こーこまーでおーいでー。 「……どうして逃げるの」 ◇ ◇ ◇ 「鬼さんこちら、ここまでおいで!」 「きーっ!」 脇坂一人が囃し立て、仁科あかりは激怒した。一人は気弱な小学生五年生だが、あかりより三つも年上だ。小柄なあかりはいつも一人を追いかける側だった。 「かっちーのバーカ、カーバ、ぶたのケツー! もう知らない!」 あかりはイーッと歯をむき出して立ち去ってしまう。お馴染みの幕切れに一人は肩をすくめた。鬼ごっこが成立しなくなったのはいつからだったろう。二人の差は確実に開きつつある。 「かっちーだって。やーい、かっちー!」 ひとりになった一人にクラスメイトが群がった。 「かっちー、かっちー!」 「熱々カップル!」 「……そういうのじゃないもん」 一人は不快も露わに顔を歪める。それを照れ隠しと勘違いした男子たちはますます調子付いた。彼らはとにかくこういう生き物だし、女子と仲の良い一人は格好の餌食なのだ。 「ひゅーひゅー、ラブラブ!」 「あつーいあつーい!」 「やめ……違……」 「でやあああああああ!」 つむじ風が猛然と突っ込んでくる。あかりだ。プラスチックのバットを振り回し、顔は真っ赤、ついでに鼻水まで垂らして怒り狂っている。 「かっちーをいじめるなああああ!」 「ンだよ、やっぱ熱々じゃん!」 「うるさあああい、あっち行けえええええ!」 上級生相手にもあかりは臆さない。おもちゃのバットが男子の鼻先を掠める。尻もちをついた彼は仲間に起こされ、一目散に逃げ去ってしまった。勇敢なあかりは鼻からフンッと息を吐いた。 「ざまあみろ」 女の子らしからぬ仁王立ちである。恐れ知らずの小さな背中に一人は苦笑を禁じ得ない。 「ねえ仁科。そういうの、無鉄砲っていうんだよ」 「だって」 あかりは頬を膨らませながら振り返る。一人は困ったように笑った。彼の目尻には涙が光っていた。 「でも、ありがと。帰ろ」 「うん!」 どちらからともなく手を繋ぐ。暮れなずむ道に二つの影が伸びる。家が近所で、あかりの両親が多忙なこともあり、二人は物心ついた頃から一緒だった。 「じゃあ、またね」 「うん。おやすみ」 やがて影は別れた。親しげに手を振り、明日も会えると信じたまま。 ◇ ◇ ◇ 一人の息が上がる。 「待って。逃げないでよ」 どうしてもあかりに追いつけない。 「またねって言ったじゃない!」 一人は青年になった。あかりは今も少女のままだ。 ◇ ◇ ◇ 青少年期の三歳差は数字以上に大きい。 一人が中学生になると距離は広がるばかりだった。 「……仁科?」 二階の子供部屋で一人は手を止めた。小さな足音がどたどたと階段を駆け上がってくる。 「かっちー!」 どんとドアを開けてあかりが飛び込んでくる。勢い余って前のめりになったランドセルからどさどさと教科書が雪崩れ落ちる。一人はシャープペンを置いて教科書を拾ってやった。 「蓋、ちゃんと閉めないと」 小学校の教科書は薄く、大きい。あかりはそろりと一人の机を覗き込み、吊り気味の目をいっぱいに見開いた。 「かっちー、こんな勉強してるんだあ」 中学校の教科書は分厚く、活字だらけだ。 「すごーい。何、理科? 何て読むの?」 「ちかん」 「痴漢!?」 「置換」 幼い勘違いに一人は苦笑いだ。 「ねえねえ、部活は?」 「今は休み。もうすぐ期末試験だから」 「テストのこと? テストだと部活ないの?」 「そう。勉強に集中しなってことなんじゃない」 「へえ」 あかりは別世界の話でも聞くようにくるくると目を回した。そしてぽつりと呟いた。 「じゃ、遊べないかな」 珍しく早く帰ってきたと思ったのに、と付け加える。一人の胸がちくりと痛んだ。 