息をしている状態だった。体が必死に酸素を求めていた。本来であればこれだけの些細な運動量で、息が切れるなどありえなかった。けれど今はなぜか、あったはずの体力でさえ失われているようであって。 呼吸音でさえ遠くまで響いてしまうと思えるほど、気味の悪い静寂に包まれた暗い街。狭く入り組んだ通路に逃げ込み、とにかく遠くまで走ってきた鴉刃は、ある一角を曲がったところでよろよろと足を止める。 (落ち着け、落ち着くのだ。今の状況を整理しろ――) 玉のような汗がにじむ顔の鱗を腕で乱暴に拭う。冷たい壁に背をもたれて、何度も大きく息を吸い込む。 しばらくそうして休憩していると、体も心もじんわりと余裕を取り戻していく感触があった。慌てふためき、暴風に翻弄されている木の葉のように荒れていた思考にも、落ち着きが戻ってくる。 (希望を探せ、か。……希望とは何だ? 奴を倒す手掛かりか、あるいはここから脱出する方法か……) 幼い少女の声が、脳裏に響いて離れない。聞き覚えがある少女の声音。けれど誰であるかは思い出せない。 少女の声は、鴉刃に囁いた。希望を探せ、と。キボウが意味するものは分からないが、今はそれに従う他に道はないとも思えた。あの言葉だけは信じられるのだと、自分の中の何かが訴えている。 (能力は使えず、飛ぶこともできぬ。それどころか、鍛えてきた体力も失われている……これでは非戦闘員と同じだな。ギアも――やはりだめか) 自らの腕を見下ろしながら、念じてみる。けれど、普段ならわき上がってくるはずの手ごたえがない。 鴉刃は、あるべき力を失っていた。あの異形へ立ち向かうために充分な力は、残されていないように思えた。 (まともに使えそうなモノは、この爪くらいか。体術もあるが……小細工もなくただ真っ向から奴に立ち向かっても、死ぬだけであろうな) 鴉刃は思い出す。黒い人型の巨躯に、ぽっかりと空いた赤き双眸を。視線を交わしただけで、がくがくと膝は震え、呼吸は荒くなり、正常な思考ができなくなるあの赤い瞳を。 思い出しただけで身の毛がよだつ。恐怖という巨大な手が、鴉刃の全身を鷲づかみ(※)にしたような感覚が襲う。全身を拘束し、その身をも凍えさせる冷たい手。 あぁ、今も。建物の暗がりの奥から、あの怪物が音も無く這い寄って来るのではないか。あるいはもう自分の身体は、本当にあの異形の手につかまれて、既にすべてをあきらめる時が来ているのではないか――。 (く、冗談ではない!) 明らかに後ろ向きで、欲がなく、あきらめていて、絶望に支配されている思考。それを振り払うかのように、鴉刃はもたれていた壁に拳を打ち付ける。首を左右に振るう。 (あきらめてたまるか、死んでたまるか。訳も分からず、ただ殺されるわけにはいかぬ……私には帰らねばならん理由があるのだ) 頭の中をかすめるのは、故郷の世界のこと。そして、ロストナンバーとして生きている今のこと。仲間たちの顔ぶれ。背中を預けられる仲間たちとの冒険の日々。行きつけのスポットで騒ぎ立てている、賑やかな光景と穏やかな日常。 彼らが自分を大切に思ってくれている――かどうかは、分からない。ただひとつ言えるのは、少なくとも鴉刃自身は、それらを大切に思っているという事実。 (必ず帰ってみせる。皆のところへ。私が生きる場所へ――) 暗闇の中に、ぽっと温かな光が灯るのにも似た感触。それを覚えた瞬間、鴉刃の前に柔らかな光が生じる。白い光を放つ光球が出現する。 思わず身構えた鴉刃だったが、その光のあたたかさにどこか覚えがあると感じて。警戒の姿勢は瞬時に溶けて、無意識にその光球へと手を伸ばしていた。指先が光の球に触れる。すると光は鴉刃の指先へと吸い込まれていき、光の粒子を走らせながら全身へ波紋のごとくに広がっていく。 