深夜。 無造作な改築による、なにもかもがちくばくな街のネオンを見下ろせる大手芸能プロダクションが作り上げたブルー・タワーの屋上に十代の黒いセーラー服に身を包ませた少女がいた。 淡いピンクの唇が唄を響かせると、ぽつり、ぽつり、まるで雪のような淡い光を放つ玉――魂が、集まってくる。 無数の魂の輝きのなか、少女は口を閉ざす。もう歌いたくないといいたげに。「歌え、歌えよ。私の歌姫」 呪怨のような声が少女の背後から響いた。声の主は洒落たスーツに身を包んだ四十代くらいの紳士。その手には黒ずんだ剣が握られている。少女は怯えた顔をして震えあがるが逃げない。と、呪怨を吐く男が突然と少女の髪の毛を乱暴に掴んだと思うと、黒ずんだ剣を突き刺した。「――っ!」 悲鳴は、あがらなかった。血も流れなかった。 黒い刃は少女の肉体に沈み、その心と肉体を蝕む。少女を通して黒い負の感情が集まった魂たちに流し込まれていく。「まだだ。まだ、まだたりない」 男はとりつかれたように吐き捨てるとぐったりとした少女の体を無造作に蹴り、殴った。 そうして少女の負の感情をさらに増幅させていく。「それ以上の暴行はよしてもらおうか」「あんたの首、落とすわよ。人間」 鋭い声とともに男の首筋に添えられたのは銀のランスと、鋭い刃の仕込まれた豹の尻尾。男は怯えたように立ち上がると取り繕う。「こ、これは必要なんだ。この子の唄には! あ、あんたたちが言いだしたことだろう? この子の唄に負を混ぜて、人々に絶望を与える! 俺はオーナーだぞ! この子の唄を好きにする権利がある!」「ソカベ、私たちが頼んだのはきぃを売り出すまでよ。暴力を振るえとはいってないわ」 銀のケンタウロス、白豹の中央に立つ二十歳の娘が白い歯で威嚇する。「名誉、栄光。なんでもあげるわ。ただし、私たちの役に立てばね。あんたは、さっさときぃの唄を流してらっしゃい、このぐず!」「っ、……女のくせに」 捨て台詞を吐いて立ち去るソカベを女、華奈子は汚いもののように一瞥すると倒れているきぃを見下ろした。「歌いなさい。ここにいるやつらに絶望を与えなさい」 きぃはふるふると首を横にふった。華奈子は舌打ちすると、つかつかときぃに歩み寄ると、胸倉を掴んで平手打ちを食らわせた。「お前は百足に必要とされる蟲になりたいんだろう! 居場所がほしいんだろう? だったら歌え! こいつらに絶望を与えて、殺せ! いい? 奪わないと私たちは生きていけないの、居場所がないのよ。お前のために私たちは下準備を進めてきたんだ。……きぃ!」「……私、私……百足さま、ごめんなさい。……私は、私が、百足さまの願いを叶えます。守ります。百足さま、ちゃんとした蟲になって、必要として……だから、ごめんなさい」 震える声で、きぃは歌う。 黒い絶望の歌声は風に乗って、無防備な魂たちを浸食していく。 華奈子は舌打ちした。「きぃが羽化したところで、必要とするかしらね? ばかみたいじゃない? 思っても、相手が応えないんじゃ無意味じゃない? あーあ、私たちってばかみたい……ああ、いやだ。いやだ。図書館のやつらもくると思うと虫唾が走るわ」「本気でそう思ってるの? 華奈子」「なによ、ネファイラ」 苛立った華奈子の睨みにネファイラは豹の姿だというのに器用に肩を竦めた。「彼らがきぃを救いにくるのを期待してるんじゃないの? 嫌いだというけど……優しくされたんでしょ? 心が動いたんじゃないかと思って」 華奈子は拳を握りしめ、諦めたように俯いた。「私はあいつらが嫌い……今更だわ。私は、この手で壊してきたのよ! 優しくされたとしてどうすればいいの? 今までの憎悪を……だから嫌い。嫌いよ。きぃだってここまできて間に合うわけがない。そう、あいつらは無力なの!」「華奈子さん……けど、自分から進んで手伝いにきたじゃないですか。それに、先だってきぃのことを」 郁矢が弱弱しく笑うのに華奈子はヒステリックに叫んだ。「うっさい。郁矢! 私は、ただ、ただ……ほっておけないだけよ。あの子のこと。居場所がないのも、愛されないのも……図書館側は、きっと来るわ。なら私は、一人残らず、あいつらを殺すわ」「華奈子さん……そうですね。俺も、なぁ空廼……あいつらには借りがあるからな。一人残らず食い殺してやるっ!」「私は、元からそのつもりだったけど?」「では図書館側と死闘することで各々よいか? 最悪、われわれは、きぃが唄う時間を稼げばよい。しかし、これが最後か……十本目、夢破れの剣」 涙のような透明な剣を、シルバィは見下ろした。「墜ちればいいのよ、底の底まで。そうしたら、あの子は本当に私たちの仲間になるの」★ ★ ★「ちょいと、ややこしい事件が起きた」 厳しい顔で告げたのは黒猫にゃんこ――三十代の姿の黒だ。 インヤンガイに正体不明の「歌姫」が現れた。 ここ数日、深夜になるとラジオから流さる歌を聞いた直後、殺伐とした心を癒され、懐かしい気持ちになるのだという。 放送は深夜にもかかわらず、口コミからかなりの人間が歌姫の虜となった。 しかし、その唄声を聞くと夢のなかで必ず過去の失敗、痛み、苦しみを思い出し、殺したい、死にたいという負の感情に心が支配されていく。それでも人々はまるで中毒者のように歌姫の唄を聞かずにはいられない。「それが九日続いて、ほとんどの人間はノイローゼ状態だ。