夫の蹄が力強い一歩を踏み出す度、牛犂の歯に掘り起こされた春の土の香りが立ち昇る。足を置いた牛犂の床が揺れる度、視界の端で満開の桜が揺れる。土手に広がる菜花の黄色のあちこちに、桜がひとつの大きな花のように薄紅を咲かせている。 萌える草木の香りが心地よいのか、牛の姿で犂を曳く夫の尻尾が機嫌良く揺れる。 機嫌がいいのは春のお陰だけではないのだろうけれど、と黒牛の姿した夫の逞しい肩を見遣る。黒い毛皮に覆われた広い背中には、人間の姿のまま、小さな身体全部を使ってしがみつく娘の姿がある。 小さな頭に被った日笠から、夕闇の色のかかった柔らかな黒髪が零れて春風にそよいでいる。跳ね上がる泥に、裸足の小さな足がぴこぴこと動く。 「あなた」 牛犂の床の上から声を掛ける。夫は春の陽に黒い毛皮をつやつやと光らせながら、ゆったりと足踏みした。艶やかな黒毛に覆われた木の葉のような耳をぱたぱたと震わせ、鋭い角のある頭をゆっくりと振る。 身体から汗の蒸気を上らせながら、夫は牛の姿から人間のそれへと姿を変えた。そうして何よりも先に、大切なものを護るように両手を持ち上げ、肩にちょこんとしがみついた娘の小さな背中を支える。娘と同じ、夏の風にざわめく稲穂のような濃い緑色の瞳が、どこまでも柔らかく笑む。 「お疲れさま」 牛犂から離れ、汗に濡れた夫の背中を乾いた手拭いで擦う。 「昼からは私が」 陽に焼けた肩を腰に巻いていた着物で覆いながら、夫は首を横に振った。おれがやるよ、と歯を見せて笑う夫の頭に、娘がぎゅっとしがみつく。 「わたし、かかさまといっしょにやります、ととさま」 ね、と笑う娘に、思わず笑みが零れる。娘と一緒になって夫に笑いかければ、夫は嬉しげに頬を緩めた。 夫の肩に乗せられた、娘の小さな爪先についた泥を自分の掌で拭う。照れたように嬉しげに笑う娘の夏の稲穂色した眼が、頬撫でる春風に誘われ薄青色した空へ上る。 娘の視線に誘われて空を仰ぐ。薄紅の花弁が春風に舞い上がっていく。 「さくら」 もみじのような可愛い掌が青空へ伸びる。 『空高く舞い上がる花びらのように――』 桜追う小さな掌を見つめるうち、あの時の彼らの言葉が蘇る。 ふと差した影に、田の畦に生えた土筆を摘む手を止める。 「もし」 聞き慣れない声と、その声に混ざる異国訛りに、僅かに身を固くする。膨らんだ自らの腹部を反射的に片手で庇い、声の主を振り返る。 咲き乱れる蒲公英に靴先を埋め、薄紅色に色づき始めた桜の蕾を背に追い、旅装束の一組の男女が立っていた。男女ともにこの大陸の着物を纏ってはいるものの、ひと目で他大陸に住む異種族だと分かる。男は金の髪に琥珀の眼、女は白銀の髪に緋の眼、本でしか見たことのなかった異種族人に思わず眼が丸くなる。しかも、同種族同士の旅の連れではなく、異種族人同士。こちらに声を掛けてきた男の手は、旅に疲れ果てた様子の女の肩をしっかりと抱いている。夫婦に在らずとも、親しい関係であるのは確か。 全大陸の支配種族であるヒトの定めた法により、異種族間で子を生すことは重罪とされている。そのため、港湾等での異種族間の流通・交流はあっても、夫婦となり共に生きることは極めて稀だと、 (そう本で読んだけれど) 土筆や蓬を入れた野菜籠を片手に、もう片手に膨らんだお腹を抱え、よいしょと立ち上がる。 (でも、世界は私が知っているよりもきっとずっと広いんだから) 「どうかしましたか」 笑みを浮かべる。男は安堵の表情を浮かべた。 「旅で、難儀をしております」 異国訛りのゆっくりとした言葉を男は話した。女が丁寧に頭を下げる。 「宿は、ありますか?」 (この人たちは私の知らない外の世界を旅しているのだ) 応えるよりも先、隣の畑で草引き作業をしていた近所の小母さんが朗らかな声を上げる。 「あれあれ、旅のお人かァ?」 小母さんの声に誘われ、あちこちの田畑からご近所さん方が顔を出す。 