白熱灯の安っぽい光。 畳敷きの施術台だけを照らすそれの眩しさにもいい加減慣れてきたところだったが、どうやらこれが最後の施術日のようだった。 「終わりだよ。起きな」 「あー……」 正直に言うと、イスズが墨を入れる針の痛みは嫌いではなかった。ファミリーの連中に殴られる不愉快な痛みとは違う、遠慮なく、だが丁寧に、こちらの身体に蹟を残してやろうという強い意志を持った痛み。たかがタトゥ、ファミリーの一員であることを示す為だけの、必要ではあるが無駄な痛みだと蔑む心は、とうに何処かへ消えていた。 イスズの呼び声にのそりと身体を起こす。針を入れ終わって間もない右胸がじくんと痛みそこに目を遣れば、既に傷ではなくなり墨の落ち着いた部分と、今さっきまで針を入れられていた、擦り傷のように血の滲む生々しい部分とがくっきりと分かれていて、イスズが思い描いたタランチュラ……イスズはそれをツチグモと呼んでいた……であるかどうか、自分の素人目にはよく分からなかったが、初めてこの部屋でイスズの描くものを見た時と同じ、息を呑むような美しさがそこに宿っているのだけはよく分かった。 「……すげえ。まるで生きてるみたいだ」 「上出来だよ」 「!」 その、未だ不恰好な意匠に、イスズの唇がそっと触れる。拒もうと思えば出来る程度の鈍い動作のはずだったが、そう出来なかった。まだ三十路半ばの女のものとはとても思えない血色の悪さと、見た目にも分かるがさがさと乾ききったそれがうっすらと血の色に染まる。 「こいつは本当に傑作だ。おまえ、死ぬときは間違ってもここに傷ひとつつけるんじゃあないよ?」 「……死ぬ間際にそんなこと考えてられっかよ」 全くの保証が出来かねる命令に呆れ顔でため息をついてみせたが、イスズは唇についた血を拭いもせず満足げに、にぃ、と笑んだ。イスズが笑ってみせたのは、この時と、改めてイスズに墨を入れて欲しいと告げた時と、それから……。 __嗚呼 とにかく、それがイスズと交わした最期の言葉で、ただの偶然だろうがあれ以来右胸に傷らしい傷を負ったことは、ない。きっとただの偶然だ。 ◆ この街には二種類の人間がいる。 飯にありつけるクズと、食いっぱぐれるクズだ。 つまりどっちに転んでもクズしか居ないここで、自分はどうやらマシな方のクズに属することが出来るらしい。……らしい、というのも、目が合えば自分を殴って憂さ晴らしをしていたチンピラが、いつだったかどうにも虫の居所が悪くなって(ポーカーで負けが込んだんだったか美人局にあったんだったかは忘れた)そいつの新しい得物、毒物を塗りたくったサバイバルナイフで斬り付けられた日に初めてそう聞かされた所為だ。 指から糸を紡ぐ能力は早いうちから自覚があったが、毒物にめっぽう強いなんてことは実際に毒を盛られなけりゃ分からない。感謝の念はこれっぽっちもありゃしないが、あのクズのお陰で自分はただの動いて喋るサンドバッグから、ギャングファミリーの一員として雑用もこなせるサンドバッグ兼モルモットに昇格したことになる。不名誉な表現だろうがなんだろうが、食いっぱぐれるクズよりかは余程マシだった。 「お前を歓迎するぜぇ? 兄弟」 「……」 チンピラ……とはもう呼べない、ファミリーの中で一つ上の兄貴分に当たる奴が、包帯の巻かれた左腕を軽く叩く。一昨日その腕で誰を斬り付けてきたんだか、どのツラ下げて言ってやがる、と思いはしたが言葉には出さず、小さく頷いた。 勿論、こんな下っ端同士の口約束でファミリー入りが許されるようなことはありえない。ファーザーと幹部たちへの謁見会(という名のモルモットショーと公開リンチ、思い出したくもない)を経て、ファミリーとファーザーに忠誠を誓うことへの念書を書かされ……そうして構成員の一番下に名前を書き加えられる。