「これは……これが〝希望〟?」 思わず呟いていた。鴉刃は不思議そうに、戸惑いがちに、己の両手を見下ろした。ぎゅっと拳をつくり、解くという動作を繰り返した。 「力が湧いてくる……! いや、戻っているのか。これなら少しは良い立ち回りができるやもしれん」 本来の自分が持っていた力の一部が戻っていると感じる。かすかなものではある。未だ、あの異形へ立ち向かうには充分な力ではない。 けれど、鴉刃の口元には自然と笑みが零れる。にやりとした、不敵な笑み。先ほどまでの自分では、到底できなかった表情。ほのかに取り戻した力の欠片は、あきらめかけていた鴉刃に希望を見出させていた。 「希望を手にすると力が戻ってくるのか。ならば、希望の出現条件は何だ……?」 失われたちから。 恐怖をもたらし、絶対的なちからを備えた異形。 集めるべき〝希望〟の正体。 手に入れた〝希望〟と取り戻したちから。 鴉刃の中で、答えがひとつの形を取ろうとしていた。 「いずれにせよ、ただ隠れているだけでは状況は変わらん。ここから出る手掛かりも見当たらぬ以上、とにかく動くしかなかろう。奴が鍵なのは間違いないであろうしな」 決意した鴉刃は、建物の暗がりに身を潜めるのをやめた。窓枠などを足場にし、屋根の上へと身を躍らせる。これも、取り戻したちからが為せる動きだ。 最初はただ、石畳の上を逃げるだけしかできなかった。街並みは動きを阻害する壁だった。だけど、今は違う。邪魔な建物は有効な足場となった。 障害物もなく見通しが良い屋根の上。大小様々な大きさで連なる建造物群の上。そこを蹴り、宙を舞う。音もなく着地する。周囲に視線を凝らし、けれど己の気配は抑え込み。慎重に、けれど素早く、鴉刃は駆ける。 行くあてもなく街を彷徨い、逃げ続けるためではない。あの黒き異形と、対峙するために。鴉刃は逃げない。鴉刃は立ち向かう。 † 異形がGRRRと獰猛な唸り声をあげた。異形の腕の先端は幾つにも分かれていた。蛇のようにしなやかな動きをして、宙を漂っていた。 異形が腕を差し出した。うごめく幾又の腕の先端が、銛(※)のごとく鋭くなる。空気の刃を伴って、放たれた矢のように突き進む。その矛先は鴉刃に向いている。 背中越しに振り向いた鴉刃は、すぐさま回避運動を取る。しゃがみ込みやり過ごす、身を横に投げる、跳躍する、体術を駆使して横に払う。 袋小路の薄暗い通路へと身を躍らせる。異形が追ってくる。建物などお構いなしに、進路を遮るものすべてを踏みつけ、砕き、破壊しながら。小さな獲物を屠る(※)ため、異形はゆっくりと迫ってくる。 でも異形は、鴉刃に追いつけない。鴉刃の行く先で待ち伏せることもできない。何故ならその行動パターンが、鴉刃の幾度にも重ねた会敵によって、分析され尽していたからだった。 (見えてきたぞ、奴というものが) 異形との距離を一定に調整しながら、鴉刃は一時的撤退を行っていた。 真っ向から勝負をしても、力押しで勝てる見込みがないと踏んだ鴉刃は、とにかく敵の情報を集めることに専念した。それにはまず、敵と何度も接触する必要があったが、異形の赤い瞳がもたらす戦慄の効力は、全ての行動を阻害する。 (奴の赤い目は、見るだけでも精神が辛くなる。常時奴を視界に入れて戦うのは得策ではない。私は元々、正面からの戦闘には向いてもいない――ならば弱点と思わしき、あるいは隙のある箇所を狙う。死角から一気に近づいて攻撃、そして素早く離れる――) そうした一撃離脱を中心とした戦法を取り、少しずつ敵の性質を明らかにしていく方法を取ったのである。 ちからの大半を失っているとはいえ、暗殺者として暮らしてきた記憶や経験までもが消えているわけではない。