JR青梅線管轄のその駅は、一日の乗車人員が平均270人程度の無人駅である。 大都市東京でさえ、電車で2時間程度西にむかえば、深い緑と清冽な水、圧倒的な山肌に出逢うことができる。 南口に出て坂道を下る。家紋も鮮やかな酒蔵の白壁が目に入る。ほのかな酒麹の香が、漂ってくる。 清流がさらさらと――川というものはたしかに、さらさらと音を立てて流れるものなのだと、あらためて思うほどの、静けさ。 ここには、300年近い歴史を持つ、旧い銘酒の醸造元がある。 ――酒造りは神事。一粒の米もおろそかにすることなく、精進潔斎して努むべし。 この酒造では、古来、酒は神に捧げるものとして醸されていた伝統を、今も守っているという。 その日、その駅に、金髪碧眼の英国人紳士がひとり、降り立った。 仕立ての良い白のスーツと洗練された物腰は、閑静な山のふところにあってはひどく目立つはずなのだが、道行くひとびとは、振り返るでもなく、いとも自然にすれちがう。 彼――ロバート・エルトダウンは迷うことなく、目的の場所へ向かう。 ふと……、尾行の気配を感じ、後ろを振り返りながらも。 鮮やかな紅葉とこがねの黄葉が枝をのばしては重なり、金襴の屋根をつくるその下に、『かざはな亭』はあった。 この酒造が持つ料亭のひとつであり、賓客向けの、ひっそりとした佇まいの建物である。 和の食材と調理法をふんだんに取り入れた、繊細かつ優美なフレンチを饗する店であるらしい。 ロバート卿は、過日のイスタンブールでの、蓮見沢理比古の招待に応じたのだった。 * * 料理人は、ふたりいた。 常に最上の食材のみを使った、毛ひとつのごまかしもない、くっきりと鮮やかな料理を提供するという『かざはな亭』は、一日に一組の客しか受けない。 ひとりは、50代の店主だった。店主は以前、銀座のフレンチレストランのオーナーシェフであったのだが、いささかエレガントではない事情により、店の撤退を余儀なくされた。そのとき、シェフの腕を惜しんだ理比古が、彼をこの酒造に紹介したのだという。恩人であるところの理比古の要請により、店主は今日の趣向を特別に設けてくれたようだった。 そして、もうひとりの料理人は―― いわずと知れた、虚空である。 窓の下を、多摩川が流れている。「ご招待、感謝いたします。ミスターハスミザワ」「アヤでいいですよ」「それは、親しいひとのみに許された呼びかけではないのでしょうか? 彼のように」 ロバートは、料理人として最初の器を置いた虚空を見る。虚空は多少、反応に困ったようだったが、苦笑して頷く。「アヤがいいのなら、かまわない」 その様子を、興味ぶかげに見ていたロバートは、テーブルの上で両手の指を組みなおす。「実は、道すがら、考えていたのだけれども。さて、今日の話題をどうしたものかと」 その口調は、今までよりも、多少フランクなものに変化していた。「ここで、ターミナルやナラゴニアのあれこれについて語るのもいささか無粋な気がするし、さりとて、お互いの仕事がらみの話というのもね」「なんでもいいんですよ。世界情勢や経済、金融に関する諸々をはじめ、異世界での冒険でも。ロバートさんと、少しでも、親しくお話ができたらって思っただけなので。ただ、もしご迷惑だったり、億劫に感じたりしたら申し訳ないなとも……」 だから、今日にいたるまで、時間がかかってしまいました。 理比古はそういって頭を下げる。「そう――そうだね。他者との距離のとりかたは、非常に難しい。……では、今日のテーマは、それにしようか。ショーペンハウエルの寓話のなかに出てくる《ヤマアラシのジレンマ》について」「二匹のヤマアラシがいて、寒いので、他のヤマアラシとくっつこうとする。でも、くっつきすぎると針が刺さって痛いから離れようとする。くっつきたいのにくっつけない、離れたいのに離れられない、という話でしたっけ」「そのたとえのほうが有名だが、原文では「一群」となっている。つまり、ヤマアラシの群れ。集団のなかでの、適切な距離のとりかた、ということだね。自分の針の長さがどれくらいで、どの程度の距離であれば、相手を傷つけないか」「複数だといっそう難儀だよな。一対一でも難しいってのに」 虚空がふと、理比古に視線を投げる。「よければ、きみも同席しないか。料理人との兼任も、きみなら可能だろう?」 理比古の隣の席を、ロバートは虚空にすすめた。 テーブルの上にことりと、酒造元の家紋が刻印された酒器が置かれる。盃(さかづき)も銚子も本来は神聖な祭祀器だったのだと思わされる、旧く錆びた酒器。「いいのか?」「ここは、親しいひとの集う場のようだからね。距離を測り損ねて針を刺してしまっても、傷は浅いだろう?」「あんたと酒を飲むことになるとは、思わなかった」 虚空は盃を手に、ロバート卿からの酌を受ける。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>蓮見沢 理比古(cuup5491)ロバート・エルトダウン(crpw7774)虚空(6872)=========