いつ自殺するものがいてもおかしくない。歌姫が放送でいうには十日になったら、みんな自由になれる……やばい解釈すれば、十日まで聞いたら死ぬってことさ」 そして、これは旅団の仕業だと黒はため息交じりに告げた。「能力からして、これはきぃのものだ。あの娘は、歌によって他者の魂と自分を繋げ、精神に影響を与えるからな。今までは大した悪さをしてなかったが、別の旅団が手を貸したみたいだ。 お前ら、覚えているか? ヴォロスでやばい剣をばらまいた矢部とニケのことは?」 強すぎる力によって人々を憎悪へとかきたてる十本の剣をばらまき、回収していったのは記憶に新しい。 剣に宿る憎悪、殺意……負の感情を、きぃを媒体にして人々に与えて、生気を無くさせている。「つまりは、十本目の剣に宿る感情が流されたとき、人々の生きる力を完全に奪われ、死ぬ選択をするしかなくなる」 ぎりっと黒は拳を握りしめたあと、導きの書を撫でた。「きぃはインヤンガイの特性に合わせて作った蟲だからな……そもそも、だ。きぃっていうのは百足がインヤンガイではじめに実験をして生まれた蟲だと推測すれば、あれは俺たちが潰したから死んでいるはずだ……どうして生き残りがいるかだが」 ここからは俺の考えだが、と黒は断りをいれて語り出した。「大量生産ものってのは、基本的に大量のもんが同じ能力を持つだろう? けど、たまにものすごく出来の悪いのがある。この場合、それがきぃなのさ。大量生産のなかで生まれて、一番出来が悪かった。だから、あの事件で他の蟲のように死なずに、生き残った。それはきぃにとっちゃ劣等感だろうな。出来が悪いから百足に認められないし、必要とされないってな……きぃは作り手である百足に必要とされたいのさ。子供が親を慕うように」 皮肉な話だ、あんな男を親と思うのは……黒は吐き捨てた。「あの事件の蟲ってことはきぃは幼虫だ。蟲っていうのは成長していくだろう? さなぎから、成虫へ……今のきぃはさなぎなのさ。そして人の魂を食らうことで成虫になる……旅団は、きぃを成虫に羽化させるつもりなのさ。大量の人間を死なせ、その魂を取り込むことでな。この導きの書にはこのままきぃを羽化させることは危険だと出てる。災いになるとも。だがお前たちがきぃの羽化に関われば、もしかしたら……無論、旅団と戦うことになるだろうが……羽化できなかった虫がどうなるか? 決まってるだろう。さなぎのまま、死んでしまうのさ」
ロストレイルがインヤンガイについたのは六人が依頼を受けた、その日の昼だった。 「マナちゅわーん。これ貰ってくゼェ」 最後にロストレイルから降りたジャック・ハートはマナに笑顔を向け、手をヒラヒラとふる。その首には赤いマフラーが巻かれ、片手には大きな紙袋が一つ。 「あら、なにかしら、その荷物」 闇が集まって人の形になったような最後の魔女は彼女なりに気さくな笑顔を――見る者にしてみれば心を落ちつかなくさせる不吉な微笑みを浮かべて、ジャックの手荷物に興味を示した。 「あら、かわいいコートと、食べ物ね」 「アン? なんだァ、テメェも食べたいのか?」 「くださるの? ありがとう。クッキーがおいしいわね……そうそう、こうやって直にお会いするのは初めてかしら、自称最強の魔術師さん。貴方の半径を0mにしてしまう事を予めお詫びしておくわ。くくく」 「アアン? ……オイ、魔女。テメェ今日は味方まで無効化すンなヨ」 ジャックが歯を剥きだして懸念を示すのに最後の魔女はくすくすと笑うだけで取り合わない。 最後の魔女は自分から範囲数メートルに及び理不尽な無効化を発揮する。 今回、戦闘が予想されるなかで彼女の能力は心強くもあるが、下手をすると足を引っ張られる可能性も存在だ。 「そうね、今回に限って取引してあげてもいいわ」 「取引だァ~?」 「あなたはタネのある手品師ってことで手を打ってあげる。かわりに、ね」 にじり寄る最後の魔女の桜貝の唇から紡がれた「取引」の内容に、ジャックは僅かに眉根を寄せて釈然としない顔をしたが頷いた。 「努力はしてやるが、どうなるかはわからねーぜェ?」 「ふふ、いいわよ。仲良くやりましょう、私たち」 「ジャック、お願いがあるんだけど……ちょっと、いいかな?」 二人の背後からディーナ・ティモネンが遠慮がちに声をかけた。サングラスに隠れている目から表情は読めないが、どことなく声がたかい。 ジャックはディーナを一瞥して、彼女が丸腰――トラベルギアも、パスポートすら持っていない。それらをロストレイルのなかにあえて残してきたのに気がついた。 「なぁんダァ? 今日のオレサマはモテモテかヨ。わりぃが一人、一人、ゆっくりと相手してやれる余裕はねェぜェ?」 「ちょっとだけ力を貸してくれれば助かるんだけど……今回の、もし敵のなかにはなちゃんが、ジャックは一度会ったことあるよね? あの子に会ったら、傍にいる敵を引き離してほしいの。私……どうしても、話したいの」 ディーナの申し出にジャックは渋い顔をしたが、あえて余計なことは言わなかった。 「……いいけどヨ」 「あら、お話がしたいの、あなた」 最後の魔女がにやりと笑った。 「私も少しだけ協力してあげる。ふふ、魔女からのささやかなプレゼントよ。かわりにその子のことをお任せするわね?」 「うん。任せて。