ぎぃ……軋んだ音をたててドアがゆっくりと開いた。 一歩、なかへと踏み込むと不思議な懐かしさが胸を満たし、何日も放置された密室特有の埃臭さが鼻孔をくすぐった。主の性格をそのまま反映したように散乱していた書類などがいつの間にか整理整頓され、きれいに片付き、どこか殺風景とすら思わせる部屋。 事務机の背後にある大きな窓はやや曇っているがそこから差し込む金色の光が優しく部屋全体を包みこみ、まどろみへと誘う。 冬前にしては、驚くほどにあたたかい部屋はまるでぬるま湯のようであった。 目を細めると、事務机の上に丸い湯のみが置かれ、そこには小さな花が飾られていた。花も、それを受ける湯のみのなかの水も澄んでいた。 あれ、鴉刃じゃない? 遊びにきてくれたの? 最近来なかったのに、どうしたの? 軽やかな声。飛天鴉刃は顔をあげる。いつもの笑顔、少しだけだらしないスーツ姿、長い黒髪を手櫛しながら部屋の主は奥からひょっこりと出す。 「ああ、遅くなってしまった。……ここの所たてこんでいてな。……などというのは言い訳だな」 苦笑いして鴉刃は首を傾げ、前へと視線を向ける。優しい日差しのなかで笑っていた彼女に、 「――キサ」 ★ ★ ★ 鴉刃が事務所に訪れたときフェイは一瞬とはいえ視線を俯けて逸らした。まるで鴉刃の姿そのものに責められたように。 彼は自分が過去にしたことをまだ咎めている。否、もう許されたなどと思えばそのときこそ誰もが愛想を尽かすだろうことぐらい自覚しているのだ。 要件を伝えると、フェイは悲しげに首を横に振った。 「ないんだ」 「なぜだ」 責めるつもりはなかった。だが無意識に剣呑な声になってしまっていた。 フェイが、そのときになってようやく鴉刃を真っ直ぐに見た。仮面に隠された目がなにを宿すのかは伺うことはできなかったが毅然とした声で 「肉体は蟲に食われた。魂はもうない。なぜ、墓を作る必要がある? なにもない、あの子が生きていた、ここにいた証はもう俺が覚えているだけ、この事務所があるだけなのに」 「……」 深く、海の底へと沈む静寂が二人の間に流れた。 「……以前、お前のようにキサの墓参りにいきたいといった旅人がいた……そのときも事務所にいってくれと頼んだ。お前もそうしてくれないか」 静かにフェイは告げた。乱暴なことをしてはこの表向きの平穏が一瞬にして崩壊してしまう恐れがあるように。 鴉刃は諦念にも似た気持ちを心の底に抱え、足早に立ち去ろうとした。その背にフェイは言葉を投げる。 「鴉刃、――」 ★ ★ ★ 「まぁなんだ、まずは飲め。以前一緒に飲んだ店で買ってきたものだ。美味かったからな。棚にある食器、勝手に使わせてもらうぞ? ああ、私も一杯だけもらうおう。このあとも用事がはいっているからな。なに、一杯くらい、私には水のようなものだ」 明るいのに早口。一瞬でも油断したら壊れてしまう、脆いガラス細工を扱うような危険と緊張を孕んだ声で、鴉刃は言葉を紡ぐ。 片手にもっていた素焼きの壺を持ちあげてみせると、そそくさと棚から鋭い爪のある手を器用に使って二つコップを出すと、事務机に置いて、酒を並々と注ぐ。一つを彼女に、もう一つを自分に。 透明で、濁りもなく、小さな世界を映し出す液体を鴉刃は一度、じっと睨みつけたあと一気に煽った。 彼女は微笑む。 あら、いい酒ね? ありがとう、鴉刃。そうそう、前に飲んだ酒場はいいところだったわね。鍋もおいしかった。けど、いいところで酔っ払いに絡まれて……鴉刃が撃退してくれたのは痛快だったわ! そのあと二人で飲み直したし……ねぇ 「また店を紹介してもらいたかったが……それもできない話になってしまったな。向こうはああいった店や娯楽はあるのか? なければさぞやつまらぬであろう」 小首を鴉刃は傾げる。 彼女は鴉刃の前に佇み、微笑んでいる。 ……。あら、こうしておたくが会いに来てくれたじゃないの! ちっともつまらなくないわ。それに酔っ払いに会わなくて済むし。……あー、けど、ほら前に二人で飲み直すって私の事務所にいったでしょ? 酔っ払って簡単に化粧したの、楽しかったわね。そうそう、今度は鴉刃が持ってるきれいな服を着て、髪の毛を梳かして、一緒に飲む約束だったのに……ねぇ? まるで水を垂らしたような群青色の空、光輝く金色の太陽、好き勝手な音を奏でる喧騒――世界は鮮やかな色に溢れる。 「酒を奢ってもらうことも出来なくなったが、惜しいことをした。