「ごめん。試験が終わるまでは……」 「んーん、しょうがないよ。じゃね!」 あかりはランドセルを背負い直して立ち上がった。 時間は止まらない。二人の成長も止まらない。やがて一人は受験生となり、あかりと遊ぶ機会も極端に減った。 「かっちー!」 どんとドアを開けてあかりが飛び込んでくる。一人はくまの貼り付いた顔を振り向け、あかりははっと息を呑んだ。 「……どしたの、その顔」 「寝不足で……受験勉強してただけ。何?」 「えっとね、じゃーん!」 あかりは気を取り直すようにして手を突き出した。二枚のチケットが握られている。サッカーの試合だ。一人は欠伸をして教科書に向き直った。 「ごめん。勉強しないと」 あかりに背を向けていた一人は、彼女の顔からすっと笑みが引いたことに気が付かなかった。もちろん、彼女が慌てて作り笑いを浮かべたことにも。 「ん、うん。そっか。そだよね」 あかりはそそくさとチケットをしまい込んだ。 「じゃあさ、受験終わったら行こうよ」 「そうね」 一人は何の気なしに答えた。 春が来て、一人は高校生になった。あかりはようやく中学生だ。高校と中学校では世界が違った。高校の時間割は六時間目まであるのが当たり前。その後には部活動もあるし、部活が終われば仲間内のカラオケやゲームセンターに付き合わされることも多い。 聞き分けの良いあかりは決してわがままを言わなかった。彼女はもう一人を追いかけなかった。代わりに、偶然を装って一人の家の傍で待っていることが多くなった。 「あ、かっちー。お帰り」 白い息を吐き、鼻を真っ赤にしてあかりが手を振っている。とっぷりと暮れた街角に二人の影が濃く長く伸びている。 「仁科。何してるの」 「ん、たまたま遅くなっちゃったから」 「居残り? 補習?」 「違うもん」 あかりはすんと鼻をすすり上げた。そして屈託なく笑った。 「サッカー、いつ行こっか?」 「え? ……ああ」 一人は呆けたように相槌を打った。そういえば、受験が終わったらという約束をしていた。 「そうねえ。そのうち」 「そのうちっていつ?」 「ええと……あ、ちょっとごめん」 一人のバッグの中で携帯電話が震え始めた。部活の仲間からのメールだ。 親指を忙しなく彷徨わせる一人の傍であかりはくしゃくしゃと泣き笑いを作った。 「じゃ、またね。サッカー、約束ね」 「うん」 一人は上の空で答えた。 影が、離れていく。あかりは真っ暗な家へと帰って行く。 あかりが学校の階段から転げ落ちたのはその数日後だった。 ◇ ◇ ◇ 「待っ」 一人の足がとうとう止まった。 息が、苦しい。心臓が叫びながら暴れ、胸を裂いてしまいそうだ。喘ぎながら顔を上げた。小さな背中は目の前にはない。 「仁科。……ふふ」 一人は乾いた自嘲を浮かべた。 「そうよね。何が親友よ」 ◇ ◇ ◇ 「仁科!」 一人はどんとドアを開けて病室に飛び込んだ。そして慌てて口をつぐんだ。 「病院では静かにね」 検温に来ていた看護師が苦笑と共にたしなめる。一人は小さく頭を下げて六人部屋を見回した。 「やほー、かっちー」 奥のベッドで、あかりがよれよれのピースサインを作っている。 一人は走り寄りたい衝動をこらえてゆっくりと近付いた。 「大丈夫なの? 階段から落ちたなんて」 「んー、まあ……命に別状はない……んだけど」 あかりの顔が曇る。くりくりの瞳が揺れながら一人を見上げている。一人の胸は痛んだ。重傷でなくとも怖い思いをしたことには違いない。 やがてあかりは俯いた。そして自分の肩を抱き、小刻みに震える。 「あーあ、もう」 そして唐突に溜息をついた。わざとらしい、やけに大人ぶった風情だ。 