黒羊プールガートーリウムの司る領域の片隅に、水晶柱の森がある。 万の年を重ねて少しずつ背丈を伸ばす無機の木々は、いずれこの黒洞の天井にも届こうかという高さだ。 自ら淡く発光する水晶柱の、時折色合いの変わる輝きを見つめつつ、漆黒の夢守が森を歩んでいる。 身体中から生え、身体から身体のどこかへつながるチューブやコード、何の用途があるのか判らぬものにはまったく判らぬであろう、ソケットやプラグやコネクタは、有機生命体たちには奇異に映ろうとも、彼ら【電気羊の欠伸】の民にとってはごくごく普通の、皮膚や爪や体毛のごときものにすぎない。「――今のところ、大きな変化はないようだが」 領域中に張り巡らされた感覚機を丁寧になぞりつつ、異常がないことを確認する。「トコヨの棘……か」 その芽ともいうべき欠片が、この【電気羊の欠伸】の深部でも発見されたのはそう以前の話ではなく、それによる【箱庭】の崩壊がいつ始まってもおかしくないのもまた事実なのだ。 とはいえ、「危惧という感覚とは遠い、が」 自分に対処の不可能な何かがあっても、ロストナンバーたちがどうにかしてくれるだろう、という、夢守らしからぬ願望めいた感情に、数万年数十万年分にも積み重ねられた内的意識が驚き、微苦笑を浮かべるのが判る。 異界からの旅人たちは、暴走を防止する目的で感情の設定が希薄になっているはずの一衛(イチエ)に、新しい感覚を吹き込んで行った。「不思議だな」 つぶやき、森を進む。「それによって内的秩序を乱されるわけでもないのが、また不思議だ」 もうすでに何万回通ったかも判らない、淡く光る無機の森が美しいことを、――美しいという感情を、今の一衛は理解出来る。 その感覚をもたらしたのが、どういった人々であったかも。『さびしいの?』 不意に、横から声がかかる。 まろやかでやわらかい、幼い少年の声だ。「お前か、《鏡》」 右側頭部あたりの第八視界に、水晶柱に身体の半ばまで埋もれた、華奢で美しい少年の姿が映る。 白金の髪と黄金の眼、薔薇色石の唇。長い睫毛、白磁の肌、しなやかな手指。どこか両性的な――蠱惑的な肢体。年のころは十代前半くらいに見えるだろうが、かれを彩るふたつの黄金は、まるで年経た龍のように静かな光を宿すばかりだ。 その少年が、水晶柱に埋もれてこちらを見つめているのだ、事情を知らぬものがここを訪れれば、さぞかし仰天することだろう。 しかし、一衛にとっては永遠にもひとしい時間にわたって続く付き合いの一環に過ぎず、『さびしいの?』 無邪気な、頑是ない問いに、小首をかしげる。「その感情は、私にはまだ理解出来ない」『くるおしいの?』「それも、無理だ」『くるしいの?』「苦痛は電気的記号に過ぎない」『せつないの?』「それも難しいな」 少年の、薔薇石のように艶やかな紅桃色の唇から、透き通った問いが滔々と流れてゆく。『やさしいの?』『あたたかいの?』『うれしいの?』『うらやましいの?』『いたいの?』『つらいの?』『くやしいの?』『いきどおろしいの?』『かなしいの?』『やみたいの?』『しりたいの?』『あいたいの?』『なきたいの?』『いきたいの?』『いとしいの?』 しかしそれらは、実を言うと、この《鏡》が気まぐれに紡いでみせる、囀りのひとつでしかないのだ。言葉は《鏡》から零れ落ちる気泡に過ぎず、《鏡》が何かを想ってそれを発しているわけでもない。だから、心というものを希薄につくられた一衛が、それらによって何かを掻き立てられるということは、少ない。 《鏡》とは、その名の通り、相対するものの心を奥底から浮かび上がらせる、内省機関の一種なのだ。 だから、だからこそ、『うつくしいと、かんじるの?』 その問いに、一衛は微笑した。「――……ああ」 以前問われた時には、何も感じなかったはずの言葉だ。「なるほど」 森の入り口に訪問者の気配を感じつつ、一衛は独語する。「心とは、そういうものか」 やってきたのは、ロストナンバーのようだ。 