末尾の文字をしたため、封をし終えると、女は文机に痩せ細った腕を置き、窓の外を見やった。 縁側の向こう、庭の中。群れをなし花を咲かせる彼岸花の朱が見える。 昨夜の強風が嘘のように、庭を流れる風はひどく穏やかだ。風に揺らぐ花を見据え、女は静かに息を吐く。 ――もうすぐ、もうじき。 うっとりと目を閉じて訪れるその日を想う。 ◇ ムジカが差し伸べてきたそれを一瞥した後、由良は視線をうっそりと移ろわせムジカを見やった。 それはなんだ、と、闇を映した双眸が訊ねている。ムジカは緑灰色の目を細めて笑みを浮かべた。 「おれのとこに届いてたんだ」 言って、飾り気のない真白な封筒の宛て名を示す。由良久秀様。そこには確かにそうしたためられていた。 由良の眉がしかめられる。ムジカは封筒をひっくり返し、差出人の名前を指で指した。 「おれんとこに届いてたんだ。しばらく戻ってなかったから確認するのが遅くなったみたいでね。消印は先週のものだ」 それはつまり、壱番世界でのムジカの部屋のポストに投函されたのは先週ということになる。受け取りまでに、少なくとも一週間弱ほどの間があいたということか。 改めて差し出された封筒を受け取って、由良は再度宛て名を確認する。したためられているのは確かに由良の名前だ。だが住所はムジカの部屋のものになっている。 未だ封切りのされていない白い封筒。差出人の名前を確かめた。 ――高柳月子 したためられていた女の名に、由良はまるで心当たりがない。住所は東京からいくぶん距離を離れた場所だ。その土地とも縁を結んだことはない。 タバコをふかしながらムジカを見る。 「……これはなんだ」 「宛て名にある住所はおれのだし、名前はあんたのだ。少なくとも誰かと間違えて出したっていうわけじゃないだろ」 「知っている女か」 「ぜんぜん」 ムジカはかぶりを振って笑う。 「とりあえず開けてみよう」 言いながら、ムジカは由良に手紙の開封を促す。由良はムジカを睨めつけた後、丁寧に封のされたそれを一息に破り開けた。 収められていたのは二枚の白い便箋と、刹那空気を満たした乳香。 タバコのにおいを打ち消して消えていった乳香の気配に目を細めながら、由良は抜き出した便箋を開いて目を落とす。 ――由良久秀様 丁寧な挨拶に始まり、縁を得た事もない身でありながら不躾な手紙をしたためている事への謝辞に流れた後、品を感じさせる文字列は本題へと移り変わった。 「わたしの死体を撮ってください」 ムジカの声が文字を追う。由良の眉間にしわが寄った。 わたしの命はもうさほど長くは続きません。もうじきこの身は病のもとに伏せて末期を迎えるでしょう。だからどうか、聞き届けてくださるのならばどうぞ、拙宅までお越しください。心よりお待ち申し上げております。 手紙はそう続き、最後に再び丁寧な挨拶をしたためた後に記名へと続き、結んでいた。 ムジカの目が由良の顔を見やる。由良は再度手紙を読んだ後、やはりうっそりと目をあげてムジカの顔を検めた。 「フリーチケットは二枚ある」 言って目を細めたムジカの顔に浮かぶ笑みは、どこか歪んだものではあったのだが。 ◇ 住所からたどり着いたのは東京をいくぶん離れた場所にある、山裾近い町だった。秋の気配を漂わせている中を歩き進め、足を止めたのは旧きを思わせる数寄屋門の前。 ブザーもない門の前でしばしたたらを踏んでいると、閉ざされていた門戸が音をたてて開かれた。 「あ」 顔を覗かせたのは妙齢の女だ。細身の躯にまとうのは喪服を思わせる黒のワンピース、対してその上に羽織るのは濃赤のカーディガンだ。肩下で揺れる艷やかな黒髪が秋風に揺れている。 「……由良様、でしょうか?」 凛とした響きを持った声が由良の名を呼び、訊ねる。由良は応えない。ただ不愉快そうに眉をしかめ、タバコの煙を一筋吐き出すばかりだ。 「ここは高柳月子さんのお宅かな」 ムジカが問う。女は微笑みを満面に浮かべた。 「来てくださってうれしいわ。さあ、どうぞ」 女は手馴れた所作で門戸を開け、ふたりを招き入れた。 けやきで造られた上り框。床に桜、天井板に赤杉。決して派手な意匠ではないものの、銘木を使った玄関土間をくぐり、磨かれた板張りの床を踏み進める。あまり目にすることのない、まさしく旧き日本家屋の趣が広がっていた。 興味深く眺めながら、ふたりは女の案内をうけるままに畳敷きの座敷へ足を踏み入れる。 地板に掛け軸、桧の柱。重みのあるテーブルの上には籠に詰まれた果物がある。コーヒーカップが置かれている事から、女が今までこの座敷にいたのであろう事が窺い知れた。 