冷静に状況を分析し、必要以上の戦闘は避け、機があれば攻撃を仕掛け、危機の前に迅速な撤退をする――そんな立ち回りこそ、鴉刃の得意分野であったのだ。 接近、戦闘、撤退、休息。接近、戦闘、撤退、休息。何度も何度も繰り返した。そうした中で相手の行動パターンを把握した。知性がないためか、異形の行動は単純なものだった。 (ギアの力こそ戻ってはおらぬ故に、攻撃力は望めそうにないが……しかし、勝ち筋は見えた) 大きな希望を見出せた気がした。暗闇の中に、ぽっと温かな光が灯るのにも似た感触を覚える。 新たな〝希望〟が手に入るかもしれない、そうすれば今度こそ――そうした思考を浮かべたとき、大通りを駆け抜ける鴉刃の前方に、巨大な黒い影が広がった。大きくて黒い塊のようなものが、そこから音もなくぬらりと立ち上がる。大きさは、左右に立ち並ぶ石の建造物と同じくらい。見上げるほどに巨大なそれ。上方に、ふたつの赤い双眸がぎらりと輝く。赤い瞳から放たれる、恐怖の視線が鴉刃を射抜く。 (なんだと! 適正距離は保っていたはず――いまさら行動パターンが変わったのか) 相手への奇襲が成り立ってこその、今までの戦法だ。敵が自分を迎え撃とうとしている状況は不利であると言える。今回の接触はやり過ごすとすぐに判断すると、駆ける勢いをそのままに鴉刃は異形へと突撃していく。相手の傍をすり抜けて、速やかな離脱を試みる。 異形が上空に腕を差し上げた。幾つにも分かれ、宙に放たれた腕の先端が銛のように尖る。獲物を追いつめる蛇のごとき艶かしい動きで、上空から雨のように降り注ぐ。 速い。すべては避けきれない。一撃離脱と、相手を翻弄するような高機動戦闘を得意とする鴉刃であっても。かくして鴉刃は体の一部を、その闇の矛先に食いちぎられることとなる。 「ぐぁ!」 肩と腕、わき腹、両脚。柔らかにしなる異形の鋭い腕が食いついて、鱗と肉を剥ぐ。鮮血が花びらのように舞って、びたびたと白い石畳に降り注ぐ。黒い血溜まりをつくる。鴉刃は滑るように倒れこむ。 異形が音も無く漂い、すかさず接近してくる。鎚を思わせる握り拳を、荒々しく鴉刃へと叩きつけてくる。何度も何度も。鴉刃の体躯が、割れた石畳の中に埋没していく。異形の拳に付着した鴉刃の血が糸を引く。それでも怪物は、鴉刃を殴るのをやめない。 ――なぜ 抗う(※) ――なぜ 生きようとする 全身を揺さぶる衝撃とつんざくような痛みの中で、異形の声は鴉刃の脳裏に直接響いてくる。野太い男性の声音であった。暴れるような戦闘行動に反して、覇気も生気もない、生命力に欠けた寂しい声だった。 ――巨大なちからの前に すべては 無駄となってしまうのに ――なぜ 恐怖に 屈しない 鴉刃の後頭部を引っつかみ、赤い瞳の前に近づけてくる。ぼたぼたと血を滴らせながら、鴉刃の体が宙吊りになっている。 けれど、そんな状態であっても。赤い瞳が目の前にあっても、鴉刃は笑っていた。自信に満ちた面持ちで、怪物を見据えた。 「なぜ……恐怖に、陥らぬのか……不思議そう、だな? ぐふっ」 くく、と笑おうとして鴉刃は咳き込み、口端から血をにじませる。それでも、不敵な笑みは崩しておらず。 「奪うだけの……貴様には、分かるまい」 ――おまえも 命を 奪ってきた だろう 異形の声が響く。異形がGRRRと喉を鳴らす。赤い瞳から放たれる視線が、真っ直ぐに鴉刃を貫いている。 「あぁ……そうだ。私は暗殺部隊の、所属だ。この手でたくさんの命を……奪ってきた」 ――そうだ おまえは人形 ――意思も 心もない ただの 殺戮人形 「否定は、せん。忠実に……任務を遂行することこそが……課せられた使命で、あったからな」 全身を闇で包む暗黒の異形。そこに灯る赤い瞳には、深淵の赤と狂気で充ちていた。