二人とも、ありがとう」 「連日特定の曲をラジオで流す……これは、この世界での協力者がいると私は思うわ」 さらさらと神々しい金色の髪を黒と白のリボンで二つに分けて結んだセリカ・カミシロは顎に手をやり、冷静に今回の事件を分析した。 「電波塔か、それに類するものであろう」 セリカの推理に賛同したのは黒龍が人化したような姿の飛天鴉刃だ。 「それなら特定は難しくないと思うわ。黒、あなたのセクタンで探すことは出来ない?」 柊黒は自分の肩に乗っている蒼炎を撫でた。今は、デフォルトだ。 「すいません。今、蒼炎はこの状態なので……なにかお手伝いできればいいのですが」 「戦いに備えておいたのね。……電波塔はそう多くないでしょうから、あとは私たちの能力でその建物から旅団の気配を探れば……万が一、その場所がはずれてしまっても、ジャックの能力があれば間に合うわ」 「うむ。では、地図がいるな。建物の構造も熟知しておきたい」 「黒、手伝って」 「わかりました」 鴉刃が無駄を感じさせない動きで地図を求めに行く背を見つめて、黒は不機嫌そうな顔のまま目を眇めた。黒は元からこういう顔なのだ。 「どうかしたの」 「いえ。私は……きぃさんとは殆ど面識がありません。資料でしか知りませんが……もし苦しんでいるのならば助けたい。それに、これ以上無関係な人たちが死に追い詰められることは許せません」 迷いのない、真っ直ぐな黒の言葉にセリカは頷いた。 「私もよ。……幸いなことに、まだ直接旅団に会ったことはないの、だから、あなたと少し似た気持ち。どう捉えていいのかわからない。資料で見る限り、きぃちゃんって子が好きでこんなことをしている気がしないの。……もし小さな子が無理矢理にこんなことをさせられているなら、私はそんな奴は許せない。横っ面を張り倒してやらないと気が済まない」 「横っ面をですか」 清楚なセリカの口から飛び出した過激な言葉に黒は驚いて僅かに目を見開く。 「そうよ」 セリカと黒は視線を交わし微笑みあった。 ★ ★ ★ 楚々とした美しい月が、哀惜を、怨念を、喧騒を轟かせる下界を静かに照らし、見守っている。 慈悲深いのか、はたまた冷酷なのか、あるいは両方か――月と同じ瞳を持つ鴉刃は、空を睨みつけると口から白い吐息を漏らす。自身が闇色である彼女は、気配を、息を、殺気を律し、よく躾けられた猟犬のように冷たい灰色のアスファルトに身をぴったりとくっつけ、耳をあててじれったくなるような沈黙のなか、ただただ待った。 音が耳を震わせた。 ――来た! 手を前へと這わせる。フワリッと肉体を数センチ浮遊し、まるで水の中にいるかのように身を捻らせて飛行する。 空は遠く、風は冷たい。 屋上に五人は階段を使って訪れた。 ドアを数センチ開けて、外を覗き込む。 か細い唄声が聞こえてくる。 「ここで間違いないようね」 セリカは油断なく、前を睨むと複数の人影が見えた。 と、 ジャックが飛び出した。 「ちまちましても仕方ねェ! 俺ァ半径50m最強の魔術師だゼェ!」 高速移動と瞬間移動を合わせた移動力を発揮して、ジャックはディーナの依頼通りまずは郁矢に狙いを定めて向かう。 「させん!」 シルバィとネファイラが遮りにかかる。ジャックが応戦するより早く鋭い矢が――黒の放ったボーガンが飛ぶ。 「行ってください!」 ジャックはちらりと横目で黒を見たあと、さらに前へと進んだ。 牽制されたネファイラは不愉快げに尻尾を振るい、吼えた。空中に風の刃が生まれ、黒に襲いかかる。 「っ!」 黒は俊敏に動き、風の刃を避ける。が、一度避けたそれは宙で大きく回転し、ブーメランのように再び黒に襲いかかる。 屋上であるため強風が吹き、黒の足を奪う。 よろけた黒の背を柔らかな手が支えられた。 振り返ると力強い瞳のセリカだ。 目だけで互いに合図する。 セリカは地面を蹴って前に出た。 トラベルギアがとれだけ彼ら相手に効果があるのかは未知数とセリカは判断し、その動きには無駄も無茶もない――防御壁を生み出して、完全に風の刃を弾く。 攻撃が弾かれたタイミングでシルバィがセリカに突撃した。 「!」 その巨体に恐ろしいまでのスピードが合わさり、防御壁ごしに受けた衝撃にセリカの細身はいとも容易く後ろへと吹き飛ばされた。更に風を切ってランスが迫ってくる。 (だめ、間に合わない!) 全身に受ける衝撃とそのあとにくる攻撃を予想して目を閉じた。しかし、いくら経っても予想の痛みはない。かわりにあたたかなものに包まれた。 セリカが目を開けると、自分の身を抱きとめ、そのせいでランスが肩に突き刺した黒がいた。 「黒!」 瞠目し、セリカが叫ぶ。 「平気です! セリカさん」 「……わかったわ」 セリカは黒の腕から這い出ると、レーザー光線をシルバィに放つ。 光の閃光は鞭のようにシルバィを銀の身を打ち、吹き飛ばす。しかし、予想よりもたいしたダメージは与えられなかった。せいぜい五メートルほど吹き飛ばしただけで、その銀色の肉体には傷ひとつつけられなかった。 セリカは走る。 「私の盾を傷つけさせないわよ!」 唸り上げるネファイラの鋭い爪が、セリカに襲いかかる。 ひゅん! 鋭い音をたてて、矢がネファイラの見事な毛並みに突き刺さり、地面に叩きつけた。 黒の見事なサポートを無駄にしないためにもセリカは駆ける。 「我が剣殿! 御無事か!」 