「わたしの頼みを聞いてくれて、ありがとう」 カップを片付けながら女が微笑む。 障子は開かれ、その向こうにある雨戸も開かれていた。座敷な縁側を有し、縁側は庭に面している。 由良は畳の上に腰を下ろすこともせず、コートのポケットに手を入れたまま、眉間にしわを寄せ、庭を眺めていた。その視線の先を追うように眺め、ムジカは刹那目を見開いた。 梅の木が枝を揺らす庭の中、手入れの届いた緑の中に、彼岸花の群れが点在している。 女はふたりの視線の先を見やり、細い首をかしげて笑んだ。 「もうお気づきになられたの。やっぱり由良さんね。評判通りだわ」 感情の揺らぎのない声音。 夕刻を報せる風が吹き流れ、彼岸花を揺らす。 空を染めるのは彼岸花よりも濃厚な赤。架かる雲のひとつもなく、空の端は黒に飲まれ夜に沈みかけていた。 女の黒髪が風に踊る。 由良が視線だけを移ろわせて女を見た。ムジカは縁側に備えてあったサンダルを履き、彼岸花の群れに向けて歩んでいく。 女はムジカの行先を微笑みと共に見据えたまま。 「あれがわたし」 「これは」 女の声とムジカの声がわずかな秒差をはらみ、重なった。 ◇ 彼岸花の群れの傍の土に、いじられた形跡がある。 ムジカは、縁側に立ちこちらを見ている女を検めた。女の横で由良がムジカを睨めつけている。ムジカは女に向けたものとも由良に向けるものともしれない笑みを浮かべ、次いで口を開けた。 「すまない。ここを掘ってみたいんだけど、何か道具を借りられるかな」 「ええ、どうぞ」 慌てる素振りもわずかな変調も見せず、女は快諾し、首肯した。 ムジカは由良を呼び招く。 「あちらに納屋があります。道具はそこに。……ああ、ごめんなさい、由良さん。あちらに行くのにはサンダルが必要よね」 笑顔のままに述べる女に違和を覚えつつ、由良は用意されたサンダルを履いてムジカを追った。 掘り進めたその場所に埋まっていたのは、関節ごとに刻まれた女の骸だった。 いくぶん腐敗はしているものの、原型は留めている。切断された首もまだかたちを留めていた。 ムジカは離れた場所からこちらを見ている女の顔を検める。女はただ安穏と微笑んでいるだけだ。 彼岸花が風に揺れる。夕刻は色をさらに濃厚なものへと染め上げ、景色は朱の底に沈んでいるようにも見えた。 ◇ 「わたしが月子かどうか、ですか。ええ、もちろん。わたしが月子だわ」 屋敷の中を調べ始めたふたりは、屋敷のそこここであらゆる痕跡を見出すことができた。 布団が敷かれたままの和室。そこには調剤薬の残りや数多い書籍の数々が残されている。小さな文机の上には筆記具や便箋が置かれ、本棚を探ると日記のようなものも発見できた。 頁をめくる由良がそこに見たのは、ムジカの許に届いた便箋にしたためられていたものと同じ筆跡だ。 「わたし、残された時間が短くて。ええ、病気で」 和室からはさらにあらゆるものが発見された。和室を使っていたのが高柳月子という名の女であったこと、月子は末期の癌で、残る歳月を自宅での療養に費やしていたこと。 それらはまるで隠すつもりなどないように、ひどく容易に見つけることができた。 「由良さん。写真、撮ってくださいますか?」 和室を探っていたムジカを捕まえ、女は告げる。ムジカはかぶりを振った。 「由良はそっちの男だ。おれはムジカ」 「わたしが生きていたという証を撮っていただきたいの」 「おれは由良じゃない」 「お願いします、由良さん。わたしを」 女はムジカを由良と呼ぶ。ムジカはひとしきりそれを否定したが、女は飽きもせずにムジカを捕まえ由良の名を口にした。 困惑気味に笑うムジカを置いて、女は次に由良のもとへと駆け寄った。 「あれはあんたの死体なのか」 「はい」 「ならばあんたの生の証を撮ることはもう出来そうにないな」 「由良さん」 女を一瞥することもなく、由良は女を否定する。女は由良を捕まえて由良の名を口にした。 「由良は向こうの男じゃないのか」 ムジカを指して眉をしかめる由良を仰ぎ、女はやはり笑みを浮かべる。 「名前が二つあれば身体が二つあるのも当然。でもあなたは一人なんでしょう? わたしもそうよ。だからわたしは死んでいるの」 その応えは、理解に値するものとは到底言い難いものだった。 ムジカは苦笑いを浮かべ、由良は苦虫をつぶしたような表情を浮かべる。女ばかりが笑みを絶やさない。 「由良」 ムジカが由良の名前を呼んだ。手にしているのは一冊の日記。示されたその頁に目を落とし、由良はしたためられていたその文章に目を通す。 ――この方の写真は良くも悪くも印象的で ――そういえば歌も作ってるようだ ――歌も鮮烈な ――この方にわたしも撮ってもらえたら ――由良久秀、さん その頁に挟まれていた紙片を広げる。それは雑誌の切り抜きだ。事故現場を撮影したものや、あるいは廃墟を撮ったもの。いずれも由良が撮影し、ムジカが代理で編集部に売りつけていたものだ。 「ムジカ」 由良がムジカの名を口にした。ムジカが由良を振り向く。 「あの死体が高柳月子だ」 それは半ば、直感のようなものではあったのだが。 ◇ 彼岸花の下、刻まれた死体が暮れていく空を仰ぎ見ている。 首にはうっ血の名残が確認できた。死因はおそらく首を絞められたことによるものだろう。切断は死後に行われた処置だ。 痩せ細った躯は骨ばっていて、いかにも病人のそれといった症状が残されている。 「生まれる前に分かたれてしまった魂の双児というのをご存知かしら」 改めて死体の検分を始めたふたりの背後に、女は音も立てず静かに立った。 肩ごしにわずかに振り向いて女を見やる。女はやはり微笑んだまま。ただ、その目はまっすぐに死体を見定めていた。 「わたしは生まれる前に分かたれてしまったの。一目見てすぐに解ったわ。わたしは同一なのだと」 むろん、それは月子にも伝えた。わたしたちは根源を共有する。共にひとつのものに戻ろう、と。けれど月子は首をひねるばかりだった。女の言い分が月子の耳に届くことはなかったのだ。 「分かたれた魂は同一に戻るべきなの。そうよね? あなたになら理解できるはずだわ」 女は言う。感情の揺らぎのない双眸が彼岸花の朱を映す。 「でも、おかしいの。わたしとわたしは同じ人間なのに、見た目がぜんぜん違うの」 ゆえにこの屋敷で月子を名乗り住むようになってはみたが、町の誰も女を受け入れはしなかった。誰も女を月子と呼びはしなかった。 「なぜ殺した?」 ムジカが問う。女は死体の傍で膝を折ってしゃがみこんだ。 「わたしは死ぬのだもの。こうして細かく刻んでしまえば、きっと混ざりやすくなるでしょう。もう一度混ざり合って生まれなおすのだわ」 応える女の顔は、俯いているせいか、確認できそうにない。声の調子に変化はないが、変わらず笑んでいるのかどうかも定かでない。 女の言動もどこか虚ろなものだ。明瞭たる応えは得られそうにない。 肩で息を吐くムジカの後ろ、由良がタバコの煙を吐き出しながら口を開けた。 「混ざり合うのか」 訊ねたその声に、女はしゃがみこんだままの姿勢で振り向いた。その顔に、表情と呼べるようなものは何一つとして浮かんでいない。 まったくの無表情のまま、女は首肯する。 「ええ、そうよ」 「そうか」 由良もまた首肯した。 血を流したような色を浮かべた空が広がっている。 枯れた葉が風を受けて地の上で踊る。乾いた音が辺りを満たす。 女は彼岸花を見やりながら、再び笑みを浮かべて呟いた。 「彼岸花は遺伝的に同一の花。種子で増殖する花ではないの」 「有毒な花でもあるな」 由良が女の言を継ぐ。女は刹那再び表情を失くしたが、しかしすぐにまた満面に笑みを浮かべて首肯した。 「あんたも死んだら刻まれてその穴に埋められたいのか」 「わたしはもう死んだの。わたしの死体ならもうその穴の中に」 「……そうだったな」 彼岸花へと目を移し、由良はそれきり口を閉ざした。 ◇ 「ところで、ひとつ訊いてもいいかな」 黙してしまった由良にかわり、ムジカが女に向けて問う。女は変わらず笑みをたたえた顔でムジカを見た。 「『わたし』は最期、笑っていたんじゃないのか?」 その表情をそのまま我が物とすることで、女は月子に成り代わる。死んだ月子の末期の感情をそのまま模写することで、女はようやく月子と同一になるのだ。 ゆえに女はひたすらに笑顔を貼り付ける。それが己の死を象徴する表情だから。 けれど女はムジカのその問い掛けに、虚を突かれたような顔をした。その傍らで、由良もまた片眉を吊り上げ、ムジカを見ている。 「……なぜ、それを」 女の声がわずかに震えた。それを聞き、ムジカは幾度か軽くうなずいてから空を仰ぐ。夕暮は過ぎ、夜の薄闇が広がりはじめている。 「由良。先に行ってる」 言って軽く手を振ると、ムジカは庭を後にした。 「由良さん」 女の声がムジカを追う。けれどそれがムジカを呼んだものなのか、それとも由良を呼んだものなのかは分からない。 振り向くこともなく去っていくムジカを呼ぶように、彼岸花が風に揺れ乾いた音を響かせた。
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