掌に収まるほどの瓶の中で砂が煌めいている。スミレ色のそれはまるで星屑のようだ。脇坂一人は瓶を手に取り、そっと息を吹きかけた。 「綺麗」 小花柄のハンカチでくるむように瓶を拭く。もっとも、瓶には埃も曇りもない。毎日欠かさず磨かれ、砂と同じように輝いている。 仁科あかりから砂を贈られて何日経っただろう。 『依頼で壱番世界に行ってきたよ。なんか行く度に変わるねー! 人がうわーっていて、ビルとかがぐわーって』 一人のトラベラーズノートにはあかりのメッセージが届くようになった。どれもが他愛ない内容で、一人もまた交換日記のように返信した。 『実家の辺りも色んな施設ができてるわよ。隣町のショッピングモールは知ってる?』 『嘘!? あの辺なんにもなかったじゃん』 他意も深意もない、ただの親しいお喋り。 『美味しいパン屋さんが入ってるんだって。まだ行ったことはないんだけど――』 “今度一緒にどう?”。喉元までせり上がった言葉を形にする前に一人のペンは止まった。砂の小瓶は一人の手の中だ。星屑の砂がじっと一人を見上げている。 『まだ行ったことはないんだけど、評判いいそうよ』 無難な言葉を繋げて送ると、すぐに返事が来た。 『パン屋さんかー、いいなー。もちもち佃煮パン……』 「もう」 一人は眼鏡越しに苦笑した。 「相変わらずなんだから」 それは複雑な安堵だったのかも知れない。 あかりがくれた砂は星の砂と呼ばれているそうだ。ブルーインブルーの、古の遺跡の残滓らしい。時間と海に磨かれた遺構が輝く星に変わるのだと。 その性質上、砂の形や色は様々である。同じ物が見つかることは稀で、全く同じ砂を見出すことができた二人は幸せになれるのだという。かの地では恋のまじないでもあると知り、一人の心にさざなみが立った。(……まさか、駆け引き?) 途端に、拒絶めいた違和感が衝き上げた。あかりの姿は少女のままで、一人の記憶のあかりも少女のままなのだ。鼻水を垂らし、プラスチックのバットを振り回していじめっ子を撃退してくれたあかり。勢い余ってランドセルの中身をぶちまけたあかり。サッカーのチケットを握り締めて部屋に飛び込んできたあかり……。 だが、十数年の空白は短くも軽くもない。心までもがあの頃のままと言えようか。 気が付くとトラベラーズノートに手を伸ばしていた。あかりからのメッセージが届いている。最近暑くなってきた、先週の依頼でうまく立ち回れなかった云々。返信のペンを取りながら、一人はわずかに唇を噛んだ。あかりはやはり相変わらずだ。 ぽつん。 揺れるペン先がノートを穿ち、まっさらな紙にインクが滲んだ。なぜだか口の中が酸っぱくなって唾液を飲み下す。青年らしく隆起した喉仏がくっきりと上下する。 “どうして星の砂をくれたの?” 「………………」 追わず、問わず、静かに待つと決めたのだ。 『大変だったわね。ヘマしなかった?』 『失礼な。ロストナンバー歴はかっちーより上ですー』 他愛ないお喋りが始まり、続いていく。 『ブルーインブルーにも行ったんだよ。やっぱいいねー海!』 『日焼け止め塗らないとシミになるわよ』 『そういうのはいいの! そうだ、この前の砂は気に入ってくれた? あれもブルーインブルー産』 「あんたねえ」 一人は苦々しく笑うしかない。 『とてもいい色よ、ありがとう。あの砂、ロマンチックな由来があるのね。何だか仁科っぽくないなって思っちゃった』 『綺麗なんだからいいじゃん。あのスミレのお返ししたかったし』 『気を遣わなくてもいいのに』 『何かもらったらお返しするのは常識!』 「……あんたねえ」 一人の全身から力が抜け落ちた。何かの糸が切れたように椅子に座り込む。肩が小刻みに震えている。 「ふふ……くくく。あははははは」 一人は笑った。