誰であろうと、その眼光に心は焼かれ砕かれ、異形の紡ぐ言葉を力なく受け入れてしまうであろう。 けれど。 けれど。 「……だがな、今は違う!」 鴉刃は屈しない。 鴉刃が目を見開いた。そこから後の動きは、すべてが無意識のもとでの行動だった。今までに取ったことのなかった行動。 体内に収納していた爪を、両手から出した。それを異形の腕に突き立てた。己の内に感じる、どくどくと脈打つかのような力の流れを、相手の内部に流し込むイメージをした。 異形の腕がぶくりと大きく歪んで膨らみ、衝撃波を伴って弾けて飛んだ。後頭部の拘束が解放される。鴉刃は衝撃を利用して敵から距離を取る。腕を吹き飛ばされた異形は悲鳴のような唸りをあげて仰け反った(※)。 ――何が 違うと 言うのだ ――奪っていることに 変わりはない ――結局 おまえは 誰かの 言いなりに なるしか ないのだ ――自らの意思もなく 言われたとおりに 命を奪う 悲しい玩具に 赤い視線を投げかけながら、異形は口にする。絶望へいざなう言葉を。 鴉刃は着地すらも満足にできないほど大きく疲労し、深い傷を負っている。崩れるように膝と手をつく。けれど倒れたりはせず、ふらつきながらも立ち上がる。 ――すべてに あきらめて 絶望せよ 「何もせずにあきらめろ、とほざくか。それこそ愚の骨頂よ」 けれど無駄だ。希望に充ちた彼女の心は、黒き絶望に染まらない。 「悪足掻きでも構わぬ。生憎、そう簡単に諦められないタチでな」 ――悪あがきに 何の意味が ある ――おまえは もう 死ぬのだ ――私の 手によって 「断る!」 口端から血を滴らせながらも、鴉刃は勇ましく言い放った。 「生きているのなら、生きる望みは見つけることができる。どんな絶望の中であっても、必ず光は見えてくる。そして――」 言葉を遮るかのように、異形が腕の刃を振るった。腕は柔らかくしなり、先端の銛が鴉刃を貫こうとする。 「私には守るべきものがある。帰るべき場所がある」 鴉刃が爪で一閃した。建造物をも巻き込んで、異形の腕は微塵に切り裂かれてしまう。 異形が憎らしげに雄たけびを上げる。切り裂かれた腕も爆砕させられた腕も、瞬時に再生する。 「それらがある限り――どんなに罵られようとも、どんなにみじめであっても。私は、諦めぬ」 ――無駄だ 私を倒すことは できない 異形は再び腕を振るった。鴉刃は軽くいなすように爪で裂く。異形の腕が無残に散らばる。 何度切り裂かれても腕は再生する。黒き凶刃は次々と射出される。鴉刃に襲い掛かる。鴉刃の体に一撃を見舞おうとする。 けれど、それは叶わない。鴉刃には触れられない。また腕の一本が儚く両断される。切り刻まれる。 鴉刃は粉塵の中を勇ましく歩む。異形の攻撃などに、その歩みは止められない。 「そうだな。貴様はどれだけ傷つけても再生する。倒せはせぬのだろう。だがそれは、最初から貴様に命などありはせぬからだ。貴様は想いそのもの。かたちないものが、玉響(※)のかたちを取ったもの。恐怖そのものであり、全ての他者に恐怖を与えるもの――」 玉響の戦慄。 「確かに貴様の与える絶望は、非常に強力だ。どんなに強い意志の持ち主であっても、その絶望を跳ね除けることはできぬだろう。私もそれに飲まれかけた。また、貴様に物理的なかたちはない。故に誰しもおまえを殺すことはできぬ。だが――私には希望がある。絶望に屈してしまいそうになったとき、弱き己を支えてくれる希望がある」 ――そんなもの まやかしに 過ぎぬ ――見えないものに ちからなど あるものか 「ふん、おまえは何も分かっていなかったようだ。見えないものに力は無い、だと? 貴様は今、自らで自らを否定したな!」 ――黙れ! 異形は叫ぶ。