シルバィがランスを無造作に振って、黒を忌々しげに地面に叩きつけ、叫ぶのにネファイラは起き上がると怒声をあげた。 「世界図書の連中を、きぃのところにいかさないで!」 「吹っ飛びナ!」 「うぜぇんだよ、テメェら!」 ジャックが片手をあげて、己へと郁矢を引き寄せる。応戦しようとした郁矢は自分の能力が使えないことに気がついた。 「閃光が使えない……っく!」 「くくく、私はこの世に存在する最後の魔女。ここには私以外の魔女は存在せず、私以外に魔法を扱う者が存在してはならない。何故なら、私が最後の魔女だから」 謳う様に告げられる言葉に、郁矢は苦々しく最後の魔女を睨みつけた。 「テメェのせいか! 女! ち……厄介な力だ。華奈子サン、後ろにいてくれよ」 「……私の力も……使えなくなってる……」 郁矢の後ろにいる華奈子は眉根を寄せて――その姿は二十歳の女性から少女に戻っていた。――最後の魔女を見た。 憎悪の視線をまるで羨望の眼差しのように受け止めた魔女は優雅にスカートを持ち上げてみせる。 「貴女、面白い魔法を使うのね。次はヨーグルトでも作ってくれるのかしら? くくくく……」 最後の魔女、ジャックを睨んだ華奈子の視線が最後の一人を捕える。 「なんで、よりにもよってあんたまでいるのよ」 「はなちゃん」 ディーナは弱弱しく笑った。 「話がしたいからだよ」 華奈子は逃げるように視線を逸らし、一歩、二歩と後ろに下がったあと気がついたように自分の手をみた。 「……ふーん、魔女からある程度、離れると、力は戻るのね。郁矢。離れて……っ、郁矢!」 ジャックは郁矢を逃がさなかった。すさまじい吸引力で引き寄せ、自分の前へと郁矢が来たタイミングで強烈な拳の一撃とともに瞬間移動で五十メートルへと吹き飛ばした。 「ディーナ、コレで、いいんだなァ?」 「うん。ありがとう。……二人はきぃちゃんのこと、止めてあげて……はなちゃん」 前に進み出るディーナを恐れるように華奈子は後ろへとまた一歩下がった。冷たい風が二人の間に吹く。それに乗って醜悪な匂いが鼻につく。ディーナはちらりと自分の手を見た。黒いシミが……腐りだしている。 「近づかないで、こっちの姿のほうが腐敗の力は強いのよ。アンタ、死ぬわよ?」 ディーナは笑った。また一歩。もう一歩。両手を広げて。自分の手にはなにもないことを示すように。 「あなたがどんな姿でもいいの……私ははなちゃんに会いにきたの」 優しい声で、はっきりと告げる。冷たい風がいくら吹いても負けないように。 「あんたたちは殺しにきたんでしょ?」 涙に濡れた声が問う。ディーナは笑ったまま頷いた。 「そうね、殺し合いね……だから、はなちゃんは私を殺していいわ。私が死ぬまでの間でいいの……話を聞いてくれないかな」 華奈子は立ちつくし、黒い瞳でディーナを見つめた。 「はなちゃんはいい子よ。優しい子だわ。ケーキ、食べてくれたじゃない。窮屈な鎧を我慢して、お友達に会いに来たじゃない。あなたはいい子よ……とても優しい子だわ。だから私はあなたを抱き締めて、そう伝えたくなったの。ね……抱き締めても、いい?」 そのために、そのためだけにディーナはここにきたのだ。 「違う、私は、いい子じゃない」 「はなちゃん?」 「私は、殺したの! パパが殴るから! 死にたくなかった! ママが浮気したことをパパに告げたのは私なの。だから、けど生きたいから……今まで殺してきたの、そしたら、それだけ生きていいっていわれたから、だから、殺してきたの、殺し続けてきたの。そしたら生きれるから」 ディーナの手が、冷たい頬に、細すぎる腕に触れる。力を少しでもいれたらきっと折れてしまいそうな肉体を包む。華奈子の体は震え、何度も囁くように繰り返される。生きたい、生きたいから殺した。そしたら生きれる、と。大丈夫よ、助けてあげると――その言葉を紡ぐことは簡単で。そんなものが救いにならないことを、知っていて。だから代わりに抱きしめた。ごめんなさいの気持ちをこめて。 ディーナはこの痛みと望みを知っている。それと同じくらいに絶望も。 生きたいから暗闇のなかをただ、ただ走った。肺が痛くとも、喉がひきつっても。ただ、ただ、走って。その手にナイフを握りしめて、赤く染めて。ごめんなさいと繰り返して。 生きるために、繰り返し、繰り返し流した涙を、今はこの子のために流してあげたかった。 この子に会ったときから気になっていた。 その理由が、いま、ようやく、わかった。 この子は闇のなかにいる私なんだ。 「ごめんね……今すぐあなたを助けられるほど強くなくて、本当にごめんね。だからお願い……何があっても生き延びて。いつか必ずはなちゃんを助けてくれる人が現れる。あなたが手を差し伸べたくなる人が現れる。だから、その日まで……何があっても生き延びて」 じわりと鈍い痛みが、ディーナの腕、足に走る。血が濁り、肌がちりちりと焼けていくのがわかる。それでも抱きしめた。ただ、ただ。抱きしめた。無力な両手を伸ばして。 「はなちゃんは、生きて、いいんだよ」 誰が許さなくても。 「大好きだ、よ」 誰が求めなくても。 「……誰が許さなくも、いいんだよ」 強風の吹くなかに立つきぃは唄声によって集められた無防備な魂たちを見つめ、振りかえって唇を歯で噛んだ。 「そろそろ時刻だ。