そののち最初に出された命令が、ファミリーの証である蜘蛛のタトゥを入れろというものだった。 ◆ 「ここだ」 「……きったねーな」 タトゥの彫師はファミリーで手配する、と事前に言われていた通り、忠誠の念書を書かされた翌日、自分は兄貴分に連れられてその彫師のアジトを訪ねることになった。 バグズ……クズどもの中でも自分のような特殊能力を持ったミュータントたちが集まる、自治区といえば聞こえがいいが実際はただのスラム街……のなかでも一際年季の入った雑居ビルに連れて行かれた感想といえば、それくらいのもんだった。コンクリートの壁は朽ちてところどころヒビが入っているが修繕の跡らしきものは無く、ところどころ中の鉄骨がむき出しにすらなっている。本気を出せば(出さないが)自分ひとりでも小一時間もあれば簡単に解体出来るのではないかといった風体の此処に、まともな彫師など居るものだろうか。思いもよらないところで、自分が足を踏み入れてしまった世界のクズさの一片を垣間見てしまった気がして、新しく封を開けたはずの紙巻煙草はどうにも味気なかった。 「イスズ! 仕事だ、起きろ」 斜めに歪んできちんと閉まらないドアをノックもせず乱暴に開き、兄貴分がずかずかと足を踏み入れる。深く考えず後を付いて行くと、兄貴分の視線の先にはどこの粗大ゴミ置き場から持ってきたんだと思うようなボロボロの事務机に突っ伏して眠る何者かが居た。ざんばら髪をだらしなく下ろしたまま寝こける姿はその辺のホームレス連中と何ら変わりがない。 「(イスズ……? 東洋の女名か)」 イスズと呼ばれた何者かはのっそりと上半身を起こし、来客の気配に動じる素振りも見せず大きく伸びをした。そのまま手首にかけていた髪紐でざんばらの髪を器用にくるりと結い上げる。一連の動作に言葉が見つからずぼんやり眺めていると、兄貴分がジャケットの内ポケットから薄い札束を取り出して事務机の上にぽいと投げつけた。 「聞いてたな? 仕事だ、新しい兄弟に祝福をくれてやれ」 「……二週間」 指でつまんで札の枚数をあらかた把握したそいつは、新しい兄弟という気持ち悪い代名詞にこちらへ視線を移す。 「やけに早ェな」 「こいつはそれぐらいだろうさ、仕上がるまでは怪我さすんじゃないよ」 「それはファーザーに言ってくれよ。後金が二週間後ってのだけは伝えといてやるけどな」 「そうしとくれ」 兄貴分は用が済んだとばかりにさっさと部屋を出て行ってしまった。何も言われず取り残され、言葉に詰まり、煙草を一本取り出し唇の端に挟む。 「で、何処にするんだい」 「え、あー……明日決めるんじゃ駄目か」 煙草の先に火をつけたのと同じタイミングでされた質問の意図をすぐに理解出来ず、タトゥの位置を聞かれたのだと分かるまでに数秒を要した。皆それぞれ好きな位置に入れているとは知らなかったし、何処に入れるのがいいかなど勿論考えたこともなかった。考えるより面倒が先に立ってつい、先延ばしにする旨の返答で場を濁してしまう。 「場所によっても彫る期間が違うんだよ、さっさと決めな」 「二週間っつってたやつか」 このやり取りでようやく、二週間というのがタトゥを彫る為の期間ということに気づく。やけに早いと兄貴分が言っていたのが少し気になった。 「めんどくせぇ……任せるわ」 「タマに彫られても文句言わないんなら任されてやるよ」 「やっぱパスで」 イスズと呼ばれた彫師が、その時やっと表情を崩した。ぎょっとするほど構わない見た目の所為でなかなかそうとは思えなかったし思えない方がありがたかったが、嗚呼女だなと何故か悪気なく思える笑みだった。 ◆ 翌日。 兄貴分が持参するのを忘れていた依頼書を届ける為にイスズのアジトへ足を向けたが、タトゥを入れる場所は決めていなかった。