空気と大地を震わせ、心すらも萎縮させる戦慄の雄たけびが街を揺さぶる。 ――恐怖は ちからだ ――圧倒的なちからこそ 絶対の恐怖 ――おまえには ちからがない ――そんな儚い命など 容易く粉砕できる 「……そうだろうな。私には力がない。この手の中には今、何もない」 鴉刃は小さく苦笑いをした。 けれど次の瞬間には。 勇ましく刀身を輝かせる刃のごとく、鋭い眼光がその双眸に宿っている。異形を睨みつける。 「だがな。〝ここ〟には確かなものが在る。存在している」 ばん、と己の胸に手をあてた。胎動する命の器官に。心の臓に。自らに宿る強き想いが在る場所に、手をあてた。 「見えないものだ、儚いものだ、くだらんものかもしれん。しかしこの小さな灯火こそが、貴様の絶望に抗うちからを私にくれた。だから――!」 戦闘と暗殺の専門家でありながら、異形の放つ戦慄と強さに屈し、諦めかけていた自分。 それを支えたひとつの想い。仲間たちのもとへ帰るという想い。鴉刃自身でさえも鼻で笑ってしまいそうになるほどの、くだらない気持ち。けれど、その想いが彼女のからだに熱を宿す。 (なら、あなたはどうするの?) 声が響く。聞き覚えのある幼い少女の声。あるいは仲間たちの声にも聞こえる。そんな声が問いかけてくる。 鴉刃は答える。自信と確信を持って、想いのひとつを口にする。 「決まっている。この手を伸ばす。この手でつかむ」 (何を? あなたはその手で、何をつかむの?) 「そんなもの……決まっているだろう!」 鴉刃は突き出すように手を伸ばす、つかむように虚空を握り締める。そこには何もなかった。目に見える何かは無かった。 けれど、確かにつかんだ! 鴉刃の中でかたい何かが弾けて目覚める、顕現する、具現化する。偽りの黒で覆い隠された記憶が、甦る。封印されていたちからが再生される。 心に宿るものを感じる。虚空に手を伸ばし、しっかりとつかんだものを感じる。かたち無きもの、けれど確かに在るもの、戦う意思を力に変えるもの。 それは希望。その名は希望。あぁ、それこそが。希望という名の―― 「ト ラ ベ ル ギ ア !」 ――冷たく暗い その街に―― ――熱き風が 吹き抜けた―― 空気が渦を巻く。長髪が風をはらんで揺れる。荒れ狂うほどの風が渦をまく。龍の乙女を中心に。 「そうか、そういうことか」 風がうごめき、集い、殺到する。その中で鴉刃は愉快そうに口元を歪める。 「探していた最後の希望は、此処(※)にあったのか。いや、そうですらなかった。希望とは、この街の何処かから見つけるものではなかった。自分の中から見出すものであったのだな。私の中にあったのか、最初から。なるほど、なるほど!」 思考がクリアになっていく。澄み渡り、遠くまで見渡せるようだった。今あるどんな感情も、すべてが受け入れられる。湧き上がる希望も、相手から発せられる恐怖と殺気も。すべてが受け止められる。強さの自信に溺れることもない。弱さの自覚から絶望に沈むこともない。 だから言える。今なら言える。己に宿る、希望の名を。 荒れ狂う風に乗り、鴉刃の両手へと光の粒子が集束していく。光が鴉刃の腕を包んでいく。 「我が内に宿りし想いよ。今、名とかたちを以ってここに姿を現せ! 我が希望、我がちから――それは〝闇霧〟!」 突如、風は拡散して消失した。鴉刃の腕に、肘までを覆う指抜き術手袋が顕現する。闇よりも深い漆黒の色をしたそれ。けれど異形のような絶望をもたらす色ではなく、確固した揺るがぬ信念を秘めたかたい色。 ――おまえが 希望 そのものなのか 異形の赤い瞳が恨めしそうに歪む。 ――ならば 私は おまえを 喰らう ――すべてを奪い尽くし 命あるものに 絶望を 「耳障りだ」 異形の言葉を遮って、鴉刃が言葉を口にする。