私の胸が大きくなったらというあの約束、忘れたとは言わせんぞ」 彼女は微笑んでいる。あのときと変わらずに。 ……。……。ふふ、そうね、約束、覚えてるわ。お酒飲むことと……ねぇ、酔っ払って恥ずかしいこといったの、覚えてる? ……鴉刃、私たち友達よね? だから、私、おたくがいつでもここに来れるように、待ってるって。私には永遠はないから、いつかのときにはちゃんと私の代わりを作っておくから。やだ、湿っぽい雰囲気、大丈夫よ。しわしわのおばあちゃんになるまで長生きする予定よ、ねぇ…… 繰り返し。 昼はやってきて。 繰り返し。 夜は過ぎていく。 時間は一滴の水のごとく、流れて、流れて。それは否応なくすべてのものを押し流していく。それでもひとつ、またひとつ、時を重ね、言を結び、積み上げて。 「……大きくなるのは無理とか言ってそうだが、私は諦めぬぞ」 彼女はやはり微笑んでいる。 金色の日差しに肉体を包まれて。 ……。……。……。鴉刃 彼女の姿が、ゆらっと揺れて――崩れた。 ★ ★ ★ 嘲笑う半月に優しい色の世界が叩き潰され――真っ赤に、紅く、朱に爆ぜ――黒く染められる ★ ★ ★ 無音の部屋。外から聞こえてくる雑踏が遠い潮騒のように鼓膜に囁きかけ。金色の光は燦々と降り注ぐ。 白い壁、太陽の光によって作られた黒い影、灰色の埃が積もった机、椅子、ソファ――主をなくした品たちはよそよそしく鴉刃を包みこむ。 鴉刃は一人で虚空を眺める。ここにはなにもない。彼女はいない。 「……たてこんでいたと先ほど言ったが、奴に会ってな。仇討ちではないが、戦ってきた。引けぬ戦いであったというべきか」 暁色の瞳は真っ直ぐに、なにもない、誰もいない、空っぽの世界を眺める。 「全滅したがな、何とか相手の脚一本をもぎとった……たった一人で脱出したが……あとで仲間も救出した」 罪の許しを求めるように鴉刃は目を伏せる。 あのとき、百足を殺すことは不可能であった。むしろ、死の淵まで落ちても、反撃したことは喝采を浴びるほどの働きだったことは間違いない。 しかし、鴉刃は己を許さない。 漂う闇のなかで己を責めながら誓った。腕に伝う鮮血と、痛みにかけて。――次に会った時こそ、必ず、奴を 「それでも相手の脚一本だけしか傷を負わせられなかった。命まで取らねば意味はないし、脚などまた生やすなど奴には造作もないことであろう」 後悔、いや、ちがう。憎悪か。……それとも、すこしだけちがう。ただ胸が苦しく、沈められていく。嘲笑う半月が鈍く輝く暗黒へと。 まるで海底に沈んだように、音という音が奪われた部屋で鴉刃は息一つせずに虚空を見つめた。 俯き、金色の瞳で己の薄い影を睨みつける。 「すまぬ」 ぽつりと発した音はとても弱く、儚く、孤独だった。 鴉刃はさっさと顔をあげた。今までの沈黙を、自分のなかにある黒を振り払うように。むしろ、それを見せてしまったことを恥じるように。 咎めは一つもない。常に全力で最善を選び、ここまできたのだ。もしかしたら咎めがないことこそ彼女が請け負う、咎めなのかもしれない。 生きることは失い続ける痛みを、何度も繰り返すことを甘受すること。ときに野獣に襲いかかられるように、ときには嵐に薙ぎ払われるように、喪失は重なり合い、鴉刃のなかに沈殿し、白く、白く世界を濁していく。 時間がいくら経ったところで傷が癒えたわけではないことは、自らの掌から発する鈍い痛みが教えてくれる。 奴を殺して――拭ったところで、透明になることはなく、濁ったなかを進んでゆくしかないのだ。 そう、ただひたすらに一人で進んでゆくしかないことを鴉刃は知っている。 「謝らなくてもいいと言うかもしれぬが、言っておきたくてな。ただの自己満足だ。聞き流してくれ。さて、そろそろ行かねば。また暇があれば来る」 早口に告げて、もう一度、なにかを振り払うように顔を横にふる。 誰にも手をつけられなかったコップに手を伸ばそうとしてそこに映る己を見た。 フェイは静かに告げた。 ――鴉刃、お前のことを俺が……ここで待っている。 と。 結局、コップはそのままにしておいた。外へと続くドアをくぐるとき、足をとめて振り返る。 もう誰もいない、なにもない、空っぽの箱、思い出しか残ってはいない。それもいずれは抗いがたい時間の流れによって風化していく。 こここそが彼女の墓。 「では、な」
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