声を上げて笑った。 『相変わらずね。可笑しい』 『ええ!? 真面目に言ってるのに』 『分かってる。変わってないなって思ったから』 以後、ぷつりと返信が途絶えた。一人は首を傾げ、ペンを置いて待った。十分。十五分。時間だけが流れていく。 「ま、そのうち来るでしょ」 肩をすくめ、飲み物を取りにキッチンへ向かった。冷蔵庫の脇にはフルーツ人参の入った紙袋がかかっている。先日、知り合いから沢山もらったのだ。もっぱら蒸して食べている――素材を丸ごと味わうには最適だ――が、ケーキにしても良いと聞く。 「ケーキねえ」 鮮やかな橙色を手に取り、香りを楽しむ。今度レシピを教えてもらおう。 リビングに戻るとあかりからの返事が届いていた。 『ほんとに変わってないって思う?』 トーンダウンした文面にぎくりとする。 返すべき言葉を見失っていると、立て続けにメッセージが舞い込んだ。 『ほら、あのー、十何年も経ってるわけだし。色々とさ、思うところもあるっていうか』 『これだけ時間が経ってれば、ね? お互い変わっててもおかしくないなーとか』 『かっちーはどう?』 一人は答えなかった。あかりの思いが一段落するまで、じっと待った。 『いや、やっぱいいや。今のナシナシ! 気にしないで』 空白と静寂が訪れる。 一人はゆっくりとペンを取った。 『少しは変わったかも知れない。こっちもそれなりに色々あったし。社会人って大変なのよ?』 少年だった一人も今や三十路に手が届く。あかりの知らぬしがらみや恋愛も経験し、無邪気でも一直線でもいられなくなった。 『でも、仁科のことは親友だって思ってる。今も昔も』 文字がほどけながら消えていく。あかりの元へしかと届いただろうか。 飲み物のカップを口に運んだ時、躊躇いがちに返信が届いた。 『そっかそっか。ほんと言うとね、ちょっと怖かった』 一人の脳裏に、顔をくしゃくしゃにして眉をハの字にしたあかりの顔が浮かんだ。 『昔のかっちーじゃなかったら、って思って。考えすぎだったね』 『昔のままなら、仁科のこと追いかけ回してふん捕まえて問い詰めてたかも知れない』 『うう。それは言いっこなし!』 「ふふ」 一人は緩やかに笑った。顔を真っ赤にして食ってかかるあかりの姿が目に見えるようだ。 『怖がらないでって言ったでしょ。大丈夫よ』 『うん。大丈夫かな』 ぱらぱらとページがめくれた。風でも吹き込んだのだろうか。細く開いた窓辺でスミレ色の砂が光っている。 ぱらぱらぱら。風に撫でられ、紙が軽やかに流れていく。 『じゃ、決めた。今度会いに行くね』 あかりの言葉は風に乗って届いたかのようで、一人の心臓がとくりと跳ねた。 『無理強いするつもりはないのよ。嫌々来てもらってもしょうがないし』 慎重に言葉を選んで返信する。一人はあかりの臆病な一面を知っている。だが、打てば響くように返事が来た。 『わたしが自分で決めたの。もう決めた。決めたんだから』 自らに言い聞かせるように繰り返される言葉は強情な子供のようだ。 『分かったわ。で、いつ来るの?』 『今度!』 「何それ。本当にヘタレ」 あかりの心情が手に取るように分かる。だからこそさらりと、何気ない筆致で書き送った。 『了解。待ってる』 「……人がテスト勉強してるところに押しかけてきたくせに。ふふ」 一人はまた笑った。わずかな遮蔽物すら歯痒くなって、眼鏡をむしり取る。視界の端で、スミレ色の砂が柔らかくぼやけた。 ぽつん。 揺れるペン先がノートを穿ち、まっさらな紙にインクが滲む。 「うがー!」 勢いのままにあかりのペンが迷走する。たちまち紙が真っ黒になる。もつれた釣り糸のようなページを破り、丸めて、放り捨てた。だが、勢い良く投げられた屑はゴミ箱の縁にぶつかってあかりの足元に戻って来てしまった。 