別段ファミリーでのし上がろうとも思っちゃいないから目立つ場所に入れる意味も無い、どうせ何処に入れようが大した差は無いと軽く考えていた所為だろう。 「入んぞ」 歪んだドアを開ける。昨日と同じ事務机に座っていたイスズは、まるでこちらの来訪など気づいていないように一心不乱に手を動かしていた。その鬼気迫る様子に若干圧倒されつつ、用件だけは済まさなければと声をかける。 「おい、書類」 「…………ああ、置いといておくれ、後ろの卓んとこでいい」 振り返りもせず、素っ気ない返事。言葉通り事務机の後ろに置かれた低いテーブルの上に依頼書を置こうと近寄ると、そこには何枚ものタトゥの図案が先に置かれていた。一つの意匠を微妙に歪ませたもの、広げたもの縮めたもの、色合いを少しずつ変えたものと多くのパターンが描かれたそれは、彫りを施される人間の体型や肌の色に合わせて考えこまれているのだと何となく理解出来たし、そんな理屈よりも、意匠の美しさにただ息を呑んだ。 「……イスズ」 初めて名前を呼んだ。 半ば独り言のように。 どうしてこんな図案を描ける彫師が、こんな街でクズどもの安い仕事を請けているのか。それが不思議に思えた。此処に住んでいる以上イスズもクズの類なのだろうが、この図案たちはそれを否定しているようにも見える。 「あんたどうして」 「どうしてこんなゴミみたいな仕事してるのかって?」 図案から目を離し振り向くと、イスズは昨日と同じように大きく伸びをしているところだった。そうだとも違うとも言えず、イスズが次に何か言うのをぼんやりと待つ。 「人間、上がったら戻せないものと、落ちたら戻れないとこってのがあってね」 「……?」 肩をこきりと鳴らし、イスズがこちらを振り返る。刺すような視線は何故か自分の右胸に向けられているような気がした。 ◇ 若い時分は彫れればそれでよかったさ。それが持て余す程の金になると知った後でもね。楽しくて仕方なかったよ。 天才? まァ、そうだね、そう呼ばれてた頃もあったかもしれない。 けどね、世間ってえのは冷たくて忘れっぽいもんだ。 ……この成りを見りゃあ分かるだろ、あたしがヤク漬けんなって長いことくらい。 或る時を境にびたいち彫れなくなってねぇ……駄目なんだよ、手元が狂うとかそんなんじゃあない、頭の中では完璧な筈の意匠が肌に降りて来ないんだ。 彫りってのは一生もんで一発勝負だ、一度失敗しちまえば閑古鳥が居座るまではそりゃあ早い。 ……それが怖かったんだろうね、彫れればそれでいい、何も要らねえと思ってても、客が居ないんじゃあそれも叶わないんだ。 ◇ 「……だからクスリに?」 「ああ。お陰で堕ちるとこまで堕ちてこのざまさ」 それでも彫りはやめられないしやめてないけどねと笑い、イスズは今度こそはっきりと自分の右胸に視線を向ける。 「多分お前が最後の客だよ」 「……へぇ」 それは最後であり最期という意味なのだろう。他人の生き死にには何の感情も湧かないタチだと思っていたが、何故かこの時は、何か言わなければならないと思う自分がいた。 「じゃあせいぜい有終の美を飾ってくれよ。オレもどうせ生傷だらけの人生だがな、一つくらい自慢の飾りがあっても悪かねえ」 「言うねえ」 ◆ そうして、最初の宣言通りきっかり二週間の間に、巣の無い蜘蛛……タランチュラのタトゥがこの右胸に住みついた。イスズは結局、墨を入れた肌の腫れが治まるのを見届けることなくあっさりとこの世を去ったが、それはどうでもよかったイスズの言葉を借りるなら……あの時既に、この右胸には、タランチュラの意匠が降りていたのだろうから。
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