:-:+:-上善如水(じょうぜんみずのごとし) 魚介のフォンに、はまぐりを沈めたアミューズ。さわらとたまねぎのタルトレット。地場大根のコンソメ煮に添えられた、ずわい蟹のヴァンルージュソース。 場の進行を見計らい、次々と料理が饗される。選び抜かれたのであろう備前焼の平皿は、名工の無骨な両手そのもののように素朴で揺るぎない。その手のうえで踊るがごとく、巧みな盛りつけが華やかな彩りを競っている。どのひと皿も、研ぎすまされた味わいと、ひとをほっと寛がせるやさしさの、双方を併せ持っていた。 料理に合わせ、提供される酒も変わる。繊細な料理には、極限まで米を磨いた大吟醸を。豪快な料理には、くせのある山廃か、ひやおろしを。 「環境がいいと、食が進むよね!」 理比古は非常にリラックスしており、かつ、上機嫌だった。出された料理が次々に、品の良い所作で平らげられていく。 「理比古の箸の使い方は、さすがに美しいね。見習わなければ」 日系企業の重鎮との会食の機会が多いロバート卿も、相応に箸は使える。だが、それは「英国人にしては」という注釈つきだ。幼いころより、日本の旧家で厳しいしつけを受けてきた理比古にかなうはずもない。 それにしても、と、空になった杯を満たしながら、ロバートは理比古の旺盛な食欲に目を見張る。 なお、アヤと呼んでいいですよ、いやそれはあまりにも、のような押し問答の結果、ロバート卿の、ミスター・ハスミザワへの呼びかけは「理比古」に落ち着いていた。 「イスタンブールでも思ったが、理比古は健啖だ」 「いや、あのとき以上じゃねぇかな。いつも以上に絶好調だ。ふだんの五割増しの食欲だよな。……大根、まだあるぞ。お代わりいるか?」 「うん、食べる。ありがとう、虚空」 「酒は? 今飲んでるのでいいか? それとも、飲み切ったら他のを試してみるか?」 「どうしようかな。どのお酒も美味しいんだよね。迷うな」 虚空が理比古をきめ細かに見守る様子と、そのかいがしさは、まるで雛にえさを運ぶ母鳥のようである。ロバートはしばらく無言で、この、絆が強すぎる主従を見ていた。 次の酒を決めかねている理比古に、虚空は何ごとかを思いついたらしい。 「そうだ、ここの酒蔵に喧嘩を売ろうってわけじゃねぇが」 と、虚空は店主に、目線で確認を取った。 店主は頷き、いったん席を外した。やがて、一升瓶を手に現れる。 それは、この酒造で醸した酒ではなかった。山口県岩国市の、とある銘酒である。 「あれ? これって?」 「以前、アヤが旨い旨いって飲んでただろう?」 「覚えてくれてたんだ。ありがとう。……でも、店主さんに悪いよ?」 「……これはまた」 ロバートは虚をつかれたふうに、店主をうかがった。 「酒造元の料亭で、ずいぶん大胆なことを。かまわないのですか?」 「実はこの店では、他の酒造のものも多少、ご用意しているのです」 「ほう?」 「たとえば、『燗酒』でご提供したい場合などに。通常、吟醸酒は冷酒で飲まれるもので、燗には適さないのですが、『燗酒に適した純米大吟醸』という大層ぜいたくな変わり種を醸しておられる酒造もある。ことに、この酒造のものは、本日の、大根のコンソメ煮に良く合いまして。いわば、コラボレーションでしょうか」 「なるほど、店主がそう仰るのなら。だが虚空」 ロバート卿は、いささか厳しい声音で虚空に向き直る。 「僕は今、少し、釘を刺したい気持ちになった。いや、今日の話題に添うならば『針』になるのかな」 「ん? 何かな?」 虚空は怪訝そうな顔をした。彼にとっては、理比古が飲みたいだろうと思ったから、いつもどおりに自然な先手を打っただけであって、まったくもって通常営業なわけなのである。
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