そのひとは、《鏡》の問いにどうこたえるのだろうか。 そのひとの心は、《鏡》の問いをどう映すのだろうか。 そう思ったら、興味が湧いた。「それを見ることを、ゆるしてくれるかな……?」 許されぬならばただ尋ねてみたいと思う。 《鏡》の問いは、どんな色を、どんなかたちを、どんな思いをもたらし、呼び起こしたのか。どんな言葉が心を動かしたのか。どんな心が、言葉をかたちづくるのか。 天地開闢のころから続く長い長い生の中、こんなにも知りたいと思ったのは初めてだ、と、そんな自分にさえ深い知的好奇心を掻き立てられる。
蓮見沢 理比古は、一衛を探してその森へと分け入った。 「ゾラにこの辺りだって聞いたんだけど……すごいな、光の塊みたいだ」 美しい場所だった。 壱番世界人である理比古にとって森とは『樹木すなわち木質の茎(木幹)を有する木本の植物が茂り立つところ』であるが、鉱物系生物たちが闊歩するこの世界において、これほど相応しい森もあるまいと思われた。 いったい何十メートルあるのだろうか、天上へ向かってそびえ立つ水晶柱の、自ら放つ淡い光が反射しあっている。内部で共鳴し増幅されたたくさんの光で、森はぼんやりと浮かび上がるかのようだ。あまりに見事な光景に、心と視線は奪われたまましばらく戻ってくる様子もない。 「世界の多様性、か」 多様性とはつまるところ強さだろうと理比古は思う。 たくさんの異なるものが折り重なるように存在することで、世界は互いに補い合いそれぞれに進化してゆく。何より、色とりどりの生命が、己がいのちを謳歌するさまは、美しい。 「帝国、華望月、竜涯郷、それから電気羊の欠伸。……ドミナ・ノクスたちは、根幹が違っても行きつく先は同じだってことを確かめたいのかな」 進んだ先で、理比古は目的の人物を見つけた。 ヒトとよく似たかたちをした、しかしヒトとは決定的に違う何かを有した黒いそれもまた、理比古には気づいていたようだった。 「こんな深いところまで降りてくるのは珍しいな。どうかしたのか」 「ん? いや、一衛を探しに来たんだよ。ゾラがヴォロスで面白いお茶を手に入れてきたんだって。俺はお菓子を焼いてきたよ」 「そうか」 0世界とシャンヴァラーラの往来が始まって二年ほど経つが、理比古は変わらず『電気羊の欠伸』に入り浸っている。 ゾラや夢守たちと過ごすのは楽しいし、ここの鉱物系住民は、文化や文明の成り立ちこそ壱番世界から見れば異質だが、皆、穏やかで親切だ。理比古は、どの世界に出かけることも好きだけれど、特にこのシャンヴァラーラには愛着を持っている。 しかし、この世界と付き合い始めたはじめのころのような、どうしても探し出さなくてはいけない、見つけたい、もう苦しい、本当は終わりにしてしまいたいと言った、追いつめられ行き場をなくした感情はずいぶん和らいで、自分の内側にある醜くてみっともないもろもろを受け止めることが出来るようになってきている。 それもすべて、この世界が優しいからだと理比古は思っていた。 ゾラと一衛はその中でも特によくしてくれる人々だ。 だから、彼らとお茶をするのはとても楽しいし、心が安らぐ。――ときどき、仕事をほったらかしてくるので、秘書と護衛を兼ねる彼のしのびが、胃痛と血涙をこらえていることも知っているが、そこはそれである。 「だから、想彼幻森の長老木のところで――」 『くるおしいの?』 言いかけたところで、脇から声がかかった。 「誰、」 少し驚いて、声をかけようとし、理比古は大きく目を見開く。 ひときわ大きな水晶柱に半ばまで埋もれた少年の姿は、完成された絵画のように美しく、そして異質だった。色素の薄い、儚く華奢な、ガラス細工めいて繊細な少年の眼差しに幼さはなく、こちらを見つめる眼にはただ深く静かな光がたゆたっているばかりだ。 「一衛、彼は?」 「『鏡』という。ヒトにものを思わせる内省機関のようなものだ。