「もー!」 紙屑を拾い上げ、ゴミ箱まで歩み寄って投げ入れた。 会いに行くと宣言した気持ちに偽りはない。だが、どうしても期日を定めることができなかった。日程を決めてしまえば直前で腰が引けるだろう。逃げ回っていた頃に逆戻りしてしまうかも知れない。 「……本当にヘタレ」 昔のように一人の部屋に飛び込んで行けたらどれだけいいだろう。普段のパワフルさが、一人にだけは……一人だからこそ発揮できない。 それでも一人は何も言わなかった。気付いていないのだろうか。全て察しているから黙っているのか。大人の余裕? そうだ、一人は青年になったのだ。 『大丈夫。心配しないで』 喋るスミレが一人の声で囁く。 「ん。ダイジョブ」 あかりは勢い良く自身の頬を叩いた。ぴしゃりという音が凛とこだまする。 「善は急げ、ってね」 腹をくくったあかりは素早かった。 ぐずぐずするのは性に合わない。というより、時間が経つと尻込みしてしまいそうで怖いのだ。翌日、早速0世界の一人の居宅へと向かった。 仮住まいなのだろうか、アパート風の小ぢんまりとした佇まいである。痩せた老人がエントランスの掃き掃除をしていた。 「ウォッホン。エッヘン」 一人の部屋の前で、あかりは仰々しく咳払いを繰り返した。「あー、あー」と発声テストも怠らない。ついでに背筋をしゃんと伸ばし、とうとう呼び鈴を押した。 ピンポーン……。チャイム音はどきりとするほど大きい。 「こ、こんにちはー。仁科だけど」 残響は薄れながら溶け、あかりの鼓動は速度と密度を増していく。だが、ドアの向こうから返ってくるのは静寂ばかりだ。 「こんにちは。かっちー、いないの?」 呼び鈴を二度、三度。応答はない。 「脇坂さんのお知り合い?」 掃き掃除をしていた老人に声をかけられた。 「あ、はい。親友、です」 答えた後で、胸の辺りが懐かしさとむず痒さでいっぱいになる。だが、大家と名乗った老人は困ったように顔を皺くちゃにした。 「あらま、大変だ。脇坂さん、今朝出かけちゃったよ」 「……はい?」 あかりの視界が真っ白になり、真っ暗になった。次いで、耳がかっと紅潮した。 「え、嘘。え、ええー!?」 日取りを決めなかったのが仇になったのだ。 「鍵貸すから、部屋で待ってたらどうかね」 「でも、勝手に」 「友達じゃろ? 脇坂さん、久しぶりに親友が来るんだって嬉しそうに話しとったよ」 にこにことする大家の前であかりは言葉を失った。 「……お邪魔、します」 誰もいない部屋にそろそろと上がり込む。 内装はシンプルだった。必要最低限の、上品な調度品ばかりが揃っている。カラーボックスの上にはテディベア、ローテーブルにはレースのクロス。クッションはパステルカラーのマカロン型だ。あかりの面がゆるゆるとほぐれた。 「かっちーの部屋だあ」 窓際に飾られた星の砂の瓶を何気なく手に取る。瓶を傾ける度、スミレ色の星がきらきらさらさらと流れる。寄せては返す波のように。 砂の煌めきを楽しんだ後、一人にトラベラーズノートで連絡を入れておいた。 「待ってるって言ったくせに。……なんてね」 静かな自嘲がこぼれる。 「今度はわたしが待つ側か」 手慰みにノートをめくる。返信は未だない。 サイドボードの上に残されたトラベラーズノートに気付いたのは一時間後のことだった。 『そろそろ夜。帰って来ない』 『冷蔵庫の麦茶もらっちゃった。ジュースが良かった』 『おなか すいた』 「うう……」 あかりはのろのろとノートのページを破り捨てた。暇に任せて記録をつけ始めたのだが、まるでダイイングメッセージである。 「食べ物……」 ふらふらとキッチンに迷い込む。冷蔵庫の脇に人参の袋がかかっていた。普通の人参よりオレンジ色が鮮やかだ。