「客人なんて珍しいなァ」 「こんな田舎によく来たなあ」 「なーんにもないとこだけど、ゆっくりしておいき」 「宿なんてないからねえ、うちに来るかい」 元気のいい小母さんたちにわらわらと取り囲まれて、二人は少し驚いた様子を見せながらも嬉しそうに笑う。 賑やかな人々の声に反応してか、お腹の中の子がぽこぽこと動いた。肋骨の辺りを蹴飛ばされる幸せな痛みにお腹を撫でながら、小母さんたちに案内されて畦道を歩き始める二人の後をのんびりと追う。 お喋りな小母さんたちに目を白黒させながら、琥珀の眼の男は自分たちは世界中を旅して回っているのだということ、女は蛇の獣人で自分は虎の獣人だということを一言ひとこと確認するようなゆっくりとした口調で話した。 そうして、旅に疲れた女の体調が回復するまで出来ればこの村に滞在させてもらえないかとどこか恐る恐る尋ね、 「そんな蒼い顔した子を放っておけるもんかい!」 「ここに来たからには出来るだけ太って行ってもらうからね!」 小母さんたちの総攻撃を喰らった。 「ほらほら、あんたも! 臨月なんだから精をお付け!」 ついでにこちらにも世話好き小母さんたちの世話焼き攻撃余波が回ってきた。籠いっぱいの春野菜と産み立ての鶏卵を貰ってしまった。 二人の旅人は、村の顔役の家の離れにしばらく滞在することになった。 「美男美女よね」 「なんだかちょっと影があるのよね」 小母さんたちがキャアキャア言いながら、うちで取れた米を食べなさい野菜も食べなさい父ちゃんが取ってきた魚も食べなさい、と毎日のように通うのに紛れて、 「こんにちは」 大きなお腹を抱えて頻繁に離れにお邪魔させてもらっている。 「いらっしゃい」 放し飼いの鶏がうろつく庭で薪を割る手斧を振るっていた、虎獣人の男が物静かな笑みを浮かべる。 「ヒタネさん」 縁側で豆の莢を剥いでいた蛇獣人の女が親しげに緋色の眼を細める。旅の疲れを癒す日々を送っていても、二人はよく働いた。 この緑の大陸の主な住人である牛獣人たちの多くが力強く温和であるとされるように、虎獣人は膂力に優れ、蛇獣人は忍耐強いとされている。旅の二人も、それぞれの獣人の気質を強く受け継いでいるようだった。 「お腹、張らない? 大丈夫?」 年が近いこともあってか、蛇獣人の女とは気が合った。 「できるだけ歩けって産婆さんに言われてて」 女の横に腰を下ろし、豆の莢を取る作業を手伝う。 「そうね、でも大事にしてね」 「ね、今日も旅の話を聞かせて?」 物静かに淡々と作業をしながら、女は銀色の睫毛を伏せて唇を開く。 大陸間に広がる海を船で渡ったこと。 果てなく広がる海の青さ、海鳥の声。月夜に見た、もしかすると幽霊船だったかもしれない蒼白い船。 赤い砂礫の大地を夫の背に乗って駆けたこと。 乾涸びた地平線の彼方で揺れる、逃げ水と呼ばれる水の幻。白い月に掛かる不思議な虹。 女の語る旅の話が好きだった。 話を聞けば聞くほど、村の外の世界に対して心が躍った。見知らぬ人々の生活に眼を丸くした。母体が興奮するのにつられ胎内でぐいぐいと動く子を撫でながら、もっともっとと女に話をねだった。 「今までも、たぶんこれからも、私は村から出ずに生きていくから」 私はそれでいいけれど、それで充分に幸せだけれど。 「でも、この子には」 もうすぐ生まれてくる自分とあの人の子供には。 「外の世界を、広い世界を見てもらいたいの」 春の青空を仰ぐ。銀の髪を春風にそよかぜ、女も空を見上げる。その瞳が何処か悲しげに見えて、 「いけないこと、かな?」 そっと尋ねる。女は優しく微笑んで首を横に振る。 「生まれてくる子供さんが、良い旅を出来ますように」 長く旅をしてきた女の手を、どれだけ話をねだっても嫌な顔ひとつせずに語ってくれた女の手を、思い切って取る。 「あの、……あのね」 異種族間で夫婦となり、世界中を旅して来た二人に会ってから、ずっと考えてきたことがある。 「夫とも話したんだけどね、もし、もしも良かったら」 女の手をぎゅっと握ったまま、頼み込む。 「生まれてくる子の名前を、付けてもらえないかな?」 その日は雲ひとつない青空で。 