この世界における生命のひとつではあるが、おそらく大半の人々にとって理解の及ばぬ異質な存在であるはずだ」 一衛の説明に納得する間にも、 『くるおしいの?』 少年はもう一度、まろやかな声で問いを紡ぐ。 「『鏡』の発する言葉は泡のようなものだ。繰り返し繰り返し浮かび上がるだけで意味はない。不快なら無視して立ち去るだけでいい」 「ううん」 理比古は小首を傾げ、微笑み、頷いた。 「そうだね。俺の中にはそれが渦巻いているよ、きっと」 『くるしいの?』 「うん。だけど……苦しみのない人間なんて、どこにもいないよ」 『かなしいの?』 「哀しいね。でも、哀しみは心を清めてくれる気がするよ」 『さびしいの?』 「寂しくないよ、今は。思い出すたび寂しくなるけどね」 ほろほろと零れ落ちる『問い』とその答えに、一衛はひどく不思議そうだ。 「……人間の内面は複雑だな。常に、幸いと哀しみが同居する」 「そうだね。とても身勝手な感情だって知っているから、大きな声では言えないけどさ。言う必要もないと思ってるし」 「なぜ?」 「だって、申し訳ないじゃない。彼らがそれを不快に思うはずないっていうか、皆それごと俺を愛してくれてるってのは、うん、知ってるけど」 それをかたちにして突きつけたのは、想彼幻森で遭難しかけた理比古を拾い上げ助けてくれた初対面の一衛だ。自分の至らない部分を丸ごと包み込んで愛してくれる家族がいるから、理比古は苦しみもがきつつも折れずに進むことが出来る。 「ほんとに、時々、申し訳なくなるんだけどね。だけど、どっちも俺だから、もうどうしようもないんだ。それでいいって思うことにしたんだよ」 理比古の心身を傷だらけにし、蓮見沢の家に押し込め続けた義兄たちが死んですでに七年が経過している。 彼らの姿が消えてそれだけ経ってなお残る、「彼らに愛してほしかった、怖くて愛しくてたまらない、だからこそ自分は縛られ続けなくてはならない」という深い深い心の傷と、「自分は愛され、必要とされている。本当はもう解き放たれて自由に生きても許されるはずなのだ」という認識からくるエネルギッシュな渇望と。 白と黒、幸せと不幸せ、希望と絶望、諦めと執着、喜びと哀しみ、心地よさと痛み。それら、相反する、ふたつの領域の感情を理解し、もてあましながらも共存している。 「前も言ったよね。俺には大事な家族がいて、俺のためなら命だって惜しくないってくらい愛してくれる。俺は彼らに救われてきたんだ、それは本当」 彼らがいなければ、おそらく自分は今ごろ生きてはいない、これも本当。 深い深い愛情と感謝と、愛されることへの充足、愛することを赦される喜び。同じ食卓を囲む人たちがいるということが、どれだけ『生きている』実感をもたらすか。 理比古は、今の自分がとてつもなく周囲に恵まれていることを知っている。 「だけど、ねえ、俺の三十年間は、あの人たちを中心に回っていたんだよ。今すぐにこの闇を晴らすことなんて、無理なんだ」 その闇は、物心ついたときからずっと積み重ねられてきたもので、ほとんど理比古の精神全体に根を張っており、それらはもう、自分の努力で払拭できるようなものではないのだ。 「恨む、憎むという感情は私には難しいが、ヒトは往々にして理不尽なものをそうすると聞いた。お前は、お前に痛みを強いた存在に、それらを抱くことはないのか」 「そうだね、不思議とないんだ、これが。ほんとに、まったく。今でも怖くて、思い出すたびに全身が痛くなるくらい辛いけど、俺はやっぱりにいさんたちが大好きなんだよ」 勉強を頑張ったときにかけられた、ぶっきらぼうな褒め言葉。任された仕事を、寝る間も惜しんでやりとげたとき、端的な労いの言葉とともに差し出された高価な甘い菓子。 むろん、翌日は何か別の理由で暴力を受けたのだとしても、そういう小さな幸福が、理比古から恨みや憎しみ、怒りを拭い去る。――人はそれを呪縛と呼ぶのかもしれないが。 「だから、もういいんだ。痛いのも苦しいのも、哀しいのも寂しいのもくるおしいのも全部俺なんだ。