私の歌姫」 にこりとソカベは温和に笑い、片手に持つ白い剣を握りして近づいてきたのにきぃは身を強張らせた。 「怖がらなくていいんだ。私の歌姫……お前が唄えば」 ソカベの浮かべる笑みのなかに――弱い者をいたぶることを楽しむ残忍な影が濃く現れる。 「お前のためなんだ、これがぁ!」 剣を振り上げる。 「させない!」 セリカは走って勢いをつけた状態で地面を強く蹴って飛びソカベに体当たりを食らわせた。息も荒くソカベを睨みつける。 「歯を食いしばりなさい!」 ぱんっ! とセリカの振り上げた掌は、ソカベの横面を張り倒した。 無様に倒れたソカベを見下ろし、セリカは満足してきぃに視線を向けた。 「私はあなたの唄を感じることは出来ないけど……あなたの目を見れば、あなたが苦しんでいることはわかる。あなたの目は、昔の私みたい……人の命を奪う唄を歌って、荒んだ気持ちのままで生きていくのはきっと辛い」 セリカは微笑んだ。 「私は、あなたに生きてほしい。そして心穏やかな気持ちで、歌ってほしい。それが……きっとあなたを想う人や、あなたが想う人に報いることになるはずよ」 セリカが手を伸ばしたとき、きぃの黒い目が見開き、顔が恐怖に歪んだ。 「どうし……っ!」 セリカはうなじに粟立つ殺気に振り返ると、腕に炎を押し当てられたような痛みを覚えた。見ると顔を半分潰されたソカベが薄笑いを浮かべて立っていた。 「女のくせに、女のくせに、殺してやるっ!」 「……っ……」 右腕を左腕で庇ったセリカは憎々しげにソカベを睨みつける。 その瞬間を待っていた! ――闇に紛れた鴉刃は低く飛行したまま真っ直ぐに、狙いを定めて―― 「捕まえたァ!」 「テメェは楽に殺さねェ!」 二つの声が闇を切り裂いた。 光の線が闇を走る鴉刃の全身に巻き付き、縛り上げる。 まったく予想できなかった攻撃は鴉刃の真下から放たれたものであった。 ビルの下に移動されせけた郁矢はすぐさまに屋上に戻るため、光の線で邪魔な壁を破壊し、下の階から突き出てきたのだ。そしてそれはくしくも鴉刃の飛行ポイントの真下。頭から血を流した郁矢は捕えた鴉刃を見て嘲笑う。 ぶちぃと光の線は鴉刃の黒い肌を焼き、肌を薄く引き裂く。 下から飛び出してきた郁矢は両手に光の線を握り、重力を無視した無茶苦茶な力を発揮して鴉刃を宙へと投げた。 しっかりと光の線で鴉刃を締めつけ、 「死、ネ」 一言、一言に呪をこめて言葉を放つ郁矢は振り上げた力と同じく、アスファルトの地面を目指して鴉刃を乱暴に振りおろす。 「くっ!」 咄嗟に背を下にして腹への一撃を回避することを選んだ。骨と内臓が傷ついたら動けなくなる。それだけは避けねばならない。 しかし、どんっと肉体を貫く激しい痛みが走り、呼吸が苦しくなる。口を開いた瞬間、こぼっと音をたてて血が吐き出された。 鴉刃は腕と尻尾を動かし、光の線の束縛から逃れると全身の痛みを感じさせない動きで素早く立ちあがる。 その絶妙なタイミングで鴉刃の懐にはいった郁矢が拳を振るう。それを素早く避け、鴉刃はちらりと横目できぃを見る。 (まだだ……!) 鴉刃は致命傷を負わないように慎重に郁矢の攻撃を避けて後ろへと移動する。闇に我が身を紛らわせると気配を殺して、地面を這って更に逃げた。 「テメェ! 卑怯者!」 郁矢はきぃを守るため、その場を離れることが出来ないらしく、追う気配はない。 どれだけ謗られようと鴉刃は気に留めなかった。口に不愉快な味が広がる。唾とともに血を吐きだす。思いのほかに痛手を被ったが、それでも動けないわけではない。体力の温存を優先し、動きを止める。目だけは前を見る。 再びチャンスがくることを彼女は経験上理解していた。心に巣くう戦いへの恐怖も、激しい怒りも、――長年の訓練で、まるで谷から下へと落ちるように沈める術を心得ていた。次のチャンスに足止めをされないためにも、鴉刃は息を殺した。 「ちっ……逃げたか」 鴉刃を諦めた郁矢は舌打ちを一つ漏らすと、きぃへと向き直った。 「あいつら……!」 「うわぁああああああああああ!」 セリカが一瞬とはいえ死ぬことを覚悟したとき、目の前に黒い男と少女が現れた――ジャックと最後の魔女だ。 ジャックの手から放たれた闇すら切り裂く雷が轟き、ソカベの全身を貫く。 「剣持ちはテメェか! オレサマの仲間に手ぇ出すとはいい度胸だナ! おい、魔女、頼むぜ」 「くくく、本当にろくでもないわね……それにしても、美しい剣ね」 にぃと最後の魔女は微笑んだ。 「これは私にこそふさわしい……約束、忘れないでよ?」 「ああ、テメェが欲しいなら、この剣はくれてやる」 最後の魔女がジャックと交わした取引は『夢破れの剣』の入手。 「っても、コレが終わったあとだ。ヒャヒャ、テメェのその顔、いいナ。弱いもんばっかり相手してたんだろう、ナァ、その立場、ちょっと味わってみろヨ!」 ジャックは五十メートル離れた屋上の真下にある部屋に移動するとソカベの右足を埋めて束縛した。 「なにするんだ、おまえ」 「こーすんだヨ!」 雑な動きでジャックはソカベの太腿に剣を突き刺した。肉と血の裂ける音にソカベが悲鳴をあげたが、ジャックは顔色一つ変えなかった。更には逃げることも、剣を引き抜くことも出来ないように、その状態で下半身を壁のなかに埋めてしまった。 「くそ、くそ、お前!」 「ハッ! ちょっとはそれで頭ひやしナ!」 