冷蔵庫の中には生鮮食品の他、野菜の煮物が几帳面にパッキングされて並んでいる。 「何これ。カップ麺とかポテチとかはー!?」 戸棚には保存性に優れた乾物――凍り豆腐やひじきなど――が整然と収められていた。 腹の虫が切なげに鳴く。緊張のあまり今日はろくに食べていない。一人はどこに行ったのだろう、いつ帰って来るのだろう。トラベラーズノートを置いて行ったのでは連絡もできない。 腹の虫が食べ物をせがむ。 「これ……このまま食べられるのかな」 あかりはのろのろと人参に手を伸ばした。鼻を近づけてみる。フルーツのように濃密な香りがした。 一口、かじる。 「……お?」 あかりの顔がぱっと輝いた。舌の上に、思いがけない甘みが広がったのである。果物のようで果物ではない、複雑で重層的な風味……。しかしあかりの喜色はすぐにしぼんでしまった。 「やっぱちょっと苦いや」 野菜は野菜なのだ。 レンジで蒸すと甘みが増した。背に腹は代えられぬとばかりに二本、三本と立て続けに食べる。一人は帰って来ない。 翌朝。アパートの玄関を掃除していた大家は、ふらふらと出てくるあかりの姿を見た。 「脇坂さんとは会えたかい?」 「いいえ」 あかりは力なく、どこかニヒルですらある風情でかぶりを振った。一睡もせずに待っていたのだろうか、目が充血している。 「い、今までのツケが来たんです……。ごめんなさーい!」 あかりは顔を真っ赤にして走り去ってしまった。途中で派手にずっこけたが、すぐに立ち上がって再び駆け出す。まるでつむじ風だ。大家はぽかんと口を開けて見送るしかなかった。 「仁科!」 帰宅した一人は大家に話を聞くなり部屋に飛び込んだ。かつてあかりの病室を訪ねた時のように。 「朝方、帰ってしまったよ」 大家の声が追いかけて来る。一人の肩から力が抜けた。 「……すぐには来ないだろうと思ってたのに」 一人は壱番世界の知人宅に出かけていたのだ。知人は大きな菜園を持っていて、農繁期には泊まり込みで手伝いをするのが習慣になっている。フルーツ人参をくれたのはこの知人だった。 忘れて行ったノートにはあかりからのメッセージが届いていた。 『今、かっちーの部屋にいるよ。大家さんが鍵開けてくれて。待ってるね』 「ごめんね」 文字を指でなぞりながら息をつく。 ようやく落ち着いたところで異変に気付いた。散らかされたクッション。出しっぱなしのコップに、麦茶のボトル。キッチンのフルーツ人参もごっそりなくなっている。 「嘘。一人で食べたの?」 慌てて冷蔵庫を開けると常備菜も食い荒らされていた。 「育ち盛りなのかしら。……相変わらずね」 もう苦笑いするしかない。けれど、どうしようもなく安堵が溢れた。やはりあかりはあかりだった。 「本当にヘタレなんだから」 一人に対してもこの勢いで突っ込んでくれば良いのに。 『来てくれたのね、ありがとう。出迎えられなくてごめんね。 良かったら、今度はきちんと日を決めない? 仁科の気持ちも分かるけど、またこんなことがあっても困るから』 「うー……」 一人からのメッセージを確認したあかりは力なく枕に沈んだ。 「本当にヘタレ」 毛布を鼻まで引っ張り上げる。疲労が頂点に達したのか、あかりは珍しく熱を出していた。緊張に寝不足、何より、たくさん頭を使ったのだ。 「返事……しなきゃ……」 熱に浮かされ、急速に寝入ってしまう。開けっぱなしの窓から軽やかな風が吹き込んできた気がした。 ぱらぱら、ぱらぱら。手持無沙汰の風がノートをめくる。ページは空白ばかりだ。まだ時機ではないと知り、風はさっと吹き過ぎていった。 『心配しないで』 窓辺のスミレが揺れている。風の行方を見送るように。寝入ったあかりを見守るように。 (了)
このライターへメールを送る