「もちもち佃煮パン!」 「……え?」 思わぬ単語に一人は目をぱちくりさせる。あかりは流行りの女優を真似て眉を顰めてみせた。 「うちのガッコの超人気商品。週一回しか入荷しないの。あっという間に売り切れるの。朝から気合入れて、四時間目終わってばーっと買いに行ったのにさ! もー」 心の底から口惜しそうな言いぶりだ。一人の全身から力が抜けた。 「何よ……もう」 「ん? どしたの?」 「あれだけ心配したのに!」 「う。ごめん」 あかりはきゅっと身をすくめる。一人はすぐに眦を緩めた。 「でも……なんていうか、仁科らしいなあって。そうよね。殺そうとしたって死なないわ」 「わたしは怪我人ですー」 あかりはイーッと歯をむき出した。 「お父さんとお母さんは?」 「お父さんは帰国できないよ。お母さんはさっき来た。また夜に来るって」 あかりの両親は相変わらず多忙だ。そのせいか、あかりは妙に聞き分けの良いところがある。しかし一人は「そう」とだけ応じてベッド脇に椅子を引き寄せた。あかりの転落と無事が立て続けに注がれた心にもはや容積の空きはなかった。 「どうなっちゃったかと思ったけど……うん。とにかく良かった。安心した」 「ありがと、へへ」 「いつ退院できるの?」 「ええと、一週間くらい? あー、来週の佃煮パンには間に合うといいなあ」 他愛のない会話が続く。時折あかりは言葉を切って考え込む素振りを見せた。まだ本調子ではないのだろう。 「そろそろ帰らないと」 面会時間の終了が近付き、一人は席を立った。 「あ、あのさ、かっちー」 「なあに?」 振り返る。あかりの小さな唇が物言いたげにわなないている。 「……何でもない」 だが、聞き分けの良いあかりが一人を困らせることはないのだった。 「また来てね」 「うん。今度は何か持ってくるわ」 手を振って別れた。再び会えると、それが当然と一人は信じていた。 あかりは予定通りに退院した。そして三年が経ち、転居することになった。 「どうして言ってくれなかったの」 引越しの当日、一人は激怒した。転居のことを知らされたのはつい最近だ。しかしあかりは悪びれずに笑った。 「あはは、ごめん。急に決まっちゃってさ」 「だからって」 一人の唇がむずりと歪む。視界の端で家具の運び出しが続いている。急な引越しの割に段取りはスムーズだった。まるでずっと前から予定していたかのように。 一人は低く呻いた。 「――親友だって思ってたのに」 やり場のない一言があかりの顔から笑みを消した。 昼下がりのアスファルトに二つの影法師が伸びている。 「ん。ごめん」 沈黙を破ったのはあかりのほうだった。 「あのね、かっちー……」 「何」 一人はむすりと応じた。あかりの眉尻が泣き顔の形に下がる。寂しがっているのだろうか? しかし一人は頑なに口を閉ざしたままだった。寂しいのは一人だって同じなのだ。 重苦しい沈黙が二人の間を満たす。 運送トラックがぶるんと身震いする。別れを急かすように排煙を吐き出す。 「ん。何でもない」 やがてあかりはいつものように笑った。 「元気でね。――また、ね」 影がアスファルトから離れていく。残されたほうの影は排気ガスに塗り潰され、見えなくなった。 ◇ ◇ ◇ 過去は決して取り戻せない。だからこそ一人の胸から苦い味が消えない。兆候はあったのに、なぜあの時話を聞いてやらなかったのだろう。 そのくせ、今頃になってあかりを追いかけている。 「……親友が聞いて呆れる」 あかりの転居の理由は見当がついている。自分が覚醒して初めて分かった。加齢の止まったコンダクターが壱番世界に留まり続けることは難しいのだと。 あかりは小さな胸にすべてを押し込めたのだ。