ジャックは嘲笑い、すぐに上を睨みつけると再び移動した。 「大丈夫?」 「ええ。これくらいは」 セリカは毅然と立ちあがり、切れた洋服の衣で傷ついた腕を縛って止血をした。 「ここは私たちに任せてくれないかしら? きぃちゃんとはこれでも縁があるの。それでささやかな計画をたてたのだけど……悪いけど、その間、あいつらを止めてくれない?」 「わかったわ。……黒!」 セリカはシルバィとネファイラを相手に苦戦している黒へと駆けだした。 スピード重視のネファイラの攻撃を黒は後ろにステップして、距離をとる。だがほぼ同時に息の合ったシルバィの追撃が――ランスが太腿を打つ。よろけた瞬間、容赦のない獣の爪が黒の横っ面を張り倒した。 地面に転がされ、それでも黒は立ちあがった。息が上がり、肺が圧迫される。ずきずきと体中が痛む。肩にいる蒼炎が気遣わしげに黒の頬にしがみついた。 安心させるように自由になる手で黒は蒼炎を撫でた。 「大丈夫です……っ」 蒼炎が身代わりになってくれるのは一度きり。壱番世界の人間で特殊能力がない黒にとってはこれが切り札だ。しかし、それ以上に黒は蒼炎を傷つけたくなかった。自分の痛みならまだ耐えられることを黒は知っている。 「そろそろ落ちてくれないかしら」 「私は、諦めたくないんです……困っているならば、それを、助けたいと思うんです」 「無力ね」 ネファイラは無感動に告げた。 「あなたのその考えは立派よ。けど、あなたが今、なにをしているの? 力がなければ救うなんてものは、ただの空っぽの理想にすぎないの。その理想を抱いたまま、死になさい!」 ネファイラは牙をむき出しに、尻尾を振り上げる。 「させないわ!」 ネファイラの一撃をセリカの防御壁が防いだ。 「セリカさん!」 「一人で救えないなら、二人ならどうかしら? 黒!」 「……はい!」 セリカの鞭のような声は黒を奮い立たせ、ボーガンを構えさせた。 タイミングはすでにわかっていた。 呼吸するようにセリカが防御壁を消すときを待って黒は攻撃を放ち、シルバィとネファイラを牽制する。 「黒、あと少しがんばれる?」 「……はい!」 セリカが駆けていくのを見届けた魔女は笑う。 「こんにちは。いい夜ね。血と肉と……殺し合いの夜」 最後の魔女の微笑みをきぃはじっと見つめた。 「なぜ来たのかっていう顔ね。……私ね、唄は好きなの。一人で良く歌っていたわ……今のきぃちゃんの唄は負と死を望むもの。嫌いではないわ……けど、それを私たちが止めるなんて運命は残酷ね。くくく」 きぃが警戒して後ろに下がった。 「本当は動かないつもりだったんだけど、ジャックさんがどうしてもってしつこくて。ふふ……せっかくのきれいな髪なのに、風のせいでぼさぼさよ?」 魔女らしいからぬ微笑みを浮かべて、最後の魔女は屈みこむと、きぃの髪の毛を優しい手つきで整え、一つにまとめると、黒いリボンでちょうちょ結びにして留めた。 「さて、そろそろ馬がくるわよ」 「誰が馬だ。誰が! オイ、きぃ、これ着て、これを食え!」 瞬間移動してあらわれたジャックに乱暴に投げ渡されたコートと食べ物にきぃは目を丸めて驚いた。 「女の子には優しくって言葉を知らないの、あなた? ほら、きなさい。私が着せてあげる。ふふふ」 「うるせェ。……きぃ、悪いが繋ぐぞ……っ、死ぬなよ。テメェが羽化すりゃ、百足が喜ぶんだろう? だったら、へばるんじゃねェ、お前を好きなやつは山ほどいるんだ……おい、魔女、飛ぶぞ」 「あら、どうして?」 「ここは殺気だらけだ。……オレサマたちと来たら、唄も増えるぜ? そしたら百足のやつも喜ぶんじゃねェのか?」 「ふふ、空へとしゃれこみましょう」 差し出された手をきぃは受け取れるべきなのか、否定すればいいのか判断できない顔をした。 「迷うなら、来いヨ」 ジャックの手が、きぃの手を握りしめた。 体をゆっくりと浮かせながら、ジャックはきぃをその両手にしっかりと抱き上げる。 「オラ、テメェも来るんだろう」 「当たり前よ」 空に移動した三人は、宝石を零したように輝く地上を見下ろした。 ジャックの張ったバリアーで周囲の風をガードしているため、空中だが快適といえた。 「まぁ、人が作り上げたものにしては、なかなかにきれいだと思わない? きぃちゃん、あなたはなにを歌う?」 最後の魔女は手が伸ばして、きぃの髪を結ぶリボンを指で弄る。 「せっかくだ。好きなもの歌えよ。一緒に歌ってやるゼェ……っても、運動会みたいなヤツはやめろヨナ」 「あら、ジャックさん、あなた歌えたの? ああ、けど音痴なのでしょ? やめてちょうだい。素敵な夜が台無しになってしまうわ。それにきぃちゃんと歌うのは私よ」 「アン? テメェ、喧嘩売ってるのか。魔女!」 ジャックと最後の魔女が睨みあう真ん中にいるきぃは慌てて双方を見つめ 「け、けんか、だめ。な、なかよく、しなくちゃ、だめ」 弱弱しいがはっきりとした言葉に二人は言い争いをやめてきぃを見つめる。きぃはもじもじと俯いた。 「なんで、やさし、の?」 「魔女は己の欲望を満たすためにいるのよ。私は歌いたいからここにいるの。それだけよ」 「ハッ! オレサマはしたいことをするんだよ。言っただろう、きぃ。お前を好きなやつはいっぱいいる。いま、お前のために戦ってるやつらはそうだ。あいつらと俺らは方法は違うが、テメェを羽化させてェんだよ。