俺の一部なんだよ。それを全部受け入れて、いつかそれが甘受とか感謝になるまで、持ち続けようって決めたから」 時間はかかるだろうけれど、それらどろどろとした感情を受け止めて、昇華したい。きれいではない内面を認め、そういう自分がいることを認めて乗り越えたい。 「それに、ここがぐるぐるぐちゃぐちゃで、どろどろだからこそ、この坩堝が自分の中にあるって判るからこそ、誰かにやさしくしたいって思うのかもしれないし」 この、醜く汚い、ぐちゃぐちゃの自分を、すべて受け止めて愛してくれる人たちに報いるためにも、時に身悶えもがき苦しみながらでもいい、光の当たる方向を向いて歩きたいと思うのだ。そして、苦しみや哀しみを背負った人たちの心に添って、彼らの心を少しでも軽くしたい、とも。 「俺は感謝したいんだ。どんなんだって、世の中捨てたもんじゃないって、当たり前みたいに言って、笑いたいんだよ」 それが、理比古が出しつつある結論だった。 「お前は……そう、強いな、理比古。それに、ずいぶん、穏やかになった」 「そうかな。――でもそれ、全部、周りの人たちのおかげだもの。もちろん、一衛やゾラも、そのひとりだよ」 にっこりと、理比古は『鏡』に向かって「ねえ?」と微笑みかける。 異質な内省機関は何も答えはしなかったが、理比古の唇を彩るのは、明るい笑みばかりだ。 「一衛、そろそろお茶をしに行こうよ。ゾラが退屈して昼寝を始める前にさ」 当初の目的を思い出し、時間にはあまり頓着した様子のない夢守を促す。 連れ立って歩き出しながら、 「あ、そうだ。ねえ、手をつないでみてもいい?」 理比古が言うと、一衛は一瞬、動きを止めた。 どうやら、なぜそれを言われたのか判らず、意味を検索するための回路的なものがあまりの情報量に詰まりかけたらしい。【箱庭】全体を把握しそのセキュリティを預かる夢守の回路を詰まらせるのだから、人間というのは複雑で面倒臭いくて大したものだ、とは他人事すぎる理比古の内心である。 「一衛?」 「……いや。お前がそう望むのなら、好きなように」 差し出された手を取る。 それは決してやわらかくなく、ひんやりとしていて、あちこちに不思議な突起があったり、何かの差込口やタイルのような何かで覆われた部分があったりしたが、ヒトの体温は存在しないのに、なぜか、ぬくもりのようなものを感じるのだった。 「じゃあ髪の毛触ってもいい? あと、ハグもしてみたい。スキンシップって大事なんだよー?」 おそらく鉱物派生の一衛にとっては理不尽な刺激だろうと思いつつ、出来ることはやってみたいの精神で要求して、否定はされなかったのであちこち触る。無感情に見える一衛の眼が、どことなく泳いでいたような気がするのは錯覚だろうか。 「髪の毛も金属なんだね、まあ、当然なのかもしれないけど。極細の、すっごくしなやかなワイヤーを集めたらこんな感じなのかな」 手足は精密機器、髪は微細なワイヤー束、肌は磨き抜かれた弾力のある鋼。 全体的に硬くて冷たくてゴツゴツしているのに――体温も脈拍も感じられないのに、ただの金属の塊だとは思えないのは、感情が通っているからだろう。そう、理比古はそう信じる。 やはりどこか固まっているように見える一衛を両腕で抱きしめて、背中をぽんぽんと叩きながら理比古は笑う。 「知ってる? ハグをすると一日の三分の一のストレスが消えるんだよ。触れるって、すごいよね」 「そうか……そのすごさは私にはどうも判らないが」 返った言葉から、感情を伺うことは難しかったが、 「少なくとも、私はこれを嫌だとは感じていないようだ」 どこかたどたどしくも、確かに『心』のありかを示していた。 「うん……俺は、一衛がそう感じてくれたことが、嬉しい」 一衛の手を引いて想彼幻森へと戻る。 頑是ないその時間を、とてつもなく貴いと理比古は思った。
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