その日もいつもと同じ一日のはずだった。 汚れ仕事を終えて帰途についたヴァージニア・劉はそのままねぐらに帰って適当なメシでとりあえず腹を満たして眠る、そんなつまらない形で一日を終えるつもりだった。 けれどもある建物の前に差し掛かった時、劉はふと足を止めた。 壁はこすってもこすっても取れぬ汚れで、真っ白かったのがやや灰色じみていて、屋根に立つ十字架の金色もくすんで見える古ぼけた教会。 (ここは……。だいぶ古ぼけちまってるな) 視線を動かして建物の全容を視界に収める。ここは劉が子供の頃通っていた教会。 あの頃は不思議と大きな教会だと思っていたが、いざ自分が大人になってみるとありふれた小さな教会にしか見えない。それでも、湧いてくるのは若干の懐かしさ。 ふらり……その懐かしさは劉の足を動かした。いつでも万人を受け入れ似られるようにと開かれている扉をくぐる。高い天上を見上げ、そして祭壇や長椅子を眺める――ほとんどあの頃と変わってはいなかった。多少、歳月を重ねている以外は。 「あなたも祈りにきたの?」 「!?」 ぼーっと内装を眺めていた劉は、遠い記憶に片足を突っ込みかけていたのかもしれない。突然掛けられた声に、肩を震わせてしまった。 必死に平静を装いながら、声の主を探して視線を彷徨わせる。と、一番前の長椅子の一番端に座る小柄な人影があった。椅子の背もたれ越しにこちらを覗いているのは、人のよさそうな笑顔を浮かべた老婆。 「ほら、そんな所にいないでこちらに来なさいな。他に誰も居ないのだから、遠慮することはないのよ、勿論私にも」 「いや、オレは……」 劉を信者と勘違いしたのだろう、老婆は立ち上がって手招きをする。それでも劉が来ないものだから、長椅子と長椅子の間にある中央の通路を通って老婆は劉を迎えに来た。 老婆の年齢にしては健脚のようだったが、それでも若者である劉が本気で逃げれば逃げられないはずはなかった。けれどもなぜか、劉はその場を動かなかった。動いてはいけないような気がしたのだ。 「ほら、いらっしゃいな。慎み深いのね、あなたは」 「……」 劉の手をとった老婆の指先は、ひんやりとしていた。長いことここで祈りを捧げていたのだろうか。劉は導かれるままに通路を進み、老婆が腰を掛けた最前列の長椅子に腰を掛ける。 「寒くなぁい? ひざ掛け一緒に使いましょうね」 老婆は劉の返答を待たず、手編みと思しき使い込んだひざ掛けを半分、劉にかけてくれる。 「お祈り、どうぞ。わたしは終わったから、待っているわ」 「……」 にこにこ笑顔でそう言われては、祈りに来たわけではないなんてもう言い出せなかった。劉は記憶をまさぐって幼い頃していた祈りの所作を思い出す。そしてゆっくりと十字を切った。 祈る内容など思いつかなかった。祈っても祈っても救いの手が差し伸べられるとは限らないと、劉は知っていたから。 でも祈らなければ、この老婆は不自然に思い、理由を尋ねてくるかもしれない。それが面倒だったから、劉は形だけの祈りを捧げる。 「……」 形だけの祈りを終えて老婆を見れば、彼女は孫を見るような優しい笑顔で劉を見ていた。そしてしわくちゃの手を伸ばして、劉の頭を優しく撫でる。 「真剣にお祈りして、偉いわね」 まるで子供にするような動作だったが、撥ね付けるほど嫌だったわけではない。不思議と、心地よくさえ感じたのだ。 「あら、こんな手で撫でてしまってごめんなさいね」 はっと気がついたように老婆は手を引いて、隠すように指先を丸める。ちらっと見たその指先は、少し荒れているようだった。 「お花の手入れをしているとね、どうしても指先が汚れて荒れてしまうのよ」 「花の、手入れ?」 「そう。花壇にいっぱいの花を咲かせたくて。年寄りの冷や水って息子によく言われるけれどすこしずつ頑張っているの」 老婆はそれこそ花が咲いたように笑う。