その姿は異形の前からかき消える。次の瞬間には異形の背後に立っている。 異形の巨躯が切り裂かれる。暗闇色の血を噴き出す。GRRRと凶暴な唸りをあげながら、異形は振り向きざまに腕を振るう。鴉刃へと叩き落す。 「笑止」 鴉刃は異形の方など振り向かない。そのまま片手で敵の攻撃を受け止めた。姿勢は微塵も揺るがない。そんなもの効きはしない。心が、絶望の黒を弾く輝きを放っているから。 飛び上がり回し蹴りをぶちかます。鴉刃の何倍もの体格を誇る異形は、蹴りひとつで何十mも飛ばされる。建物を損壊させながら吹っ飛んでいく。 「これで仕舞いだ」 弾かれたように大地を蹴った。鼻元から伸びた細い髭(※)が揺れる。艶やかな長髪が躍る。風の中に溶け込む一陣の流れとなって、敵との間合いを一気に詰める。 世界の全てが暗転する。暗闇に幾筋もの鋭い軌跡が奔る。暗転した視界が戻る。異形の後方に、片膝をつく鴉刃の姿があった。異形の体には青白い切傷がいくつも刻まれ、そこからばちばちと蒼い火の粉を散らせている。異形は不自然な姿勢のまま、固まって動かない。 ――誰だ ――私の 絶望に 染まらぬ おまえは ――私の 絶望を 弾き返す おまえは ――おまえは 誰だ? 鴉刃は立ち上がる。異形を振り返りはしない。背を向けたまま、彼女は堂々と言い放つ。 「その身、その肉、その心に刻むがいい」 血振るいするように腕をふるう。 「私の名は――飛天・鴉刃。暗殺者だ」 己の拳を己の掌に突き当てる。 ぱん、と打ち鳴らされる乾いた音と同時、異形の体躯がひび割れる。走る亀裂から光が溢れ、弾け飛ぶ。石造りの街の一角をすべて吹き飛ばすような、凄まじい衝撃波が拡散する。大地を揺らす轟音が響く。街が崩れていく。ドミノ倒しになるかの如く、建造物の崩壊は波紋のごとくに広がっていく。 † (きちんとつかめたようですね、その手の中に) 三日月の上に腰掛けている、メルチェットの姿がある。異形の闇を打ち倒した挑戦者の姿を、上空から見下ろしていた。温かな眼差しを注いでいた。 (どうか忘れないでください。これまでも今もこれからも、あなたの中に全てがあるということを。強さも弱さも、希望も絶望も、全てはあなた次第……) † 「む――」 月に腰掛けている少女が、そんな言葉を投げかけてきたと感じて。少女を仰ごうと、鴉刃は闇色の空を見上げた。 けれど、少女の姿は無かった。顔のある月の顎先に腰掛けているような気がしたのに。なぜか戦いの最中では思い出すことができなった、白い衣をまとう金髪の少女の姿はそこに無い。 けれど、少女の声は確かに届いた。鴉刃の目元が、涼しげに細められる。 「まったく、随分な余興だ。しかし……あのような怪物ごときに揺らいでしまった我が信念……まだまだ修行の必要があると分かった。不動のものとするよう、私もまだまだ精進せねばなるまい」 醜悪にげらげらと笑いこけていた月も、今は双眸と唇を閉じて安らかな寝顔を浮かべていて。 それを仰いでいると、暗い街並みの遠くから強烈な光が顔を覗かせた。朝焼けのように暗い街並みを照らす。 鴉刃の視界が、光の一色で染め上げられる。眩い光の奔流が、すべてを覆い尽くす。光に包まれ、鴉刃は帰還する。 (さて……奴らの顔でも見に行くか。希望の道しるべにもなった、憎たらしくも頼もしい、あいつらのもとへ) 脳裏に描くいつもの顔ぶれと聞き慣れた声の連なりが、なぜか懐かしいものに感じられて。その足は、行き着けのスポットへと向けられる。 いつもは表情の変化にも乏しい面持ちに、どこか安らぎがにじんでいて。 <飛天鴉刃の冒険は、これからも続く>
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