自分勝手なエゴでもナ、ソレを貫きゃいいんだヨ」 身勝手な言葉だが、ジャックにも、最後の魔女にも迷いはなかった。彼らは心からきぃの羽化を願い、歌わせてくれようとしている。 きぃは、ゆっくり空を仰ぎ見る。 地上と同じ、輝いている星。 遠くの空。 集まった魂たち。 「歌いたい……きぃは、歌いたい!」 まるで本能のようにきぃは叫び――声が響き渡る。かたい蕾が綻び、花開くように。鳥が飛び立つように。空に輝く星のように、大地を彩る人々の光のように。 その声は広がり、優しい波紋となって夜空に響く。 届け、 「……唄声?」 ディーナは空を見上げ、空から降り注ぐ光の玉を見つめた。肌に触れるとやさしいぬくもりが肌を包んだ。 「きぃが、歌ってるわ」 光の玉は触れたものの傷を癒し、心の底に残された愛しい思い出を蘇らせる。癒えない悲しみ上に、それでもいびつにも作り上げた優しい記憶を一つ、また一つと脳裏に蘇らせ、心をいっぱいにする。 ディーナは華奈子を胸の中に抱きしめたまま、震える唇で、祈るように呟いた。 「私も、生きて、いいんだよね?」 きぃと一緒に最後の魔女は歌う。ジャックも歌う。 届け、唄よ――。 咳き込んだ黒は、肉体の痛みが急激に消えていくのに驚きに顔をあげた。セリカも今まで感じていた鋭い痛みがなくなったのに怪訝な顔をした。腕を見ると血のあとだけで傷がなくなっている。 「これは、なに?」 セリカがよろけたのを黒の腕が支えた。 「セリカさん……! この唄声が?」 「唄声……それが傷を癒してるの?」 シルバィとネファイラ、郁矢もまた動きをとめて、空を見る。 「これが……羽化したきぃの力……なのか?」 「いや、まだ羽化はしていないだろう。しかし、これがきぃ本来の力」 集められた魂たちは、その身を黒く汚していた闇を払い、本来の輝きを取り戻すと肉体へと戻っていく。 歌い終わったきぃは晴れ晴れとした顔で空を見上げると、アンコールするように拍手をしたのは最後の魔女だった。 「いい唄ね……もっと歌えばいいわ、あなたの唄を」 「……もう歌えないと思う。きぃ、羽化しないと、だめだから」 「羽化すりゃァいいだろう? 羽化するまであたためてやる」 「違うの。……きぃが羽化するには、人の魂、食べなくちゃ、だめだって……じゃないと完璧になれないって。ええっと、魂がないの。記憶だけ食べたから、生き物の核がないんだって」 ジャックと最後の魔女は無言で視線を交わした。旅団たちの今回の行動の不明点がようやく解けた。 「魂ナァ? ハッ、今のお前には魂があるんじャネェのか?」 「魂がないものに、あんな唄は歌えたかしら? きぃちゃん、あなたはそう思いこんでいるだけかもしれないわよ」 「思いこむ?」 きぃは不思議そうに自分の胸に触れる。薄らと、その背が輝く。まるで何かが溢れだそうとするように。 「へんなの。ふわふわ、する。……地上に連れていって!」 「そのほうがイイってんなら、仕方ネェなァ?」 ジャックは、きぃを抱いたままゆっくりと屋上に降り立つと、腕からきぃを解放した。 自分の足で立つきぃの体がゆっくりと光に包まれる――羽化がはじまろうとしている。 全員が呆けた顔をしているなかで一番初めに我に返ったのは郁矢だった。 「きぃ! やばい。羽化がはじまった……シルバィ! あいつらを!」 「心得た! 郁矢殿、この二人を頼む!」 シルバィがジャックたちを狙い走り出した。それに合わせてネファイラは我が身を剣へと変えて、シルバィの手に収まった。 止めようとしたセリカと黒を郁矢の光の線が体の動きを封じた。 「動くなよ。首が飛ぶぜ?」 シルバィの突進を、ジャックは最後の魔女を片手に抱えて瞬間移動で回避し、距離をとる。しかし、恐ろしいまでのスピードを発揮してすぐさまに間合いを詰めたシルバィが素早い突きが放たれるのを最後の魔女は鍵で受け止め、ジャックの風の刃が鎧を撃つ。 「チッ! マァ、敵同士だからナ! 仲良しコヨシはネェよなァ!」 「くく……そうね。私たちがきぃちゃんを連れ去ると思っているのかしら」 「ハッ、そりゃいいナ……ん、オイ!」 ジャックが、それに気がついたときには全てが遅かった。 白い、まるで人の骨が幾度も砕けた末に砂となったものが集まったような、鋭い爪――鴉刃はきぃの背後から近付き、その左胸と、喉の二か所に迷うことのなく、突き刺した。 彼女は己の手で耳を潰していた。血を流す耳には唄声が届くことはなく、傷も癒えることはなかった。 鴉刃がこの場で理解しているのは、きぃの羽化はここで止めなくてはならぬということ。これが今宵の最後にして最大のチャンスであるという二点のみ。 「破内爪!」 爪の先に溜め込んだ魔力をきぃの体内で爆破させる。 「させるかァ!」 郁矢の光の線が鴉刃の右肩を突き刺した。生物は本能的に痛みからの回避を選ぶものだが、鴉刃は怯むことも、逃げることもなく、己のいま、ここでするべきことのために動いた。 それは長年の死闘で彼女の手に入れた強さであった。 なによりも、 あのときの痛みに比べれば――この程度、生ぬるい! 痛みすら感じさせないほどの激しい感情が、心を満たしていた。 失った痛み、奪われた悲しみは闇色に染まり――。 鴉刃から溢れる黒い血は、彼女の闇色の肌を更に鮮やかに染める。 