その笑顔を壊すことができなくて、劉は仕方なく老婆の話に付き合うことにした。 「花が好きなんだな」 「ええ、お花が好きなのよ。花壇いっぱいに花が咲いたら、手なんて気にならないくらい嬉しいでしょうね」 そう語る老婆の笑顔のほうが花が咲いたように綺麗だったが、劉は口には出さなかった。 その後も続く老婆の雑談に、劉は時折相槌を打つだけの適当さで付き合っていたが、それに気がついているだろう老婆はそれでも十分嬉しそうに話しを続けるのだった。そして。 「明日もお喋りしましょうね」 そう笑顔で告げられてしまい、劉はなぜか釣られるようにしてうなづいてしまったのだった。 *-*-* 義務ではないのに、最初はただ面倒くさいと思っていただけなのに、なぜか劉はその教会に通って老婆との逢瀬を重ねた。 話すのは他愛もない話ばかり。家族の話、近所づきあいの話、先に逝った夫を思いながらも、夫似の男性が気になっているという話。 「息子夫婦も優しくしてくれてね、孫も可愛くてとても幸せなのよ。この間も私の誕生日にパーティを開いてくれてね。息子は温かいストールをプレゼントしてくれて、お嫁さんは私の為にケーキを焼いてくれたわ。おしゃまな初孫の女の子は私の似顔絵を書いてくれたし、よちよち歩きの男孫は私に抱っこをせがむからもう大変!」 大変という割にはさも嬉しそうに笑みをこぼしながら告げる老婆。皺の刻まれた目尻は垂れ下がり、上がった口角付近にも覆い隠せない年齢がにじみ出ているが、嬉しそうな表情は温かいと劉は感じた。 「オレは……」 キラキラとこぼれでてくる老婆の笑顔と幸せのオーラにあてられたのか、劉は自然に口を開いていた。 「子供の頃からずっと母とふたり暮らしで、今は花屋で働いてる」 「まぁ! お花屋さんだったのね!」 「まだ雇われの身だけど、いつか、その……自分の店を持ちたいと思ってる」 嘘なのに、嘘だとわかっているのに、自分の吐く幸せな『人生』がこそばゆくて。頬をかいて老婆から視線をそらす。 「素敵な夢だわ。じゃあ、いつかお店を持ったら、わたしを一番最初のお客さんにしてね? 約束よ?」 まるで少女のように微笑んで、自分のことのようにワクワクしながら老婆は右手の小指を差し出した。劉も倣うようにして、小指を絡める。 何故だろう、嘘を付いているというのに居心地の悪さは感じなかった。むしろ、この老婆の前では現実で手に入れられなかった幸せな人生を騙ってもいい気がして。温かい思いで小指を揺らす。 「はい、約束」 老婆が、花が咲いたように笑った。 だから、劉も笑んで見せた。 本当は花なんかちっとも好きじゃなかった。もちろん、花屋に務めているなんて嘘だし、母親との生活は幼い頃にすでに破綻している。 (でも、婆さんが花が好きだって言ったから……) 花が好きだ、花屋で務めているといえば喜んでもらえる気がした。老婆には喜んで欲しかったのだ。悲しい顔はさせたくなかった。いつものように、劉に向かって笑ってくれればいい、そう思ったのだ。老婆の笑顔は、なんだか劉の荒んだ心に染みこんで暖かく広がる。 適当なメシなんかよりもずっと、劉の心を満たす――。 *-*-* (あれ? 婆さんいないのか……少し早かったか) 無人の教会を見て、携帯の時刻表示を見て。いつもの時間よりも少し早めについてしまったことに気がつく。先に椅子に座って待ってるか――そう思ったその時、背後から声をかけられて劉は肩を震わせた。 「ヴァージニア? ヴァージニアじゃないですか!?」 その声に嫌な予感を抱きつつ振り返ると、そこにいたのは記憶よりもずっと老けた神父だった。記憶の中の頼りない姿ではなく、でっぷりとした腹の突き出た、見る人によってはひょろひょろとした神父よりは頼り甲斐を感じるかもしれない姿。 「ずっと姿を見せないでどうしました? 今は何をやっているのですか?」 「ぁー……」 正直面倒臭い。