彼女は無鉄砲でパワフルで、辛抱強い。そして、そんな素振りをおくびにも出さない。 一人はようやく息を整え、世界図書館へと向かった。旅客名簿であかりの名を探す。現住所は相変わらず記載されていない。 「見つかりましたか」 親切な司書が事務的に声をかけてくる。一人は曖昧に微笑んで辞した。 「鬼さんこちら!」 「ここまでおいで!」 鬼ごっこに興じる子供達が駆け抜けていく。彼らの姿にかつての記憶が重なる。今は一人が追いかける側だ。 捕まえて欲しいから逃げるのだと言うけれど。 「あのー、脇坂一人さん? コンダクターの」 不意に声をかけられ、立ち止まる。振り返れば、逓信マークの帽子をかぶったツーリストが立っていた。 「お届け物です。仁科あかりさんから。サインお願いします」 「え? あ、はい……」 「確かにお届けしましたよ。ああ忙しい忙しい」 詳細を尋ねる前にツーリストは走り去ってしまった。一人の手には小さな箱だけが残った。 『脇坂一人様 ――仁科あかり』 へたくそな字で互いの名前だけが記されている。 箱の中には緩衝材でぶきっちょにくるまれた塊が入っていた。掌ほどの大きさだ。慎重にセロハンテープを剥がし、一人は小さく感嘆の息をついた。 「……綺麗」 コルクで栓をされた小瓶に、スミレ色の星砂が詰め込まれている。宝石屑のようなそれは、空に透かすとさらさらと流れながら煌めいた。 包みにはメッセージカードが付されていた。砂はブルーインブルーの、古代の遺跡の残滓らしい。恋愛にまつわる言い伝えがあるそうだが、それとは関係なく、ただお返しとして贈りたいと書き付けられている。 一人はゆるゆると苦笑した。 「伝えたいことはそれだけ?」 カードの字はやっぱりへたくそだ。 「そう。分かったわ」 トラベラーズノートを取り出し、さらさらとペンを走らせる。 ことん。郵便受けに何かが落ちて、あかりはぱっと顔を上げた。 配達証明書が入っている。 「……ちゃんと届いたんだ」 一人のサインの複写をしばし見つめた。 ――ずいぶん都合の良い話だ、と思う。 覚醒したあの時、何も言わずに一人の前から消えた。思いがけず一人と再会した時も反射的に逃げた。それなのに一人に星を送った。 「あーあ。何がしたいんだろ」 ぷーっと頬を膨らませてソファに倒れ込んだ。さらさらと風が吹き込み、白いカーテンを揺らす。あかりはのろのろと起き上がり、清廉なカーテンが窓辺の花を撫でる様を見つめた。 『大丈夫よ。心配しないで』 窓際で、喋るスミレが明滅しながら囁いている。 あかりは立ち上がり、スミレと向き合った。滑らかな花弁に恐る恐る手を伸ばす。花は、あかりの指先を優しく受け止めてこうべを垂れた。 「ごめん。ごめんね」 快活なおもてがちょっぴりしぼむ。 「お願い。もうちょっとだけ待って。……必ず、行くから」 『大丈夫よ。心配しないで』 吹き込まれた一人の声はあの頃よりも深く、静かだ。 『もう追いかけない。でも嫌いになったんじゃないわ。 怖がらないで、大丈夫よ。 昔の事、ごめんね。 話したくなったらいつでも連絡ちょうだい』 「……よし」 呟き、一人はペンを離した。ノートに書き付けた文字がほどけながら消えていく。風に乗って飛んで行くかのように。 無視されればそれまでだ。しかしそれでもいい。 「待つわ。星になろうって決めたんだから。……危うく忘れるところだった」 吹き渡る風にページがぱらぱらとめくれていく。 星の光は必ず相手へ届く。気の遠くなるような時間を経て、きっと。 (了)
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