きぃの体内は鴉刃の狙い通りに破裂し、消滅へと追い込んだ。どさりと冷たい地上にきぃが崩れ、その小さな肉体は激しく痙攣し、赤黒い血がとめどなく溢れだす。 羽化しようとするきぃの肉体はあまりにも脆かった。 「……っ、む、か、……さ、ま……っ……」 弱く伸ばされた手が宙をかき、ゆっくりと黒い瞳が鴉刃を見つめる。 「……え、ば……」 「まだ動くか、ならば!」 再び爪をきぃに振り降ろす。 「きぃが、きぃが! いゃあああああああ!」 「はなちゃん、落ち着いて」 腕の中で悲鳴をあげて暴れる華奈子をディーナは必死に止めようとした。 「っ……あ、ぁははははははははははは! 本当は心の中で笑っていたの? 私が、あんたに騙されてるって! 私に触れるな! 抱きしめたいなんて嘘ついて!」 華奈子はディーナを突き飛ばして立ちあがった。 「私は……身勝手で、生きたいから他人を殺してきた。けど、けど、あんたたちを少しだけ信じたかった。こんな馬鹿なことばかりする私たちよりあんたたちがもしかしたらもっといい方法を、教えてくれると思いたかった!」 「はなちゃん……! 違う。違うの!」 「きぃは殺させない。羽化させる! ……あの子を守ることが私の夢だったから」 「はなちゃん、待って!」 「もうお芝居しなくていいわよ? あははは、あははは! ……ああ、ああ、少しだけ夢を見れたからあんたにはお礼をいってあげる。ありがとう。馬鹿な夢……こんなにも絶望するなら見たくなんてなかったけど……郁矢、ごめん」 「はなちゃん、まって……!」 ディーナの伸ばした手は腐敗がはじまり、鈍く、華奈子には届かない。 華奈子は鴉刃に駆けだす。 黒い風が吹く。 死の匂いをまき散らして。 腐敗が鴉刃の振り上げた片腕を襲い、その動きを一瞬だけ鈍くさせた。 「きぃ、大好きよ。――だから、私がかわりに死んであげる」 その瞬間、華奈子の口から大量の血を吐きだされる。肉体が痙攣し、崩れた。鴉刃は自分の下で崩れたきぃの肉体の傷が消えたのに気がついた。 「傷の転移か!」 足元にいるきぃが再び立ちあがろうとしたのを鴉刃は尻尾で叩きつける。 「しかし、傷を転移させられるのはあの者のみ、ならばもう一度!」 ざしゅ――鴉刃の肩に銀のランスが突き刺さった。 ジャックに地面に叩きつけられたシルバィが渾身の力で放った一撃だ。 「走れっ! きぃ殿!」 「くっ……! 邪魔をするなァ!」 鴉刃は血を吐くように吼えた。 きぃは走り出し、華奈子の死体にしがみつくと、口を開く。 ――! 声にならぬ咆哮は空気を震わせ。 華奈子の死体から零れ落ちた魂がきぃの唇に飲みこまれてゆく。 きぃの全身が一度、ひかり、砕け散る。光の破片を纏って立ちつくすのは黒髪の女だった。虚ろな瞳に、喉と心臓には痛々しい傷跡がある。 女はゆっくりと顔をあげて唇を動かすが、そこからはヒューと空気を引き裂く痛々しい音が漏れ出すばかりで音はない。ふらりと風に負けてその場に崩れる肉体。背には透明な細長い片翼が生えていた。 まるで壊れた人形だ。あまりにも弱弱しく、感情もなく、唄もなく……鴉刃は確かに殺したのだ。きぃの喉を。唄声を。感情となる核を。 「……消滅はしなかったが、羽化は失敗ようだな」 「華奈子さん、華奈子さん!」 郁矢は華奈子の死体に駆けより、その身を抱き上げと涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま鴉刃を睨みつけた。 「ごめんなさい、ごめんなさい。俺が守るって誓ったのに! 守りたかった。こんな俺でも、あなただけは……満足か? テメェはこれで満足か?」 「満足だと」 鴉刃の瞳は真っ直ぐにここへと訪れた目的――壊しきれなかった、だがもう使えない道具を一瞥した。 「百足を殺すまで満足するはずがない」 本来は斬れない刃でものを切るように、鴉刃は言葉を放つ。 その目はここにはいない怨敵を見、あの男に与する者を、道具に向ける憎悪と果たしきれなかった目的への激しい、狂うような蒼い怒りの炎に燃えていた。 郁矢は華奈子の死体を抱きしめたまま天に向けて吼えるように狂い嗤った。それが泣いているようにも見えた。 「復讐? ああ、そうか。きぃは百足の……あいつと一緒で俺たちは奪ってきたんだ……けど華奈子さんは選ぶしかなかった。信じたかったし、救われたがってた。お前らがもしかしたらって期待していた……はっ、はははは! 本当に間抜けだったぜ! 俺たちはいままで奪ってきたんだ。今更救われる? 信じる? なんて馬鹿な選択だろう! ああ、ああ、なら俺たちは徹底的に奪い尽く! それだけさ! お前らのものを全てな! 今回はお前らの作戦勝ちだよ。華奈子さんは死んだ、きぃもこんな有様で……引き上げるぞ! ここにいても、もう仕方がない」 郁矢の声にシルバィは剣と化したネファイラを両手に握り、大きく振り上げた。 「――滅!」 どこっ! 音をたててビル全体に亀裂が走り、大きく揺れて、崩れる。 シルバィの放った一撃はビルを崩壊させ、土煙と瓦礫が全てを隠した。 瓦礫のなかに立つのはロストナンバーのみ。 旅団たちの姿は消えていた。 夢破れる剣も、どれだけ探しても見つかることはなかった。
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