答えたくもない。会いたくもなかった。まあ、適当に、なんて生返事で答えていると、神父の話は昔話に移ろうとしていた。 「あの頃の君は――」 「あの」 正直思い出して欲しい話でもなかったので、劉は鋭く口を挟んだ。そして。 「人と待ち合わせをしているんだけど、毎日ここに来ている婆さん、知らねぇ?」 「お婆さん、ですか? ああ、彼女のことかな」 彼女なら――。 「死んだ?」 「ええ、一ヶ月前に」 「一ヶ月……」 ならば、これまで劉が会っていた彼女は? しっかりと彼女は存在していたというのに。 足元から何かが崩れ落ちていく気がした。 「かわいそうに、ご家族に介護を厭われて、老人ホームに送られたのですよ。痴呆がひどくなってしまったということで……」 神父の言葉も遠くに感じる。 度々老人ホームを抜け出し、教会に入り浸っていたのだったが、この教会で倒れたきり還らぬ人になったらしい。 「その待ち合わせの約束をしたのはいつなのですか?」 「……――」 その神父の問いに、劉は答えなかった。答える必要性すら感じなかった。 もはや、何が本当で何が嘘なのか――いや、すべてが脆いものなのだから。 *-*-* 後日、劉はまた教会を訪れていた。その手には花束が握られている。 いつも一緒に座って話したあの長椅子に、そっと花束を置いて。 「婆さんが好きな花かどうかはわからないけどな」 劉も、いつもの場所に腰を掛ける。 「全部嘘だったんだ」 『おあいこよ』 二人が語り合ったのは、こうだったらいいのにという空想。 こうあって欲しかったのにという叶わずじまいの願い。 劉は花屋でなんか働いていないし、母親となんか暮らしていない。もちろん、店を持つ予定もそのつもりもない。 老婆は自分の誕生日を祝ってくれる家族なんていなくて、むしろ存在を厭われて。誕生日なんて忘れ去られて、いないことを喜ばれて。 面会になんて誰も来ない、孫の顔すら見れない、そんな孤独な日々を送っていたのだろう。花を育てているというのも嘘に違いない。本当は育てたかったのだろうが、病状もあってホームでは許されなかったのだろう。 だから、せめてこの神の家の中だけでは、幸せな自分でいたかった。神様に少しだけ嘘をつくことを許してもらって、幸せな気分になるために嘘をついたのだ。 劉も似たようなものだった。老婆を喜ばせたかった。老婆を喜ばせることで、なんだか自分も幸せを分けてもらったような気がしていた。どこかで道を間違えなければ、こうあったかもしれないのにという空想を語るのは、思いのほか、苦痛ではなかった。それは、聞き手が老婆だったからかもしれない。 『貴方はいい子よジニー。人の為に嘘を吐ける人に悪い人はいないもの』 「!?」 声が聞こえて。慌てて振り返るも、どこにも老婆の姿はなかった。けれども声は、あの老婆のもので。その声から、今どんな表情をしているのかも容易に想像できた。 「オレが、自分が幸福感を得るために、あんたを笑顔にしたくてついた嘘でも?」 『もちろん。わたしを笑顔にしたいという考えが、私の為でしょう?』 声だけの幽霊は、劉の嘘を優しく許す。そして。 『あなたとお話ができて楽しかったわ。たくさん、たくさんお話しをしてくれてありがとうね、ジニー』 満ち足りた表情を声に載せて、消えてゆくのだった。 「……いい子、か」 劉は呟いて、立ち上がる。出口へ向かう足取りは軽い。けれどもこの教会から出るまでは、あの老婆の喜んでくれたジニーでいよう。 最後に一度、一歩踏み出す前に振り返る。 『ジニー、また明日もお話しましょうね』 老婆のそんな笑顔と声が、聞こえた気がした。 だがもう二度と、劉はこの教会を訪れるつもりはなかった。 理由もなくなってしまったのだから。 【了】
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