里のあちこちに咲く桜が全部満開で。 時折吹く風がとても力強かった。 「桜、散っちゃうかしら」 眩しい朝陽を浴びてすぐに始まった陣痛の合間、おろおろするばかりの夫に額の汗を拭ってもらいながら小さく呟く。 「どうかな」 陣痛の波が怒涛のように押し寄せる度に痛み逃しの呼吸を一緒にして、本人よりも憔悴した顔をした夫が泣きそうな顔で笑う。 「情けない顔してる暇があるなら腰でも擦ってやりな」 産婆に叱られ、ますます泣き笑いの表情になる夫に思わず笑う。 産室とした自宅の部屋の外で、手伝いに来てくれた近所の小母さんや蛇獣人の女の忙しげな軽い足音が聞こえる。 家の外では鶯が呑気な声で鳴いている。 何処かの畑で誰かが鍬を振るい土を耕す音がする。 「もうすぐだからね」 がんばりな、と産婆が言う。 そこからはあっと言う間。私らは安産だからね、と言う産婆の言葉を、こんなにしんどいのに痛いのに、と心の中で罵りながら、うっかり口に出してしまったりしながら、 ――赤子が生まれてしまえば、痛みも辛さも全部ぜんぶ、忘れた。 「風が、吹いたの」 おくるみに包まれてむにゃむにゃ夢うつつの娘を覗き込み、蛇獣人の女は緋色の眼を優しく細める。虎獣人の男は嬉しげに琥珀の眼を丸くする。 「赤ちゃんの声、聞こえた瞬間」 湯を沸かすための薪を取りに外へ出て、女はそれを見たのだと言う。 赤子がこの世界に出てきた瞬間、その産声に呼ばれたかのように強い風が吹いた。一陣の風は空を目指して吹き上がり、風に乗った大量の桜の花びらが天高く舞い上がった。 青空に自由に舞い踊る、幾千の薄紅色。 「ヒタネさん」 布団に座って子を抱く自分の傍らで、異種族間で絆結んだ夫婦は背筋を正す。周囲に誰もいないことを確かめる。 「私たちには、子供がいたの」 女はそっと秘密を囁く。 眼を丸くすれば、女も男も悲しい瞳で微笑んだ。 「異種族間で子を生すことは、重罪。それは分かっていた。でも、それでも、……」 端座したまま、女は告白を続ける。 「子供は生まれてすぐ、政府にさらわれた。私たちも処刑されるはずだったけれど、逃げた」 ふと、思い至る。夫の背に乗り駆けたという赤い砂礫の地の風景は、あれは逃亡の最中の風景だったのではないか。 「でも、きっと、子供を取り戻す」 悲しい強い瞳で語る女の手を、おそらくは重罪人と罵られる覚悟で話してくれた女の手を取る。 女を、男を、重罪人だとはとても思えなかった。生まれたばかりの可愛い子を取られた痛みは如何程かと胸が痛んだ。 「いつかきっと、……きっと」 冷たい手をきつく掴む。祈りの言葉さえ口に出せずに、ただただ手を握り締める。 「私たちの子供の分まで、ヒタネさんの子供には自由に生きて欲しいの」 そう、空高く舞い上がる花びらのように何ものにも捕われず、どこまでも自由に―― 「ソア」 娘に名をつけてくれた後、二人は村人たちに感謝しながら再び旅に出た。彼らの行方は杳として知れない。便りがないのは今もまだ旅を続けているからと信じてはいるけれど……。 「ソア」 小さな掌が、小さな身体が、空を目指して一心に伸びる。そのまま、その異国の響きの名に込められた願いの通り、ふわりと高く舞い上がって、空に踊る薄紅の花びらを追いかけてどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして、娘の名を呼ぶ。 「はい」 曇りのない澄んだ緑の眼は、遠い空から母親のもとへとすぐに戻った。 空へ伸びていた小さな手が、父親の頭の上に下りる。 (広い世界を見て欲しいの) そう思いながら、桜が風に舞い上がるその時に生まれた娘へと両手を伸ばす。ソアは花咲くように笑い、母親の腕に両手と身体全部でしがみつく。 (でも、今はまだ) 柔らかな小さな身体を両腕で抱いて、温かな頬に頬を押し付けて、祈るように思う。 ――どうか今はまだ、傍に居て。 終
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